[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
12・28内閣改造の可能性?仙谷更迭で「小沢系」細野、樽床、松本を取り込み!
2010年12月25日(土) 現代ビジネス 歳川隆雄
「恐らく菅首相にとって唯一の政治主導ではなかったのか」---。12月20日に首相官邸で行なわれた菅直人首相と小沢一郎元民主党代表との2者会談後に、その概要を聞いた官邸関係者が漏らした言葉である。
では、「政治主導」とはいったい何を指しているのか。菅首相は小沢元代表に対し繰り返し衆院政治倫理審査会(政倫審)への出席を求めたが、小沢氏が拒絶、会談は決裂したというのが新聞各紙の報道だった。そしてこの会談で小沢氏は、
(1) 私は間もなく刑事被告人になるのだから国会招致には応じられない
(2) 私が政倫審に出席したら1月召集の通常国会の審議がスムーズに動く保証はあるのか
(3) 民主党はこれまでの地方選挙で相次いで負けているが、現状のままで4月の統一地方選に勝算はあるのか
---との問いを執拗に繰り返しというのだ。
一方の菅氏は陪席した民主党本部職員幹部(同氏の陪席は報道されていない)に対し、小沢氏が「国会の決議があれば国会招致に応じる」と語った発言記録を持ってくるよう指示、そのメモを手元に置き読み上げながら政倫審出席を改めて促す場面があったという。
件の官邸関係者が言う「政治主導」とは、菅首相の「反小沢」は強烈なものであり、「小沢切り」に向けての不退転の決意であるとを言っているのだ。
当面の焦点は、12月27日に開かれる岡田克也幹事長が主宰する民主党役員会である。輿石東・参院議員会長ら小沢支持グループも出席する席で、岡田氏が国会出席に法的拘束力があり、偽証罪にも問われる衆院予算委員会での小沢氏証人喚問応諾を党として最終決定できるかどうか、である。
「反小沢」で意思統一ができている菅首相、岡田幹事長、仙谷由人官房長官のトロイカ体制は、実はすでに「小沢喚問」と内閣改造・党役員人事で現下の厳しい局面を中央突破することで合意している。
それはつまり、早ければ役員会直後に小沢氏に対し「離党勧告」を行う可能性があるということである。と同時に、最速で翌28日にも内閣改造・党役員人事を断行する可能性を秘めているのだ。ただ、現時点では年明けの1月13日の党大会前に行なわれるというのが永田町では支配的な見方である。
時期はともかく同人事の最大の焦点は、参院で問責決議が可決された仙谷官房長官の去就である。自民党(谷垣禎一総裁)だけでなく公明党(山口那津男代表)も仙谷更迭を通常国会での予算審議の条件にしているため、仙谷氏が官房長官から外れるのは不可避であろう。
新官房長官に玄葉氏の名前!
では、次期官房長官の有力候補は誰なのか。2人いる。ひとりは、玄葉光一郎国家戦略担当相兼党政調会長である。玄葉氏起用となれば、仙谷氏は政調会長として党執行部入りし、玄葉官房長官を党側から全面支援する。そしてこの人事が断行されれば、内閣改造は中規模となる。
もともと仙谷官房長官が兼務している法相の補充人事は行わなければならない。加えて、やはり更迭となる馬淵澄夫国土交通相の後任、そして新たに国家戦略担当相を任命することになる。小沢系と見られているが同氏とは一線を画している細野豪志前幹事長代理が国家戦略担当相か、国交相のいずれかで入閣する。同じ小沢系の松本剛明外務副大臣も有力視される。そして、自民、公明両党にパイプを持つ樽床伸二衆院国家既報政策委員長を党の国対委員長に返り咲かせる。
さらに内閣改造の「目玉」は、新たに環太平洋パートナーシップ協定(TPP)担当相を設置、先に朝日新聞社を定年退職した船橋洋一前主筆の起用と、私は見ている。菅首相が改造・党人事を最小限にとどめることを優先すれば、仙谷官房長官と枝野幸男幹事長代理のスワップ人事と国交相、法相人事だけになる。
いずれにしても、ハッキリ言えることは、「小沢切り」を前提とした内閣改造と党役員人事で仙谷更迭に踏み切り、小沢系とされる樽床、松本、細野の各氏を取り込むことができれば、約150人と豪語している小沢支持グループが党大会前に"菅降ろし"の大義名分を失い雲散霧消することは避けられまい。
櫻井よしこ新潟講演会「誇りある日本をとりもどすには」
日時:平成22年12月26日(日)14:00~16:00(会場 1:20~)
会場:新潟テレサ(ホール)
入場料:1,000円(先着 800名)
お申込み・お問い合わせ
新潟県倫理法人会新潟地区事務局
TEL:025-240-4950
