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龍馬会が台湾に誕生~李登輝元台湾総統インタビュー(1)

2011.01.01(Sat)JBpress

jマット安川 2010年ほど、この国の未来を不安に感じた年もありませんでした。政治、経済、教育、福祉、すべての分野において、日本はまだ「指針」を見出せずにいるのではないでしょうか。

 そんな焦燥感とともに、元台湾総統・李登輝さんへのインタビューをここにご紹介させていただきます。

 2010年7月末に行われたもので、番組では一部しかご紹介できませんでしたが、JBpressさんのご厚意とご尽力により、ここに全編公開することができました。

 実は李閣下とは、先代ミッキー安川との対談企画がありながら、急な不都合で叶わなかった過去があります。リベンジというわけではないのですが、日本がたくましかった時代を知る賢人に、祖国再生の知恵を授かりに行ってきました。

台湾に「龍馬会」が誕生した!


李登輝 坂本龍馬の「龍馬会」が台湾に出来上がります。(2010年7月21日「台灣龍馬會」が発足。李登輝氏は同会名誉会長に就任した:編集部注)

 龍馬会が台湾に出来上がるというのはね、日本と台湾との心と心の結びつきが、ここまで来ているということですよね。

 龍馬会を台湾で結成したら、(日本の「全国龍馬社中」の)橋本(邦健)会長や、高知県の尾崎(正直)知事まで来ましたよ。日本と台湾がこういう形で、中央政府だけではなくて地方や民間の団体がどんどん結びついていく。非常に大事なことです。

 私が坂本龍馬に非常な思い入れを持っているというのは、日本の明治維新と、その中で彼が果たした役割が、戦後の台湾の民主化の歴史と大きく関わっているからです。

 台湾は戦後から今に至るまで、下から上に突き上げる民主的な力が、台湾を大きく変化させる原動力になりました。

「祖国の中国化」に台湾の人民が反抗!

 というのは日本が戦争に負けた時、台湾中国に返されるというようなことは言われていない。でも蒋介石政権が軍隊を連れて台湾にやって来て、「祖国の中国化」という大きな思想を持ち込んできました。

 これに対する、もともと台湾にいた人民の反発が「二二八事件」という全島的な騒動を起こすわけです。この騒動が基礎になって、台湾人の当時の政府に対する反抗が非常に強くなりました。

 二二八事件では非常にたくさんの若い人が殺戮されまして、それから後は、国民党政権が大陸で国共戦争に負けて台湾にやって来て、戒厳令を敷いて、共産主義と関係のある人とか政府に反対する人を片っ端から白色テロでね・・・。(当時、李登輝氏自身も当局の厳しい取り調べを受けている)

 昔、徳川幕府が安政の大獄であらゆる尊皇の志士を殺し始めたでしょ。吉田松陰がそのとき30歳で殺された。それと同じような時代が台湾にもあったんです。

あのとき、勤皇、倒幕、佐幕、鎖国、開国という違った意見が散らばっているときに、坂本龍馬は一般的な日本人とは違った考え方を持って、日本の将来はどうあるべきかということを毎日考えていた。

龍馬は日本人であって日本人にあらず!

 私に言わせると坂本龍馬という人は、日本人であって日本人じゃないんだね。天から降りてきて日本を改造しようという使命を帯びた人間だと、私は思っています。

 彼は日本を走り回り、最終的に薩摩と長州の大連盟を打ち立てる。彼は真剣だったんだなあ。西郷隆盛と桂小五郎が会談して、これによって薩摩と長州の大連立が出来上がるはずのところがうまくいかなかった。

 坂本龍馬は西郷隆盛に詰め寄って、そこがさすがに西郷隆盛だよ、自分は間違っていたと謝るわけだ。そこでもう一度同盟の話を西郷から桂小五郎に申し入れて、今度はじっくり話をしてようやく薩長同盟ができました。

 ところがここで薩長同盟ができたということは、単にふたつの藩が同盟を結んだというだけじゃなくて、2大勤皇の藩が合併したことでほかの日本のすべての藩も味方になってしまって、ここで大政奉還への道筋が出来上がったわけです。

 薩長同盟が成功する理由はほかにもあります。というのは、薩摩と長州はそれまでに蛤御門の変や、そのほかにもいろんなところで戦っていて敵対していた。長州が薩摩に負けた理由は何かと言えば、武器がないんですよ。種子島を持っているのは薩摩だけでしょ。

「船中八策」通りに台湾の政治を行ってきた!

 坂本龍馬は薩摩に働きかけて、かなりの鉄砲と大砲を長州にあげたんですよ。当時は鎖国で長州は外国から何も入れられない、鉄砲もなければ大砲もない。そんなものを薩摩があげれば、それは非常な嬉しさでしょ。そこで長州も安心して薩摩を信用したわけです。

 そうやって薩長同盟が出来上がって大政奉還が完成する。でもそれだけでは終わらない。大政奉還が達成できた後、新政府は何をやるのか。

 そこで坂本龍馬が政治の建議書を書きました。長崎から京都に帰る船の中で書いた「船中八策」。

 この船中八策は1996年、台湾の第1回総統直接選挙で私が総統に当選した後、1997年にVOICEの江口(克彦)さん(PHP総合研究所前社長・現みんなの党最高顧問)が私に、おめでとうと手紙を書いてくれたと同時に、台湾の現状について船中八策を基礎にして台湾政治への意見を申し入れてくれたんですよ。

江口さんが私に講義した船中八策に基づいた台湾の政治改革は私、だいたいその通りにやってきているんだ。台湾と中国の関係、台湾と日本の関係、台湾内部における種々の関係いろんなことにおいて、すでにこの方向で進んできたんです。

台湾の政治改革も龍馬とは無縁ではない!

 つまり台湾の政治改革は、坂本龍馬と無関係ではないんだ。

 1993年に司馬遼太郎さんにお目にかかったとき、このことも話の中心になりました。このとき私は「台湾人の悲哀」、西田幾太郎哲学で言うところの「場所の論理」「場所の悲哀」という話題を論じました。

 台湾でこういう近代的な発展があり得たというのは、日本との関係があったからこそだし、日本の近代化は明治維新があったからこそできたんですよ。明治維新で東西文明の融合ということが起こって、日本は近代化を進めてきたんですよ。そこから後に種々問題が起きますけどね。

 台湾の現状や日台関係をお話しするために、日本統治下の台湾がどうだったかということを日本の方にまず分かってもらいたい。それからその影響の下で台湾がどのように進んできたのか、書いてきましたので、それを読みながらお話ししましょう。

 日本統治下の台湾は近代社会に邁進、日本は台湾を50年間統治しました。この間、台湾に最も大きな変化をもたらしたのは、なんと言っても台湾をして伝統的な農業社会から近代社会へ邁進させたことです。

台湾に近代工業資本主義を植えつけた日本!

 また日本は台湾に、近代工業資本主義の経営観念を導入しました。台湾精糖株式会社の設立は台湾の初歩的工業化の発展となり、台湾銀行の設立により近代金融経済を取り入れました。度量衡と貨幣を統一して台湾各地への流通を早めました。

 1908年の台湾縦貫鉄道の開通により南北の距離は著しく短縮され、華南では灌漑用水路と日月潭水力発電所(現・大観水力発電所)の完成が農業生産力を高め、工業化に大きく一歩を踏み出すことができました。

 行政面では全島に統一した組織が出来上がり、公平な司法制度が敷かれました。これら有形の建設は台湾人の生活習慣と観念を一新させ、台湾は新しい社会に踏み入ることができました。

 日本はまた、台湾に新しい教育を導入しました。これは、諸外国における植民地支配とは全然違ったやり方です。

 

日本は1895年4月の台湾割譲の後すぐに総督府の開庁がありましたが、7月にはすでに国語学校ができまして、そこで6人の若い先生が台湾人に日本語を教え始めました。

日本が導入した教育制度で儒教や科挙の束縛から逃れられた!

