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第3回 メキシコフィリピンで痛感した教育の重要性!


2010年11月22日(月)日経ビジネス 小林 りん、中西 未紀

 日本で初めての全寮制インターナショナルスクールを作ろうと、今日も仲間とともに奔走している小林りん。彼女が日本の学校教育に違和感を覚えたのは、自身が高校生の時だった。

「高校1年生の夏休みを迎える頃でした。私は、これから始まろうとしている高校の3年間に期待で胸をふくらませていたんです。でも、初めて行われた三者面談で、いきなり大学受験の話をされて・・・」

 小林は、ある国立中学校に入学し、そのまま高校へ進学している。「自由な校風で、とてもいい学校だった。その頃の友人は今でもとても仲がいい」と小林は言う。ただ、偏差値の高い学校だけあり、「毎年、何人が東京大学に入学するか」が注目されるといった風潮もあった。

 「小林さんは、もう少し化学を頑張らないと、東大は難しいね」。三者面談で教師が発した言葉に、小林はショックを受けた。化学が苦手なことは分かっていたことだ。しかし、これから充実した高校生活を送って自分を成長させようという時、“大学受験という尺度”だけで評価されたことに、言いようのない違和感を覚えた。

 「もっと私の思考力やコミュニケーション力、得意科目に着目して伸ばしてほしい」。高校生の小林は、自分が本当に成長できる場所がほかにあるのではないかと思い始める――。


運や能力は、自分のためだけにあるのではない!

「海外という選択肢もあるんじゃないか?」

 こんな目からうろこの言葉を投げかけてくれたのは、小林の父親だった。実は学生時代、留学を志したものの、両親に大反対されて叶わなかったという経験の持ち主だ。自身のそんな思いも重なったのだろう、もし小林にその意思があるなら「応援する」と父親は言った。

 「なるほど、その手があったか」と、小林は素直に父親の提案を受け入れ、すぐに英語教師のもとへ走った。「留学したいんです!」と言う小林に、教師は「留学生の募集は、既に全部、締め切られたよ」と一言。多くの学校の留学生募集は、高校1年生の夏で終わっていたのである。

 がっかりする小林だったが、「ああ、そういえば1校だけ、今から試験が受けられるところが残っていたな・・・」と、教師は募集のチラシを持ってきた。

 ユナイテッド・ワールド・カレッジ(UWC)。イギリスイタリアアメリカ、カナダ、南アフリカ、ベネズエラ、インド、香港、ノルウェーの世界9カ国に学校を持つ、全寮制インターナショナルスクールの募集だった。

 それぞれの学校で、世界60~70カ国から集まる約200人の学生たちは、2年間ともに寮生活を送る。教育カリキュラムは、世界的に通用する国際バカロレアに基づくものだ。学問に励みながら、その共同生活で国際感覚が磨かれていく。

 もちろん、小林はこの話に飛びついた。そして、見事に合格。通っていた日本の高校を中退し、UWCのカナダ校へ行くことが決まった。この学校で小林は、現在にも続く思いの基礎を築くこととなる。

UWCで学んだことで、やはり一番大きかったのは「多様性(ダイバーシティ)」の部分である。世界各国から選ばれて集まった生徒たちは、それぞれにいろいろなバックグラウンドを持っていた。

 小林が特に懇意にしていた友人の1人に、メキシコから来ている女性がいた。小林は英語に加えてスペイン語も勉強していたため、スペイン語の習得にメキシコへ1カ月ほど行くことにしたところ、「それなら実家に泊ればいいよ」と彼女が薦めてくれた。

 「気軽に泊めてくれるくらいだから、もしかしたらゲストルームもあるようなすごい豪邸なのかもしれない・・・」。そんな淡い期待を抱きながら行ったメキシコで、小林は愕然とする。

 ちょっとした会議室ほどの広さの平屋に、8人家族が住んでいたのだった。彼女以外は男ばかりという兄弟だったが、彼らは全員中学校を卒業してすぐに自動車の整備工などの仕事をやって生計を立てていた。その兄弟たちも話してみると、彼女と同じくらい頭の回転が速いことが分かったが、奨学金を得て留学していたのは彼女だけだったのである。