FAX:025-240-4951
『週刊新潮』2010年12月23日号 日本ルネッサンス 第441回 櫻井よしこ
2010年の日本は鳩山由紀夫、菅直人両首相の下で想像を絶する迷走を重ねた。仙谷由人官房長官は迷走を抑制するどころか、暴走を促す要素になった。日本を愛しているとは思えない人々が中枢を占める民主党政権の出現で日本国の根幹が急速に溶け始めたと感じた一年だった。
2011年を日本再生の年にするには何をすべきか、『証言 三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決』(文藝春秋)が考えるきっかけになる。1960年の安保闘争から70年の安保闘争まで、左翼的思想で満ちていた日本で孤高の闘いを続けた福田恆存と三島由紀夫はたった一度、『論争ジャーナル』という雑誌で対談した。本書はその振り返りから始まる。福田と三島を語るのは両氏の側近くにいた佐藤松男氏と持丸博氏だ。佐藤氏は70年、福田を顧問とする日本学生文化会議を結成した。持丸氏は68年に三島と「楯の会」を結成したが翌年10月に退会、三島の割腹は70年11月である。
三島の死から40年の今年、多くの三島論が展開された。三島と対比する形で福田論も展開された。その中で、持丸、佐藤両氏が論じた本書は抜群に面白い。
戦後日本の在り方への危機感は三島と福田に共通していた。三島は昭和44年2月号の『論争ジャーナル』で「反革命宣言」を発表したが、それは、「日本はもうどうにもならない状況に来ている。ここで本当に革命的状況が起きるかもしれない。だから自分たちは反革命のために起ち上がる」という主旨だった。共産政権誕生の可能性に対する断固たる反対である。
同じ頃、福田も「サンケイ新聞」(現在は産経新聞)に「滅びゆく日本」を書いた。敗戦以来20年余り、「日本は左翼の思うつぼにはまってきた。五年あるいは十年後には本当に革命が起きてしまうかもしれない」というもので、こんな国になった理由を福田は、「戦後になって自分たちの歴史、過去を否定したために国家や民族の連帯感や共同体意識というものがなくなった」ゆえだと喝破した。
「自分一人」の気概!
両者の危惧は現在の日本で現実になった。菅首相、仙谷長官、岡崎トミ子国家公安委員長ら皆、実態としての社会党員である。千葉景子氏は落選後も法務大臣を務め、いま「検察の在り方検討会議」の座長として、日本の司法の基盤を変えつつある。三島や福田の恐れた左翼政権はいま堂々と日本に君臨するのだ。
そんな日本を三島はこう論じた。「私は昭和が二十年でぷっつり切れている。それ以降はもう昭和とは思っていない」。
佐藤氏は、大熊信行が『日本の虚妄|戦後民主主義批判』の序文で右の三島発言に触れ、米国が日本に打ち込んだ2本の杭を指摘したと紹介する。杭は「日本国憲法」と「日米安保条約」である。左翼進歩派は前者に、保守派は後者にしがみつくが、双方を打破しない限り、日本の真の独立は回復出来ないという、大熊の主張はもっともだ。
日本は如何にして杭を抜いて真の独立を回復するのか。持丸氏は、三島の楯の会への言葉を引いた。
吉田松陰は非常に孤立し、自分一人しかいないと感じ始めるが、そう思った瞬間から明治維新は動き出した。自分一人しか恃むものはいないというこの気概こそ大事で、その有無が楯の会と左翼大衆運動との違いだと三島は強調したという。
片や佐藤氏も、福田の言葉を紹介する。「国家や民族が、自分を全然支持してくれないかもしれない。それでもいいという自覚が大切である」「自分一人で立って行ける人間」「『俺は味方は要らない』という人間だけがひとつの目的のために集団を作ること」だと福田は説いた。
日本の政治史を振り返るとき、「自分一人」の気概をもっていた政治家として思い浮かぶのは、岸信介だ。気概を失った日本の現状を、福田や三島が生きていたら、どう考えるか。佐藤、持丸両氏はその観点から日米安保論、憲法論などで保守に対しても厳しい論を戦わせて興味深い。だが、両氏はひたすら米国を論ずるが、中国には全く言及しない。
両氏の論から抜け落ちたその点を補う意味で、楊海英氏の『墓標なき草原 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』(岩波書店)が役に立つだろう。
中国を幻想なしにとらえる視点と十分な備えのみが、日本の命運を担保するいま、私たちは中国人と中国を知っておかねばならない。本書は、日本の約3倍の広さの内モンゴル自治区での戦後60余年間がどんな歳月だったのかを、14人のモンゴル人が語ったものだ。
「宿命として愛す」!
