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軽井沢インターナショナルスクール設立準備財団
http://isak.jp/isak/top/

2010年11月15日(月)日経ビジネス 小林 りん、中西 未紀

第2回 理想の関係は生徒と学校が「相思相愛」

「これだけ『アジアの時代』などと言われているのに、今の日本の教育にはとかく欧米志向になりがちなところがありますよね」

 なぜ今、日本で全寮制のインターナショナルスクールを作ろうとしているのか――。その思いを問うと、小林りん氏はこの学校が持つべき“日本らしさ”“アジアらしさ”へのこだわりを語り始めた。

「私自身、カナダの高校やアメリカの大学院を出ていて、そこで学んだことは非常に大きいのですが、実際にアジアで次世代を担うリーダーとなる人材を育てようという時、少数の強いリーダーが全体を引っ張っていくような米国型のリーダーシップのモデル以外にも、日本らしさやアジアらしさを生かした多様なリーダーシップのモデルがもっと意識されてもいいと思うのです」

 そこには、「欧米主導の資本主義社会の限界が囁かれる中、和を重んじ、共存共栄の精神が強いアジア的な価値観は、これから世界でも必要とされていくものになるのではないか」という思惑もあるようだ。

 もともと「日本で初めての全寮制インターナショナルスクールを作る」という発想が生まれたきっかけは、そもそも学校作りの構想を小林に呼びかけ、共に学校設立に尽力しているあすかアセットマネジメント(東京都千代田区)代表の谷家衛との出会いにまでさかのぼる。小林と谷家は互いにどのような思いを持ち、志を一緒にすることになったのだろうか――。 


フィリピンで痛感した疑問と限界!

 2007年、小林は国連児童基金の職員として、フィリピンで忙しい毎日を送っていた。

 フィリピンには、親のいない、住民登録もされていないようなストリートチルドレンが10万人近くいると言われている。ともすれば、それが犯罪の温床となり、売春や臓器売買といったことまで起こってくる。そんな彼ら彼女らの最低限の人権を守るうえで、「教育」の意味は大きい。

 「子供たちが文字の読み書きができるようになること、できれば学校に行き始めることは、そんな負のスパイラルから抜け出して自分の人生を切り拓いていくために、非常に大事なことです。ユニセフ(国連児童基金)では、年間8000人から1万人のストリートチルドレンたちに教育の支援をしていました。ただ・・・」

 小林は仕事にやりがいを感じる一方で、その前に立ちはだかるあまりに大きな格差に、むなしい気持ちも抱えていた。

 「我々の活動はそれぞれの子供たちを確実に変えていきましたが、そんな子供たちを生み出している国全体の体制を変えるほどのインパクトがあるかというと、必ずしも十分ではありませんでした」

 もし彼ら彼女らが高校や大学へ行ったとしても、高失業率のフィリピンでは職が見つかるかどうかも危うく、結局は貧富の差が解消されないという現実があった。国内でも頑張れば何とかなる――。そんな希望さえ失っていたことは、優秀な人材ほどどんどん海外へ出ていくことからも明らかだった。

 フィリピンは、GDP国内総生産)における海外からの仕送りの割合が13%にも上る国だという。国内にチャンスがないから、それを海外に求めるしかないのだ。

 小林が勤めていたユニセフのオフィスにも、毎年2~3人のフィリピン人の職員から「ビザが下りました!」との報告があった。そして、皆に祝福されて、海外へ出て行く。「私は、あなたの国が大好きで少しでも役に立ちたくて頑張っているのに・・・」。心のどこかで、小林はそう思わざるを得なかった。1999年に結婚した小林は、夫を日本に残しての赴任だった。

「草の根的な活動だけではなく、この国を根本から変え、人々の希望を取り戻してくれるような指導層が生まれなければ、この国は抜本的に変わらないのではないか」。小林はいつしかそんな疑問と限界を抱き始める。


発想が柔軟で挑戦する人材を育てよう!

