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軽井沢インターナショナルスクール設立準備財団
http://isak.jp/isak/top/
第1回 目指すは“気づきの種”がある環境作り!
2010年11月8日(月)日経ビジネス 小林 りん、中西 未紀
2013年、軽井沢に日本とアジアをはじめとする世界各国の子供が寄宿する全寮制の高校を作る――。こんな目標を掲げて、日々、奔走する女性がいる。軽井沢インターナショナルスクール設立準備財団代表理事の小林りん氏だ。
小林氏は東京大学経済学部を卒業、外資系投資銀行やベンチャー企業で働いた後に、もともと関心のあった国際協力の分野に転身。米スタンフォード大学国際教育政策修士号を取得し、国連児童基金(ユニセフ)で貧困層教育に携わる。その経験から次世代のリーダー教育の重要性を強く感じ、それが今の取り組みにつながっていく。
なぜ小林氏は全寮制インターナショナルスクールを開校し、何を成し遂げようとしているのか。小林氏が仲間たちとともに「ゼロから学校を作る」取り組みを追っていく。
優雅な避暑地として広く知られる軽井沢。夏の暑さをしのごうと多くの来訪者が訪れるこの地に、今年の夏は“賑やかで元気な”集団の姿があった。
男子が16人、女子が18人の計34人。年齢は12~15才で、ちょうど中学生に当たる。このうち、日本の学校に通っている子供は10人。後は、シンガポールやフィリピン、ミャンマー、ネパールなどアジア7カ国から来た子供9人と、日本のインターナショナルスクールに通学している子供15人となっている。
この子供たちは、7月19~30日まで開催されたサマースクールの参加者だ。国籍がバラバラというだけではなく、生活環境も全く異なる。日本人の両親で育った子供がいれば、日本人と外国人の間に生まれた子供もいる。今回は奨学金によって参加が可能となったアジアの子供もいる。受講料は、14日間の宿泊と食事も含めて14万5000円だった。それでもアジアの貧困層にしてみれば渡航費なども加わり、おいそれと出せる金額ではない。奨学金の用意は不可欠だった。
それぞれの家庭がサマースクールの存在を知ったのは、主にクチコミ。親同士の情報交換や海外大学のメーリングリストなどで開催を案内した。ごく限られた範囲での告知だったが、それでも当初予定だった30人の定員を大きく上回り、面接や論文などで審査して選抜した。こうして集まった子供たちが、一つ屋根の下で、毎日を共にした。
授業や日常生活は英語で過ごす!
こんなサマースクールを主催した軽井沢インターナショナルスクール設立準備財団で、代表理事を務めるのが小林りんだ。彼女の素性についてはこの連載でおいおい明かしていくが、2013年に日本で初めてとなる全寮制インターナショナルスクールを立ち上げようと、財団の仲間たちとともに本気で取り組んでいる。サマースクールは、そのための準備という位置づけになる。中学生を対象にしたのも、3年後の開校を睨んでのことだ。
この軽井沢インターナショナルスクール設立準備財団とは、どのような組織なのか。代表は小林ともう1人、あすかアセットマネジメント(東京都千代田区)の社長である谷家衛がいる。谷家は、戦後74年ぶりに誕生した独立系の生命保険会社でインターネットを主な販売チャネルとするライフネット生命保険(東京都千代田区)において社長の出口治明と副社長の岩瀬大輔の出会いに一役買った人物としても知られている。
理事には、著名な建築家である鈴木エドワード、上場企業のトップである朝日ネット社長の山本公哉やネットプライスドットコムグループCEO(最高経営責任者)の佐藤輝英、環境ビジネスの草分け的存在であるエンヴァイロテック代表の高橋百合子が就任している。そして、アドバイザリーボードには、以下のメンバーが名を連ねている。
議長 出井伸之(クオンタムリーム代表、元ソニー会長)
アドバイザー 北城恪太郎(日本IBM最高顧問、経済同友会終身幹事)
アドバイザー 立石文雄(オムロン副会長、経済同友会幹事)
アドバイザー 伊佐山建志(カーライル・グループ会長、元日産自動車副会長)
アドバイザー ポール・クオ(クレディ・スイス ジャパン在日代表兼最高経営責任者)
アドバイザー エアン・ショー(マッキンゼー・アンド・カンパニー日本支社長)
アドバイザー 茶尾・デイビッド・克仁(ドール・キャピタル・マネジメント創業者兼ゼネラル・パートナー)
「奨学金を給付することで異なる経済的バックグラウンドを持つ生徒や、様々な性格や考え方を持ち合わせる生徒を集め、本当の意味でのダイバーシティ(多様性)を持ったインターナショナルスクールにしたい。こういう環境を用意できてこそ、学校が社会や世界の縮図となってリーダーシップを養う経験を積める場になる」
「次世代のリーダーに必要なのは、幅広い分野に興味を持ちつつ特定分野において突出した才能を発揮できること、答えを見つけるのではなく問題を見つけられる能力と、それを解決するためのクリエイティビティである」
こんな小林と谷家の思いにそれぞれが共感し、協力を惜しまない姿勢を示している。サマースクールを実施できるような施設を見つけることができたのも、アドバイザリーボードの1人が軽井沢に精通していたことが大きい。
では、そんな小林が仲間たちとともに手がけたサマースクールの内容を見ていこう。
朝は午前8時には起床し、朝食を済ませる。午前9時半から午前中いっぱいは、数学や理科、社会といった授業を行う。12~13才と14~15才で分け、それぞれ17人のクラスという少人数体制だ。昼食を挟んで、午後はサッカーやテニス、ダンス、ブラジリアン柔術などで身体を動かした。
こうした活動は、プロジェクトを支えるボランティアスタッフの面々に加え、サマースクールをクチコミなどで知った日本の社会人、学生募集のメーリングリストを見たスタンフォード大学やブラウン大学といったアメリカの名門校に通う大学生など、総勢30人近くがボランティアとして手伝った。
夕食後は、参加者が自国についてプレゼンテーションをする場を設けたり、花火大会などのイベントで楽しんだりして過ごした。土日はハイキングに出かけたり、自分たちでオーガニックファームに行って収穫した野菜でバーベキューをしたりして、自然と触れ合った。最終日には流しそうめんを食べ、日本文化を楽しんだ。
このほか、アドバイザーの1人であるマッキンゼー・アンド・カンパニー日本支社長のエアン・ショーは、今回のサマースクールにも足を運び、子供たちに向けて講義を行った。「カンボジアに生まれ、政治難民となった自分が、逆境の中でどのように希望と夢を持ち続けて今に至ったか。そして、助けてくれた人々への感謝を忘れずに生きることが、いかに大事なことか――」。その重みのある言葉を聞くだけでも、多感な時期の子供たちにとってはかなり濃厚な時間となっただろう。
ちなみに、授業はもちろん、生活は原則として英語が共通語になっている。「英語が不得意な子には分かる子が教えてあげるなど、子供同士で問題を解決していたようです」(小林)。
学校作りは、教育者にとっても夢!
このサマースクール、参加した子供たちは何が一番楽しかったのだろう? そんな質問を投げかけると・・・。
「数学の授業!」
こんな答えが返ってきた。
子供たちが興味を持った数学の授業では、教師は「暗号学」を題材にしていた。暗号は、「数列」を用いて、データを符号化したり復号化したりしている。この仕組みを通じて、「数列」を学ぼうというわけだ。確かに、子供の探究心を刺激するようなやり方である。
また、理科の授業では、教室にペットボトルと炭酸飲料「コカ・コーラ」とキャンディ「メントス」が持ち込まれた。「コーラにメントスを入れたら、何秒で泡が吹き上がるか」という実験が行われた。さらに、「入れるメントスの量を変えたら?」「ダイエットコーラだったら?」など条件を検証していく。こうやって、物理の因果関係を学ぶのが狙いだ。
「まず公式を教え、それから検証をさせるのではなくて、『仮説を立てて自分で実証していくこと、それが科学なんだ』と先生はおっしゃっていました。そうやって、自分の力で導き出した公式であれば、絶対に忘れないですよね」と小林は、先生の教え方に感心すると同時に、教師の重要性を改めて認識した。
サマースクールで教鞭を取ったのは、4人の外国人教師と1人の理事。全米トップクラスのボーディング・スクール(全寮制学校)として知られるケイト・スクールの教師。世界9カ国にインターナショナル・ボーディング・スクールを展開しているユナイテッド・ワールド・カレッジでノルウェー校を立ち上げた教師や、カナダでエンジニアとして活躍し、教育行政にも精通している教師。そして、米スタンフォード大学デザインスクールにて、幼児・初等・中等教育を研究するプログラムディレクターだ。また財団理事を務める鈴木も、自然の中のデザインの美しさを生徒に説いた。
なぜこの教師陣は日本のまだ発足もしていない学校のサマースクールに参加したのか。外国人教師と知り合ったきっかけは、小林が昨年の夏に学校設立に向けて行なった海外名門校への視察だった。「会っていただいただけでもありがたかったのに、まさかサマースクールに来てもらえるとは。熱心な教育者って、本当にそのミッションに共鳴したら動くんですよね。自分たちの理想とする学校を新しく作り上げていくというのは、教育者にとって究極の夢なんだと思います。歴史ある名門校は多いですが、新しく設立することなんて一生に一度あるかないか、ですからね」。
そんな教師陣の教育姿勢は、授業だけに留まらない。心から学問を愛し、子供たちに教えるのが好きだった。「子供への接し方が違いました。授業が終われば『はい終わり!』ではなくて、『ブラックホールって何~?』なんて子供たちから聞かれたら、『それはね・・・』といつまででも語り続けている。質問した子供たちが『もう勘弁して~!』ってくらい」と笑いながら小林は教えてくれた。そして、このように四六時中、教師と子供が一緒にいられるのも全寮制ならではのメリットと言える。
自ら問題を見つけて解決する「デザイン思考」!