日本は昭和7(1932)年に満州国を建設し、内モンゴルの東部地域を編入、各地に教育機関をつくり、モンゴルの知識人多数を育成した。しかし、敗戦で日本が撤退し、そこに生じた権力の真空状態に中国共産党が侵出した。1949年に成立した中華人民共和国は「モンゴル人を植民地から解放した」と宣言し、内モンゴル自治区を定めた。自治区のモンゴル人は80万人、入植者の漢人は500万人に膨張し、モンゴル人は圧倒的少数派に転落した。
以降、彼らは漢人に迫害され続けて現在に至る。上下2巻の本書は、現在も進行中の虐殺と弾圧の鮮烈な記録である。凄まじい虐殺を伴う文化大革命は内モンゴルから始まった。そこには「北部辺疆に住む『過去に対日協力の前科をもつ』モンゴル人たちを粛清して、国境防衛を固めてから、中国全土の文化大革命に専念するため」という明確な戦略があった。
モンゴル人大虐殺を正当化する漢人の理論的根拠は、中国共産党に潜り込んだ「牛の毛の如く無数にいるスパイ」を粛清するための政治キャンペーン、整風運動だったという。中国人民解放軍は50種類以上の拷問を、モンゴル人に実施したが、その実態は激しい拷問を生き抜いた人々の証言や、頭蓋骨に数本の釘が打ち込まれていたり、あらゆる凌辱の痕跡を残している遺体からも明らかになったことが本書に記されている。モンゴル人の民族自決運動は殺戮によって葬り去られた。そのプロセスを明らかにした本書は、中国幻想に染まり続ける日本人に漢民族の実相を突きつけている。
日本に大きな影響を及ぼす米国や中国の実態について考えるとき、私は穏やかな文明を育んできた日本を慈しまずにはいられない。私の脳裡には「宿命として愛す」という福田恆存の言葉がよぎる。両親を愛するのはそれが自分の父親であり母親であるからだ。日本を愛するのも同様だ。愛国心は日本国の優劣ゆえではなく自然の定めた摂理であり、愛国心の根拠は宿命観に置くべきだと語った福田の言葉が素直に私の心深くに浸透していくのだ。
2010年12月24日 DIAMOND online 野口悠紀雄 [早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授]
前回見たように、2001年以降の国債消化は、家計の預金増加によってではなく、主として企業の借入が減少することによって消化されてきた。
もう少し詳しく見ると、つぎのとおりだ。金融機関の負債総額は、1999年末までは増え続けた(96年末から99年末までに約150兆円増加)。しかし、その後はほぼ一定になっている。以下では、96年末から01年末までを「前半」、01年末から06年末までを「後半」と呼ぶことにしよう。
前半期間に金融機関負債総額が増えたのは、家計の預金が増えたことが主たる原因である。しかし、後半期間では、家計の預金残高はほとんど横ばい状態になってしまった。こうなった原因は、貯蓄率が低下したことと、金融緩和によって家計の利子所得が減少したことである。
金融機関は、前半期間では増加した預金を原資として国債を購入することができた。これは、「健全な」国債消化と見なすことができる。
しかし、後半期間では負債総額が増えないので、貸付を減少させることによってしか国債を購入できなくなってしまった。
この状況を【図表1】に示す。
(なお、前半期間でプラスであった負債面の「現金・預金」が後半でマイナスになり、負債面の「株式以外の証券」がプラスになっているのは、財政投融資制度の改革に伴い、公的金融機関の資金調達が預金から債券に変わったためである)。
あと9年間程度で国債消化が行き詰まる!
「貸付を減らすことによって国債を購入する」というメカニズムは、異常なものだ(「不健全なものだ」と言ってもよい)。
しかし、これまでは大きな問題を引き起こすことはなかった。それは、企業の資金需要が低水準のままであったからだ。このため、長期金利が高騰することはなかった。つまり、国債が暴落することはなかった。実際には、長期金利はむしろ低下傾向を示したので、国債を保有する金融機関はキャピタルゲインを得ていたことになる。
しかし、これは、いつまでも継続できるメカニズムではない。金融機関の貸付がゼロになった段階で、国内消化は不可能になる。では、Doomsday(世界終焉の日)は、いつ到来するのだろうか。
ここで注意すべきは、新規国債発行額は、経済危機後の期間においてそれ以前より増加していることだ。2001年度以降、年間の新規国債発行額は30兆円程度であり、06、07年度は30兆円を下回っていた。しかし、経済危機後は、50兆円を超す水準になっている。地方債や公的金融機関が発行する債券も合わせると、年間60兆円程度の水準が今後続く可能性がある。
ここでは、簡単化のために金融機関の資金調達面は現在と同じ状態が継続するものとし、資産面の調整だけで国債購入がなされるものとしよう。
金融機関の貸出残高は09年末で約1200兆円だ。したがって、仮に毎年60兆円ずつ減少すれば、20年後の2029年末にゼロになる。
ただし、貸出の圧縮は、ある段階を超えれば困難になるだろう。とくに、家計に対する住宅ローンは長期の貸出が多いから、簡単にはゼロに圧縮できない。この残高は、【図表1】に示すように、民間金融機関と公的金融機関を合わせて09年末で190兆円だ。これが圧縮できないとすると、圧縮可能額は09年末で1010兆円になる。したがって、毎年60兆円ずつ減少すれば、17年後の2026年末にゼロになる。
