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竹原信一
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%8E%9F%E4%BF%A1%E4%B8%80
◇住民至上主義!
http://www5.diary.ne.jp/user/521727/
◇阿久根市の税収20億円に対し、市の職員・議員の人件費27億円」など、人件費カットの必要性を指摘(2分10秒ごろ)。TBSテレビ「NEWS23 X(クロス)」(2010年12月6日)
http://www.tbs.co.jp/news23x/feature/movie/bn201012060000.html
◇近代天皇制は海賊某の孫大室寅之祐を明治天皇にすり替えた長州の大陰謀で成立した(1)
http://tatsmaki.at.webry.info/200511/article_5.html
http://tatsmaki.at.webry.info/200511/article_4.html
大室寅之祐
http://ja.yourpedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%A4%E5%AF%85%E4%B9%8B%E7%A5%90
◇「竹原・前市長「頭の中リセットしなければ」
読売新聞 1月17日(月)
鹿児島県阿久根市の出直し市長選で落選した竹原信一前市長(51)は一夜明けた17日午前9時過ぎ、市内の事務所に姿を見せた。
吹っ切れたような表情で「頭の中をリセットしなければならない」などと語り、陣営スタッフらと後片づけをしていた。
竹原氏派で市議会リコール実行委員長の石沢正彰議員は「西平市長の公約が果たされるか、反体制側の議員として監視したい」。2月20日投開票の議会解散の賛否を問う住民投票に向け、「我々が始めたリコールであり、議会を変える責任がある」と語った。
竹原氏の専決処分で副市長に選任された仙波敏郎氏(61)は市役所で報道陣に「竹原さんと昨晩遅くまで話したが、(竹原氏の)行政改革への思いは消えていない。いろんなことにチャレンジしていくだろう」と竹原氏が政治活動を続けるとの見通しを示した。
同市高松町、パート女性(58)は「竹原さんに続けてもらいたかった。せっかく市民が改革に目覚めたのに元に戻ってしまう。また職員の給料が上がるのではないか」と心配した。
◇阿久根 出直し市長選に前市長ら2人出馬 “竹原行革”再度問う!
産経新聞 1月9日(日)
前市長へのリコール(解職請求)成立に伴う鹿児島県阿久根市の出直し市長選が9日告示され、新人で市民団体「阿久根市長リコール委員会」の役員を務めた養鶏業、西平良将氏(37)と、3選を目指す前市長の竹原信一氏(51)がいずれも無所属での立候補を届け出た。投開票は16日。
昨年12月の市長リコール住民投票と同じ構図で、議会を開かず専決処分を乱発するなどした竹原氏の行革手法への賛否が改めて問われる。住民投票が約400票の僅差だっただけに激戦が予想される。
西平氏は「12月の市長解職成立で民意が形になった」と第一声。「大事なのは対立ではなく対話だ」と、市議会との対決姿勢を崩さなかった竹原氏との違いを強調し、「いろんな人たちの声を聞くことが上に立つ者の資質。私はこの1年間、多くの方の意見を聞きいろんなことを学んだ」とアピールした。
竹原氏は出陣式で「どれだけ給料をもらっているかを公務員が隠し、政治家は公務員団体と裏で手を握っている」と職員労働組合、市議会への批判を展開。さらに「社会全体のために投票してほしい。市民が全体のことを考え、次の世代のために我慢しようという気持ちになれば、すばらしい阿久根市、国になる」と訴えた。
竹原氏は平成21年4月、不信任決議によって市長を失職したが、翌5月の出直し市長選で再選された。しかし西平氏ら市長リコール委員会が、署名活動を経て昨年10月に解職を本請求。12月5日の住民投票では解職賛成票が有効投票総数の過半数を占め、竹原氏は市長を失職した。
阿久根市では、反竹原氏派が多数を占める市議会解散の直接請求(リコール)を目指し、竹原氏を支持する市民団体も署名活動を展開。市議会解散の是非を問う住民投票が今月31日告示、2月20日投開票の日程で実施されることになっている。
■除名された2人が立候補
出直し市長選に合わせ、9月定例議会で議場を封鎖し、議長を突き飛ばしたなどとして除名処分を受けた竹原氏派市議の失職に伴う市議補選(欠員2)も告示され、除名された元市議2人が立候補を届け出た。
2011/1/17 J-CAST ニュース
与謝野馨氏を経済財政担当大臣にしたのが今回の内閣改造の目玉だという。与謝野氏は先の衆院選東京1区で民主党の海江田万里氏に負けて、自民党候補として比例復活して議席を得ている。そのまま、新党「たちあがれ日本」に行ったと思ったら、それを踏み台にして、民主党政権の閣僚になってしまった。
これには、「たちあがれ日本」の生みの親である石原慎太郎都知事もあきれて、「君、恥かきたまうことなかれ」と強烈な皮肉をいっている。