サマースクールでは、まだ日本ではあまり取り入れられていない授業も行った。それは、「デザイン思考」をテーマとしたものだ。これは、数年前からスタンフォード大学で始まったカリキュラムを参考にしている。
例えば、「地下鉄」という課題を子供たちに与えたとしよう。この時、子供たちは実際に地下鉄に行く。そして、現場を観察し、利用客や勤務中の人に話を聞く。この目的は、地下鉄の問題発見だ。「人類学者」になった気持ちでユーザーの立場に身を置くことで、自分で問題点を見つけ出し、解決策を議論する。またプロトタイプと呼ばれる試作品を多く作り、クリエイティビティを発揮しつつ批評も受けながら改善を図る。そんな授業なのである。問題が与えられて解答を見つけるという紋切り型の授業とは全く異なる。今回は2日間と日数が限られていたため、そのメソッドを元にしたショートプログラムを実施した。
この2日間だけでも、「子供たちはずいぶん変わった」と小林は言う。授業の前に「難民問題」について意見を聞くと、子供たちからは「寄付すればいい」といった答えしか出てこなかった。しかし、家族の問題であったり、NPO(非営利組織)のあり方であったり、現地に想いを馳せればお金だけが解決の手段ではないことが見えてくる。
2日間にわたる「デザイン思考」の授業を終えた後、改めて「難民問題」の解決策を聞くと、子供たちの解答は大きく変わっていた。「太陽電池!」「ソーラーパネルだけで動く水のポンプ!」「移動式のトイレ!」といった具体的なアイデアを発言するようになっていた。こうなれば、そのアイデアを実現するために今度は何をすればいいのかということにも考えが及び、話がどんどん広がっていく。
「次世代を担う子供たちにとって、与えられた仕事をただこなすのではなく、自ら課題を立てて実行に移していく力は、不可欠なものになってくると思います。もともとデザイン思考というものは日本の強みだと思うので、単純にアメリカのカリキュラムをそのまま輸入するのではなく、日本独自のプログラムにしながら取り入れていきたいですね」。カリキュラムに手応えを感じている小林は、力強くこう語る。
教師と子供たちの間だけではない。子供たち同士でもお互いに好影響をもたらしている様子を小林は目の当たりにした。
「フィリピンに行ってみたい!」「タガログ語(フィリピンの公用語)を学びたい!」
子供たちがこんなことを口々に言い始めた。ここには、フィリピンから参加した男女3人の生徒の存在がある。マニラに住む3人は14歳にして、近隣のスラム街へ家庭教師としてボランティアに行っているという。「頭もいいし、スポーツもできる。ただそれだけではなく、社会に対しての問題意識が高く、とても精神力のある子たちだった」(小林)。そんな3人を、周りの子供たちも尊敬するようになっていたのだ。
「『ピアエフェクト(仲間同士が与え合う影響)』って言いますけど、普段はもしかしたら斜に構えているような子も、周りの子がまっすぐだと、そちらにひっぱられていくんですよね。でも、それは逆もあります。もしちょっとネガティブな子がいたら、同じことをやっても違ったかもしれません。今年は参加した子供たちにすごく恵まれていたと思います」
小林はこう振り返り、話を続ける。
「学校って、たぶん、こういうことなんだと思います。教えられることには限りがある。でも、“気づきの種”がポロポロ落ちていることが大事なんですね。優れた教師の授業を通して探究心を持ってもらうことは重要だけれど、それ以外のことは気づいてもらうしかない。価値観というのは、押し付けられませんから」
もう1つ、こんなエピソードもある。子供たちに「あなたの夢は何ですか?」と問いかけた時のことだ。子供たちが次々と手を挙げて、「サッカー選手!」「パイロット!」と夢を語る。そんな中、手を挙げていなかったミャンマーから来た男の子に、「君は?」と聞いた。
すると14歳の彼はとても控えめに、こう言った。
「僕は、ミャンマーの民主化のために一生を捧げたいです」
彼の名札には、「AUNG(アウン)」とある。もしかしてミャンマーの民主運動指導者アウン・サン・スーチーの親戚なのだろうか?
「いえ、僕は10歳の時、スーチーさんの活動に共鳴して、親に頼んで彼女の名前を僕のセカンドネームに付けてもらったんです」
これには小林も驚愕した。「普段の彼は、とてもフレンドリーなんですけど、物静かな子で、すごく政治的なことをバンバン言ったりするようなタイプでもないんですよ。でも、そうやって大きな夢を持っていたんですね。彼は確かに口を開けばとてもしっかりしたことを言うし、エッセイでも熱いメッセージを綴っていました」。
「別に、全員がポリティカルリーダーになる必要なんて全くないと思います。でも、こんなふうに自分なりの価値観を持って、新しいムーブメントを作っていくような子供たちが、それぞれの国で、それぞれが選んだ様々な分野を担っていってくれたらいいですよね。これから作ろうとしている学校は、そういった子供たちを育成する場にしたいと考えています」
「ほかの子にもチャンスをあげてほしい」!
ミャンマーに彼が帰国する際には、こんなやりとりがあった。
「あなたは今回のサマースクールに素晴らしく貢献してくれた。みんなが学べたと思う。ありがとう。君のような子だったら、来年もまた来てほしい」
「僕は今年、ここに来られて本当に良かったと思う。でも来年は、僕じゃない、ほかの子にチャンスをあげてほしい。僕の周りにも、僕と同じような子で、チャンスのない子たちがたくさんいるから」
また、彼が来日した際、飛行機の便の関係で、サマースクールが始まるまでの2~3日間、どうしても東京に宿泊しなければならなかった。しかし、ホテルに泊まる金銭的余裕など彼の家庭にはない。そのため、日本の参加者の親がボランティアでホストファミリーになってくれていた。小林は、その親から「彼のような子が来るんだったら、それだけでも息子を転校させたい」と言われたそうである。
彼に限らず、サマースクールに当たってホストファミリーになった家庭はいくつかある。それぞれの家庭で、子供を成長させる出会いがあったことだろう。それもまた、この試みの成果の一つと言える。
「どんな境遇にいる人でも、それぞれすごく一生懸命に生きていて、リスペクトされる存在なんだというのが、『多様性』の根底にあると私は思っています。海外から奨学金で来る子供たちは、こちらが助けてあげるのではない。みんなが学ばせてもらうことのほうが大きいんですよ」
こう語る小林が、仲間たちとともに情熱を注ぐ、「日本で初めての全寮制のインターナショナルスクールを作る」というプロジェクト。次回から、その構想について紐解いていく。
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2010年11月15日(月)日経ビジネス 小林 りん、中西 未紀
第2回 理想の関係は生徒と学校が「相思相愛」
「これだけ『アジアの時代』などと言われているのに、今の日本の教育にはとかく欧米志向になりがちなところがありますよね」
なぜ今、日本で全寮制のインターナショナルスクールを作ろうとしているのか――。その思いを問うと、小林りん氏はこの学校が持つべき“日本らしさ”“アジアらしさ”へのこだわりを語り始めた。
「私自身、カナダの高校やアメリカの大学院を出ていて、そこで学んだことは非常に大きいのですが、実際にアジアで次世代を担うリーダーとなる人材を育てようという時、少数の強いリーダーが全体を引っ張っていくような米国型のリーダーシップのモデル以外にも、日本らしさやアジアらしさを生かした多様なリーダーシップのモデルがもっと意識されてもいいと思うのです」
そこには、「欧米主導の資本主義社会の限界が囁かれる中、和を重んじ、共存共栄の精神が強いアジア的な価値観は、これから世界でも必要とされていくものになるのではないか」という思惑もあるようだ。
もともと「日本で初めての全寮制インターナショナルスクールを作る」という発想が生まれたきっかけは、そもそも学校作りの構想を小林に呼びかけ、共に学校設立に尽力しているあすかアセットマネジメント(東京都千代田区)代表の谷家衛との出会いにまでさかのぼる。小林と谷家は互いにどのような思いを持ち、志を一緒にすることになったのだろうか――。
フィリピンで痛感した疑問と限界!