 小林が谷家に出会ったのは、そんな頃だった。

 「うちの会社の立ち上げのきっかけになった、志のある若者や事業を支援する人がいるんだけど、会ってみない?」

 旧来の友人である岩瀬大輔が、小林に声をかけた。岩瀬は、戦後74年ぶりに誕生した独立系生命保険会社であるライフネット生命保険株式会社(東京都千代田区)を社長の出口治明とともに立ち上げ、現在は副社長を務めている人物である。この想いを持った人物が谷家だった。

 この話を聞いた小林は、日本に帰国した際に谷家に会って相談してみようと思った。現在の仕事について谷家に聞かれた小林は、フィリピンでの活動やそこに対する思い、抱いている疑問や限界について語る。すると谷家は、こう言った。

 「実は、5年前から学校を作る構想を持っている。一緒にやらないか」

 谷家は「アジアのハングリーで才能のある子供たちを迎える日本で初めての全寮制インターナショナルスクール」を設立したいのだという。自身は灘高校から東京大学と傍目には堂々たるエリートコースを突き進んできたように見える谷家だが、「与えられた問題に対する正解を見つける時代は既に終わった。これからの時代は、確かな価値観と共に、課題を自ら見つけ自分なりの解決策を考える力やその考えを周りに協力してもらうコミュニケーション力が必要。理系や文系、芸術系などの分野の垣根を乗り越え、柔軟に考えられる、チャレンジ精神を持った人材の育成が世界に、特にこれからのアジアにとって必要だ」と語った。

 谷家は自身の子供2人をインターナショナルスクールに通わせている。それは世界共通言語である英語力を養うという点で良かったが、一方で懸念もあった。学校の生徒の大多数は、日本にいる一部の富裕層の子供ばかりが通っているのだ。

 谷野のグローバルな投資活動や新規事業の支援活動を通して得られた結論、「どんな事業も誰がやるかに尽きる。ハングリー精神を持って、自らの才能を存分に出し切ること」こそが大切だ。日本の子供たちにとって、そういうハングリー精神と才能を持ったアジアの子供たちとともにグローバルな教育をしていくことにこそ、意味があるのではないか――。だが、日本にそんな学校はない。そうであれば、さらに、日本だからこそ意味のある学校を作ってしまおうというのである。

 とはいえ、谷家は自分で会社を経営している立場にある。「人生をかけて学校作りを手掛けてくれるパートナーがいれば・・・」。そう考えていたところで、まさにうってつけの人材に出会った。それが小林というわけだ。

 谷家の想いに強く共感した小林だが、1つの条件を提示した。「絶対に、奨学金は出したい。アジアの国から子供たちが来るのはいいことだが、日本の学生にも奨学金を設けて国籍だけでなくバックグラウンドも多様な生徒たちに集まってもらうことで、本当の意味での多様性を実現したい」。これに、谷家も異存はなかった。

 それから約1年、小林は国連児童基金を辞めるまでの間、ほぼ1カ月ごとに帰国し、夫に会い、谷家とミーティングをしてフィリピンに戻るという日々を送る。最終的には「これから一生かけてやっていく仲間だから」と、小林と谷家は家族ぐるみの付き合いになった。

 

誰も知らない「学校の作り方」!

 2008年9月、小林は国連児童基金を正式に辞めて帰国した。学校立ち上げプロジェクトがいよいよ始動する。

 とはいえ、いきなり“暗礁”に乗り上げる。それはそうだ。今まで学校経営に携わったことがない小林は、そもそもである「学校はどのように作ればいいのか?」という基本事項が分からなかった。誰かに相談しようにも、学校を作った人間など周りにはいない。

 ところが探してみると、間もなく新たにスタートする学校があることが分かった。千葉県で構造改革特区の認定を受けて、2009年4月に開校した幕張インターナショナルスクールだ。そこで2009年の年明け、まさにその開校に向けて最終段階に入っていた千葉県庁の担当者まで、小林は話を聞きに行く。

 相談を受けた県庁の人間にとっても、前例の少ないことだったのだろう。「担当者の方が、あらゆる法律をひもときながら、本当に親身にいろいろ教えてくださいました」(小林)。