 自分は勉強がしたいと言えば、学校へ行かせてもらえる。小林は生まれて初めて「当たり前だと思っていたことが当たり前じゃない」現実を知った。小林はこう当時を振り返る。

 「貧富の差とか、不平等というものが、世の中には本当にあるんだというのを初めて実感しました。自分はすごく幸せなんだな、と。だからその時は漠然と、そんなにラッキーなんだから、その分“社会に恩返しする義務”が、自分にはあるような気がしたんです」

 特に、奨学金をもらって留学していたことで、小林の思いは強くなっていった。「こういう『運』とか『縁』とか『能力』といったものは、自分のためだけにあるのではなく、何かもっと大きなもののために使うべく“授かったもの”なんじゃないだろうか」。そう思い始めたのが、この頃だったという。これは今現在も、小林の思想の根幹をなすものと言える。

 

教育の必要性を理解できない大人たちがいる! 

それから小林はメキシコに恋をし、5回に渡って足を運んだ。その間、衝撃を受けたことはたくさんある。友人の家の板の間で、まさしく煎餅のような薄い布団で最初に寝た時は、背中が痛くてたまらなかった。

 ところが彼女は、「うちなんて、メキシコでは中間層だよ。家もあるし、みんな職に就いているし」と言う。「そういう次元の話なの?」と小林が驚くと、「じゃあ、本当の貧困を見せてあげる」と、メキシコのスラム街へ連れて行ってくれた。


 ちょうど、大統領選挙が行われていた時期だった。見ると、当時の最大政党が、政党名の横断幕を掲げながら、スラムの人々の髪を切っている。

 「何をしているの? 慈善事業?」と聞くと、一緒に来てくれた彼女の親戚が信じられないことを言った。「メキシコではお金がなくても買収ができてしまうんだよ。ああやって政党名を掲げてアピールしながら髪を切ってあげれば、スラムの人々は彼らに投票してくれるんだよ」。 

 それが果たして本当のことだったのか、今となっては分からない。ただ、スラムの人々が非常に限られた情報を基に判断をして投票をしていることは事実だった。「情報を理解できないということ、自分たちが置かれている状況を理解する術を知らないということは、なんと不幸で、理不尽なことなのか」。高校生の小林には、目を疑うようなことばかりだった。

 小林は言う。「私は、人生は『選択』だと思っています。どこの政党に投票するのも自由ですが、なぜ自分の国がこういう状況にあるのか、なぜ自分はここにいるのかを知ることは、それを選ぶうえで最低限必要なことですよね。自分で投票をするために、少なくとも新聞を読めたり、テレビのニュースを理解できたりしなければ」。

 機会に対する不平等について、小林はこの頃から考え始めていた。このようにUWCでの出会いや友人を介して得た経験は、小林の「全寮制インターナショナルスクールを作ろう」という決意に大きく影響している。

しかし、UWCではない新しい学校を作ることに関して、小林は「世界に通用する国際バカロレアプログラムを核にしつつ、これからの世代を生きるために必要なスキルを身につけられるような独自のカリキュラムを世界のトップレベルの教師陣とともに開発していきたいと考えています。特にこれから活躍していく若者たちに大切だと思われる、クリエイティビティ、多様な表現力、学問の分野を越えて思考する力などです」と言う。

 またUWCは高校最後の2年間のプログラムであったため、バカロレアのためにひたすら勉強するだけで過ぎてしまい、「せっかくのダイバーシティを享受する時間が足りなかった」と非常に残念がる。そこで、より長い時間をかけ、学年やクラスを少人数制にすることにより、生徒一人ひとりの強みや興味を一緒に探せる学校を目指す。「選択する授業や進路も含めて、学校と先生と生徒が一体となって一緒に歩んでいける学校にしたいと思います」(小林)。