2007年、小林は国連児童基金の職員として、フィリピンで忙しい毎日を送っていた。
フィリピンには、親のいない、住民登録もされていないようなストリートチルドレンが10万人近くいると言われている。ともすれば、それが犯罪の温床となり、売春や臓器売買といったことまで起こってくる。そんな彼ら彼女らの最低限の人権を守るうえで、「教育」の意味は大きい。
「子供たちが文字の読み書きができるようになること、できれば学校に行き始めることは、そんな負のスパイラルから抜け出して自分の人生を切り拓いていくために、非常に大事なことです。ユニセフ(国連児童基金)では、年間8000人から1万人のストリートチルドレンたちに教育の支援をしていました。ただ・・・」
小林は仕事にやりがいを感じる一方で、その前に立ちはだかるあまりに大きな格差に、むなしい気持ちも抱えていた。
「我々の活動はそれぞれの子供たちを確実に変えていきましたが、そんな子供たちを生み出している国全体の体制を変えるほどのインパクトがあるかというと、必ずしも十分ではありませんでした」
もし彼ら彼女らが高校や大学へ行ったとしても、高失業率のフィリピンでは職が見つかるかどうかも危うく、結局は貧富の差が解消されないという現実があった。国内でも頑張れば何とかなる――。そんな希望さえ失っていたことは、優秀な人材ほどどんどん海外へ出ていくことからも明らかだった。
フィリピンは、GDP(国内総生産)における海外からの仕送りの割合が13%にも上る国だという。国内にチャンスがないから、それを海外に求めるしかないのだ。
小林が勤めていたユニセフのオフィスにも、毎年2~3人のフィリピン人の職員から「ビザが下りました!」との報告があった。そして、皆に祝福されて、海外へ出て行く。「私は、あなたの国が大好きで少しでも役に立ちたくて頑張っているのに・・・」。心のどこかで、小林はそう思わざるを得なかった。1999年に結婚した小林は、夫を日本に残しての赴任だった。
「草の根的な活動だけではなく、この国を根本から変え、人々の希望を取り戻してくれるような指導層が生まれなければ、この国は抜本的に変わらないのではないか」。小林はいつしかそんな疑問と限界を抱き始める。
発想が柔軟で挑戦する人材を育てよう!
小林が谷家に出会ったのは、そんな頃だった。
「うちの会社の立ち上げのきっかけになった、志のある若者や事業を支援する人がいるんだけど、会ってみない?」
旧来の友人である岩瀬大輔が、小林に声をかけた。岩瀬は、戦後74年ぶりに誕生した独立系生命保険会社であるライフネット生命保険株式会社(東京都千代田区)を社長の出口治明とともに立ち上げ、現在は副社長を務めている人物である。この想いを持った人物が谷家だった。
この話を聞いた小林は、日本に帰国した際に谷家に会って相談してみようと思った。現在の仕事について谷家に聞かれた小林は、フィリピンでの活動やそこに対する思い、抱いている疑問や限界について語る。すると谷家は、こう言った。
「実は、5年前から学校を作る構想を持っている。一緒にやらないか」
谷家は「アジアのハングリーで才能のある子供たちを迎える日本で初めての全寮制インターナショナルスクール」を設立したいのだという。自身は灘高校から東京大学と傍目には堂々たるエリートコースを突き進んできたように見える谷家だが、「与えられた問題に対する正解を見つける時代は既に終わった。これからの時代は、確かな価値観と共に、課題を自ら見つけ自分なりの解決策を考える力やその考えを周りに協力してもらうコミュニケーション力が必要。理系や文系、芸術系などの分野の垣根を乗り越え、柔軟に考えられる、チャレンジ精神を持った人材の育成が世界に、特にこれからのアジアにとって必要だ」と語った。
谷家は自身の子供2人をインターナショナルスクールに通わせている。それは世界共通言語である英語力を養うという点で良かったが、一方で懸念もあった。学校の生徒の大多数は、日本にいる一部の富裕層の子供ばかりが通っているのだ。
谷野のグローバルな投資活動や新規事業の支援活動を通して得られた結論、「どんな事業も誰がやるかに尽きる。ハングリー精神を持って、自らの才能を存分に出し切ること」こそが大切だ。日本の子供たちにとって、そういうハングリー精神と才能を持ったアジアの子供たちとともにグローバルな教育をしていくことにこそ、意味があるのではないか――。だが、日本にそんな学校はない。そうであれば、さらに、日本だからこそ意味のある学校を作ってしまおうというのである。
とはいえ、谷家は自分で会社を経営している立場にある。「人生をかけて学校作りを手掛けてくれるパートナーがいれば・・・」。そう考えていたところで、まさにうってつけの人材に出会った。それが小林というわけだ。
谷家の想いに強く共感した小林だが、1つの条件を提示した。「絶対に、奨学金は出したい。アジアの国から子供たちが来るのはいいことだが、日本の学生にも奨学金を設けて国籍だけでなくバックグラウンドも多様な生徒たちに集まってもらうことで、本当の意味での多様性を実現したい」。これに、谷家も異存はなかった。
それから約1年、小林は国連児童基金を辞めるまでの間、ほぼ1カ月ごとに帰国し、夫に会い、谷家とミーティングをしてフィリピンに戻るという日々を送る。最終的には「これから一生かけてやっていく仲間だから」と、小林と谷家は家族ぐるみの付き合いになった。
誰も知らない「学校の作り方」!
2008年9月、小林は国連児童基金を正式に辞めて帰国した。学校立ち上げプロジェクトがいよいよ始動する。
とはいえ、いきなり“暗礁”に乗り上げる。それはそうだ。今まで学校経営に携わったことがない小林は、そもそもである「学校はどのように作ればいいのか?」という基本事項が分からなかった。誰かに相談しようにも、学校を作った人間など周りにはいない。
ところが探してみると、間もなく新たにスタートする学校があることが分かった。千葉県で構造改革特区の認定を受けて、2009年4月に開校した幕張インターナショナルスクールだ。そこで2009年の年明け、まさにその開校に向けて最終段階に入っていた千葉県庁の担当者まで、小林は話を聞きに行く。
相談を受けた県庁の人間にとっても、前例の少ないことだったのだろう。「担当者の方が、あらゆる法律をひもときながら、本当に親身にいろいろ教えてくださいました」(小林)。
開校までの流れは、ざっと次のような感じだ。まず「財団法人」を作り、ある程度の支持者を集めて学校設立のメドをつける。そして、国から寄付金の税制控除の認可を受ける。それから寄付金を募って学校を設置するための許可を県庁からとりつける。これで、ようやく「学校法人」になることができるのだ。
幕張インターナショナルスクールは幼稚園と小学校なので、中学校や高校ならどうなるかについては、学校そのものの認可を担当する県庁に何度も教えを乞うた。カリキュラムについては文部科学省と折衝し、寄付金の税制控除については内閣府と協議を続ける日々が今も続いている。
「一般財団法人軽井沢インターナショナルスクール設立準備財団」の設立に際しては、谷家と小林が今まで培ってきた人脈によって、半年ほどで志を共にするコアメンバーが集まった。加えてアドバイザリーボードには出井伸之(クオンタムリープ代表、元ソニー会長)や北城恪太郎(日本IBM最高顧問、経済同友会終身幹事)をはじとした力強い賛同者が揃った。
財団さえ決まれば、あとはひたすら資金集めである。少なくとも学校を建設して数年間運営できる見込みが立つだけの資金が集まらなければ、国から寄付金などの税控除を認めてはもらえない。しかし、税控除が認められなければ、大口の寄付は望めない。まさに「鶏と卵」で、両方のプロセスをほぼ同時に進めていかなくてはならないのである。
2009年の5月から7月にかけては、志に共感してくれそうなあらゆる人物に会って出資を募る期間に当てた。それはもちろん一筋縄にはいかなかったが、小林らの熱意は多くの人々を巻き込み、新たな共感の輪を広げていった。
理念によってがらりと変わる校風!