開校までの流れは、ざっと次のような感じだ。まず「財団法人」を作り、ある程度の支持者を集めて学校設立のメドをつける。そして、国から寄付金の税制控除の認可を受ける。それから寄付金を募って学校を設置するための許可を県庁からとりつける。これで、ようやく「学校法人」になることができるのだ。

 幕張インターナショナルスクールは幼稚園と小学校なので、中学校や高校ならどうなるかについては、学校そのものの認可を担当する県庁に何度も教えを乞うた。カリキュラムについては文部科学省と折衝し、寄付金の税制控除については内閣府と協議を続ける日々が今も続いている。

 「一般財団法人軽井沢インターナショナルスクール設立準備財団」の設立に際しては、谷家と小林が今まで培ってきた人脈によって、半年ほどで志を共にするコアメンバーが集まった。加えてアドバイザリーボードには出井伸之(クオンタムリープ代表、元ソニー会長)や北城恪太郎(日本IBM最高顧問、経済同友会終身幹事)をはじとした力強い賛同者が揃った。

 財団さえ決まれば、あとはひたすら資金集めである。少なくとも学校を建設して数年間運営できる見込みが立つだけの資金が集まらなければ、国から寄付金などの税控除を認めてはもらえない。しかし、税控除が認められなければ、大口の寄付は望めない。まさに「鶏と卵」で、両方のプロセスをほぼ同時に進めていかなくてはならないのである。

 2009年の5月から7月にかけては、志に共感してくれそうなあらゆる人物に会って出資を募る期間に当てた。それはもちろん一筋縄にはいかなかったが、小林らの熱意は多くの人々を巻き込み、新たな共感の輪を広げていった。


理念によってがらりと変わる校風!

 「学校はどのように作ればいいのか?」は分かってきた。ただ、小林と谷家は「学校はどのように運営すればいいのか?」も知らなかった。

 全く経験のない分野に飛び込む無謀な挑戦にも見える。しかし、小林は「いろいろな方に、何から何まで教えていただきました!」と笑い飛ばす。すべてはその志を遂げるため、情熱と努力、行動力でカバーしているようだ。

 学校運営について学ぶため、アメリカの全寮制高校の視察に訪れた。2009年8月にハワイの2校、9~10月にアメリカ西海岸の1校と東海岸の4校を、小林は学校立ち上げに力を貸すコアメンバーたちと一緒に回った。いずれも、いわゆる名門と言われるトップスクールだ。この背景には、小林たちの取り組みを知って、無償での協力を惜しまない人々の存在があるのは言うまでもない。東京に住む各トップスクールの卒業生たちが次々と母校を紹介してくれた。

 学校を巡って小林が一番に感じたのは、「学校によって校風、雰囲気が大きく異なる」ことだったという。各学校にはそれぞれの理念や価値観があり、それが校内で醸し出される雰囲気にも色濃く反映されていたのだ。ある学校に行けば、誰もがフレンドリーに「ハ~イ!」と声をかけてくる。また別の学校へ行くと、制服をビシッと着た生徒たちが静かな校内をカツカツと歩く厳格な空気が漂っている。

 生徒数も、1000人規模の大きな学校から、300人ほどの小さな学校まで様々だった。歴代の大統領も通ったという超一流校では、寄付による潤沢な資金によって、設備も驚くほど充実していた。アイスホッケーリンクやジムが2つずつ、カフェテリアやシアターまである、まるで大学のような学校もあった。

 アメリカの実情を知って、小林が出した答えは、「学校に唯一絶対の正解はない」ということだった。

 「まずは私たちが本当に実現したいこと、感じてほしいことを実直にやっていくことが一番大事だということが分かりました。その理念に共感してくれた人が集まってきてくれて、学校で培った価値観の遺伝子を継いだ子供たちが巣立っていく。それが高い価値観を持ったコミュニティの醸成につながっていくんじゃないかと思います」


生徒と同じ寮で生活する教師たち!