 UWC卒業後、日本に帰国し、東大経済学部に進学した小林は、開発経済学を専攻した。ゼミでは、フィリピンのスラム街の実地調査なども行っている中西徹助教授(当時)の下で学んだ。「中西先生は、『東大経済学部を出てそのまま役人になるだけではなく、援助政策をやるんだったら、まずは必ず現場を見なければいけない』といつも言っていました。ゼミ生全員にフィリピンのスラムにホームステイさせるんですよ。私も大学3年生の時に行きました」。

 一家に1人ずつのホームステイ。小林が滞在した家の子供たちは、二言目には「勉強したい」と言っていたのが印象的だった。彼らは勉強をして、成功したいと夢見ていた。しかしこのスラムで、多くの子供が学校に行っていない。フィリピンでは小学校と中学校は授業料が無料だが、大人が学校へ行かせないのだ。

 一家の労働力として、だけではない。親も学校へ行っていないために、教育によって何が変わるのか、分かっていないことも原因だった。小林は言う。

 「『自分たちが行ったところで意味がない』と思い込んでいました。それに、授業料が無料と言っても、制服代や教材費はかかります。スラムではいつも裸足やビーチサンダルで、普通の靴を持っていないから、それが恥ずかしくて行けないという子もすごく多いんですよ」

 やはり、必要なのは「教育」だ。小林は中西ゼミで学ぶうちに、その思いをさらに強めていった。

 希望を失ってしまった大人たちの中で、一度その貧困の輪のトラップに入ってしまったら、そこから抜け出すことは非常に難しくなる。だからその手前でなんとかチャンスをものにし、自分の知識を深めて違う人生を歩む、その「機会の平等」だけはなければならない。

 それは、全員が同等でなければならないということではない。「やる気があって、才能がある人が上に行ける、せめてそういうチャンスがあること、機会が平等に与えられていることが重要だと私は思う」(小林)。

 そういう意味で、自分が生まれ育った日本は恵まれている。だからこそ小林は、現地の人間ではなくても間接的にでもそこに貢献できないかと思い始めるのだった。


自分の名前で仕事をするということ!

 そのまま国際援助機関の道へまっしぐら――かと思いきや、小林は意外な進路をたどる。

 就職活動を始めた当初は、日本の援助機関を視野に入れ、OBやOGを訪問した小林だったが、仲の良い先輩たちは口々に「お前は辞めたほうがいい」と言ったという。

 「確かに、『石の上にも3年、というか10年、みたいな組織だけど大丈夫?』と言われた時には、『3年も座っていられないと思います・・・』なんて話になりました」と小林は笑う。そんなことを言っている間に、外資系の金融関係やコンサルティング関連の会社などを訪問すると、そちらは逆に若い頃からどんどん責任ある仕事を担当して実に楽しそうに仕事をしている。その働き方は、小林にとって非常に魅力的だった。

 「自分がやりたいこと」と、「自分がしたい働き方」が、当時の小林には両立できないように思えた。迷いに迷って出した結論は、「若いうちは社会の中で働き、学ぶだけ学んで、自分の“労働力としての価値”を磨こう」というものだった。

 こうして小林は、外資系投資銀行へ入社する。不動産ファンドや新規株式公開の実務といった業務を担当、基本的な仕事の進め方やビジネスの考え方を学ぶ。その後、縁あってインターネット関連のベンチャー企業に移った。

「生まれて初めて、自分の学歴とか会社の名前といったバックグラウンドを背負わずに、『渡辺(旧姓)りん』を評価してもらうことのたいへんさを思い知りました。逆に言えば、そういった肩書なしで私を評価してくれた方にもたくさん出会うことができた貴重な時期です」
 
 駆け出しのベンチャー企業では、会社名を言っても効力を発揮しない。「渡辺りん」という人間で勝負するしかなかった。

 「何それ会社の誰々、ではなく、私個人を買って『こいつを応援してやろう』『こいつにかけよう』と思ってくださった方に、本当に恵まれました。だから私自身も、『これから出会う人は、名刺に何が書いてあるということではなく、その人自身をちゃんと見るようにしよう』と思うようになったんです」