与謝野氏は、自民党時代に小泉政権、安倍政権、福田政権、麻生政権と4代に渡って経済財政担当大臣、財務大臣などの重要閣僚を歴任してきた。ところが、与謝野氏が重要閣僚になると、まもなくして政権が崩壊するので、自民党関係者からは墓堀人といわれていた。よくいえば「クローザー」であるが、これまでは問題解決という意味ではなく、本当に幕引きばかりだった。
「与謝野氏の入閣で財政至上主義内閣に」
いうまでもなく、与謝野氏は、コテコテの財政至上主義者だ。財政再建に対する考え方は2通りあって、ひとつは与謝野氏のような財政至上主義で、財政収支均衡を最優先し、その手法は増税というもので財務省の主張そのものだ。もう一つは、経済主義であり、経済を立て直して税増収を上げ、それと同時に、資産売却、霞ヶ関埋蔵金発掘、歳出カットするという手法だ。
与謝野氏が入閣したことで、財政至上主義内閣になった。別の言葉で言えば、消費税増税シフト内閣だ。閣僚人事を見ていて、筆者がツイッターに、「菅総理『増税で景気回復』、枝野官房長官『利上げで景気回復』、与謝野○○『インフレ悪魔、増税財政再建』。これら3本の矢で国民は八つ裂きにされる」と書いたら、リツイートが短時間で100件以上あった。これに、財務官僚OBの藤井裕久・官房副長官が加わる。この方も、「円高のもとで、増税財政再建」論者だ。
円高もデフレも通貨がそれぞれドルや国内のモノに対して少ない現象なので、根は同じだ。これだけの役者がそろうと、デフレ・増税内閣になる。
世論調査では、増税容認が多いらしいが、これまで菅政権で、何度ともなく増税が必要、必要と繰り返してきたので、あきらめの早い日本人は仕方ないかなと思ってしまうだろう。もちろん、これは財務省が周到に仕組んだ増税キャンペーンである。菅総理のみならず伸子夫人も「洗脳」されたようだ。
マスコミも各社の経済部エリートを財研クラブ(財務省の記者クラブ)に配しており、その中はサラリーマン記者が多いので、これまで通り財務省からの増税キャンペーンを垂れ流している。財研クラブにいると、財務省に依存せずに記事を書くことは困難になってくる。多少批判記事を書くと、財研クラブという財務省内に部屋を設けて財務官僚と同じ屋根の下で同じ勤務時間に働き、食堂も共有し、アポなしで取材できるメリットを失ってしまう。だから、財研クラブから財務省と違う情報は出てこない。財政の話はかなり専門的であり、数字の話で間違うと財務省からクレームが付くので、記者は財務省に確認してからでないと記事が書けないのが実情だ。
予算案を通すところまでいくかどうか?
その典型例が、霞ヶ関埋蔵金だ。毎年結局は出てくるのに、いつも当初は「ない」という報道ばかりだ。予算編成の年末になると、それまでの報道とは一転して出てくる。昨10年末にも鉄道建設関連の埋蔵金が出てきた。これで5年連続累計40兆円以上だ。ところが、新しい年になると、また「ない」と報道される。
いずれにしても、菅の増税、枝野の利上げ、与謝野・藤井の増税+デフレ強化なんて、ノストラダムスの大予言に出てくる地球滅亡の日、惑星直列になってしまう。社会保障費自然増1兆円というが、その程度なら名目経済成長率を1%上げれば確保できる。こんなことも分からない人たちに国を動かされているなんて、滅多にないくらい悲惨なことだが、あまりに悲惨なだけに長くは続かないだろう。
与謝野氏が1年前に書いた「民主党が日本経済を破壊する」は、この本から、今国会の質問が山のように作れる。それほど攻撃材料があるので、おそらく野党は国会が待ち遠しいだろう。特に、自民党には近親憎悪のような感情が渦巻いており、とても与野党で政策協議なんて雰囲気ではない。
民主党内にも不満は多い。内閣改造したばかりなのに、公然と民主党内からの批判が出ている。これまで民主党を攻撃してきた与謝野氏とすぐ仲良くやれといっても無理な話だ。特に、与謝野氏を入閣させたばかりに、マニフェストの変更まで話が出ている。これは多くの民主党議員にとってやっかいな話だ。仮に変更するとして、マニフェストで政権交代したのだからどんな手続きで変更するのか。その場合、世に信を問うのが常識だ。
これらの情勢では、予算案を通すところまでいくかどうか。自然成立の2月末ごろまでに一波乱ありそうな気配だ。
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++ 高橋洋一プロフィール
高橋洋一(たかはし よういち) 元内閣参事官、現「政策工房」会長
1955年生まれ。80年に大蔵省に入省、2006年からは内閣参事官も務めた。07年、いわゆる「埋蔵金」を指摘し注目された。08年に退官。10年から嘉悦大学教授。著書に「さらば財務省!」、「日本は財政危機ではない!」、「恐慌は日本の大チャンス」(いずれも講談社)など。
ジョン・ミード・ハンツマン(洪博培)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%9E%E3%83%B3_(%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%A2)
丹羽・ハンツマン両大使が語る新春の抱負!