なお、以上で見たのは金融機関全体である。しかし、国債の保有は、本来は民間金融機関が中心になるべきものと考えられる。
なぜなら、まず中央銀行が国債を長期にわたって保有するのは、通貨増発を招くから望ましくない。また、公的金融機関は、中小企業金融などそれぞれの政策目的を実現するために設立されたものであるから、資産の多くが国債になってしまうのでは、設立趣旨に反する。
実際、国債の残高を、「中央銀行」「預金取扱金融機関」「その他金融仲介機関」(公的金融機関はここに含まれる)別に示すと、【図表2】のとおりだ。
央銀行は、他の金融機関に比べて、短期債の比重が大きいことが分かる。
2001年以降の期間を見ると、国債の保有額を増やしたのは、預金取扱金融機関だ。だから、今後も、民間の金融機関を中心に消化がなされるべきと言えよう。
そこで、民間金融機関の住宅貸付以外だけと考えよう。すると、09年末の残高は540兆円程度だ。したがって、毎年60兆円ずつ減少すれば、あと9年程度しかもたないことになる。
金融機関の資産が悪化。
日銀が出動すればインフレに! 国内での国債消化が困難になると、金利が上昇する。
「貸出が減り続けて国債が増加する」という状況が続くと、金融機関のポートフォリオは、「資産のほとんどが国債」という異常な状態になる。これは、金融機関の健全性からみて大きな問題である。
なぜなら、金利上昇は国債の価格下落である。したがって、金融機関の資産が一挙に悪化するからである。
第1に、返済の担保が存在しない。企業貸付なら企業資産がある。しかし、国債にはそれに対応するものがない(建設国債であれば、社会資本があり、その生産力によって所得が発生し、償還されると考えることができる。しかし、現在の新規国債の大部分を占める赤字国債については、こうした資産の裏付けがない)。
第2に、通常の貸付のデフォールトは、資産の一部が劣化するものだ。だから、資産のすべてが悪化するわけではない。しかし、国債は、償還期限の違いはあっても、「国の徴税能力を担保にしている」という意味で同一の資産である。したがって、国の償還能力に疑問が生じると、一挙に悪化する。したがって、個別企業に対する貸付の不良債権化とは比較にならぬ大きな問題を引き起こすのである。
金利上昇を食い止めるためには、これまでの政策を大転換して、日銀が国債を大規模に購入する必要がある。日銀は通貨を発行することによって国債をいくらでも購入できる。
市中ですでに消化された国債だけでなく、新発債の日銀引き受け発行までゆくかもしれない(これは財政法で禁止されているが、国会の議決があれば可能である)。
言うまでもないことだが、これはさまざまな問題を引き起こす。最大の問題は、通貨増発がもたらすインフレだ。
名目で決められているものの実質価値が低下する。定期預金、公的年金など。高齢者世帯はこれに頼っているので、大きな打撃を受ける。
為替レートが円安になる。輸入物価が高騰するため、インフレがさらに加速される。
海外消化を求めれば円安になる! では、海外での消化を求めるとすれば、何が起きるか?
海外での消化が、これまでの国内消化と同じように順調に進む保証は、何もない。外国の投資家は、日本が国全体として国債を滞りなく返済できるかどうかを審査するだろう。
ところが、上で述べたように、国債発行で調達した資金は、現在の予算に見られるように無駄な用途に用いられており、将来の返済能力増強に役立っていない。したがって、「日本国債は危ない」と評価される危険は大きい。そうなれば、日本国債は買い叩かれて暴落する。
例えば、1ドル=100円という為替レートのとき、100円の財政支出資金調達のため、額面1ドルの外貨債を発行したとしよう。これが買い叩かれて50セントでしか売れないことになれば、日本国内で100円の価値があるものが国外では50セントの価値になったわけだから、為替レートが1ドル=200円と円安になったことになる。これは外国からの輸入物価を2倍に高め、国内にインフレをもたらす。
つまり、国内での消化を試みても、海外で消化しようとしても、結局はインフレを避けられないことになる。
これまで述べてきたように、こうした状態がもたらされる基本的な原因は、家計貯蓄率の減少と社会保障支出の増加だ。これらはいずれも人口高齢化によってもたらされるものである。つまり、人口高齢化の帰結は、経済をインフレに陥れることである。デフレでなくインフレこそが、人口高齢化社会の行きつく先なのだ。
なお、上で予想した時点までマーケットが待ってくれる保証はない。以上の事態が実際に起こる前に、マーケットが先取りする可能性は十分ある。
国債が将来暴落すると予想されれば、それ以前に価格は下落する。円安になると予想されれば、資産が海外逃避する可能性もある。そうなれば、円安インフレが前倒しで発生するだろう。
2010年12月23日 DIAMOND online 上杉隆
2010年は日本の政治とメディアにとって大変革の年であった。とりわけ伝統的な記者クラブメディアにとっては、いくつもの変化の波の押し寄せた、象徴的な一年でもあった。
おそらく将来、この2010年こそが、日本にとって、情報の大変革の年として歴史に刻まれることだろう。
なぜ、そこまで断言できるのか。それは今年、「革命」といってもいいほどの政治とメディアの大改革が日本で進行したからである。
今回は2010年の最後のコラムということで、政治、とくにメディアの世界で起きた「5つの革命」について振り返ってみる。
原口前総務大臣の政務三役会議開放は世界にも例のない大英断だった!