「学校はどのように作ればいいのか?」は分かってきた。ただ、小林と谷家は「学校はどのように運営すればいいのか?」も知らなかった。
全く経験のない分野に飛び込む無謀な挑戦にも見える。しかし、小林は「いろいろな方に、何から何まで教えていただきました!」と笑い飛ばす。すべてはその志を遂げるため、情熱と努力、行動力でカバーしているようだ。
学校運営について学ぶため、アメリカの全寮制高校の視察に訪れた。2009年8月にハワイの2校、9~10月にアメリカ西海岸の1校と東海岸の4校を、小林は学校立ち上げに力を貸すコアメンバーたちと一緒に回った。いずれも、いわゆる名門と言われるトップスクールだ。この背景には、小林たちの取り組みを知って、無償での協力を惜しまない人々の存在があるのは言うまでもない。東京に住む各トップスクールの卒業生たちが次々と母校を紹介してくれた。
学校を巡って小林が一番に感じたのは、「学校によって校風、雰囲気が大きく異なる」ことだったという。各学校にはそれぞれの理念や価値観があり、それが校内で醸し出される雰囲気にも色濃く反映されていたのだ。ある学校に行けば、誰もがフレンドリーに「ハ~イ!」と声をかけてくる。また別の学校へ行くと、制服をビシッと着た生徒たちが静かな校内をカツカツと歩く厳格な空気が漂っている。
生徒数も、1000人規模の大きな学校から、300人ほどの小さな学校まで様々だった。歴代の大統領も通ったという超一流校では、寄付による潤沢な資金によって、設備も驚くほど充実していた。アイスホッケーリンクやジムが2つずつ、カフェテリアやシアターまである、まるで大学のような学校もあった。
アメリカの実情を知って、小林が出した答えは、「学校に唯一絶対の正解はない」ということだった。
「まずは私たちが本当に実現したいこと、感じてほしいことを実直にやっていくことが一番大事だということが分かりました。その理念に共感してくれた人が集まってきてくれて、学校で培った価値観の遺伝子を継いだ子供たちが巣立っていく。それが高い価値観を持ったコミュニティの醸成につながっていくんじゃないかと思います」
生徒と同じ寮で生活する教師たち!
入学する生徒と学校は「相思相愛」であるべきだ、と小林は考える。親が「入学させたい」ではなく、子供が自分で「この学校に入りたい」と思わなければ、いい結果は生まれにくい。訪問したアメリカの学校の教師たちも、皆同じことを言っていた。
「親元を離れての生活で、周りには個性ある多様な生徒たち。プレッシャーもあるはずです。様々な困難が出てくるでしょうが、そこに自らチャレンジして、乗り越えていかなければならない。その時に、『自分で選んで、ここにいるんだ』という自覚が必要なのです」(小林)
また、「教師たちにも自覚が必要だ」という意見も、各学校で聞かされたことだった。
日本の学校では、一般的に教師と理事、事務員とでははっきりと境界線がある。しかし訪問した学校は、違っていた。例えば教師の給料を決めるような仕事も、現場を知る教師たちによって交代で行われる。「教師たちには、自分が学校を運営しているんだというオーナーシップが必要である。教師たち自身が学校の主体を作っていることを自覚しなければならない」というのが、これらの学校の考え方だった。
これは、確かに日本の学校からすると特異かもしれないが、一企業として考えれば、決して不思議ではない。小林はすぐに納得がいった。「どんな仕事をしている人にとっても、その学校の全体像が見えていることで、仕事へのやりがいは変わってくる。教師のモチベーションを上げるためにも、教師の視点を取り込んだ運営をしていくためにも、その意味は大きいだろう」。
そしてアメリカの場合、全寮制の学校では、教師は部活動に携わるのはもちろんのこと、生徒と一緒に寮生活をするのだという。教師たちには負担がかかるが、学問を教えるだけではなく、クラス外でも子供たちの様子を見て、そのパーソナリティを踏まえて個人の能力を引き出していくという考え方が根底にある。同時に、起床や消灯といった寮の管理人としての役割を担うことも多い。
「ティーチング(授業)・コーチング(課外活動の指導)・ボーディング(寄宿生活)」の3つを担うのが、教師の基本となっているというわけだ。
学校の肝となるのは、やはり「教師」だ。アメリカではそんな優秀な教師をヘッドハンティングするエージェンシーまであり、それを学校側が利用するのが一般的だという。教師たちは皆そのエージェンシーに登録しており、10年単位、20年単位で学校を変わっていくのである。
日本でそのやり方を取り入れるかどうかは別として、そのような全く違うスタイルがあることを知ったのは、小林にとって大きな学びだった。
各学校への訪問には、思わぬおまけまでついてきた。今年夏のサマースクールに、小林が素晴らしいと感じた教師たちが参加してくれたのである。この業界ではまだなんの実績も積んでいなかったが、小林と仲間たちの志と熱意が通じた形だ。
日本が活力を失ってしまう前に!
小林だけでなく、理事や評議員として、またアドバイザリーボードとして、学校設立に尽力している面々にも共通した思いがある。それは、「今後の日本に対する不安」から来ていた。「世界を見た時、日本人は国際社会を俯瞰し、時代の新しい価値を創造する人材にならなければダメだと痛感します。もはや経済大国ではなくなりつつあり、しかも人口も減少していく日本は、今後どう生き、どう進むべきなのか・・・」(小林)。
小林らは、学校設立を通じ、「アジアの子供たちに日本で良質の教育を受けてもらうことで日本のファンになってもらい、将来アジアと日本と世界を結ぶ輪を広げていってもらう」というビジョンを実現したいと考えている。
「スイスがそうですよね。経済大国でもない小さな国で、しかも英語圏でもないのに、スイスには学校がたくさんあります。しかもそこへ、世界中から人が来る。それに伴って人もお金も入ってくるわけですね。それは、スイスに『治安』と『環境』と『いい教育』があるからです」
日本にも、「治安」と「環境」は整っている。あとは「良い教育」だけである。これから小林らが設立する学校では、授業のカリキュラムに世界138カ国で認定されている国際バカロレアを採用する予定だ。
「日本は人口がどんどん減っているわけですから、広く世界から人を受け入れる国になっていかなければ。その中で、教育の門戸を開いていくことには大きな意味があります。我々の学校が、その布石となれれば。ほんの小さな第一歩ですが・・・」
次回はそんな小林の原体験に迫る。高校を中退してカナダへ留学、実際に全寮制インターナショナルスクールで過ごした日々には、今の理念に通じるものがあったのだろうか――。
軽井沢インターナショナルスクール設立準備財団
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第3回 メキシコやフィリピンで痛感した教育の重要性!
2010年11月22日(月)日経ビジネス 小林 りん、中西 未紀
日本で初めての全寮制インターナショナルスクールを作ろうと、今日も仲間とともに奔走している小林りん。彼女が日本の学校教育に違和感を覚えたのは、自身が高校生の時だった。
「高校1年生の夏休みを迎える頃でした。私は、これから始まろうとしている高校の3年間に期待で胸をふくらませていたんです。でも、初めて行われた三者面談で、いきなり大学受験の話をされて・・・」
小林は、ある国立中学校に入学し、そのまま高校へ進学している。「自由な校風で、とてもいい学校だった。その頃の友人は今でもとても仲がいい」と小林は言う。ただ、偏差値の高い学校だけあり、「毎年、何人が東京大学に入学するか」が注目されるといった風潮もあった。
「小林さんは、もう少し化学を頑張らないと、東大は難しいね」。三者面談で教師が発した言葉に、小林はショックを受けた。化学が苦手なことは分かっていたことだ。しかし、これから充実した高校生活を送って自分を成長させようという時、“大学受験という尺度”だけで評価されたことに、言いようのない違和感を覚えた。
「もっと私の思考力やコミュニケーション力、得意科目に着目して伸ばしてほしい」。高校生の小林は、自分が本当に成長できる場所がほかにあるのではないかと思い始める――。
運や能力は、自分のためだけにあるのではない!
「海外という選択肢もあるんじゃないか?」
こんな目からうろこの言葉を投げかけてくれたのは、小林の父親だった。実は学生時代、留学を志したものの、両親に大反対されて叶わなかったという経験の持ち主だ。自身のそんな思いも重なったのだろう、もし小林にその意思があるなら「応援する」と父親は言った。
「なるほど、その手があったか」と、小林は素直に父親の提案を受け入れ、すぐに英語教師のもとへ走った。「留学したいんです!」と言う小林に、教師は「留学生の募集は、既に全部、締め切られたよ」と一言。多くの学校の留学生募集は、高校1年生の夏で終わっていたのである。
がっかりする小林だったが、「ああ、そういえば1校だけ、今から試験が受けられるところが残っていたな・・・」と、教師は募集のチラシを持ってきた。
ユナイテッド・ワールド・カレッジ(UWC)。イギリス、イタリア、アメリカ、カナダ、南アフリカ、ベネズエラ、インド、香港、ノルウェーの世界9カ国に学校を持つ、全寮制インターナショナルスクールの募集だった。
それぞれの学校で、世界60~70カ国から集まる約200人の学生たちは、2年間ともに寮生活を送る。教育カリキュラムは、世界的に通用する国際バカロレアに基づくものだ。学問に励みながら、その共同生活で国際感覚が磨かれていく。
もちろん、小林はこの話に飛びついた。そして、見事に合格。通っていた日本の高校を中退し、UWCのカナダ校へ行くことが決まった。この学校で小林は、現在にも続く思いの基礎を築くこととなる。
UWCで学んだことで、やはり一番大きかったのは「多様性(ダイバーシティ)」の部分である。世界各国から選ばれて集まった生徒たちは、それぞれにいろいろなバックグラウンドを持っていた。
小林が特に懇意にしていた友人の1人に、メキシコから来ている女性がいた。小林は英語に加えてスペイン語も勉強していたため、スペイン語の習得にメキシコへ1カ月ほど行くことにしたところ、「それなら実家に泊ればいいよ」と彼女が薦めてくれた。
「気軽に泊めてくれるくらいだから、もしかしたらゲストルームもあるようなすごい豪邸なのかもしれない・・・」。そんな淡い期待を抱きながら行ったメキシコで、小林は愕然とする。
ちょっとした会議室ほどの広さの平屋に、8人家族が住んでいたのだった。彼女以外は男ばかりという兄弟だったが、彼らは全員中学校を卒業してすぐに自動車の整備工などの仕事をやって生計を立てていた。その兄弟たちも話してみると、彼女と同じくらい頭の回転が速いことが分かったが、奨学金を得て留学していたのは彼女だけだったのである。
自分は勉強がしたいと言えば、学校へ行かせてもらえる。小林は生まれて初めて「当たり前だと思っていたことが当たり前じゃない」現実を知った。小林はこう当時を振り返る。
「貧富の差とか、不平等というものが、世の中には本当にあるんだというのを初めて実感しました。自分はすごく幸せなんだな、と。だからその時は漠然と、そんなにラッキーなんだから、その分“社会に恩返しする義務”が、自分にはあるような気がしたんです」
特に、奨学金をもらって留学していたことで、小林の思いは強くなっていった。「こういう『運』とか『縁』とか『能力』といったものは、自分のためだけにあるのではなく、何かもっと大きなもののために使うべく“授かったもの”なんじゃないだろうか」。そう思い始めたのが、この頃だったという。これは今現在も、小林の思想の根幹をなすものと言える。
教育の必要性を理解できない大人たちがいる!