2011年01月17日(月)現代ビジネス 近藤大介
旧正月(今度は2月3日)を「新春」として祝う中国にとって、新年は特別の佳日ではなく、ただ元旦が休日となるだけである。そんな中で、「自宅玄関」に門松と日の丸を立てて正月を祝った粋な日本人が、北京でたった一人だけいた。誰あろう、特命全権大使の丹羽宇一郎氏(71歳)である。
そんな大使公邸で、100人ほどの日本人駐在員らを集めて、新春のランチパーティが催された。昨年は、7月末に着任して早々、尖閣諸島問題が勃発し、ひたすら「守り」に徹した感があった丹羽大使だったが、この日はスピーチ原稿も持たずに、意気軒昂に語った。
「私は今年の元旦、中国全土を踏破して、中国人と草の根交流を行うという計を立てた。調べてみると、中国には、23の省と、5つの自治区、それに4つの直轄地がある。これらをすべて回ろうとすると、1ヵ月に2回、出かけたとしても、一年では回り切れない。一年半くらいはかかる。でも一年半かけてでも、必ず踏破してみせる。そして、地方の人々のナマの声に耳を傾けると同時に、日本の良さを広めていくのだ」
思えば昨年、伊藤忠商事会長から、民間人初の駐中国特命全権大使に「華麗なる転身」を果たした丹羽氏は、着任当時、「二つの抱負」を述べていた。一つは、日中FTA(自由貿易協定)を締結すること、そしてもう一つは、マメに地方行脚をすることである。
だがどちらの希望も、「尖閣台風」によって掻き消され、趣味である朝のジョギングさえ行けない「引きこもり」状態になってしまった。ようやく11月になって北京近郊の天津への視察に出たが、風邪をこじらせた。続く12月の南京視察では、「南京大虐殺73周年のシーズンなのに、なぜ大虐殺記念館に足を運ばないのか!」と、中国メディアに叩かれる始末だった。
丹羽大使は昨年暮れには、大使に就任して初めて、人気ニュース雑誌の『財政』に、『日中関係:われわれは賢者となれるか』と題した論文を寄稿した。書き出しに曰く、
< 私は大使に就任してからお目にかかった、胡錦濤主席、温家宝総理、習近平副主席、王岐山副総理らに、同じ話をした。それは、次のような話だ。「両国は、1000年、2000年の極めて長い付き合いであり、夫婦以上の関係である。だから近すぎて、互いの欠点ばかり目に付くが、10年や20年の短いスパンで、互いの欠点ばかり指摘し合っていてはならない」・・・ >
以下、孔子や周恩来総理の言葉を引用したりして、格調高い中国語の文言が、延々と続く。
精読すると、丹羽大使の説く「夫婦以上の関係論」は、なかなか納得させられる。だが悲しいかな、雑誌のほぼおしまいの204~205ページに「残りその他」のように掲載され、しかもタイトル下にある「日本駐華大使」という肩書きは、わずか「4Q」の文字で印刷されている。これでは、せっかく「特命全権大使」が初めて健筆を振るったというのに、多数の読者の目に留まるはずもない。
そんなこんなで、新春の丹羽大使としては、「今年は飛躍の年にするぞ!」という意気込みがあるのだろう。前述の新春パーティのスピーチでは、「全国行脚への決意」に続いて、次のような「爆弾発言」が飛び出したのだった。
「今年は、SMAPと嵐を、北京のオリンピック・スタジアムに連れてくる。3億円かけて招聘する。日本を代表するこの二つのグループが、北京公演を行えば、中国の日本ファンは一気に増えるに違いない。すでに、劉琪さん(北京市トップの北京市党委書記で丹羽大使と親しい)にSMAPと嵐のDVDを渡して、いま聴いてもらっているところだ」
まさかお堅い特命全権大使の口から、「SMAP」と「嵐」が飛び出すとは予想もしていなかった。私は、咥えていたトロの刺身を、危うく噛まずに呑み込んでしまうところだった。
だが、どこからともなく、「大使、頑張れ!」という声が上がり、丹羽大使は右手を振って声援に応えていた。今年の丹羽大使は、何かやってくれそうな予感が大だ。