1月、原口一博総務大臣の「政務三役会議」のオープン化宣言で衝撃的な一年はスタートした。
前年、政権交代により、外務省、金融庁などの記者会見が戦後初めて開く、という変化は確かに訪れていた。記者クラブ制度にようやく穴が開いたということでそれも当然に画期的なことに違いはなかった。
ところが、年明け早々、原口大臣の打ち出したこの政策はそれどころではない。おそらく、かつて世界のどの国の政府もやったことのない完全な形での行政の透明化であったからだ。
省庁の政策の最高意思決定機関である「政務三役会議」をフルオープンにして、それをメディアのみならず、インターネットで全国民に公開するというやり方には、正直、私自身も度肝を抜かれた。
そんなことをして果たして政策決定ができるのか、あるいは、なにか危機管理上の問題でも発生するのではないか、と逆に心配したものだった。
ところが、それは杞憂に過ぎなかった。むしろ、政策決定のプロセスがオープンになることで、国民の目が届き、役人たちからの雑音も入らず、民主党の求めていた政治主導が達成できたのである。
もちろん、役人を排除したことで、何年も前に済んでいた議論を蒸し返すことや、混乱が生じることもあった。
だが、そうした混乱の中からまた新たなアイディアの生まれることもあり、長い目で見れば効用の方が多かったように思う。
これが一つ目の「革命」だが、残念なことに、その原口大臣は菅首相に「更迭」されてしまった。そして、後任の片山善博総務大臣の最初の仕事は、なんとこの「政務三役会議」をクローズに戻すことだった。これによって、原口大臣の革命的な実験はいったん消滅してしまっている。
鳩山前首相は憲政史上初めて首相会見をオープン化!
3月、鳩山由紀夫前首相が憲政史上初となる首相官邸での記者会見のオープン化に踏み切った。これが二つ目の「革命」である。
首相会見のオープン化を阻んできた日本のメディアは、いまや中国人ジャーナリストからですら、「反社会的態度」(安替)と名指しで非難されている。そうした世界中からの批判的な目は、日本だけにしかない「記者クラブ制度」の限界を示す、象徴的言葉である。
当時の本コラムから引用しよう。
〈そもそも記者会見のオープン化は、国民の知る権利や情報公開の見地から言っても、ジャーナリズム自身が追求すべきことである。それは先進国であろうが、独裁国家であろうが世界中で不断に行われているメディアの当然の仕事のひとつだ。
ところが日本の記者クラブメディアだけは逆なのだ。戦後65年一貫して自らの既得権益を守ることに汲々とし、同業者を排除し、世界中から批判を浴び続けているにもかかわらず、自らの都合のみでその不健全なシステムを維持してきた。
それはまさしく、「カルテル」(孫正義ソフトバンク社長)であり、「人権侵害」(日本弁護士連合会)であり、官僚と結託して国民を洗脳し続けていた「日本の恥」(米紙特派員)なのだ〉(第120回)
首相会見のオープン化は、国民の大部分にとっては、まったくどうでもいいことかもしれない。だが、将来の日本、また日本人にとっては極めて重要な改革の一歩である。
その理由は、繰り返しこのコラムで述べてきたことであるので、ここでは省略する。
岡田前外相が外務省の文書公開を推進する歴史的政治判断!
5月、岡田克也外相が、外務省の文書公開についての「ルール」を定めた。原則30年経過したものはオープンにするというものだが、これも遅れた日本の情報公開制度にとって、小さくない「革命」の第一歩となった。
以下、外務大臣会見録の大臣発言から抜粋する。少し長くなるが、歴史的な政治決断なので当該部分をそのまま引用する。
〈外交記録公開・文書管理対策本部でありますが、3月16日に第1回を開催して以降、5回開催をいたしました。昨日の会合で、一連の対応策 がとりまとめられましたので、その概要を説明したいと考えております。詳細は、別途配付する資料をご参照いただきたいと思います。
4つ申し上げますが、第1点は、国家行政組織法14条に基づく外務大臣訓令として、外交記録公開に関する規則を制定することにいたしました。本日付で施行であります。
いわゆる密約問題に関する有識者委員会の報告書も踏まえ、「30年自動公開原則の徹底」、「政務レベルの関与」ということを明確化いたしました。そして、例外的に非公開とする場合について、具体的にその規則の中に明記する。
例えば、「現在または将来にわたって具体的に国の安全が害される場合」、或いは「他国との信頼関係が損なわれる」といった具体的に最小限のものを列挙して、それに当たらない場合には自動的に公開するということにしたものであります。
しかし、最終的に公開しないという場合には、或いは文書を30年経って廃棄するという判断をする場合には、政務レベルの了承を必要とするということも明記をいたしました。今後はこのルールに則って定期的に対外公表し、外交史料館で閲覧できるようにするということでございます。
第2は、福山副大臣を長とする外交記録公開推進委員会を新たに設置することにいたしました。ここで、膨大な30年を超えた資料の公開審査の優先順位、或いは非公開部分の是非などについて総合的に判断し、最終的に外務大臣の了承を得るという形にしたものであります。この外交記録公開推進委員会には、外部の有識者も加えて意見を得ることにしております。