 その六氏先生(6人の先生)は後に土匪に殺されて亡くなりまして、その碑(学務官僚遭難之碑)がいまでも建っております。

 日本は台湾に新しい教育を導入しました。台湾人は公学校を通して、新しい知識である博物、数学、地理、社会、物理、化学、体育、音楽などを吸収し、徐々に伝統の儒家や科挙の束縛から脱け出すことができました。

 日本も明治維新のときには6000の小学校が出来上がりました。6000の小学校というのは、だいたい昔の私塾から変化したものですよ。同じようなことが台湾でも起こってきてる。

 そして世界の新知識や思潮を理解するようになり、近代的な国民意識が培われました。

 1925年には台北高等学校(高等科)が設立されました。台北帝国大学は1928年に創立され、台湾人も大学に入る機会を得ました。あるものは直接、内地である日本に赴き大学に進学しました。

時間と法を守る気持ちと経営観念も植えつけた!

 これによって台湾のエリートはますます増え、台湾の社会の変化は日を追って速くなりました。

 近代観念が台湾に導入された後、時間を守る、法を遵守するといった意識、さらに金融、貨幣、衛生、そして新型の経営観念が徐々に新台湾人をつくりあげていきました。

 これが50年間におよぶ日本の台湾統治の結果です。それが戦後、日本は台湾を放棄しますが、その主権を誰に渡したとは言わなかった。

 当時の中国は国民党中華民国が正統の国で、アメリカによって蒋介石が台湾の日本軍を接収しなさい、そして台湾を治めなさいという命令が下されましたが、台湾中国にあげるというようなことは何も言っていなかった。

このような台湾で非常に大きな変化が起きまして、1990年、私が総統になってから台湾における新しい国家建立の潮流が始まりました。

国会議員は大陸の人間ではなく台湾内部から選ぶ!

 その前は戒厳令から白色テロから、異様な独裁的形態で台湾は大変だった。そのうちに排日政策もありまして、日本語を使うべからず、日本の雑誌も読めない新聞も読めない、日本語の歌さえ歌えないというような状態が長い間続きました。

 これが結局、台湾人の反対に遭って、さっき申し上げたような台湾人の新しい意識が非常な変化を起こして、この下から突き上げる力は台湾内部の政治構造を変えたばかりでなく、台湾と中国の関係も変えました。

 国民党と共産党の対立、内戦状態から、国と国との関係に変わったのです。

 これが私が総統になったときの第一の考え方で、国民党と共産党の内戦を停止させる、停止させることによって国民党が台湾を治めていた臨時条項を廃止し憲法を台湾の内部から成立させる、国会議員を国民党が大陸から連れてきた議員ではなく台湾内部から選ぶ、その国会議員によって憲法をひとつずつ修正していく。

 これが私の、台湾の民主化の過程です。言うだけだと簡単そうですが、苦労しますよ。そういう状況の中で力もない、権力もない、武器もない。何もない私がこういうことをやるのには、相等の体力がなくちゃならない。

仕事は真っ直ぐは危険、回り道こそ実は近道!

 だから私がよく言うのに、仕事を進めるときに真っ直ぐ行くというのは非常に危ないんだ。結局回り道を取った方が問題が起こらない。それで台湾では一滴の血も流さずして、いまのような状態が出来上がったわけです。

 この民主化の過程の中で、北京政府に対しては内戦停止と同時に、中国とは対等の立場で平等、互恵、平和の関係を樹立したいと思っております、台湾は私の方で統治しておりますと、それをはっきり宣言しました。

 このような力の源は実は、日本統治時代に遡ることができるのです。

 台湾人としてのアイデンティティー、台湾意識が芽生えた後、台湾人はすでに民族自決、独立の基調を提出しました。戦後、台湾人が二二八事件の災難に遭った後この独立運動が始まり、1990年代になり国内と国外の力が交わって新国家建設の原動力となりました。

多くの日本人が中国の宣伝や脅しによって、台湾は中国の一部であり台湾独立の条件は整っていないと思っておられるようです。

台湾精神イコール、日本精神!

 しかし、一度台湾に来られて台湾人の心を聞き、活気にあふれる台湾の社会を見て台湾の自由な民衆の意識を感じたならば、台湾人がなぜ新国家を建設するのか、自ずと分かっていただけると思います。

 台湾は海峡を挟んで中国と向き合っています。が、それでも台湾正名運動、国民による憲法制定、新国家建設の思潮などを敢えて唱える活力を持っております。これらは台湾精神からきているのです。

 台湾精神イコール日本精神です。台湾人は質実剛健、実践能力、勇敢、挑戦的な天性の気質に加えて、日本統治時代に養われた法を守る、責任を負う、仕事を忠実に行うなどの精神を備えています。

 これがすなわち台湾人の長所であり、窮すれば窮するほど強くなり、権威制統治の下でも台湾人としての主体意識を確立することができる最高の精神なのです。

 これが今でもずっと続いておりまして、これをいかにして、いわゆるアイデンティフィケイションに持っていくかということが台湾の課題のひとつなのです。

日本の教育が台湾の礎を築いた!

 それには教育がひとつ大きな役割を持っております。先ほど申し上げたように、日本は台湾に新しい教育を持ち込みました。それによって台湾は近代化を進めることができました。

 私も公学校、中学校、高等学校から内地の大学と教育を受けました。ゲーテからトーマス・カーライルから西洋文明の重要なものはほとんど学びましたよ。

 ギリシャからソビエト体制になる前のロシア、トルストイからマルクス、エンゲルスの問題、こんなことは高等学校時代に学んだようなことばっかりです。

 その中には中国のことも入っているし、もちろん日本は古事記から学んで、そういう独創的な濃い機会を得られました。それは日本の教育ですよ。

 いまの教育には、あんなものはない。いまの日本でもああいう教育はやっていない。だから日台関係は、将来教育面ではどうすべきかということが第2の問題になると私は思いますね。

(明日につづく)

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国民が胸躍らせる成長ビジョンを挙国一致で策定しよう!

2011.01.01(Sat)JBプレス 川嶋諭

うっかり飲みすぎたお酒のせいだろうか、迂闊なことに大晦日の夜はNHKの紅白歌合戦も見ずに早くから寝入ってしまった。しかし、悪夢で目が覚めた。

日本の国債暴落という悪夢!

2011年に、日本の国債がついに大暴落、リーマン・ショックから立ち直りかけた世界経済が、それを機に大恐慌へと突入していくものだった。

 日本の大都市にはその日の食料もない人たちがあふれ返っている。至る所で喧嘩に暴動・・・警察は全く手に負えない。

 飛び起きて時計の針を見ると11時59分。そうか。まだ2010年だった。2011年の初夢にならなくて良かった~~。

 いくら朝の早いオヤジでもここで起きてはさすがにまずいと思い、気を取り直して寝ることにした。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 1月の通常国会。政府から日本の新しい成長戦略と国家ビジョンが示され、野党とは前向きな議論に終始し予算審議が粛々と進められている。2010年までの日本とは大きく違う。

 政府が掲げたのは、2010年までの世界で最も社会主義的だった政策とは一転した「豊かな競争社会」だった。

 競争より平等を重んじる社会は精神の退廃を招き、企業や個人の国際競争力を削ぎ、国家を衰退させる。そのことを民主党政権は政権交代から16カ月の間に学んだのだった。

 競争によって成長を促しながら、一方で弱者をいたわるという日本の良き精神文化を改めて推奨した。

そして、2つ目に掲げたのが「世界一の効率社会を目指す」という政策だった。自動車産業では世界で最も効率的だと言われるトヨタ自動車の生産システムのような仕組みを、製造業だけでなく、あらゆる産業や組織で開発する。


常に改善を続け世界一の効率を目指す日本政府!