ところで、新春早々、北京で丹羽大使以上に目立ちまくっている大使がいる。駐中アメリカ大使のジョン・ハンツマン氏(50歳)だ。
昨年末、クリスマス休暇で帰国したハンツマン大使は、所属する共和党の重鎮たちと会って、ワシントンの政局について、意見交換をしたという。さらに、『ニューズウィーク』誌の新春インタビューに登場し、来年秋の次期大統領選への出馬を仄めかした。これで俄然、沈滞ムードのオバマ大統領に代わって、「時の人」となったのだ。
図らずも、1月9日~12日に、アメリカのゲーツ国防長官が訪中し、ハンツマン大使は、夜風吹きすさぶ空港に出迎えたのを始め、4日間をゲーツ国防長官と共にした。だがある意味で、国防長官以上に、一介の大使の方が目立ってしまう格好となった。11日午後に人民大会堂で会見した胡錦濤主席にしても、ゲーツ長官と握手を交わしながらも、末席のハンツマン大使が気になって仕方ない様子だったという。
実は2009年8月、ハンツマン大使が、ユタ州知事から中国大使に転身した時に、すでに北京の外交筋の間では、こんな噂が飛び交っていた。
「民主党のオバマ大統領が共和党のハンツマン知事を中国大使にしたのは、2012年の大統領選で、ハンツマンが対抗馬として最有力だと判断したからだ。そこで4年間、北京に留め置いて、ハンツマンの次期大統領選出馬の芽を摘もうとしたのだ」
私は、着任した翌9月に、ハンツマン大使をあるパーティで見かけた。在りし日のロバート・レッドフォードを髣髴させるナイスガイ、というのが初印象だった。ハンサムでダンディで、おまけに流暢な中国語を操るのに驚いた。そんなハンツマン新大使と、しばし立ち話をした。
---なぜそんなに流暢な中国語を話すのですか?
「若い時分に台湾で勉強しました。だからここでは私の名前は、ハンツマンでなく、中国名の洪博培です。それに私は、養女も中国人なんです」
---今回、中国へ来て行ったことは?
「まず、自転車を買いました(笑)。北京のラオバイシン(庶民)の生活は、大使公用車の中からでは分かりませんから。それで日曜日には自転車に乗って、フートン(路地裏)を回ることにしたんです。
それから、初の地方視察として、四川省へ行ってきました。四川大地震から1年余りが経ちましたが、災害の復興の度合いを見れば、中国の発展段階が読めると思ったのです」
---いまの米中関係をどう見ていますか?
「これまでの30年間で一区切りだったと見ています。両国は30年間にわたって、大変重要で、かつ大変複雑な関係を築いてきました。これからは、まったく異なる"第2ステージ"に入っていく。海図もない、未知の航海です」
---未知の航海に出て行く「船長」として心がけることは?
「30年間の米中関係を振り返って言えるのは、長期的ビジョンを持つことと、優先順位をつけることの2点が大事だということです。あとは中国語で言う『互相幇助、互相発展』(互いに助け合い、互いに発展していく)の精神を持つことですね」
---大使として、ぜひやりたいことは?
「実はオバマ大統領からホワイトハウスへ呼ばれた時も、同じ質問を受けました(笑)。私が答えたのは、いまのアメリカは対中貿易格差ばかり問題にしているが、同様に重要な、対中文化格差をなおざりにしているということです。
すなわち中国人は幼少時から英語を勉強し、常時、数十万人の優秀な留学生がアメリカでMBAを取ったりしているのに、中国へ留学するアメリカ人は、まだまだ少ない。つまり文化の相互理解という点で、アメリカは中国に圧倒的に負けているのです。
そこでオバマ大統領に、10万人のアメリカの若者が中国で学べるような枠組みを作ってほしいと頼みました。私から大統領へのお願いは、この一点だけです」
---東アジアには、同盟国の日本もいます。「米中G2時代」の日米同盟とは、どういうものでしょうか?