第1回が6月中旬に開催予定であります。ここで、まず、何から公開していくかということを決めてもらい、最終的には私(大臣)のところで判断するということであります。恐らく日米安全保障に関わる部分を、まず集中的に公開していくことになるのではと思っております。
第3に、こういった文書管理部門について、体制を人員、組織面で強化をするということで、外務省OBを活用するなどして順次増員することにいたします。 現在70人体制を100人体制ということにしたいと考えております。本年夏をめどに文書管理部門の組織を再編し、新たに外交記録情報公開室を設置したいと 考えております。
4番目、最後ですが、文書の作成管理の改善のために、既存の文書管理規則を一部改定する予定であります。また、具体的な文書管理のためのマニュアルの整 備や省員の意識改革のための研修の強化、そして、外交史料館の設備の整備などを行う予定であります。
こういったことを昨日決めまして、今後、順次実施をし ていくということでございます〉(外務省HPより)
この省令によって、外務省においてはようやく同じG7国家のレベルまで肩を並べる制度ができたのだ。
この岡田大臣の決断のおかげで、私たち日本人はここ数ヵ月間だけで、過去の自民党政権が密かに行ってきた政策決定の舞台裏を知るようになったのだ。
たとえば、今月(12月)になって沖縄密約、琉球政府との取り決め、米政府との裏約束などのニュースが次々と報じられているが、それもすべて、この情報公開制度の創設によって真相が明らかになったものばかりなのである。
メディアの主役交代を告げた「尖閣ビデオ」問題!
4つ目の「革命」は、9月の「尖閣ビデオ」問題である。
これは事件そのものではなく、その一報を伝えるメディアの主役が交代したという意味での「革命」である。
この事件によって、ニュース速報は、これまでの伝統的なテレビ・新聞などの記者クラブメディアではなく、「ユーチューブ」や「ツイッター」というマイクロメディアによって、圧倒的な速さで伝えられることが確定したのである。
事件は、結果として、海上保安庁の巡視船と中国漁船と衝突は、発生から2ヵ月後、「ユーチューブ」の動画によって全世界にその真相が伝えられることになった。
「速報」に強いとされたはずのテレビが最初にその動画を伝えたのは、ユーチューブの動画が世界中に配信され、ツイッターでネット中に広まり、詳細な検証がなされた後のことであった。
この件については、メディアのみならず、政治側もまったく対応できていないことも判明した。
たとえば、その映像は、日本政府の意識的な情報公開によって明らかになったのではなく、ひとりの海上保安官のリークによる伝播という、国家の危機管理上、最悪の方法によって国民の知るところとなったことがその象徴だ。
船長の拘留時、国連総会にいた菅首相と前原外相は決定的な判断ミスをしでかした。国民のほとんどがそのビデオの存在を知り、その中身を知るべきだとしている情報を「隠蔽する」という考えられない愚挙に出てしまったのだ。
それは、現代の民主主義国家としては最もやってはいけないことであり、先進国としてはうんざりするような危機意識のなさを世界中に露呈させることになってしまったのである。
政権発足当初から、菅内閣のことを「情報暗黒内閣」と呼んできた筆者の危惧が図らずも悪い方向に向かってしまった悲しい事件となった。
ちなみに、発生当時、筆者は本コラムでこう書いている。
〈問題は海上保安庁が撮影したビデオである。このビデオを速やかに公開していれば、少なくとも国際社会に対して、日本の正当性を主張する強力な材料になったはずである。
日本国内では、中国と日本の言い分は圧倒的な差でもって決着がついているように思える。中国の詭弁に対して、日本の正当性は決して揺るがないと日本人ならば誰もが信じていることだろう。だが、それは所詮国内だけに通用する理屈だ。
国際社会では証拠もなく、さらに船長を無条件で釈放した日本の方に問題があると思っている勢力が少なくない。現実に、欧米のメディアの中では、日本にも負い目があったのだという論調が広がっている。それは、証拠を示さない日本に対する国際社会からの当然の評価である。
仮に、ビデオを公開できないというのならば、なぜ日本政府はそれを国際社会に発信しようとする方策を怠ったのか。少なくとも、相手国の中国にはそうしたスピン戦略が存在している。
たとえば事件後、中国政府は日本向けレアアースの禁輸措置を採ったが、それは公式に発表されたものではなかった。ニューヨークタイムズはじめ世界で影響力を持つ3つのメディアにリークしたものだったのである。
戦略的なリークは巧妙にその責任を回避することができる。おかげでレアアースの禁輸を行っているにもかかわらず、中国はWTO違反を問われずに済んでいるではないか。
日本政府は国内の記者クラブへのリークばかりに血道を注ぐのではなく、こういったときこそ海外メディアに向けて戦略的なリークを行うべきだったのではないか〉(第143回)
こうしたスピンコントロールへの無理解、いやスピンコントロールという言葉すら知らない菅政権は、さらに危険な過ちを犯し続ける。それは、すでにメディア社会での「中抜き」が進行し、革命が発生していることを直視しない既存の記者クラブメディアにとっても同じことが当てはまる。
世界中に激震をもたらしたウィキリークス!