それは政治の世界でも無縁ではない。効率化した社会では、行政サービスも効率化したうえでサービスの質向上が求められる。

 例えば、それまで10人で実施していたサービスは、次の年はさらにきめ細かいサービスをしながら9人でこなせるようにする。

 効率化をミッションに据えることで、省庁ごとの規制など日本の非効率さを際立たせている障害は官僚が自ら改善させていくことになる。

 議員定数も、日本全体で被選挙者1人当たりの選挙者の割合を決め、思い切って定数を削減する。

 また、その割合は社会の効率化の進展に合わせて毎年見直し、毎年さらなる削減を義務づける。

 こうした効率化を推進するための投資は躊躇なく進める。ITが必要なら、それを徹底活用し、世界で最も進んだシステムの国にする。それによって日本のIT産業の競争力も高まることになる。

1人当たりGDPが世界最高の国を目指す
 3つ目に掲げたのが、「世界の超大国であり続け、秩序ある豊かな地球を作るために貢献する」というビジョンだった。

 そこには日本が「老人大国」に甘んじるという、中高年の政治家が描きがちな“負け犬政策”は微塵も見られない。1人当たり国内総生産GDP)を世界最高の10万ドル以上に目標を置き、日本の人口も1億2000万人は維持させる。

 そのためには、子供を産む女性は日本の宝と位置づけ大胆な母親減税を実施する。もちろん実子ではなく養子でも差別はしない。日本では特に強い婚外子に対する偏見や差別をなくすための目的で、婚外子の場合には減税額をさらに増やす。

 養子や離婚した子供の場合には同じ減税を父親に対しても実施する。

 また、企業には家族手当や子供手当の支給を促し、そのための減税枠を用意する。平等の名の下に、ほとんどの企業でこの20年間で廃止されてしまったこれらの手当制度を日本再生のために復活させる。

「豊かな競争社会」
「世界一の効率社会」
「最も幸せな超大国」

速度無制限の中央スーパー高速道路を造ってはいかが!

こうしたビジョンを掲げることで、具体的な政策も方向性は自ずと定まる。例えば、高速道路の無料化。

 2011年の予算策定段階で、日本の大手新聞は右から左まで、その社説で財源の問題から無料化の放棄を迫った。

 しかし、衰退する老人大国ではなく世界一の効率国家を目指すならば、その経済効果を考えて無料化は推進させなければならない。

 そこで政府はさらに、JR東海の中央リニア構想に併せるような形で、スーパー高速道路の建設も決める。

 リニア新幹線に沿う形で、日本初の速度無制限の「有料」高速道路を建設。しかし、ここを走れるのはコモディティーと化した自動車ではない。世界最先端のエコで安全技術満載の自動車に限られる。

 ホンダの技術者がよく言っていた。「ホンダのクルマが本当に品質も性能も向上したのは、北海道にテストコースを作ってからだ」

 厳しい環境でのテストを重ねることで、クルマに磨きがかかる。アウトバーンがドイツの自動車産業を育てたのは周知の事実である。

 技術力の乏しいメーカーほど、クルマはコモディティー商品になったと言う。しかし、果たしてそうだろうか。鳴り物入りで登場したインドタタ自動車の「ナノ」は全く売れていない。

 それはともかく、コモディティーは新興国に任せておけばいい。日本は世界最先端にこだわり続けなければならない。経済効果も狙いながら日本の自動車産業をさらに強くするための政策が必要である。

再び半導体立国を目指す!

 同じことは環境技術にも言える。風力発電や太陽光発電などコモディティー化し始めた環境技術で量とコストダウンを競っても意味がない。新しいブレークスルーを実現できるところに集中特化させるべきだろう。

 例えば、シリコンに代わる半導体の素材として期待されている炭化珪素(SiC)などが挙げられる。これは消費電力を大幅に下げられ、発熱の問題で限界が見えてきたムーアの法則を今後も実現できる画期的な半導体とされる。

 東芝とソニー、IBMが共同開発したマルチコアの半導体は、結局、似たような技術をインテルやAMDに開発されて、今やパソコンのCPUがマルチコア半導体の主な用途になってしまった。

 日本の半導体産業が迷走を始めるのは日米半導体摩擦がきっかけだ。米国の圧力で日本の官と民の二人三脚の紐を解かれてしまった。一方で、米国は官と民の絆をしっかりと固めた。韓国台湾がそれに続いた。

 産業のコメである半導体で日本を弱体化してはいけない。世界最先端の製品を作ろうとしたら、電気製品はもちろん、自動車であれ医療機器であれ、最先端の半導体がいる。

 日本の産業競争力を高め、1人当たりGDP10万ドル以上を目指すには、半導体産業の新たなる育成策が必要である。

 ・・・ ・・・ ・・・

 住宅や観光産業にも大胆な政策を取り入れ、日本は世界有数の豊かな住宅と観光産業を持つようになる。農業も世界最高の効率と品質となり、世界中から高くてもおいしい日本の農産物を買いにバイヤーが集まる・・・

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

これから本格的に日本の明るい未来が見えてくるという時に目が覚めてしまった。その時、JBpressに連載してもらっている岡野工業の岡野雅行・代表社員(社長)に何度となく言われた次の言葉が聞こえてきた。

規模の追求は新興国に任せればいい!

 「会社なんて5000人、1万人の規模にするのは簡単なんだよ。それより5人で、いやそれでも多いやぃ。それ以下の人数で世界一の仕事をすることの方がずっと難しい、てんだよ。バカ野郎」

 岡野さんの声が聞こえたのは、彼の生き方が産業の枠を超えて、日本が目指すべき方向性があるからだろうか。人のできないことに喜んで挑戦する。規模を追求するばかりでは、結局のところ中国など人口が多く賃金の安い国には勝てない。

 2011年は日本にとって大きな節目の年になりそうである。1月の通常国会は冒頭から大荒れの様相だ。しかし、その議論は、政権維持と政権転覆を狙う政局に関することでほぼ100%。日本をどういう国にするかという議論はほとんどない。

 民主党内での足の引っ張り合い、与党と野党の足の引っ張り合い、日本に大きな津波が襲ってくることは分かっているのに、内紛に明け暮れている。

 例えば、冒頭の日本の国債問題。赤字国債の発行には衆参両院の議決が要る。万が一、その法案が通らないようなことがあれば、予算執行ができなくなるだけの問題ではない。国債価格の暴落を通じて、日本のみならず世界経済にとっての大津波になる。

 この問題についての詳しい内容は1月4日付の山崎養世さんの記事をご覧いただくとして、JBpressが何度も取り上げてきたように、中国ロシア、北朝鮮の軍事的脅威は急速に高まっている。いつ内政の隙を突かれて実力行使に出られるとも限らない。

政治家の足の引っ張り合いは報道しない!

 2011年の日本は、1853年に浦賀に黒船が来た時以上の危機が迫っているのである。その認識があれば、小沢一郎氏VS仙谷由人氏の個人的な対立だとか、民主党自民党による失政の責任の擦り付け合いとか、そんなことに血道を上げている場合ではない。

 大手メディアもそうした政局報道はやめたらどうだろう。日本を守り育てるためにメディアの責任も重要である。もちろん内紛をする方が悪い。

 しかし、内紛はその種の情報を生活の糧とするメディアに任せて、紙面いっぱい画面いっぱいに、日本の行く末を議論する報道で埋め尽くしてはどうか。それは政治家を変えていくはずである。

 情報とはそういうものだろう。遠心力のない矮小化された記事は、求心力が働いてそれを読む人たちをさらに矮小化させる。逆に遠心力あふれた記事は、読む人を触発する。

 まだ生まれて2年ほどしか経っていないが、JBpressはそうしたメディアでありたいと願っている。しかし人間のやることである。方向性がおかしいと思われたら、どしどし批判をお寄せ頂きたいと思う。

いすゞ自動車
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%84%E3%81%99%E3%82%9E

空前の業績アップで待望論勃発!