「北東アジアの平和と安定のために、米日同盟は欠かせません。米中2ヵ国に、日本が加わり、3ヵ国で話し合うことは非常に大事です。例えば北朝鮮問題などは、3ヵ国が一体となって解決すべき問題です」
短時間ではあったが、ハンツマン大使はこのように、極めて誠実に答えてくれた。
以後、ハンツマン大使は、「洪博培」の中国名で、中国のマスコミや講演会などに出まくり、一時は、「初めて北京でグルーピー(追っかけ)ができた大使」として、持て囃されたほどだった。
昨年の「米中冷戦」と言われた険悪ムードの中で、なんとか「闘而不破」(闘うが破局はしない)の状態を保てたのは、中国政府が多大な信頼を寄せるハンツマン大使の功績が大きかったというのが、こちらの外交筋の一致した見方だ。そしていまや中国は、「北京在住の次期有力大統領候補」として、熱い視線を注ぎ始めたのである。
このようなハンツマン大使も、丹羽大使同様、今年は何かやってくれそうな予感が大だ。
与謝野馨
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8E%E8%AC%9D%E9%87%8E%E9%A6%A8
2011年01月17日(月)JBプレス 高橋洋一
菅再改造内閣が14日発足した。目玉は与謝野馨経済財政担当大臣だ。昨年4月に民主党打倒を掲げて「たちあげれ日本」を結党したが、同党を離党してまでした今回の入閣だ。
昨年末の本コラムで、与謝野氏が離党して入閣する見通しを書いたが、その通りになった(『新年は政界再編の年 座標軸は「増税」vs.「増収」立ち上がれ日本との連立話で見えた消費税増税路線』http://gendai.ismedia.jp/articles/-/1813 )。そこで、菅政権は増税路線まっしぐらであることも書いた。本コラムを昨年初から読んでももらっている読者はわかるだろうが、菅総理は財務大臣時代から財務省事務方から消費税増税の相当な洗脳を受けている。財務省による洗脳は徹底していて、菅総理のよくパートナーである信子夫人にも及んでいたようだ。
来年度予算を見れば、財務省の戦略として増税がすぐそこまで迫っていることがよくわかる。仙谷由人前官房長官はあと2年持たないといったようである。しかし、これも財務省の手のひらのうえでの発言である。
デフレを放置して名目経済成長率を上げずなければ、税収は伸び悩む。そこに社会保障の自然増がある。資産売却をせずに、霞ヶ関埋蔵金も発掘せず、特別会計などのムダ使いも直さない、公務員人件費も減らさないということであれば、あと数年しかもたないーー与謝野氏の発言はそれだけの意味だ。しかも、民主党は、自民党政権時代の政策見直しや予算組み替えをせずに子ども手当などの新たな政策を上乗せして歳出を膨張させたので、財政破綻させようとすればすぐにできるのは当然である。
こうした増税逼迫予算案をねじれ国会で通すのは至難の業だ、その意味で、菅政権はすでに死に体である。しかも、仙谷前官房長官と馬淵前国交大臣が問責決議されていたので、政権末期の追い込まれ改造である。
興味深いのは、そんなとき与謝野氏はいつも政権にやってくることだ。政権末期になると、政権内での主導権争いもあり、またさらに泥舟なので、閣僚というエサをまいてもなかなか政治家は寄ってこなくなる。その一方で、政権側は、末期であることを糊塗するために、それなりの人物をそろえなくてはいけない。こういうときに、与謝野氏もあわよくば政権を乗っ取りたいという思惑があるのだろうか、政権に入っていくる。しかしその直後に政権は終わる。
これは、小泉政権の末期から繰り返された光景なので、自民党関係者から「墓堀人」と呼ばれている。
はじめは、小泉政権の最後、郵政民営化の仕上げに竹中平蔵氏が経済財政・郵政民営化担当大臣から総務大臣に異動したときだ。与謝野氏は竹中氏の後任の経済財政担当大臣になった(2005年10月31日 -2006年9月26日)。このときは郵政民営化の論功行賞であった。
しかし、小泉政権の任期満了が近づき、徐々にレイムダック化するにつれて、与謝野氏は郵政民営化と同時に行った政策金融改革について財務省の意向に従い巻き返したり、増税の地ならしをしていた。もっとも、小泉総理のパワーが強かったので、それらの改革逆行は不発だった。
私は、竹中氏が総務大臣に転身したあと、政策金融改革をできるだけ守るように1ヵ月間内閣府に残り、与謝野氏と一緒だった時期がある。その時、財務省は与謝野氏を使って政策金融改革の骨抜きしようとしたため、私は与謝野氏と大臣室でしばしば議論した。与謝野氏は「政策通」といわれるが、私の説明に対して政策論は一切なかった。財務省の具体的な担当者の名前をあげ、そのいうとおりにせよと、およそ経済財政担当大臣らしかぬ発言をしたので強く印象に残っている。
安倍、福田両政権は入閣1ヵ月で崩壊!