それから小林はメキシコに恋をし、5回に渡って足を運んだ。その間、衝撃を受けたことはたくさんある。友人の家の板の間で、まさしく煎餅のような薄い布団で最初に寝た時は、背中が痛くてたまらなかった。
ところが彼女は、「うちなんて、メキシコでは中間層だよ。家もあるし、みんな職に就いているし」と言う。「そういう次元の話なの?」と小林が驚くと、「じゃあ、本当の貧困を見せてあげる」と、メキシコのスラム街へ連れて行ってくれた。
ちょうど、大統領選挙が行われていた時期だった。見ると、当時の最大政党が、政党名の横断幕を掲げながら、スラムの人々の髪を切っている。
「何をしているの? 慈善事業?」と聞くと、一緒に来てくれた彼女の親戚が信じられないことを言った。「メキシコではお金がなくても買収ができてしまうんだよ。ああやって政党名を掲げてアピールしながら髪を切ってあげれば、スラムの人々は彼らに投票してくれるんだよ」。
それが果たして本当のことだったのか、今となっては分からない。ただ、スラムの人々が非常に限られた情報を基に判断をして投票をしていることは事実だった。「情報を理解できないということ、自分たちが置かれている状況を理解する術を知らないということは、なんと不幸で、理不尽なことなのか」。高校生の小林には、目を疑うようなことばかりだった。
小林は言う。「私は、人生は『選択』だと思っています。どこの政党に投票するのも自由ですが、なぜ自分の国がこういう状況にあるのか、なぜ自分はここにいるのかを知ることは、それを選ぶうえで最低限必要なことですよね。自分で投票をするために、少なくとも新聞を読めたり、テレビのニュースを理解できたりしなければ」。
機会に対する不平等について、小林はこの頃から考え始めていた。このようにUWCでの出会いや友人を介して得た経験は、小林の「全寮制インターナショナルスクールを作ろう」という決意に大きく影響している。
しかし、UWCではない新しい学校を作ることに関して、小林は「世界に通用する国際バカロレアプログラムを核にしつつ、これからの世代を生きるために必要なスキルを身につけられるような独自のカリキュラムを世界のトップレベルの教師陣とともに開発していきたいと考えています。特にこれから活躍していく若者たちに大切だと思われる、クリエイティビティ、多様な表現力、学問の分野を越えて思考する力などです」と言う。
またUWCは高校最後の2年間のプログラムであったため、バカロレアのためにひたすら勉強するだけで過ぎてしまい、「せっかくのダイバーシティを享受する時間が足りなかった」と非常に残念がる。そこで、より長い時間をかけ、学年やクラスを少人数制にすることにより、生徒一人ひとりの強みや興味を一緒に探せる学校を目指す。「選択する授業や進路も含めて、学校と先生と生徒が一体となって一緒に歩んでいける学校にしたいと思います」(小林)。
UWC卒業後、日本に帰国し、東大経済学部に進学した小林は、開発経済学を専攻した。ゼミでは、フィリピンのスラム街の実地調査なども行っている中西徹助教授(当時)の下で学んだ。「中西先生は、『東大経済学部を出てそのまま役人になるだけではなく、援助政策をやるんだったら、まずは必ず現場を見なければいけない』といつも言っていました。ゼミ生全員にフィリピンのスラムにホームステイさせるんですよ。私も大学3年生の時に行きました」。
一家に1人ずつのホームステイ。小林が滞在した家の子供たちは、二言目には「勉強したい」と言っていたのが印象的だった。彼らは勉強をして、成功したいと夢見ていた。しかしこのスラムで、多くの子供が学校に行っていない。フィリピンでは小学校と中学校は授業料が無料だが、大人が学校へ行かせないのだ。
一家の労働力として、だけではない。親も学校へ行っていないために、教育によって何が変わるのか、分かっていないことも原因だった。小林は言う。
「『自分たちが行ったところで意味がない』と思い込んでいました。それに、授業料が無料と言っても、制服代や教材費はかかります。スラムではいつも裸足やビーチサンダルで、普通の靴を持っていないから、それが恥ずかしくて行けないという子もすごく多いんですよ」
やはり、必要なのは「教育」だ。小林は中西ゼミで学ぶうちに、その思いをさらに強めていった。
希望を失ってしまった大人たちの中で、一度その貧困の輪のトラップに入ってしまったら、そこから抜け出すことは非常に難しくなる。だからその手前でなんとかチャンスをものにし、自分の知識を深めて違う人生を歩む、その「機会の平等」だけはなければならない。
それは、全員が同等でなければならないということではない。「やる気があって、才能がある人が上に行ける、せめてそういうチャンスがあること、機会が平等に与えられていることが重要だと私は思う」(小林)。
そういう意味で、自分が生まれ育った日本は恵まれている。だからこそ小林は、現地の人間ではなくても間接的にでもそこに貢献できないかと思い始めるのだった。
自分の名前で仕事をするということ!
そのまま国際援助機関の道へまっしぐら――かと思いきや、小林は意外な進路をたどる。
就職活動を始めた当初は、日本の援助機関を視野に入れ、OBやOGを訪問した小林だったが、仲の良い先輩たちは口々に「お前は辞めたほうがいい」と言ったという。
「確かに、『石の上にも3年、というか10年、みたいな組織だけど大丈夫?』と言われた時には、『3年も座っていられないと思います・・・』なんて話になりました」と小林は笑う。そんなことを言っている間に、外資系の金融関係やコンサルティング関連の会社などを訪問すると、そちらは逆に若い頃からどんどん責任ある仕事を担当して実に楽しそうに仕事をしている。その働き方は、小林にとって非常に魅力的だった。
「自分がやりたいこと」と、「自分がしたい働き方」が、当時の小林には両立できないように思えた。迷いに迷って出した結論は、「若いうちは社会の中で働き、学ぶだけ学んで、自分の“労働力としての価値”を磨こう」というものだった。
こうして小林は、外資系投資銀行へ入社する。不動産ファンドや新規株式公開の実務といった業務を担当、基本的な仕事の進め方やビジネスの考え方を学ぶ。その後、縁あってインターネット関連のベンチャー企業に移った。
「生まれて初めて、自分の学歴とか会社の名前といったバックグラウンドを背負わずに、『渡辺(旧姓)りん』を評価してもらうことのたいへんさを思い知りました。逆に言えば、そういった肩書なしで私を評価してくれた方にもたくさん出会うことができた貴重な時期です」
駆け出しのベンチャー企業では、会社名を言っても効力を発揮しない。「渡辺りん」という人間で勝負するしかなかった。
「何それ会社の誰々、ではなく、私個人を買って『こいつを応援してやろう』『こいつにかけよう』と思ってくださった方に、本当に恵まれました。だから私自身も、『これから出会う人は、名刺に何が書いてあるということではなく、その人自身をちゃんと見るようにしよう』と思うようになったんです」
また、ベンチャー企業ならではの「気づき」も多かったという。「物事には必ずアップダウンがあるということも、身をもって経験しました。ある意味、いい時はみんな“いい人”なんです。でもそのダウンの時に、どれだけ前向きでいられるか。それが肝だなと思いました。ダメな時も、誰かのせいにしたり、卑屈になったりせずに、自分たちがやっていることを常に信じて前に向かっていく姿勢を学びました」。
そんな小林は「当時はやっていることがあまりに楽しくて、そのままビジネス界にいてもいいような気になっていた」という。それがカナダで開かれたUWCの同窓会への出席をきっかけに、「未来を担う子供たちに教育の機会を作る」という初心を思い出した。
さらに、小林の背中を後押しする出来事が起きた。カナダから帰国後、日本で大学時代の先輩の結婚式に出席した時のことである。たまたま隣の席に座ったのが、当時のJBIC(国際協力銀行、現在はJAICA=国際協力機構)に勤めていた中西ゼミの先輩だった。
その席で小林は先輩から「私、今度JBICを辞めるから、欠員を募集しているんだけど、来ない?」と話を持ちかけられる。しかも、かつて小林もホームステイして馴染みがあったフィリピンの担当官だという。小林はすぐに決断した。
スタンフォード大学で国際教育政策を学ぶ!