2010年12月30日(木)現代ビジネス


くのファンを悲しませた乗用車撤退から8年。今年いすゞが好調だ。9月中間期の売り上げが、前年同期の277億円の赤字から291億円の黒字に転換し、売り上げ高は前年同期比63.7%増。海外でも絶好調で、中国では前年同期比なんと96.5%増。ほぼ倍増! 今いすゞにがぜん注目が集まっている。

 となるとファンならば当然考えるのが「乗用車復活はないの?」ということ。そこで、本企画はいすゞの乗用車復活を切に願って、お送りする「いすゞカムバック! 祈願特集」だ。まずは元いすゞワークスドライバーであり、元社員の浅岡重輝氏に、在籍当時、いすゞが輝いていた頃の話から伺ってみる。

かつては御三家と呼ばれた! 当時を浅岡重輝が振り返る!

がいすゞに在籍したのは、第1回日本GPに出場した直後の'64年から'73年頃まで。この頃のいすゞという会社はまだまだ古い社風が残っていた。

いすゞは、トヨタや日産とは違い、もともと国策企業としての成り立ちがあり、上層部には公家関連の方も多い会社だった。財力も開発力もあった。これが御三家たるゆえんだった。

 半官半民的で官僚的な上司というと窮屈そうだが、実際はキツい締め付けもなく、やりたいことができる自由さがあったのだ。それでいて人材は優秀、しかもクルマ好きばかり。

 私も例に漏れず、入社してすぐに実験部に配属され好きなことを始めた。ちょうどベレットGTが開発中だった。

 とにかく好き勝手作っていて、2ドアセダンをベースに屋根をぶった切ってピラーを寝かせて、メーターはスミス、スイッチ類はルーカス・・・、なんてやりながら完成したのがその当時、東京モーターショーに出品した車両だった。

 これが好評で、市販化にこぎつけたが、行き当たりばったりで図面もない。ショーに出品したクルマから実測して線図をおこすなんて無茶をやっていた。

 その後は'78年頃から、プロトタイプの開発部署にいて「R6」や「R7」の製作を担当した。勝負よりもむしろ、どう研究に役立つかが重要だった。

この会社の核はやっぱり技術屋で、とにかくアカデミックだったのが印象的。入社すぐから毎日実験してはレポート、レポート。毎日文章を書いていた。物を書くということを覚えたのはこの体験からだ。おかげで企画書を書くのが上手くなって、さらにやりたいことを実現できるチャンスが増えた。

 好きなこともやれたし、技術もあったけど、危機的状況になってしまったのは利益体質と販売力に問題があったんだと思う。

 ただ、状況が悪くなると面白い人間も自由な社風もかなり少なくなってしまった。いすゞにはもう一度自由な社風を取り戻してほしい。それには会社をだまくらかすような社員が必要だな。まずはそこからだ。

 現在トラック業界での地位は?

 近年のいすゞは、トラック業界では正直少々地味。今年9月のポスト新長期排出ガス規制の際のギガのデビューも最後発。バスでは日野と技術供与関係にあるとはいえ、ダイムラーのふそう、ボルボのUDトラックスのように、かつてのトヨタのような仲間の存在が見えないこともあり、孤立化し、独立した哲学で進んでいるように見える。

 しかしディーゼル4社中で最後発となったギガは、そのいすゞ哲学を見事に反映している。

 技術的にはさすがはディーゼル王国。排出ガス規制対策としてどのメーカーもEGR、尿素SCR、小排気量化を推進しているが、これまで13.0~15.7リットルだったエンジンを9.8リットルに統一したのはさすがいすゞ。

これは排ガス対策だけでなく、軽量化も含めて燃費向上にも大きく貢献。しかし小排気量化してもパワーは必要なため、全回転域でまんべんなく空気を入れる工夫をしたり、ラジエターやインタークーラーなどにより、車両全体の冷却性能を改善することにも注力するなど、空気にこだわるいすゞ気質を発揮。

 だからということでもないだろうが、新型のギガのデザインはもともと骸骨顔だったが、いっそう"穴"の部分(6大陸を表現した意匠)が大きくなった。

 名ミッション「スムーサーG」もエンジンの小排気量化に伴って、ユニットの軽量・小型化に成功。あのクラッチを持った12段ギアのATは、まだ健在。健在どころか、軽量化によって他メーカーに対してアドバンテージさえ見せることになった。

孤独感こそ見えているいすゞだが、世界中が排出ガス規制をクリアすることに血眼になっているトラック業界にあって、唯我独尊の道を行けるメーカーなのかもしれない。

日本にどのくらいのこっているの?


'02年9月いっぱいで乗用車の生産から撤退したいすゞ。歴代車で一番売れたのは、初代のFRジェミニ(キャッチフレーズは世界のジェミニ)だが、いすゞがノックダウン生産していたヒルマンミンクスが3万台オーバーも売れていたのにはビックリ。

 古いモデルが多いだけに、いすゞの乗用車の生存率はわずか5%。このデータは登録ベースのため、登録を切っているクルマの数は含まれていないが、それにしても少なすぎる。

 生存台数では、ビッグホーン(全体の半分以上!)、ジェミニと売れたクルマが上位を占めるが、ビークロスの生存率66.8%は驚異的。マニア受けするクルマの真骨頂といったところか。

 今後減っても増えることのないいすゞの乗用車。生き残っているクルマは大事にされるだろうが、日本クルマ界の絶滅危惧種として保護すべき。でしょ?

ラリー車、デートカー、高級車 こんなクルマがありました!

 日本の自動車産業は大量生産、大量消費が基本だが、そのなかでトヨタ、日産の後を追わず独自路線を突き進んでいたのがいすゞ。これがかつて御三家と呼ばれていたゆえんではあるが、諸刃の剣とはまさにこのことで、自らの首を絞める要因になったのは否定できない。

 しかしラリーベース車あり、見ているだけで惚れ惚れするようなデートカーあり、イルムシャー、ハンドリングを追求した硬派なハンドリング・バイ・ロータスをいろいろなモデルに設定してスポーツ性をアピールしたりと、とにかくいすゞ車は個性的で存在感抜群だった。いすゞの古きよき時代のクルマに乾杯。

いすゞが誇った先進技術アレコレ!

 いすゞの生み出した画期的技術といえば、今や主流となりつつある2ペダルMTの先駆けのNAVI5('84年)、後輪にアクティブステア機構を持たせたニシボリックサス('90年)が有名だが、それだけじゃない。

 それ以前では、'71年にいすゞは117クーペに日本初の電子制御燃料噴射装置(ボッシュのDジェトロニック)を装着。Lジェトロニックで排ガス規制をクリア。

 それよりも凄いのはアッツァで、日本初、世界初のオンパレード。エクステリアでは、世界初のフラッシュサーフェスを採用(アウディ100よりも先)。ワンブレードワイパー採用は日本初。

 そして、マイコン制御エンジン、ホットワイヤー式エアフローセンサー、デスビ内蔵光電式クランク角センサー、メモリー付きチルトコラム(ステアリングが上に跳ね上がる)、マルチコントロールシート(無段階リクライニング機構)はどれも世界初の技術で、その後他メーカーも追従。

そのほか、アッツァ、ジェミニに採用されたウェイストゲートの制御にステッピングモーターを使ったエレクトロターボなどもあるように、先進技術に対しては非常にアグレッシブ。

 技術ではないが、日本車で初めてレカロシートを純正採用し、日本でのレカロブームの火つけ役となったのも先見性のあったいすゞだった。

いすゞのすばらしいデザインの秘密!

