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龍馬会が台湾に誕生~李登輝元台湾総統インタビュー(1)
2011.01.01(Sat)JBpress
jマット安川 2010年ほど、この国の未来を不安に感じた年もありませんでした。政治、経済、教育、福祉、すべての分野において、日本はまだ「指針」を見出せずにいるのではないでしょうか。
そんな焦燥感とともに、元台湾総統・李登輝さんへのインタビューをここにご紹介させていただきます。
2010年7月末に行われたもので、番組では一部しかご紹介できませんでしたが、JBpressさんのご厚意とご尽力により、ここに全編公開することができました。
実は李閣下とは、先代ミッキー安川との対談企画がありながら、急な不都合で叶わなかった過去があります。リベンジというわけではないのですが、日本がたくましかった時代を知る賢人に、祖国再生の知恵を授かりに行ってきました。
台湾に「龍馬会」が誕生した!
李登輝 坂本龍馬の「龍馬会」が台湾に出来上がります。(2010年7月21日「台灣龍馬會」が発足。李登輝氏は同会名誉会長に就任した:編集部注)
龍馬会が台湾に出来上がるというのはね、日本と台湾との心と心の結びつきが、ここまで来ているということですよね。
龍馬会を台湾で結成したら、(日本の「全国龍馬社中」の)橋本(邦健)会長や、高知県の尾崎(正直)知事まで来ましたよ。日本と台湾がこういう形で、中央政府だけではなくて地方や民間の団体がどんどん結びついていく。非常に大事なことです。
私が坂本龍馬に非常な思い入れを持っているというのは、日本の明治維新と、その中で彼が果たした役割が、戦後の台湾の民主化の歴史と大きく関わっているからです。
台湾は戦後から今に至るまで、下から上に突き上げる民主的な力が、台湾を大きく変化させる原動力になりました。
「祖国の中国化」に台湾の人民が反抗!
というのは日本が戦争に負けた時、台湾は中国に返されるというようなことは言われていない。でも蒋介石政権が軍隊を連れて台湾にやって来て、「祖国の中国化」という大きな思想を持ち込んできました。
これに対する、もともと台湾にいた人民の反発が「二二八事件」という全島的な騒動を起こすわけです。この騒動が基礎になって、台湾人の当時の政府に対する反抗が非常に強くなりました。
二二八事件では非常にたくさんの若い人が殺戮されまして、それから後は、国民党政権が大陸で国共戦争に負けて台湾にやって来て、戒厳令を敷いて、共産主義と関係のある人とか政府に反対する人を片っ端から白色テロでね・・・。(当時、李登輝氏自身も当局の厳しい取り調べを受けている)
昔、徳川幕府が安政の大獄であらゆる尊皇の志士を殺し始めたでしょ。吉田松陰がそのとき30歳で殺された。それと同じような時代が台湾にもあったんです。
あのとき、勤皇、倒幕、佐幕、鎖国、開国という違った意見が散らばっているときに、坂本龍馬は一般的な日本人とは違った考え方を持って、日本の将来はどうあるべきかということを毎日考えていた。
龍馬は日本人であって日本人にあらず!
私に言わせると坂本龍馬という人は、日本人であって日本人じゃないんだね。天から降りてきて日本を改造しようという使命を帯びた人間だと、私は思っています。
彼は日本を走り回り、最終的に薩摩と長州の大連盟を打ち立てる。彼は真剣だったんだなあ。西郷隆盛と桂小五郎が会談して、これによって薩摩と長州の大連立が出来上がるはずのところがうまくいかなかった。
坂本龍馬は西郷隆盛に詰め寄って、そこがさすがに西郷隆盛だよ、自分は間違っていたと謝るわけだ。そこでもう一度同盟の話を西郷から桂小五郎に申し入れて、今度はじっくり話をしてようやく薩長同盟ができました。
ところがここで薩長同盟ができたということは、単にふたつの藩が同盟を結んだというだけじゃなくて、2大勤皇の藩が合併したことでほかの日本のすべての藩も味方になってしまって、ここで大政奉還への道筋が出来上がったわけです。
薩長同盟が成功する理由はほかにもあります。というのは、薩摩と長州はそれまでに蛤御門の変や、そのほかにもいろんなところで戦っていて敵対していた。長州が薩摩に負けた理由は何かと言えば、武器がないんですよ。種子島を持っているのは薩摩だけでしょ。
「船中八策」通りに台湾の政治を行ってきた!