JBICに採用された小林は、フィリピンに飛んだ。小林自身にはやはり教育分野への思いがあったが、配属されたのは電力や鉄道関係を担う大型インフラを扱う部署だった。「JBICでは、世界銀行やアジア開発銀行などの方々と政策会議をするわけです。ディスカッションのたびに『自分はもっと勉強しなくちゃいけないな』と本当に思いました」と小林は振り返る。
彼らと会うまでは、「学歴主義の世界」といった風評や「Ph.D.(博士号)を取らなければダメだ」といった話も、あまり本気にしていなかった。しかし、実際に会議を重ねるうちに、そのレベルの高さに脱帽せざるを得なかったという。
専門知識の必要性を切に感じた小林は、「もう一度勉強しよう」と決意。2004~2005年にかけて、米スタンフォード大学大学院に入り、国際教育政策学を学んだ。卒論のテーマは、世界銀行やJBICが手掛けているプロジェクトが教育の現場にどのような成果をもたらしているかを統計で定量的に検証し、さらに現場での定性的分析によって数字の裏にある背景を解き明かすというものだった。
教育のプロジェクトというものは成果が見えにくく、性質や特徴で判断する定性的な分析はできても、なかなか定量化(数値化)できないものなのだという。
「例えば教育の援助と言っても、先生をトレーニングするとか、子供たちに1人1冊教科書を提供するとか、校舎の改修とか、いろいろなことを一度にやるんです。そうすると、それで生徒のテストの平均点数が何%上がりましたと言っても、どれが良かったのか、分かりませんよね。でもそれを重回帰分析の手法で、何万個というデータを処理していくんです。統計なんて、30歳手前になってまたやることになるなんて、思いもよりませんでしたよ(笑)」
同じアメリカでも、東海岸の大学では政府系の組織やリサーチ研究所に行く学生が多かったが、西海岸にあるスタンフォード大学にはベンチャーの気質があった。周りでは自分でNPO(非営利組織)を立ち上げる者もあり、ベンチャー企業で働いていた経験のある小林には性に合っていたようだ。社会起業家と出会う機会も多く、学ぶことは多かった。
「やっぱりベンチャーの働き方のほうが、自分の特性を生かせる」と再認識しながら、同時にそれは「今ではない」と小林は感じていた。その頃から既に「教育」に携わりたいという思いはあったが、具体的に明確な目標がまだ見えていなかったのである。
そして2006年、小林は国際連合児童基金(ユニセフ)に入った。あすかアセットマネジメント(東京都千代田区)代表の谷家衛に出会っていよいよ自分たちで新しい教育プロジェクトを立ち上げる、およそ3年前のことである。
次回は、小林とともに、新しい学校作りのプロジェクトを発足させた谷家にスポットを当てる。ながらく投資の世界で生きてきた谷家は、小林の何に共感し、プロジェクトを実行することになったのか――。
第4回 もう一人のキーマン、谷家衛の思い《前編》
2010年12月13日(月)日経ビジネス 谷家衛、中西未紀
あすかアセットマネジメント(東京都千代田区)代表である谷家衛は、投資の世界に生きて23年、様々な企業の姿を見てきて「分かったことが一つある」と言う。それは、「どんな事業であっても、誰がやるかに尽きる」ということだ。
「優れた技術を開発したり、ユニークな特許を持っていたりしても、会社の経営がうまく軌道に乗らないケースは少なくありません。逆に、最初はそれほどいい商品やサービスだと思えなくても、素晴らしい経営陣がいると、いつの間にか成長企業になっている――そんな経験が何度もあります」
こう語る谷家は東京大学法学部を卒業後、1987年に米投資銀行ソロモン・ブラザーズに入社、1995年にアジアにおける自己勘定投資部門の共同責任者となった。その後、米大手投資顧問のチューダー・インベストメントの日本拠点であるチューダー・キャピタル・ジャパンの創設に名を連ねる。2002年にMBO(マネジメント・バイアウト=経営陣による企業買収)を実施し、あすかアセットマネジメントと社名を変更、現在に至る。
チューダー・インベストメントにいた頃は、まさにITバブルの真っただ中だった。IT(情報技術)関連を手がけるベンチャー企業が乱立するも、その後、多くがバタバタと倒れていくことになる。そんな中で、生き残った1社に、谷家とは旧知の仲であった松本大が1999年に設立し、2000年に東証マザーズへの上場を果たしたマネックス証券がある。
投資で学んだ「ビジネスモデルよりも大事なもの」
インターネットの普及で、いろんな素晴らしいビジネスモデルの会社も出てきていた。そんな中で、谷家は松本に賭けた。「親友だから思うのかもしれないが・・・」。そんな前置きをしながら、谷家は言う。「松本は人格的にも能力的にも滅多にいない人材だと思う。もちろん、運はあります。でも、いったい彼が成功しなかったら、誰が成功するんだと心から思いました。一方、ビジネスモデルに賭けたものは、残念ながら、あまりうまく行きませんでした。やっぱり『誰がやるか』が一番大きいのです」。
最終的には、ビジネスモデルよりも、「人」である。こうした思いを抱く谷家は、今後の世界を鑑みて、ある結論にたどり着く。
「これから世界の宝となっていくのは、成長の可能性が大きく、ハングリー精神があるアジアの人々だ。ところが、教育の場がない。そのチャンスを提供すれば、きっと世の中を良くしてくれるだろう」
「アジアの人々は今、一番の激動期を生きていると同時に、最も恵まれた環境にいると思います。まさに成長している段階の中国やインドなどでは、松下幸之助さんや本田宗一郎さんのような人材がこれからどんどん出てくる可能性が大いに期待できます。成熟した社会でハングリー精神を見失いがちな日本の子供たちにとっても、そういったアジアの子供たちと共に生活をすることで、自分の置かれている現状についても考えるようになるでしょうし、刺激を受けることで成長の契機となるのではないでしょうか」
アジアの成長に日本がどのように関わっていくべきか。谷家は常々考えてきた。
世界に通用する高校であれば可能性はある!
「アジアの成長、ひいては日本や世界が発展していくための人材を育てる学校を作りたい」。いつしか谷家は、会社経営で多忙な日々を送りながらも、その思いを強めていった。それが後に、「日本とアジアをはじめとする世界各国の子供が寄宿する全寮制の高校を作る」という現在のプロジェクトにつながっていく。
ただ、リーダー育成というと、一般的には大学であったり、ビジネススクールであったりをイメージする。「なぜ高校なのか」。こんな疑問に対し、谷家の答えはこうだ。
「世界にはアメリカのハーバード大学やスタンフォード大学をはじめ、素晴らしい大学がたくさんあります。こうした大学は数兆円を動かせる資金力を持っており、優秀な教授を招聘したり、研究環境を整えたりすることができます。これに対抗して、新しく世界で通用する大学をこれから日本に作ろうと言っても、ほとんど不可能です。でも、高校や中学校であれば世界が認めるような学校を作れる可能性は十分にあります」
日本以外のアジア諸国でも、いわゆる進学校は続々と登場している。しかし、谷家の目には“ハーバード大学やスタンフォード大学など、名門大学への入学が唯一の目的になってしまっている”ように映る。
「全員が単一の価値観に沿って競争するのでは、皆がライバルになって学校生活をフルに楽しめないのではないでしょうか。中学校や高校というのは、もっと自分のエッジやパッションを見つけるために費やされるべき時間だと思うのです。様々な分野でとび抜けた才能を持った生徒たちが、異なる価値観や強みを認め合って、その多様性と共に生活するほうが楽しいし、世界にはその強みに応じた各分野での素晴らしい大学があるので、各々が自分に合った目標を定めることができるようになるのが理想的なのでは・・・」
確かに日本は「欧米に追いつけ、追い越せ」で経済成長を実現したが、行き過ぎた資本主義は格差拡大や環境破壊といった新たな課題をもたらした側面もある。アジア諸国が同じ轍を踏んではならない。
アジアの中では唯一、成熟を迎えている日本だからこそできる教育があるはず――。結果として高校卒業後は欧米の名門大学へ通うことになったとしても、「日本やアジア的な哲学を持ちながら西洋社会に飛び込んでいく子供たちは、大きなチャンスに恵まれるはずだ」と谷家は言う。
強い思い入れはあるものの、目指すところは既存の高校を改革する枠にはとどまらないために、ゼロから設計していく必要がある。そうなると、谷家は会社経営もあり、自分自身が全面的に関わるのは時間的に難しい。そこで「理想とする学校のリーダーにふさわしい人材」を探し始める。
リーダーに必要なのは、人を共感させ動かす力!