いすゞの優れたデザインの秘密について、元いすゞの広報マン、辻村百樹氏を直撃。

 ★ ★ ★

 これという解はないが、私が思いつくことを挙げてみると、いすゞの初代デザイン部長の井ノ口誼さん(東京藝大出身)の存在が何よりも大きいと思う。

 いすゞはヒルマンミンクスのノックダウン生産を終え、クルマを自社開発するにあたり、デザインが重要だということで、井ノ口さんを含め3人くらいの東京藝大の学生を招聘。新たなことを始めるのに学生を呼んだというのもいすゞらしい。

 井ノ口さんはその後いすゞデザインを牽引していくことになるのだが、デザインに対しポリシーがあって、しかもカプセルシェイプ、張りのある面、黒帯と呼ばれたいすゞトラックのアイデンティティとなったキャラクターラインなど常に明確なテーマを持っていた。

 いくら有能なデザイナーがいても、デザインを知らない上層部が手直しする、というのはクルマ界では当たり前のことだが、いすゞはほかのメーカーに比べるとそれが少なく、デザイン部が自由にできる環境にあり、いいデザインが生まれたのだと思う。

 井ノ口さんはベレットをデザイン。いすゞがトラックメーカーだったからこそ、それから離れてとにかくカッコいいクルマを作ろうとしていたという。

それから、いすゞがイギリス車として上品なヒルマンと組んでいたこともその後のデザインに好影響を与えた。トヨタ、日産がアメリカを見ていたのに対し、いすゞはヨーロッパ志向。イギリスではなくイタリアに目を向け(デザインだけでなく、チューニングをイタリアのコンレロに発注したりした)、ギア社との関係を通して、ジウジアーロとの関係も始まった。

 そして、'71年にGMの傘下に入るわけだが、そこでのオペルとの関係。当時のオペルは現在のアウディのような存在。デザインの影響力は絶大で、いすゞはオペルのデザイン先進性に刺激を受けたのも大きい。

 かつていすゞはトヨタを追っていた時期があるが、同じ土俵で争っていてもダメ、とニッチ戦略の独自路線に特化したことも見逃せない点で、いいデザインを生んだ要因だと考える。

かつて私もいすゞ車に乗っていました!

 BC周辺はいすゞ好きがいっぱい!

 BCの周りにはホント、かつていすゞ車を所有した人間が多い。社用車にいすゞ車を2台使っているというウチの会社もマニアックかつ好き者っぽくていいでしょ。元117クーペオーナーもいるし、ビークロスオーナーもいる。

 さすがの三本御大でもヒルマンミンクスは乗ってないが、常日頃ディーゼル好きを公言しているとおり、いすゞ車も例外じゃなくディーゼル。それにしても117クーペにディーゼルがあったとは・・・(←恥ずかしながら担当は知らなかった)。

 購入形態は中古がメインだが、新車で購入したフカダのアッツァは購入後わずか1年で廃車(涙)。そして鵜飼→深川沙魚氏と渡った初代FFジェミニも沙魚氏が友人に譲ってわずか1年で廃車・・・。

 でも、結末はどうであれみんなに共通しているのは、泣く泣く手放している点だ。

元いすゞワークスの米村太刀夫氏が考える、いすず乗用車復活の秘策
 元いすゞワークスに所属し、現在は自動車評論家として活躍中の米村太刀夫氏が、古巣いすゞの乗用車復帰について提案とエールを送る!

 ★ ★ ★

 

いすゞは'53年に英国のヒルマンのノックダウンから乗用車に参入した。後期のヒルマンミンクスにはオプションでコラムシフトをフロアシフトに改造するスポーツキットもあり、自動車好きには好評を博していた。当時のいすゞの役員が自社で設計・製造したクルマで公の場に乗り付けたいという願望を満たすためにベレルを作ったが不評であった。

そこで若い技術者を中心に企画されたベレットが誕生。フロアシフト、ラック&ニオン式ステアリング、四輪独立サス、セパレートシートなどの斬新な内容はたちまち若者の心を捉えた。またエンジン、サス関係のスポーツキットを多数用意して、わずかな改造でベレットは競争力のあるレーシングマシンとなった。

 もしいすゞが乗用車市場にカムバックするとすれば、トヨタや日産のような「乗用車のデパート」は現実的ではない。やはりニッチ商品を狙うのが最善だろう。幸い個性の強い独特のクルマ作りを続けてきたホンダが今や大企業になってしまい、昔のトヨタの乗用車のような「優等生」的なクルマしか作れなくなった。

 昔のホンダ車は他社が驚く新機構などを盛り込んだ商品を出し、特に若者の心を虜にした時代がある。半面「失敗作」も多かったのも事実。「あれは失敗でした」とホンダの技術者が「頭ポリポリ」をしてもそれはそれで許されたのである。

 いすゞはミドシップスポーツを市販することを真面目に考えた時代があり、それをレースに参加して鍛える方法を模索した。ベレットMX1600がそれであり、そのレーシングバージョンがベレットR6だった。'50~'60年代のジャガーやメルセデスのスポーツカーがレースを通してクルマを開発していったのと同じ手法を取り入れたのだ。

 あれから何十年が経過して、現在のいすゞには乗用車の設計・開発に携わった技術者は残っていないだろう。これが逆に既存の物の考え方にとらわれる心配がないのが嬉しい。ともかく若い想像力豊かな青年を新規採用して彼らに乗用車プロジェクトを任せればいい。

それでもマンパワーが不足するだろうからアウトソーシング化を積極的に図るのが得策だ。例えばエクステリアデザインはいすゞが昔から行なっていたようにイタリアンをそのまま市販化させる。日本ではホームデザイナーがカタチをいじるのこれで悪化することが多い。

 韓国製の乗用車がハッとさせる美しさを見せるのは「いじらない」を実行しているからだ。サスペンションの設計や開発はドイツイギリスにある開発会社に委託するのが得策だ。

 最近タイヤメーカーは「モジュール」と呼ぶサス、ブレーキ、タイヤを組み上げた状態で納入するのでこれを積極的に導入するのがいいだろう。サスチューンもこの連中が責任をもって仕上げてくれるので開発費の削減額は大きい。

 エンジンとトランスミッションの駆動系は、従来いすゞが保有していた乗用車用製造設備が残っていないだろうし、レシプロエンジンの製造設備はトランスファーマシンなど膨大な費用がかかるので頭痛の種だ。そこで一気にEVにしてしまうのはいかが? 