11月、ウィキリークスによる米国務省の外交公電の意図せぬ「公開」がはじまった。
世界中の政府とメディアが、創設者ジュリアン・アサーンジが引き金を引いた「情報戦争」の勃発に騒然とし、緊急対応を行う中、日本政府とそのメディアだけが、のんきに傍観を決めている。
〈ウィキリークスによって世界中が揺れている。
先月(11月)末に一斉に暴露された米国務省の秘密文書約25万点をめぐって、世界中の政府、メディアが大騒ぎになっている。
なにより長年、世界中の米国大使館から集約した情報が一気に漏洩したのだ。おかげで米国の培ってきた安全保障・外交政策は一夜にして危機を迎えている。
イタリアのフラティニ外相が、「外交の9.11だ」と評したように、それは外交上の信頼関係を崩壊させるに十分なインパクトを持つ「テロ事件」であった。
オバマ大統領は火消しに躍起になり、クリントン国務長官も機密漏えい者を厳罰に処すとの緊急の声明を出している〉(第152回)
こうした状況下、前原外相の姿勢は、外交放棄ともいえるひどいものであった。外務省大臣会見録からみてみよう。
〈【ニコニコ動画 七尾記者】視聴者の質問を代読します。ウィキリークスが米政府の外交公電を流しはじめました。クリントン国務長官はこれを強く非難。情報 をリークした関係者の責任を追及していく構えです。一方、海外では、「歓迎」、「自粛」とメディアによって反応に違いが見られます。ウィキリークスに代表 される内部告発サイトの存在について、大臣のご所見をお願いいたします。
【大臣】これはもう言語同断だと私(大臣)は思います。犯罪行為ですから。つまり、勝手に他人の情報を盗み取って、それを勝手に公開する。それがい かに未公開の秘密文書であれ、それを判断するのは、持っている政府であって、勝手に盗み取ってそれを公表することに評価を与える余地は全くないと私(大臣)は思っています。
【毎日新聞 西岡記者】ウィキリークスの件で、その中に日本の外務省の現職の幹部の名前が挙げられた文書が公開されていましたが、これに関して事実関係等の調査は指示されたのでしょうか。
【大臣】それについてコメントもしませんし、事実関係も調査しません〉(外務省HPより)
この「戦争」に関して、事実関係の調査もしないと断言したのは、世界広しといえどもおそらく日本政府だけだろう。それだからこそ、この発言にもあるようにウィキリークスへの認識不足としか取れないような外相発言が繰り返されることになるのだ。
そしてそれを追及すべきメディアは「暴露系サイト」という無意味な普通名詞を使うことでウィキリークスの存在を国民の目から遠ざけようとしている。
「革命」どころか、世界中で新しいマイクロメディアの登場による「世界情報戦争」が勃発しているにもかかわらずだ。
賢明な本コラムの読者ならば、すでにお気づきだろう。これら「5つの革命」は、すべて国民の知る権利、および情報公開の見地から、世界中で公開システムが確立され、オープン化が求められているものばかりである。
現代政治において、政治や行政のオープン化はそれ自体が武器になる。とりわけ、官僚政治と戦うことが求められ、周辺諸国との対立がある日本の場合はなおさらだ。
なにより、政府および、公的機関の情報は、最終的にはすべて国家共有の、また国民の財産に他ならない。その財産は断じて時の政権が恣意的に独占すべきものではない。
2010年、そのことに気づいた国民が少なからず発生したことで、間違いなく日本も情報社会の「革命期」に突入したといえるのである。
(次回は新年1月6日(木)更新の予定です。お楽しみに!)
北陸新幹線
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%99%B8%E6%96%B0%E5%B9%B9%E7%B7%9A
産経新聞 12月22日(水)
野田佳彦財務相と馬淵澄夫国土交通相が21日に行った会談で、独立行政法人「鉄道建設・運輸施設整備支援機構」の利益剰余金の大半が基礎年金の財源に使われることになり、財源として当て込んでいた北陸新幹線金沢-敦賀間の年内着工認可は厳しい状況となった。
西川一誠知事は今年4月、高速増殖炉もんじゅ(敦賀市)の運転再開前に開かれた文科相、経産相との3者協議で、新幹線延伸を含む地域振興を要望。政府全体で取り組むとの言質を得ていたが、以後は進展がなく、今月16日の3者協議では「約束が実行されない場合、国策への今後の対応のあり方を考えざるを得ない」ともんじゅを楯にした切り札を切っていた。
県経済団体連合会の川田達男会長は「本来鉄道機能の活性化に活用されるべき財源で、整備新幹線の延伸にと要望してきた。県内の新規着工が遅れるとすればまことに遺憾だ」とコメント。
一方、民主党本部に対し20日、離党も辞さないとして直談判を行った民主党県連の野田富久幹事長は「24日の閣議後の説明を待ちたい。今はこれしか話せない」と述べた。
両相の会談では、23年度予算の焦点となっている年金の財源にあてるため、鉄建機構の利益剰余金1兆5千億円のうち、1兆2千億円を国庫返納することで合意した。
*福井駅部って? 延伸の夢 実現の一歩!