谷家には以前に自らのアイデアを素晴らしい人々の力を得て実現したプロジェクトがある。以前に連載でも触れたが、戦後初となる独立系生命保険会社であるライフネット生命保険(東京都千代田区)の立ち上げだ。
もともと谷家には「証券も銀行もネット化したのだから、必ず生命保険もそうなる」という考えがあった。「当時は『ネットで不動産と保険は買わない』と言われていましたが、私は逆に、『10年後の人がネットで保険を買っていなかったら、そっちのほうが不思議だ』と思ったのです。いつ風が吹くかは分かりませんが、必ずその時代は来るはずだ、と」。
そして谷家は、「この人であればネット生命保険会社を成功させられる」と確信を持てる1人の若者に巡り会うことができた。後にライフネット生命保険の副社長となる岩瀬大輔だった。岩瀬はハーバード大学経営大学院で日本人として4人目となるBaker Scholar(ベイカー・スカラー、成績優秀者に贈られる賞)を受賞した人物であるが、谷家が岩瀬に注目したのは留学中のことだった。
きっかけは岩瀬が書くブログだ。そこに描かれていた岩瀬が持つ切り口の良さと同時に、感受性の強さや人を共感させる力に、谷家は惹かれたのだという。
ただ、岩瀬の能力を高く評価したものの、職歴は外資系のコンサルティング会社や投資ファンド運営会社などで、生保の業務は未経験だった。そこで、「実務に通じたパートナーが不可欠」と考えた谷家は、今度は知人の紹介で出口治明(現在はライフネット生命保険社長)に出会う。日本生命という確固たる組織に所属しながらも自分よりずっと前から「オンラインによる生命保険」を構想していたという出口に、谷家は驚いた。まさに最適の人材だった。
こうして、出口が社長、岩瀬が副社長という形でライフネット生命保険が誕生する。2008年3月のことだった。以降、順調に保有契約件数を増やし、業績を伸ばしている。谷家は言う。「2人が素晴らしいのは、自分たちがあれだけ優秀なのに、自分と同じくらい優秀な人たちを心からリスペクトできるところです。だから、どんどん優秀な人材が集まってくる。ライフネット生命保険の一番の財産は、“人”だと思います。残念なことに、起業家のほとんどは、なかなか優秀な人材を集めることができないんですよね」。
一方で、学校プロジェクトの構想については、なかなか適任者が見つからず、月日が流れていった。それには谷家が、「新しい学校を作るうえでもっとも重要なのは『創業者の思い』である」という信念のもと、妥協するつもりがなかったということもある。
谷家自身、日本トップクラスの名門である灘高校を卒業している。この学校の設立に関わったのは、講道館柔道の創始者で教育者としても名高い嘉納治五郎だ。その思いが今でも学校に息づいており、生徒の教育に大きな影響を与えていることを、谷家は体感として分かっていた。
ただ、“残された”時間がどんどん減っていることも、谷家は強く感じていた。日本は経済的にも政治的にも、国際社会の舞台ではリーダーシップを失いつつあった。「日本が『アジアの憧れ』であるうちに学校を設立しなければならない。シンガポールや中国に追い抜かれてからでは間に合わない」。こんなふうに焦り始めていた頃だった。
学校プロジェクトを大きく動かす、“運命”とも言える出会いを演出したのは岩瀬だった。2008年に、当時はユニセフ(国連児童基金)職員としてフィリピンで働いていた小林を、谷家に紹介したのだ。もちろん、この時、小林は教育に関心は持っていたものの、「学校を作ろう」という考えは全くなかった。
しかし、谷家には「理想とする学校の代表にぴったりの人物」と思えた。「岩瀬くんにも共通していることですが、小林さんには『人を共感させて動かす力』があります。それは意識の高さから来ています。今、軽井沢インターナショナルスクール設立準備財団にこれほど多くの方に賛同していただき、ボランティアでやってくださる方々によって運営できているのは、小林さんの力があってのことでしょう」。
「満足感の共有」が成功には欠かせない!
「人」によって始まる学校作りは、ある意味で企業の成り立ちと共通する部分が多い。しかしそこは、似ていて非なるもの。長年投資の世界で企業の成功を数々サポートしてきた谷家だが、「学校を成功させる難しさはそれ以上だ」と感じている。
ビジネスには、「利益」という分かりやすいゴールがある。それは、売上高の拡大であったり、株式公開であったり。社員にしてみれば、自分が頑張れば給料が増えるという手応えがある。逆に言えば、「利益」は、そのまま求心力になりうる。
これに対して、教育では、ビジネスでいう「利益」に相当するものは、「やりがい」に行き着く。お金では動かない分、働く各人の思い入れは強く、意見の相違も出てくる。そこをどうやってまとめ上げるか。トップに立つ人材には、類稀なる求心力が必要になってくる。
谷家は、小林であればその条件を満たしていると感じた。「自分たちにとってもやりがいがあり、世の中の役に立つと思えることをやる。その満足感を一緒に共有できるかどうかが、プロジェクトを成功させるためには重要だ」。
谷家が小林を説得して一緒に学校プロジェクトを進めていくようになるまでに、さほど時間はかからなかった。そして今、谷家はこれまで培ってきた人脈を小林と共有し、学校の理念や目標などを仲間たちとともに構築し、深めているところである。
第5回 もう一人のキーマン、谷家衛の思い《後編》
2010年12月20日(月)日経ビジネス 谷家衛、中西未紀
日本初となる全寮制インターナショナルスクールの2013年開校に向けて動き出している、軽井沢インターナショナルスクール設立準備財団の谷家衛と小林りん。谷家は、新設する高校において、大切にしたいポイントが3つあるという。
1つ目は、奨学金を設けてアジアの生徒を貧富に関係なく迎え入れることで、本当の多様性(ダイバーシティ)を実現する。
2つ目は、右脳を使うデザインやアートといった感性と、左脳を使う数学や科学などの論理性、どちらも養っていく。
3つ目は、学校や寮での生活を通して共生・共感の念を築く。
では、それぞれについて、詳しく見ていこう。
いろいろな人が活躍できるという日本の思想!
1つ目の「多様性の実現」について。小林は高校生活をカナダにある全寮制の学校で世界各国の同級生と過ごしており、その経験が人生の貴重な財産になっている(参照:「恵まれた環境に感謝、そして社会に恩返ししたい」)。一方、谷家も13歳の息子と11歳の娘を見ている中で、多様性の必要を感じるようになった。
「息子と娘は、日本にあるインターナショナルスクールに通っています。素晴らしい学校です。ただ、授業料が高いこともあって、通っている子供たちの層が限られてしまいます。もっと違う環境の子供たちと交わって、いろんな刺激を受けさせたいと思います」
今年初めて、軽井沢インターナショナルスクール設立準備財団が実施した中学生を対象にしたサマースクール(参照:「サマースクールで子供たちに教えられました」)には、谷家の息子も参加している。2週間を過ごした息子は、確かに意識が変わっていた。
「教えるのではなく、結局は自ら気づくしかないのです。今年のサマースクールでも、ミャンマーやフィリピンの子供たちと時間をともにしてアジアの人々の素晴らしさを知ったり、自分たちがいかに環境に恵まれているのかを知ったりすることは、非常に大きな意味があったと思います」
また、そこには「日本で学ぶ」ことの意義もある。単に世界各国の子供が集まるインターナショナルスクールでさえあればいいのなら、ヨーロッパやアメリカには名門と言われる寄宿学校がいくらでもある。
アジアの拠点として日本に学校を作るのであるから、これまでのように欧米諸国的な思想の下で教育を行っていく必要もない。これからはアジア、ひいては日本の良さと言える“和の精神”を取り入れていくべきだというのが、谷家と小林の共通した認識である。
「日本には八百万(やおろず)の神々を祭ってきた文化がありますよね。それは、唯一絶対のカリスマが1人いて、皆をひっぱっていけばいいというのではなく、いろいろな人が活躍できる場を作ることにつながる思想だと思います」
そして谷家は、こんな例を挙げた。
「例えば日本の鮨職人や大工。どちらの修行も、技を磨く前にまずは『素材』を調達する目を養うところから始まりますよね。鮨職人なら寿司のネタ、大工なら建築材。あくまでもそれらの素材の良さを活かした技を重んじます。日本の庭園には掘り出したままの石が据えられていますが、その思想も共通しています」
それぞれの素材は、それぞれの良さを持っている。その個性に重きを置く思想は、まさに多様性の時代にふさわしいと言える。
「素材から追及していくやり方は、修行にもとても時間がかかります。場合によっては何十年もかけて、やっと一人前として認められるのです。しかしその後も、それぞれの人生をかけて、さらにその『道』を追求していくのです」
たとえ経済的な利益に直結しなくても、時間をかけて技を磨く、そのプロセス自体が一つの目的である。そのような文化の下では、評価基準がそれぞれの価値観に委ねられるため、いわゆる「おちこぼれ」も出にくい。
「人と比べるやり方ではなく、その学んでいくプロセス自体を『道』として、自分自身で思い描く価値を実現していくものですよね。世界の資本主義が行き過ぎてしまって、様々な問題が露呈している今、次の時代を築いていくうえで必要とされる思想だと思います」
“微分型”から、全体を上げる“積分型”へ!