 電動モーターはレシプロエンジンと比べて部品点数が少ないので自社製造をするための設備投資額は少ないだろう。また重電機メーカーやベンチャー企業を共同で開発する手もある。EVなら変速機は不要なのでより簡単に実現できる。電池の開発は日進月歩で進んでいる。

 現在の技術だと走行距離がレシプロエンジンを積む乗用車と比べて劣っているが、近い将来同等になり、充電のためのインフラも整備されるので心配無用だ。電子制御のデバイスとこれを活用させるためのソフトの開発は我が国の若者の頭脳を活用すればOKだ。

 で、どんなクルマを作るかであるが、総合的に判断すればスタイリッシュな4ドアセダンで、そのままでスポーツカーと呼ばれるものがいいと思う。何十年も前にいすゞから登場したベレットの生まれ変わり「ニューベレットEV」を提案したい。

ナチュラルキラー細胞(-さいぼう、NK細胞)
http://ja.wikipedia.org/wiki/NK%E7%B4%B0%E8%83%9E

抗がん剤
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%97%E3%81%8C%E3%82%93%E5%89%A4



混合診療」という障壁、高額の医療費…「矛盾」と戦って勝った女性患者の記録

2010年10月31日(日)現代ビジネス

余命3ヵ月の卵巣ガン患者に免疫療法と抗ガン剤治療を併用して行った結果、2ヵ月でガン細胞が消滅した---。

 ガン治療に関する驚くべき報告がなされたのは、8月22日から6日間、75ヵ国、約6000人の医療関係者・研究者が参加した今年の「第14回国際免疫学会議」でのことだ。

 この治療を施されたのは、45歳の女性、杉本由佳さん(仮名)。杉本さんの病状は、ステージⅢcの卵巣ガンで、腹膜やほぼ全身のリンパ節に転移していた。正常値が35以下の腫瘍マーカー(CA125・註1)の値は911を示した。今年1月、子宮、卵巣などの摘出手術を行ったが、リンパ節などに残るガンを完全に取り除くことはできなかった。

 そんな杉本さんを救ったのが、蔵前内科クリニック(東京都台東区)の曽振武(そしん ぶ)院長に勧められた、NK(ナチュラルキラー)細胞を使った免疫療法と抗ガン剤治療の併用だった。

 曽院長は、この免疫療法と抗ガン剤治療を組み合わせたことで、双方の効用を最大限に引き出し、ガン患者を救うことに成功したのだ。再発の可能性を考慮に入れたとしても、曽院長が行った療法は、末期ガン患者の希望をつなぐものとして、学会でも注目されることになった。

 だが、ガンが消えるまでに杉本さんの前に立ちはだかったのは、教科書通りに抗ガン剤治療だけを勧める大病院の慣例と、後述する混合診療という障壁=高額の医療費負担だったのである---。

 杉本さんが身体に異常を感じたのは、1年ほど前のことだった。

「昨年の9月頃だったと思います。腰のあたりにコリッとしたものを感じたのが始まりでした。それは徐々に大きくなっている感じがして、かかりつけの病院に行くことにしたんです」

杉本さんが訪れたのは、東京・新宿区内にある総合病院だった。検査を終えると、主治医は黙って診察室の裏に入って行った。だがその医師の話し声が筒抜けで、杉本さんは不安が現実となったことを知った。「入院の手配をして」---。

「診察室に戻ってきた先生は、深刻な顔をしていました。コリコリしたものは10cmほどの塊になっていたらしく、『卵巣ガンかもしれない。詳しく検査しましょう』と言われました」(杉本さん)

 精密検査の結果は、やはり卵巣ガンだった。まもなく、腹膜や全身のリンパ節に転移していることが判明した。ガンの進行度は、前述の通りステージⅢc。進行ガンで、余命は3ヵ月だった。

 卵巣ガンは一般的に、ステージⅠ~Ⅱであれば手術で完全に切除できるが、Ⅲ~Ⅳになると手術だけでは完治できないとされている。

「何を言われているのか分からない感じで、自分がドラマの中にいるようで現実感もありませんでした」(杉本さん)

 主治医は手術で早急にガンを取ることを勧めた。

 しかしその一方、「ガンが膀胱の上の大きな血管の上にベタッと癒着している状態なので、すべては取り切れないかもしれない」と、診察や説明の中で「治る」という一言を口にすることはなかった。

 皮肉なことだが、主治医のあいまいな態度が、結果として杉本さんの命を救うことになる。恐怖心が拭えない杉本さんは、夫が見つけてきた蔵前内科クリニックの門を叩いたのだ。

 この時、曽院長がさも当たり前のことのように言った言葉を記憶している。

「ガンは治せるからね。大丈夫だからね」

定的なニュアンスの言葉を総合病院で聞き続けた杉本さんは、「精神的にすごく楽になれた」という。杉本さんは総合病院での手術後に、蔵前内科クリニックで治療を受けることを決めた。

「抗ガン剤には賭けられない」

 杉本さんが受けることを決めたNK細胞療法とは免疫療法の一つで、人間が本来持っている免疫力を回復あるいは増強することでガンに打ち勝つという治療だ。患者から30~50cc程度の血液を採取し、リンパ球の一種であるNK細胞を抽出する。

 これを無菌状態で約2週間増殖させ、再び体内に戻す方法である。培養によって増殖させるNK細胞の数は30億~50億個。健康な人の場合、血液中のNK細胞は5億~10億個なので、最大10倍のNK細胞が注入される計算になる。

「ガンを退治できる最大のポイントは、NK細胞を増やすとCD4と呼ばれるリンパ球が増えることにあります。CD4はガンを倒す司令塔のようなもので、CD4が増えればガンに対する免疫力が向上するのです」(曽院長)

蔵前内科クリニックは '98 年からNK細胞療法を取り入れており、日本におけるNK細胞療法の草分けだ。

 訪れる患者の多くは他の病院でさじを投げられた進行ガンか末期ガン患者が多い。NK細胞療法だけでなく他の病院で抗ガン剤や放射線治療などを並行して受ける患者も多いが、5年生存率は2割弱あるという。

 日本においては、ガンが発生部位から離れた臓器に転移している末期ガン患者の5年生存率は8.7%なので、蔵前内科クリニックの実績がいかに突出しているかが分かるだろう。

 1月末、杉本さんは総合病院で子宮摘出手術を受けたが、やはりガンは取り切れなかった。

 手術前に担当医からは「ガンが取り切れなかった場合、抗ガン剤治療をしましょう」と簡単な説明はされていたが、手術後改めて抗ガン剤治療を勧められた。しかし、杉本さんには抗ガン剤に対する不安があった。

「抗ガン剤治療で身体がボロボロになった友人が身近にいたからです。自分の子供がまだ小さいのに、身体がどうなるか保証のない抗ガン剤治療に賭けるわけにはいかない、と思いました」


 そんな杉本さんの心配をよそに、担当医は『治療法は抗ガン剤しかない』と言うばかり。

 普通の人なら大病院の医師の勧めをなかなか断れないものだが、杉本さんは、「免疫療法をやってみたい」と医師に告げ、2月初めに総合病院を退院し、NK細胞療法を受け始めた。

曽院長が回想する。

「抗ガン剤を使うにはリンパ球CD4が充分にないとダメなのです。しかし、この時の杉本さんはCD4が正常値の半分にまで落ちており、抗ガン剤治療を行うのは危険でした。

 CD4が不足した状態で抗ガン剤を使うと、抗ガン剤で死ななかったガンが、免疫力が落ちているスキをついて一気に全身に転移してしまうからです。

 しかも、抗ガン剤の影響でCD4自体もやられてしまい、数が減って元に戻らなくなってしまいます」

 退院直後の2月頭から始めたNK細胞療法は4月末に1クール12回が終了した。だが、治療の成果を確認するため5月初めに「PET/CT」で検査をしたところ、予想に反してガンは悪化してしまっていた。

「若いのでガンの勢いが非常に強く、全身のリンパだけでなく、脾臓にまで転移していました。こうなるとNK細胞療法だけではガンを退治できません」(曽院長)

 そこで、曽院長はNK細胞療法に加え、抗ガン剤も使うことを杉本さんに勧めた。当初、正常値の半分にまで落ち込んでいた免疫力(CD4の数値)も正常値に回復し、それを維持できていた。

「免疫力が正常に戻った状態で、NK細胞を大量に体内に送り込んでいれば、抗ガン剤を使ってもCD4は減らず、むしろ増えていく。このため抗ガン剤本来の効果が発揮されるのです」(曽院長)

 曽院長はこのタイミングで抗ガン剤を使えば効果はあると確信していた。しかし、杉本さんのショックは大きかった。

「抗ガン剤と聞いた時『私はもうダメなのか』と思いました」

 迷い、動揺したが、「もう他に選択肢はない」と自分に言い聞かせ、抗ガン剤治療を受けることを決意する。

そして、ガンが消えた!