 また、ベンチャー企業ならではの「気づき」も多かったという。「物事には必ずアップダウンがあるということも、身をもって経験しました。ある意味、いい時はみんな“いい人”なんです。でもそのダウンの時に、どれだけ前向きでいられるか。それが肝だなと思いました。ダメな時も、誰かのせいにしたり、卑屈になったりせずに、自分たちがやっていることを常に信じて前に向かっていく姿勢を学びました」。

 そんな小林は「当時はやっていることがあまりに楽しくて、そのままビジネス界にいてもいいような気になっていた」という。それがカナダで開かれたUWCの同窓会への出席をきっかけに、「未来を担う子供たちに教育の機会を作る」という初心を思い出した。

 さらに、小林の背中を後押しする出来事が起きた。カナダから帰国後、日本で大学時代の先輩の結婚式に出席した時のことである。たまたま隣の席に座ったのが、当時のJBIC(国際協力銀行、現在はJAICA=国際協力機構)に勤めていた中西ゼミの先輩だった。

 その席で小林は先輩から「私、今度JBICを辞めるから、欠員を募集しているんだけど、来ない?」と話を持ちかけられる。しかも、かつて小林もホームステイして馴染みがあったフィリピンの担当官だという。小林はすぐに決断した。


スタンフォード大学で国際教育政策を学ぶ!

 JBICに採用された小林は、フィリピンに飛んだ。小林自身にはやはり教育分野への思いがあったが、配属されたのは電力や鉄道関係を担う大型インフラを扱う部署だった。「JBICでは、世界銀行やアジア開発銀行などの方々と政策会議をするわけです。ディスカッションのたびに『自分はもっと勉強しなくちゃいけないな』と本当に思いました」と小林は振り返る。

 彼らと会うまでは、「学歴主義の世界」といった風評や「Ph.D.(博士号)を取らなければダメだ」といった話も、あまり本気にしていなかった。しかし、実際に会議を重ねるうちに、そのレベルの高さに脱帽せざるを得なかったという。

 専門知識の必要性を切に感じた小林は、「もう一度勉強しよう」と決意。2004~2005年にかけて、米スタンフォード大学大学院に入り、国際教育政策学を学んだ。卒論のテーマは、世界銀行やJBICが手掛けているプロジェクトが教育の現場にどのような成果をもたらしているかを統計で定量的に検証し、さらに現場での定性的分析によって数字の裏にある背景を解き明かすというものだった。

 教育のプロジェクトというものは成果が見えにくく、性質や特徴で判断する定性的な分析はできても、なかなか定量化(数値化)できないものなのだという。

 「例えば教育の援助と言っても、先生をトレーニングするとか、子供たちに1人1冊教科書を提供するとか、校舎の改修とか、いろいろなことを一度にやるんです。そうすると、それで生徒のテストの平均点数が何%上がりましたと言っても、どれが良かったのか、分かりませんよね。でもそれを重回帰分析の手法で、何万個というデータを処理していくんです。統計なんて、30歳手前になってまたやることになるなんて、思いもよりませんでしたよ(笑)」

 同じアメリカでも、東海岸の大学では政府系の組織やリサーチ研究所に行く学生が多かったが、西海岸にあるスタンフォード大学にはベンチャーの気質があった。周りでは自分でNPO(非営利組織)を立ち上げる者もあり、ベンチャー企業で働いていた経験のある小林には性に合っていたようだ。社会起業家と出会う機会も多く、学ぶことは多かった。

 「やっぱりベンチャーの働き方のほうが、自分の特性を生かせる」と再認識しながら、同時にそれは「今ではない」と小林は感じていた。その頃から既に「教育」に携わりたいという思いはあったが、具体的に明確な目標がまだ見えていなかったのである。

 そして2006年、小林は国際連合児童基金(ユニセフ)に入った。あすかアセットマネジメント(東京都千代田区)代表の谷家衛に出会っていよいよ自分たちで新しい教育プロジェクトを立ち上げる、およそ3年前のことである。

 次回は、小林とともに、新しい学校作りのプロジェクトを発足させた谷家にスポットを当てる。ながらく投資の世界で生きてきた谷家は、小林の何に共感し、プロジェクトを実行することになったのか――。

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