坂本龍馬は薩摩に働きかけて、かなりの鉄砲と大砲を長州にあげたんですよ。当時は鎖国で長州は外国から何も入れられない、鉄砲もなければ大砲もない。そんなものを薩摩があげれば、それは非常な嬉しさでしょ。そこで長州も安心して薩摩を信用したわけです。
そうやって薩長同盟が出来上がって大政奉還が完成する。でもそれだけでは終わらない。大政奉還が達成できた後、新政府は何をやるのか。
そこで坂本龍馬が政治の建議書を書きました。長崎から京都に帰る船の中で書いた「船中八策」。
この船中八策は1996年、台湾の第1回総統直接選挙で私が総統に当選した後、1997年にVOICEの江口(克彦)さん(PHP総合研究所前社長・現みんなの党最高顧問)が私に、おめでとうと手紙を書いてくれたと同時に、台湾の現状について船中八策を基礎にして台湾政治への意見を申し入れてくれたんですよ。
江口さんが私に講義した船中八策に基づいた台湾の政治改革は私、だいたいその通りにやってきているんだ。台湾と中国の関係、台湾と日本の関係、台湾内部における種々の関係いろんなことにおいて、すでにこの方向で進んできたんです。
台湾の政治改革も龍馬とは無縁ではない!
つまり台湾の政治改革は、坂本龍馬と無関係ではないんだ。
1993年に司馬遼太郎さんにお目にかかったとき、このことも話の中心になりました。このとき私は「台湾人の悲哀」、西田幾太郎哲学で言うところの「場所の論理」「場所の悲哀」という話題を論じました。
台湾でこういう近代的な発展があり得たというのは、日本との関係があったからこそだし、日本の近代化は明治維新があったからこそできたんですよ。明治維新で東西文明の融合ということが起こって、日本は近代化を進めてきたんですよ。そこから後に種々問題が起きますけどね。
台湾の現状や日台関係をお話しするために、日本統治下の台湾がどうだったかということを日本の方にまず分かってもらいたい。それからその影響の下で台湾がどのように進んできたのか、書いてきましたので、それを読みながらお話ししましょう。
日本統治下の台湾は近代社会に邁進、日本は台湾を50年間統治しました。この間、台湾に最も大きな変化をもたらしたのは、なんと言っても台湾をして伝統的な農業社会から近代社会へ邁進させたことです。
台湾に近代工業資本主義を植えつけた日本!
また日本は台湾に、近代工業資本主義の経営観念を導入しました。台湾精糖株式会社の設立は台湾の初歩的工業化の発展となり、台湾銀行の設立により近代金融経済を取り入れました。度量衡と貨幣を統一して台湾各地への流通を早めました。
1908年の台湾縦貫鉄道の開通により南北の距離は著しく短縮され、華南では灌漑用水路と日月潭水力発電所(現・大観水力発電所)の完成が農業生産力を高め、工業化に大きく一歩を踏み出すことができました。
行政面では全島に統一した組織が出来上がり、公平な司法制度が敷かれました。これら有形の建設は台湾人の生活習慣と観念を一新させ、台湾は新しい社会に踏み入ることができました。
日本はまた、台湾に新しい教育を導入しました。これは、諸外国における植民地支配とは全然違ったやり方です。
日本は1895年4月の台湾割譲の後すぐに総督府の開庁がありましたが、7月にはすでに国語学校ができまして、そこで6人の若い先生が台湾人に日本語を教え始めました。
日本が導入した教育制度で儒教や科挙の束縛から逃れられた!
その六氏先生(6人の先生)は後に土匪に殺されて亡くなりまして、その碑(学務官僚遭難之碑)がいまでも建っております。
日本は台湾に新しい教育を導入しました。台湾人は公学校を通して、新しい知識である博物、数学、地理、社会、物理、化学、体育、音楽などを吸収し、徐々に伝統の儒家や科挙の束縛から脱け出すことができました。
日本も明治維新のときには6000の小学校が出来上がりました。6000の小学校というのは、だいたい昔の私塾から変化したものですよ。同じようなことが台湾でも起こってきてる。
そして世界の新知識や思潮を理解するようになり、近代的な国民意識が培われました。
1925年には台北高等学校(高等科)が設立されました。台北帝国大学は1928年に創立され、台湾人も大学に入る機会を得ました。あるものは直接、内地である日本に赴き大学に進学しました。
時間と法を守る気持ちと経営観念も植えつけた!