抗ガン剤治療は保険が適用されるが、NK細胞療法は自由診療、つまり全額自己負担である。蔵前内科クリニックの場合、1クール12回で240万~360万円もの費用がかかる。

 しかも、日本の医療制度では、保険診療と自由診療の二つを同時に受ける混合診療を選択すると、自由診療分だけでなく保険が適用されるはずの抗ガン剤治療も原則的に全額が患者の自己負担となってしまう。

 杉本さんが大病院で抗ガン剤を勧められた理由の一つには、この混合診療の問題がある。

「今の保険医療において、杉本さんのような病状で使用できる治療法は抗ガン剤しかありません。保険がきかなくなるので医師は自由診療との併用を患者に勧めることができないのです」(曽院長)

杉本さんはNK細胞と抗ガン剤の混合診療を始めることになったのだが、設備がないので蔵前内科クリニックでは抗ガン剤治療を受けることができない。結局、埼玉県所沢市のクリニックで抗ガン剤治療を受けることになり、5月末から治療を開始した。効果はすぐに顕れた。

「腰のあたりにあったコリコリしたものが日に日に小さくなっていくのが分かりました。1ヵ月後、腫瘍マーカー(CA125)を調べたのですが、併用治療前には一時1554にまで上昇した値が173と一桁も減っていたのです」(杉本さん)

 さらに1ヵ月後には、腫瘍マーカーの値は15.5と正常値にまで下がった。「PET/CT」でも、ガンがきれいに消滅していることが確認された。ガン消滅から3ヵ月近く経ったが、今のところ、杉本さんに再発の予兆は現れていない。杉本さんのガンはきれいに消えたのだ。

 NK細胞療法は末期ガン患者の希望となりえるのだ。杉本さんのケースについて、東京女子医科大学先端生命医科学研究所の有賀淳教授はこう分析する。

「抗ガン剤治療とNK細胞療法を併用して効果が高かったという結果が出ることは不思議ではありません。免疫療法の一つである『がんペプチドワクチン療法』(今年5月に厚生労働省が高度医療として承認)の臨床試験でも、抗ガン剤を一緒に使い効果が出たという話も聞いています。

 

杉本さんはNK細胞と抗ガン剤の混合診療を始めることになったのだが、設備がないので蔵前内科クリニックでは抗ガン剤治療を受けることができない。結局、埼玉県所沢市のクリニックで抗ガン剤治療を受けることになり、5月末から治療を開始した。効果はすぐに顕れた。

「腰のあたりにあったコリコリしたものが日に日に小さくなっていくのが分かりました。1ヵ月後、腫瘍マーカー(CA125)を調べたのですが、併用治療前には一時1554にまで上昇した値が173と一桁も減っていたのです」(杉本さん)

 さらに1ヵ月後には、腫瘍マーカーの値は15.5と正常値にまで下がった。「PET/CT」でも、ガンがきれいに消滅していることが確認された。ガン消滅から3ヵ月近く経ったが、今のところ、杉本さんに再発の予兆は現れていない。杉本さんのガンはきれいに消えたのだ。

 NK細胞療法は末期ガン患者の希望となりえるのだ。杉本さんのケースについて、東京女子医科大学先端生命医科学研究所の有賀淳教授はこう分析する。

「抗ガン剤治療とNK細胞療法を併用して効果が高かったという結果が出ることは不思議ではありません。免疫療法の一つである『がんペプチドワクチン療法』(今年5月に厚生労働省が高度医療として承認)の臨床試験でも、抗ガン剤を一緒に使い効果が出たという話も聞いています。

 ただし、抗ガン剤、NK細胞どちらが効いているのか、ということになると分かりませんし、すべての化学療法との併用で効果が出るとも思えません。どういう種類の抗ガン剤との併用が良いのかなど、検証する必要があるでしょう」

 NK細胞療法のような免疫療法は、外科手術、抗ガン剤、放射線に次ぐ「第4のガン治療」として期待されているが、前述の通り制度的に患者はその治療を選択しにくいのが現状なのだ。

 医療とは患者のためのものだ。そう考えた時、結論は自ずと見えてくる。効果が期待できる免疫療法を速やかに保険適用の治療にすれば、患者の負担は減り、ガン治療の選択肢は広がる。有効な免疫療法について、国の予算で検証し、保険適用の道が開けることに期待したい。

DIAMOND online 2010年12月29日  

 未来学者として『未来の衝撃』『第三の波』『パワーシフト』『富の未来』など数多くのベストセラーを世に送り出してきたアルビン・トフラーとハイディ・トフラー夫妻は2010年、『未来の衝撃』刊行40周年を迎えたことを機に、「今後の40年を左右する40の変化」(英題は「40 FOR THE NEXT 40」)を発表した。これは、世界各地で政治、経済、社会、テクノロジーなど分野ごとに行った分析調査をベースに導き出された予測であり、国家や企業そして個人が未来を左右する原動力を知り、いかに生きるべきかを考察するための道しるべともなるものだ。ここでは、トフラー夫妻の右腕であり、報告書作成を担当したトフラー・アソシエーツのマネジングパートナー、デボラ・ウェストファル氏へのインタビューをお届けする。その前に、この貴重な報告書の骨子に目を通していただきたい。

<政治分野>

●世界各地でリーダーシップが交代することによって、(政治の)目標や関係性が激変する(補足(※)今後3年間で約80カ国において大統領選が行われる/国家のリーダー的な地位に就く女性が空前のペースで増える/世界各地で宗教グループが政府に進出しようとする)
●世界における国家パワーは、誰がどこでそれを行使するかという点において、ますます多極化する(※ブラジル中国、インドの経済はますます米国EU中心ではなくなっていく)
●非政府的存在のパワーが高まり、国家のパワーや影響力により広く挑戦するようになる(※ここでいう非政府的存在とは、プライベートセクター、NGO、宗教グループ、国家を上回るリソースを持つことで非常に大きな力を与えられた個人“hyper-empowered individuals”等を指す)
●社会貢献資本家(philanthro-capitalists)が、世界的スケールで影響力とパワーを行使するようになる(※ビル&メリンダ・ゲイツ財団のような組織がやがては、第三世界諸国における教育や疾病根絶では、国家組織や多国間組織よりも大きな影響力を持つようになる)

<社会分野>

●急速な都市化と世界規模の人口移動によって、メガ都市が生まれる。
●世界の人口と人口構成の変化が、国家の財政的、社会的、経済的な重荷となる(※先進諸国の人口は、本国生まれの高齢者と他国から移民してきた若年層で構成されるようになっていく)
●ソーシャルネットワークは、新しい方法による影響力行使を可能にしていく(※政府や企業はそれまでつながることがなかったコンタクトに触れることになり、それによって新たなリスクに晒される)
●消費者が選択を動かすようになる(※コミュニケーション技術やソーシャルネットワークがますます影響力を持つようになり、製品やサービスの提供において決定的ファクターとなる)
●組織が不適切な行為を隠すことは不可能になる(※情報量が急速に増えることに加えて、プロフェショナル・コンシューマ向けの分析ツールが“拡散”することで、前述したhyper-empowerd individualsが組織の行動を見張り、その情報を他者に伝えやすくなる)