次は安倍政権の最後だ。閣僚の不用意発言などで参院選に惨敗した安倍晋三総理は内閣改造し、与謝野氏は官房長官になった(07年8月27日 - 同年9月26日)。官房長官の本命であった菅義偉氏になぜか急に事件が起こり、急遽与謝野氏に差し替えになったのである。与謝野氏は官房長官になると、体調不良の安倍総理を出し抜いて官邸人事などを牛耳った。私の場合、安倍総理から官邸に残れという指示であったにもかかわらず、結局官邸から追い出された。そして、あっという間に安倍政権は崩壊した。
三番目は福田康夫政権。福田改造内閣で与謝野氏は経済財政担当大臣に就任した(08年8月2日 - 同年9月24日)。このときも安倍政権のときと同様に1ヵ月あまりで政権は終わっている。
最後は麻生政権である。与謝野氏は福田退陣を受け、持論の消費税増税を掲げて総裁選に立候補した。そのまま麻生政権でも経済財政担当大臣に就任(08年9月24日 - 09年7月2日)。中川昭一財務大臣が辞任したあとは財務大臣も兼務している(09年2月17日 - 同年9月16日)。財務大臣の間、金融担当大臣も兼務した(09年2月17日 - 同年9月16日)。麻生政権では、ほとんどすべての経済政策は与謝野氏が関わっていた。その麻生政権は、発足直後に支持率が上昇した時が総選挙の機会であったが、それを逃して、結局09年の総選挙で惨敗し、政権交代になった。
こうしてみると、与謝野氏が自民党関係者から「墓堀人」と呼ばれるのがよくわかる。
珍発言を繰り返すのに「政策通」?
与謝野氏の経済運営手法は、財務省主張そのもので、「タカ派」の財政至上主義ともいえるものだ。財政収支均衡を最優先し、その手法は増税に頼る。
財政再建を重視するとしても、まずは経済主義にたって経済を立て直して税増収を上げ、それと同時に、資産売却、霞ヶ関埋蔵金発掘、歳出カットするという手法もある。これまで自民党内では、財政至上主義と経済主義の争いがあった。経済主義を代表している中川秀直氏の公式ブログでは、与謝野氏の面白い発言を集めている。
1.GDPギャップが残っていても(つまりデフレでも)成長率が潜在成長率を上回ったときには増税できる
これは、麻生政権の時に言った。ボトムから少しでも上向けば増税するというのだから、驚いてしまう。
2.名目成長率を高める政策は悪魔の政策である!
これは、小泉政権時代からの与謝野氏の持論である。本コラムでしばしば言及しているが日本の名目経済成長率は先進国中最下位である。それを高めると悪魔なら、世界中は悪魔だらけだ。小泉政権の最後に、デフレから脱却する前に日銀は量的緩和を解除してしまった。その後予想通り景気が悪くなって、その後にリーマンショックがあった。リーマンショックの震源地でないのに、日本への打撃が大きかったのは、量的緩和解除が時期尚早であったからだ。しかも量的緩和解除には閣内で反対意見もあったが、担当である与謝野氏が強硬した。
3.埋蔵金は伝説の類!
財務省の言いなりになって、これまでないと言い続けている。しかし、2006年から5年連続で、年末になると出てきた。累計は40兆円以上だ。今年もないと言い続けるだろうし、増税を言うためには存在しても隠すだろう。
4.リーマンショックは蜂に刺されたようなもの!