2010年4月11日
最近、また北陸新幹線の話題をよく聞きます。福井から東京へ行くのに便利になるって言うけど、工事はあまり進んでないみたい。福井駅には、新幹線の駅になるっていう大きなコンクリート高架だけはできてるけど、もし新幹線が来なかったら、どうなっちゃうの?
教えて、県民くん!
迫力ある高架
えち鉄見据え
北陸新幹線の県内延伸は、県政の長年の“夢”であり実現すべき課題でもある。今は福井駅から東京へ行くには、東海道新幹線に乗り継いで約三時間半かかるが、これが北陸新幹線なら乗り継ぎなしに約二時間四十分でいける計算なのだそうだ。
この“夢”を、現実にする大きな一歩が、JR福井駅の東側にある巨大なコンクリートの高架「福井駅部」。二〇〇五年四月に建設が正式決定し〇九年二月に完成。新幹線がつながったときは、その駅舎部分になる予定だ。
でも事情を知らない人から見たら、未完成なのに工事を進めている様子もなく放置された、使途不明の建造物というのが正直なところ。完成から既に一年余。今はどうなっているんだろう。早速、現地調査だ。
新幹線は、独立行政法人の「鉄道建設・運輸施設整備支援機構」(鉄道・運輸機構)が建設から管理までを担当する。その職員二人と一緒に現場へ。
鉄筋コンクリート製で、地上から防音壁のてっぺんまでの高さは約十一メートル。JR北陸線に沿って福井市中央一丁目から同市宝永一丁目まで八百メートルもある。幅は約十二~二十メートルで、今はレールも何もないコンクリートの打ちっ放しだが、迫力満点だ。総工費は約五十一億円で国が三分の二、県が三分の一を負担。維持管理は、折を見て職員が見回っているだけで、特に管理費はかかっていないとか。
それにしても、つながる線路ができる見通しも立たないうちに、駅部分だけ造ることになったのは、なんで?
県新幹線建設推進課によると、こちらも長年の重要課題「えちぜん鉄道の高架化」と一体的に整備することで、双方の工事が効率的になるというのが、駅部先行整備の決め手だったそうだ。
国土交通省によると、これまでの新幹線整備で“飛び地”整備が認められたのは最初で最後だ。ただ、着工時期や個所は「全国新幹線鉄道整備法」に基づき、国が時の与党と協議しながら財源などの状況をにらんで「細切れ」に認可。このため国が整備計画を決定した以上、完成するのは既定路線で駅部の先行整備も順番が少し入れ替わっただけ、というのが県の立場だ。
ことしは夏ごろまでに扱いを決めるため、国交省で今、関係県などから意見を聞くなどしている。現段階で「まだ認可に至っていないので、絶対に北陸新幹線を造るとは言えない」と極めて慎重な姿勢だ。
「福井駅部」は新幹線が走るまで、えちぜん鉄道の高架として暫定的に利用。仮に新幹線がこなくても、えち鉄の高架としての利用価値は残る。でもえち鉄の高架としてなら、ちょっと立派すぎるんじゃないか。
西川一誠知事は高速増殖原型炉「もんじゅ」の運転再開の判断材料の一つに、北陸新幹線の進ちょくも条件として考えているとか。東京までの時間を五十分短縮するために多額の投資をするのか、意見は分かれる気もする。それでも、眼前に広がるこの巨大な駅部が無駄になるのは、やっぱりもったいない。
北陸新幹線 1973(昭和48)年に整備計画が閣議決定された。東京-大阪間を北陸地方経由で結ぶ路線で、全長約700キロメートル。東京-長野間はすでに営業中で、長野-白山総合車両基地(石川県白山市)と福井駅部は2005年度から工事がスタートし、うち福井駅部は完成している。現在、同基地-敦賀間の認可着工に向け、政府などが議論を進めている。
県民くん 追加調査
福井の名前の由来の調査で、松平忠昌が四代藩主とあるのは、三代じゃないの?
福井の名前の由来について調査した前回。読者の皆さんから「北庄」から「福居」に改称した藩主・松平忠昌(ただまさ)について「記事に四代とあるが、三代の誤りでは?」との問い合わせが相次いだ。間違っていたら一大事。早速、追加調査だ。
前回登場していただいた郷土歴史家の松原信之さん(76)によると、かつて忠昌は三代とされていた。ただ、最近の調査で、忠昌の前に、二代藩主・忠直(ただなお)の長男、光長(みつなが)が藩主をしていたことが判明したとのこと。このため、福井市史も三代を光長とし、忠昌は四代に繰り下げた。
三代光長の“在任期間”は約一年にすぎないが、「わずかでも藩主の座を継承していたのは明らか。歴史は塗り替えられるものです」(松原さん)。
10 | 2024/11 | 12 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | |||||
3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
http://www.uonumakoshihikari.com/
魚沼コシヒカリ理想の稲作技術『CO2削減農法研究会』(勉強会)の設立計画!