<経済・ビジネス分野>

中国は、長期に渡り、世界的な経済パワープレイヤーであり続ける(※通貨の分野ではブラジルインドなどの新興国とチームを組み、エネルギーや原材料の分野ではベネズエラやアフリカなどの他国とパートナーシップを組む)
●南米は、長期に持続する経済成長によって姿を変える(※国際的な影響力を回復させるほか、ベネズエラのような国が域内での米国の影響力に挑戦する)
●無用知識のコストが高くなり、国際競争力に影響を与えるようになる(※無用知識=OBSOLEDGEとは、obsolete(役に立たない)とKnowledge(知識)を合成したトフラーによる造語。全ての知識には寿命があり、どこかのポイントで無用になっていく。しかも無用になっていくペースは加速する。知識を新たなものに保つためのコストは上昇し、意思決定に影響を与える)

<テクノロジー分野>

●イノベーションのためのオープンなネットワークが、世界中の専門家への迅速なアクセスを可能にする
●プロセシングとストレージの新技術が、情報処理の方法を根本的に変える(※世界はペタバイトの時代に入り、10~15年以内に量子コンピューティングが現実的な可能性を帯びる)
●大量生産は、複雑な製品・サービスのオンデマンド・カスタム生産に取って代わられる(※小さく俊敏な企業が顧客の関心を集めることで、大メーカーと効果的に競争していく)
●企業は、「コネクター」となることによって、その価値を高めていく(※企業は引き続きアップルのiPhone型の価値創造を追求する。すなわち製品をクリエートするのではなく、市場をホストし、生産者と消費者をコネクトすることから収益を上げる)

<環境分野>

●エネルギー競争は激化し、国家権力を変動させる(※エネルギー資源は経済戦争の中で影響力を及ぼすための“てこ装置”として使われる)
気候変動は、脆弱な国家にとって紛争の種となる(海面レベルの上昇に伴う領土の喪失によって引き起こされる人口移動が原因で、紛争が起きる)

さて、トフラー夫妻が設立したトフラー・アソシエーツは、こうした未来の波にどうすれば乗ることができるか国家や企業などに対するアドバイスを行っている。では、「今後の40年を左右する40の変化」報告書作成を担当した同アソシエーツのマネジングパートナー、デボラ・ウェストファル氏へのインタビューをお届けしよう。(聞き手/ジャーナリスト、瀧口範子)

――「40の変化」からいくつか具体的に解説をお願いしたい。政治分野では「非政府的存在のパワーが高まり、国家のパワーや影響力により広く挑戦するようになる」という項目がある。その中で「高度にエンパワーされた個人集団(hyper-empowered individuals)」が果たす役割の重要性が語られているが、そもそも「高度にエンパワーされた個人集団」とはどんな存在なのか。

 たとえば、1人の人間が何100万人ものフェイスブックのメンバーを喚起して、何らかの運動を起こすようなことだ。これはいい意味でも悪い意味でも起きる。テクノロジーの仲介によって個人がエンパワーされ、仲間を見つけていくのだ。あるいは、NGOの数が増えていることも同じだ。数年前、インドには一握りのNGOしかなかったが、今では50万ものNGOがそれぞれの影響力を行使している。これは、インド一国での話だ。ここで見られるのは、国家という存在からこうした組織にパワーがシフトしているということだ。

――なぜそうしたことが起こっているのか。NGOは政府よりも柔軟に行動できるからか。

 テクノロジーによって知識を得て、他人ともコネクトできるという可能性を手にした人々が力を得た結果だ。今や、地球上の誰とでもコネクトできる状態になったと言っても過言ではない。これを起点に、これから真のエンパワーメントが生まれる。

 フェイスブックひとつとっても、今はただおしゃべりをネットに上げているに過ぎないが、世界や地域の深刻な問題を解決するために、あるいはセキュリティのためにこうしたネットワークが集結することも考えられる。

――非政府的な存在が大きくなった時、政府はどのような存在になるのか。

 政府は、その時々に社会から求められる要望に応えられるように変化するしかない。なぜ政府があるのか、政府の目的は何かについて今多くの疑問が出ているのは周知のとおりだ。いずれ、基礎工事をやり直すような時期がくるだろう。根本的な変化が起こるだろう。政府はこれまで信頼を置いてきたルールが未来においては通用しないことを思い知らされるだろう。既得権にしがみついて同じことをし続けるのではなく、鍬を持って未来の大地を耕さなければならないことを理解する必要がある。

――同じ政治分野で「社会貢献資本家(philanthro-capitalists)が、世界的スケールで教育や疫病根絶などに影響力とパワーを行使するようになる」としている。象徴的な例として、ビル&メリンダ・ゲイツ財団の存在を挙げているが、つまりこれは巨額の資産を持つ個人が影響力を増すということか。

 金だけの力とは限らない。同じ政治分野で「スマートパワーが、国防上の問題の解決に活用される」と予測したが、貧困問題、政治不安、移民問題、若者の雇用問題などは、もはや軍事力や金の力だけでは解決できない。知識やスキルなど他のスマートパワーによって、道路や水道を整備し、国の経済力を高める必要がある。そうした意味で、政府だけでなく、企業、NGO、個人などが協力するということだ。

――テクノロジー分野では、「イノベーションのためのオープンなネットワークが、世界中の専門家へのアクセスを可能にする」という項目がある。オープンネットワークによってイノベーションが進められるようになると、企業自体はどんな組織になるのか。小規模なものでいいということか。

 その企業のコア自体は残るが、ピラミッド構造ではなくパンケーキ構造になるだろう。それが、外部も含めたネットワークに組み込まれるということだ。その企業のコアの強みが1枚のパンケーキとなり、複数あればそれが積み重ねられる。その中でのリーダーの素質は、これまでのマネージャ的なものからコーチやメンターのようなものに変化するだろう。つまり、ボスではない違ったタイプのリーダーだ。それに応じて、管理や業績を測る基準も変わる。これまでとは異なった素質、プロセス、管理方法、構造が求められる。これを可能にするためには、膨大な量の才能を活性化させなければならない。

――大企業は存続するのか。

 依然として存在し続けるだろう。すべてが小さくなるわけではない。ただ、その企業の財産は何か、その企業がどう評価されるのかは変化する。これまでは売り上げや利益、規模、どれだけの資産を持つかによって、つまり産業的尺度によって測られてきたが、未来においては、世界が抱える問題をどう解決するかによって評価されるだろう。見えないものが、その企業の財産を測る要素として入ってくるわけだ。

――興味深い項目が、経済分野で挙げられている「無用知識(obsoledge)」だ。知識がすぐに陳腐化して無用の知識になるので、「知識を新たなものに保つためのコストがグローバル競争の要になる」というものだ。どうすれば、そのコストを低く保てるのか。

 無用知識とは、物置に打ち捨てられたガラクタのようなものだ。もう使わないが、捨てるには惜しい。変化が急速なため、そんな無用の知識はどんどん貯まっていく。未来においては、無用知識を処理するビジネスが出てくるだろう。物置に入って行って整理したり、いい知識を探し出したり、古い知識をリサイクルして新しいものに変えたりするようなビジネスだ。コンサルタントかもしれないし、データベースやソフトウェアとなるかもしれない。

――さて、この「40の変化」は国家や企業向けに役立つ指針だが、この変化に対して個人はどう準備すればいいのか。

 急速な変化の中で生き残るために、個人は変化を見定めて賢く対応しなければならない。目を見開いて、世界で起きていることを理解する必要がある。もっと旅行して方々へ出かけ、たくさんの本を読まなければならない。世界の出来事の点と点を結びつけるために、幅広い理解力が求められるからだ。そうすることによって、そこに機会を見出すことが可能になり、この変化を恐怖として捉えるのではなく、歓迎すべきものとして捉えることができるはずだ。

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