量的緩和解除が時期尚早だったので、こう言わなければいけなかった。初動が遅れたし、財政政策はそこそこやったが、金融政策はまったくの無策だった。その点については、昨年1月8日付け本コラム(『なぜ日本経済だけが一人負けなのか 鳩山政権は日銀に「デフレターゲット」を捨てさせろ』 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/60 )。
マクロ経済を長くやってきた割に、与謝野氏には財務省と同様、金融政策の理解が決定的に欠けている。実は、マクロ経済政策は財政政策と金融政策があるが、1999年にノーベル賞を受賞したマンデル=フレミング理論から変動相場制の下では金融政策のほうが効果が大きいことが知られている。日本でそうした環境になってきたのは、金利自由化が終了した90年代からであろう。
ところが、90年代の経済低迷に対して、バブル崩壊での羮に懲りて膾を吹くように金融政策は引き締め気味であり、従来のように財政政策で対応しようとした。それはかなり間違ったポリシーミックスだった。
人は誰でも若いときの影響から後世も抜け出られない。90年代以前はマクロ経済政策で有効なのは財政政策であり、金融政策は効かなかった。そうした時代に生きていた人は金融政策の威力がわからない。
しかし、世界各国はリーマンショック以降、強烈な金融緩和に加えて財政政策も打つという非常手段に出ている。与謝野氏は、今なお、デフレ脱出で財政・金融に依存すべきでないという考えを表明している。金融政策の理解ができていないので、昨年10月18日の本コラム(『「円高無策」の日本は蚊帳の外 「基軸通貨」を狙うユーロと中国「連携」の動き G20の裏側で何が起きるのか』 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/1390 )で述べたように、為替がほとんど金融政策で決まってくることも理解していない。
今度の改造内閣では、「増税すれば景気回復する」という菅総理、「利上げすれば景気回復する」という枝野官房長官、「円高指向、財政再建指向」の藤井副長官と、デフレ・増税論者のそろい踏みだ。もしそれが実行されたら、与謝野氏が昨年1月に書いた本の題名通り、「民主党が日本経済を破壊する」だろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87
櫻井よしこ 『週刊新潮』 2011年1月13日 日本ルネッサンス 第443回
短い正月休みだったが、今年の歳旦祭(さいたんさい)はとりわけ心にしみた。
毎年大晦日から元旦にかけて、私は近くの神社に足繁く通う。まず大晦日の夕方の大祓式で、絹の袍(ほう)(大袖の上着)と袴、いずれも純白の装束に身を包んだ宮司さまに一年間の罪と穢を祓い除いていただき、新年に備える。今年もまた、多勢が集った赤坂氷川神社で、顔見知りの人たちと一年の無事を確認し合って嬉しい気持になる。
除夜の鐘が鳴り響くころ、厚着で初詣に出かける。赤坂氷川神社の初詣の楽しみは、江戸時代の文化財が楽しめることだ。同神社の御祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)である。天照大神の弟神の素戔嗚尊は、天上では暴れん坊で悪役の神として描かれているが、出雲に降臨して以降は勇敢かつ素朴で平和な神として知られる。
出雲では八岐大蛇(やまたのおろち)を征伐し人身御供の奇稲田姫(くしいなだひめひめ)を助けた。後に姫と結婚し、大国主命(おおくにぬしのみこと)が生まれた。両神様も赤坂氷川神社の祭神である。
今年、境内には、日本武尊(やまとたけるのみこと)の珍しい女装姿の人形が飾られた。敵を待ち伏せするための女装で、江戸時代後期の作だ。丈高い人形や夜空の星を眺める内に参拝の順が回ってきた。一年間守っていただいたお礼を心の中で言上し、甘酒をいただき、おみくじを引き、参道脇で赤々と燃える焚き火で暖をとり、家路に向かう。
元旦は早々と身仕舞を整え、歳旦祭に出かける。宮司に合わせて皆深く一礼する。日本人はお辞儀に深い意味をこめるのだ。宮司の四方拝につづいて祝詞が上げられ、新年の日本の安泰と国民の幸福が祈念される。
一時間ほどで終わった歳旦祭の最後に宮司の惠川義昭氏が語った。
「毎年、皆さんの幸福を願い歳旦祭をとり行えることを本当に感謝しています。ですが、天皇陛下は、私たちよりずっと早く、陽も上がらない時間に、国民全員のために祈って下さっています。有難いことだと感謝せずにはいられません」
国民の幸せのための祈り