 入学する生徒と学校は「相思相愛」であるべきだ、と小林は考える。親が「入学させたい」ではなく、子供が自分で「この学校に入りたい」と思わなければ、いい結果は生まれにくい。訪問したアメリカの学校の教師たちも、皆同じことを言っていた。

 「親元を離れての生活で、周りには個性ある多様な生徒たち。プレッシャーもあるはずです。様々な困難が出てくるでしょうが、そこに自らチャレンジして、乗り越えていかなければならない。その時に、『自分で選んで、ここにいるんだ』という自覚が必要なのです」(小林)

また、「教師たちにも自覚が必要だ」という意見も、各学校で聞かされたことだった。

 日本の学校では、一般的に教師と理事、事務員とでははっきりと境界線がある。しかし訪問した学校は、違っていた。例えば教師の給料を決めるような仕事も、現場を知る教師たちによって交代で行われる。「教師たちには、自分が学校を運営しているんだというオーナーシップが必要である。教師たち自身が学校の主体を作っていることを自覚しなければならない」というのが、これらの学校の考え方だった。

 これは、確かに日本の学校からすると特異かもしれないが、一企業として考えれば、決して不思議ではない。小林はすぐに納得がいった。「どんな仕事をしている人にとっても、その学校の全体像が見えていることで、仕事へのやりがいは変わってくる。教師のモチベーションを上げるためにも、教師の視点を取り込んだ運営をしていくためにも、その意味は大きいだろう」。

 そしてアメリカの場合、全寮制の学校では、教師は部活動に携わるのはもちろんのこと、生徒と一緒に寮生活をするのだという。教師たちには負担がかかるが、学問を教えるだけではなく、クラス外でも子供たちの様子を見て、そのパーソナリティを踏まえて個人の能力を引き出していくという考え方が根底にある。同時に、起床や消灯といった寮の管理人としての役割を担うことも多い。

 「ティーチング(授業)・コーチング(課外活動の指導)・ボーディング(寄宿生活)」の3つを担うのが、教師の基本となっているというわけだ。

 学校の肝となるのは、やはり「教師」だ。アメリカではそんな優秀な教師をヘッドハンティングするエージェンシーまであり、それを学校側が利用するのが一般的だという。教師たちは皆そのエージェンシーに登録しており、10年単位、20年単位で学校を変わっていくのである。

 日本でそのやり方を取り入れるかどうかは別として、そのような全く違うスタイルがあることを知ったのは、小林にとって大きな学びだった。

 各学校への訪問には、思わぬおまけまでついてきた。今年夏のサマースクールに、小林が素晴らしいと感じた教師たちが参加してくれたのである。この業界ではまだなんの実績も積んでいなかったが、小林と仲間たちの志と熱意が通じた形だ。


日本が活力を失ってしまう前に!

 小林だけでなく、理事や評議員として、またアドバイザリーボードとして、学校設立に尽力している面々にも共通した思いがある。それは、「今後の日本に対する不安」から来ていた。「世界を見た時、日本人は国際社会を俯瞰し、時代の新しい価値を創造する人材にならなければダメだと痛感します。もはや経済大国ではなくなりつつあり、しかも人口も減少していく日本は、今後どう生き、どう進むべきなのか・・・」(小林)。

 小林らは、学校設立を通じ、「アジアの子供たちに日本で良質の教育を受けてもらうことで日本のファンになってもらい、将来アジアと日本と世界を結ぶ輪を広げていってもらう」というビジョンを実現したいと考えている。

 「スイスがそうですよね。経済大国でもない小さな国で、しかも英語圏でもないのに、スイスには学校がたくさんあります。しかもそこへ、世界中から人が来る。それに伴って人もお金も入ってくるわけですね。それは、スイスに『治安』と『環境』と『いい教育』があるからです」

 日本にも、「治安」と「環境」は整っている。あとは「良い教育」だけである。これから小林らが設立する学校では、授業のカリキュラムに世界138カ国で認定されている国際バカロレアを採用する予定だ。

 「日本は人口がどんどん減っているわけですから、広く世界から人を受け入れる国になっていかなければ。その中で、教育の門戸を開いていくことには大きな意味があります。我々の学校が、その布石となれれば。ほんの小さな第一歩ですが・・・」

 次回はそんな小林の原体験に迫る。高校を中退してカナダへ留学、実際に全寮制インターナショナルスクールで過ごした日々には、今の理念に通じるものがあったのだろうか――。

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