「数人のカリスマとその他」という構図ではなく、「個人がそれぞれに道を極めていく」という形。そこには個性的な才能を持った人間が続々と出てくる可能性がある。谷家は話を続ける。
「自分の好きなものを見つけたら、時間をかけてでもその道を極めていくべきだと思いますが、今のように画一的な基準ができてしまっている社会にいると、その前に多くの人が諦めてしまいます。でも、今は自分が握っている鮨に低いランク付けがされたとしても、ずっとその道を極めていったら、40年後の評価がどうなっているかは誰にも分からないですよね」
近年、出てきた言葉に「レバレッジ」がある。てこの原理と同じように、少ない資金で大きな資本を動かすという考え方だ。効率的に資金を運用する観点からは、合理的な行動と言えるだろう。しかし、こうした行動によって、その時代の流れに合った能力だけが特出して評価されるようになっていることを、谷家は危惧している。
「まだ成長の段階だった社会を全体として底上げしていくためには、それで良かったんです。誰かすごく強くなる人がいることで、全体のレベルを上げていったわけですね。まだ成長段階にいるアジアはそれをしていくべきですが、既に成熟した日本や他の先進国は、もうその段階ではありません」
「西欧型の資本主義社会では、世の中を単純化することによって経済活動をいくつかの要素に分け、重要と思われる要素の値を良くすることで全体を向上させようとする“微分型”でした。ビジネスで言えば、例えばROE(自己資本利益率)や売上利益率の値のみに着目し、それを改善することで企業価値を上げるといったことですね。でも、レバレッジが効きやすい分野に強い人だけが評価された結果、その間にあるものがみんな抜け落ちてしまったというのが、今起こっていることなのではないでしょうか」
効率化のみを追求する経済活動は、いかに短期間で収益を最大化するかに目が向くようになった。その行き着いた先の象徴とも言えるのが、サブプライムローン問題であり、2008年9月のリーマンショックに端を発する世界金融危機だろう。“行き過ぎた資本主義”に世界が耐えられなくなっていることが露わになった。投資を本業とする谷家は、まさにそれを目の当たりにしてきたのだ。
「選ばれた要素だけが大切にされ、その操作に長けた者だけが勝者になるといった今までのやり方ではなく、世の中にある多様な要素をそれぞれに尊重していくことが、これからは重要になっていくと思います。現状の日本は、その前段階の健全な新陳代謝が行われないということが大問題ではあるのですが、逆にグローバルキャピタリズムの中では、日本のように全体を上げていく“積分型”のやり方が必要なのです」
本質のみを残す究極のシンプリシティー!
2つ目の「感性と論理性の養成」について、谷家は米アップルCEO(最高経営責任者)のスティーブ・ジョブズを例に挙げる。
「ジョブズが創り出す携帯音楽プレーヤー『iPod(アイポッド)』やスマートフォン『iPhone(アイフォーン)』は、ビジネスなのか、アートなのか。その境目がどんどんなくなっています。これまで相容れないとされてきた左脳的なものと右脳的なものが一体化しているのが今だと思います。そして、左脳と右脳がまたがるところに、イノベーションやクリエイティビティといったものが生まれるのではないでしょうか」
今後、アップルと似たようなコンセプトを持つ製品が次々に出てきて、同じ機能を実現することだろう。しかし、アートやデザイン、さらに言えば哲学といった右脳的なものをおろそかにしている限り、新しい切り口を見出せる力を身につけることはできない。「この点が今後はますます重要になってくる」と谷家は考えている。だから、こう言う。
「スティーブ・ジョブズはビジネス思考もできるし、デザインやアートの感性もある。そのどちらも一流じゃないと、あのようにうまくはいかなかったと思います」
ちなみにスティーブ・ジョブズは若い頃から禅に傾倒しており、iPodのシンプルなデザインは禅の精神を反映したものだという話もある。谷家らが創設する学校では、その禅の考え方も、日本ならではのものとして取り入れていく方針だ。
「ムダを削ぎ落として本質のみを残すという究極のシンプリシティーの追求が禅の精神であり、そのあり方には今、世界各国の文化人や経済人が共鳴しています。量を追求していた20世紀は終わり、21世紀は質を高めていくことの重要性がさらに増していくのではないでしょうか」(谷家)
“同じ釜の飯”であれば、戦争は起こらない!
そして3つ目の「共生・共感」である。
軽井沢インターナショナルスクール設立準備財団の理事に名を連ねている建築家の鈴木エドワードは、自らの実体験からいつもこんな話をしているという。「いろんな国の子供たちがともに学校で学び、寮で暮らして“同じ釜の飯”を食べていたら、戦争なんて起こるはずがない」。
どこの国の人であろうが、どんな環境で育った人だろうが、共感するものは必ずある。谷家もその意見にはもちろん賛成だ。人間にはエゴだってあるし、金も欲するものだが、そこには同時に「世の中の役に立ちたい」「人のために生きたい」という気持ちも存在する。
「人は本来であれば一緒のはずなのに、たまたま国の歴史がそれを壊しているだけなんですよね。『こんなにひどいことをされた』というお互いの歴史が積み重なっていて、それを覚えているから戦争になってしまう。でも、個人同士は共感できるところがいっぱいあって、人として仲良くできるはずなのです」(谷家)
人は共生できるものであり、共感できるものだと信じる中でこそ、自分の良さにも気づき、周りのものの良さにも気づくことができる。まだ “人としての歴史”が浅くて国の歴史という既成概念を持たない高校生や中学生が、他国の子供たちと全寮制という形で同じ時間を共有していく意味は非常に大きいと言えるだろう。
こうした考えを基に学校作りを進める谷家や小林らは、自らが理想とする学校でどのような人材を育てようとしているのか。それは、「次世代をリードしていける子供たちの育成」にほかならない。
こう掲げると、日本では「リーダー」=「指導者」としての資質を問うイメージを持たれがちだ。谷家によれば、そこにはもっと深い意味が込められているという。
「『リーダー』というのは、『自分の人生を自分の好きなことや得意なことを活かして思いっきり生きることができる人、そして、それが共感を呼んで新しいモノを作り上げたり社会に良いインパクトを与えたりできる人』という意味で使っています」
「そこにはもちろん、経営者として、あるいは政治家として、『何人もの人を動かす』というタイプの人もいます。しかし、それだけではありません。『ナンバーツーやナンバースリーとして、トップを支える』ことが一番得意で好きであるのならば、それを思いっきりやればいい。それができるように、自分の得意なもの、好きなものに気づいて、リーダーシップを学んでいけるような場を作っていきたいと思います」
学校作りを決心させた1枚の写真!
全寮制インターナショナルスクールについて、「一生やっていきたいプロジェクトです」と話す谷家は、1つの夢を頭に思い浮かべている。それは谷家が学校設立の構想を描きながらも、まだ小林と出会う前、スイスの学校に日本の生徒を送り出しているという人物に見せてもらったある写真が元になっている。
スイスに「TASIS(THE AMERICAN SCHOOL IN SWITZERLAND)」という、小学生から高校生までを世界各国から迎え入れている有名な名門寄宿学校がある。創立は1995年。夫のスイス転勤に伴ってやってきた1人の女性によって、この学校は作られた。当初は、なかなか資金が集まらず、苦労を強いられたという。
その創設者の90歳を祝う誕生日パーティーが開かれ、その時に撮られたという写真を見せてもらったのだが、それが今も谷家の脳裏に焼き付いているのだ。在学中の若い生徒たちが整列し、その周りをたくさんの卒業生たちや教師たちが取り囲んでいる。1人の女性の教育に対する思いが、たくさんの人々に受け継がれて世に送り出されていくことを象徴するような情景だった。
「卒業生や在校生、学校に関わってきた教師たちや設立メンバー・・・。その一人ひとりが自分の人生を目一杯生きているという充実感に満ちた笑顔でした。数十年後に我々の学校でも記念写真を撮ることができればいいなと思います」
投資の世界で生きてきた谷家の、一大決意。学校運営に関しては素人同然かもしれないが、投資をする中で常に社会を分析し、様々な事業をこれまでも見てきたし、これからも見ていくことになる。投資の世界で感じてきたことは、教育のミッションを構築していくうえで大いに活かすことができるはずだ。
それはむしろ、保守的なあり方に凝り固まりがちな教育の世界にメスを入れることにもつながっていくだろう。谷家と小林、その仲間によるプロジェクトは、まだまだ始まったばかりである。
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