私ははっと気付かされた。多くの日本人は天皇陛下が折りに触れ、国民のために祈って下さっていることや皇室の最重要の役割が国家、国民の安寧を願う祭祀であることを意識さえしていない。知りもしない。
実際に天皇陛下はどのように祈って下さっているのか。「産経新聞」の宮内庁担当記者だった山本雅人氏の『天皇陛下の全仕事』(講談社現代新書)で見てみよう。ちなみに氏は担当記者として毎日拝見することになる以前と以後の「天皇像」に大きなギャップがあったとし、一般の国民も同じだろうと感じて本書をまとめたそうだ。報道される皇室関係のニュースでは、「一般参賀や地方訪問でのお手振り」などが皇族の仕事だと考えがちだが、実際は全く異なる。もっと重要な、国民の幸せのための祈りは皇室の私的行事と位置づけられ、殆んど報じられない。しかし、国民に伝えられない祈りこそ、皇室が常に最重要視し、自らの存在意義としてきた重要な活動なのである。
『天皇陛下の全仕事』によると、天皇陛下は元旦の午前5時半には宮中三殿に並ぶ神嘉殿(しんかでん)の前庭にお出ましになる。庭中央の、屋根だけの東屋風の簡素な建物には清潔な青畳が敷かれ、陛下はそこで皇室の祖先神が祭られている伊勢神宮に遥拝し、国の安泰と国民の幸福、農作物の豊作などを祈り四方拝を行われる。元旦の東京の日の出は午前6時50分頃、したがって周りは暗く、厳しい寒さの中での厳粛な祈りである。
御所から神嘉殿に向かわれる陛下をお見送りして、皇后美智子さまが詠まれた歌を、山本氏は紹介する。
年ごとに 月の在(あ)りどを 確かむる 歳旦祭に 君を送りて
歳旦祭に臨む前に、陛下はすでに御所で身を浄め、身装いを正しておられる。祖先の神々に祈りを捧げるずっと前から始まる仕度を、皇后さまは陛下と呼吸を合わせるようなお気持で見守っておられることだろう。そして、いよいよお出ましの時、闇に鎮まる皇居の森から視線を空に上げて、月の光を探される美智子さまのお姿が浮かんでくる。
今上天皇は、新聞もテレビもあまり報じないこうした古代の祭祀を非常に大切になさるという。自らを慎み古式の装束での祭祀は年間30回を超えるそうだ。それを忙しい「公務」の間に手抜きもなさらず、とり行っておられる。かつて天皇は日本のまつりごとの主宰者だった。まつりごとは「祭り」であり「政」だった。これを一変させたのがGHQだ。
『天皇と神道 GHQの宗教政策』(サイマル出版会)で、ウィリアム・ウッダード氏が詳述しているが、GHQは統合参謀本部の命令に基づき、日本国の大変革に取り組んだ。柱は「神道の国家からの分離」と「神道の教育制度からの除去」、即ち、「天皇の人間宣言」と「神道指令」だった。前者の説明は不要であろう。後者は「神社神道を国教とする制度を廃止し、政教分離の原則を確立し、宗教と教育から軍国主義と超国家主義を除去すること」だった。
日本の文化文明の芯
米国務省は神道が軍国主義の元凶であり、日本政府が国民に神道信仰を強要してきたと考えたのだ。この誤った認識に基づいて、米国は日本の文化及び国の形まで変えた。その一端が祭祀を天皇家の私的行為と位置づけ、日本人の生活から神道に関係するすべてを取り除くことだった。
一例が祝祭日の命名である。2月11日は神武天皇即位を祝う日で、かつて紀元節と呼ばれた。占領軍は神道排除に走るあまり、「たとえ国会で紀元節が承認されても、これを許可することはできない」として、2月11日の祭日を許さなかった。一体全体、一国の建国記念日をここまで否定してよいものか。
ちなみに、2月11日は戦後21年目の1966年、「建国記念日」と名前を変えて祝日となった。
農業国日本の一年は、天皇が国民の安寧と五穀豊穣を神々に祈って下さり、その祀りを軸にすぎていく。国民の生活も祝日も同様である。1月1日の歳旦祭のあとは2月11日の紀元節、3月21日の春季皇霊祭、8月15日のお盆の日、9月23日の秋季皇霊祭、10月17日の神嘗祭、11月23日の新嘗祭などが続いていった。
これらは戦後、春分の日や秋分の日、文化の日や勤労感謝の日となり、歴史とも文化とも、また四季とさえも無関係の祝日になった。皇室の祈りは天皇家の私的行事に矮小化されたまま、現在に至る。そのことを指摘したのが惠川宮司の挨拶だった。
皇室はいま国民の無関心や知識不足の中で、皇位継承問題も含め大きな危機に直面している。そのことは、そのまま日本の危機である。日本が漂流し始めたいま、日本の文化文明の芯となってきた皇室と国民の、来し方行く末を考えたいものだ。皇位継承の安定を保つためにも皇室典範の改正も急ぎたいと切望する。
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