これによって台湾のエリートはますます増え、台湾の社会の変化は日を追って速くなりました。
近代観念が台湾に導入された後、時間を守る、法を遵守するといった意識、さらに金融、貨幣、衛生、そして新型の経営観念が徐々に新台湾人をつくりあげていきました。
これが50年間におよぶ日本の台湾統治の結果です。それが戦後、日本は台湾を放棄しますが、その主権を誰に渡したとは言わなかった。
当時の中国は国民党中華民国が正統の国で、アメリカによって蒋介石が台湾の日本軍を接収しなさい、そして台湾を治めなさいという命令が下されましたが、台湾を中国にあげるというようなことは何も言っていなかった。
このような台湾で非常に大きな変化が起きまして、1990年、私が総統になってから台湾における新しい国家建立の潮流が始まりました。
国会議員は大陸の人間ではなく台湾内部から選ぶ!
その前は戒厳令から白色テロから、異様な独裁的形態で台湾は大変だった。そのうちに排日政策もありまして、日本語を使うべからず、日本の雑誌も読めない新聞も読めない、日本語の歌さえ歌えないというような状態が長い間続きました。
これが結局、台湾人の反対に遭って、さっき申し上げたような台湾人の新しい意識が非常な変化を起こして、この下から突き上げる力は台湾内部の政治構造を変えたばかりでなく、台湾と中国の関係も変えました。
国民党と共産党の対立、内戦状態から、国と国との関係に変わったのです。
これが私が総統になったときの第一の考え方で、国民党と共産党の内戦を停止させる、停止させることによって国民党が台湾を治めていた臨時条項を廃止し憲法を台湾の内部から成立させる、国会議員を国民党が大陸から連れてきた議員ではなく台湾内部から選ぶ、その国会議員によって憲法をひとつずつ修正していく。
これが私の、台湾の民主化の過程です。言うだけだと簡単そうですが、苦労しますよ。そういう状況の中で力もない、権力もない、武器もない。何もない私がこういうことをやるのには、相等の体力がなくちゃならない。
仕事は真っ直ぐは危険、回り道こそ実は近道!
だから私がよく言うのに、仕事を進めるときに真っ直ぐ行くというのは非常に危ないんだ。結局回り道を取った方が問題が起こらない。それで台湾では一滴の血も流さずして、いまのような状態が出来上がったわけです。
この民主化の過程の中で、北京政府に対しては内戦停止と同時に、中国とは対等の立場で平等、互恵、平和の関係を樹立したいと思っております、台湾は私の方で統治しておりますと、それをはっきり宣言しました。
このような力の源は実は、日本統治時代に遡ることができるのです。
台湾人としてのアイデンティティー、台湾意識が芽生えた後、台湾人はすでに民族自決、独立の基調を提出しました。戦後、台湾人が二二八事件の災難に遭った後この独立運動が始まり、1990年代になり国内と国外の力が交わって新国家建設の原動力となりました。
多くの日本人が中国の宣伝や脅しによって、台湾は中国の一部であり台湾独立の条件は整っていないと思っておられるようです。
台湾精神イコール、日本精神!
しかし、一度台湾に来られて台湾人の心を聞き、活気にあふれる台湾の社会を見て台湾の自由な民衆の意識を感じたならば、台湾人がなぜ新国家を建設するのか、自ずと分かっていただけると思います。
台湾は海峡を挟んで中国と向き合っています。が、それでも台湾正名運動、国民による憲法制定、新国家建設の思潮などを敢えて唱える活力を持っております。これらは台湾精神からきているのです。
台湾精神イコール日本精神です。台湾人は質実剛健、実践能力、勇敢、挑戦的な天性の気質に加えて、日本統治時代に養われた法を守る、責任を負う、仕事を忠実に行うなどの精神を備えています。
これがすなわち台湾人の長所であり、窮すれば窮するほど強くなり、権威制統治の下でも台湾人としての主体意識を確立することができる最高の精神なのです。
これが今でもずっと続いておりまして、これをいかにして、いわゆるアイデンティフィケイションに持っていくかということが台湾の課題のひとつなのです。
日本の教育が台湾の礎を築いた!
それには教育がひとつ大きな役割を持っております。先ほど申し上げたように、日本は台湾に新しい教育を持ち込みました。それによって台湾は近代化を進めることができました。
私も公学校、中学校、高等学校から内地の大学と教育を受けました。ゲーテからトーマス・カーライルから西洋文明の重要なものはほとんど学びましたよ。
ギリシャからソビエト体制になる前のロシア、トルストイからマルクス、エンゲルスの問題、こんなことは高等学校時代に学んだようなことばっかりです。
その中には中国のことも入っているし、もちろん日本は古事記から学んで、そういう独創的な濃い機会を得られました。それは日本の教育ですよ。
いまの教育には、あんなものはない。いまの日本でもああいう教育はやっていない。だから日台関係は、将来教育面ではどうすべきかということが第2の問題になると私は思いますね。
(明日につづく)
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