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六四天安門事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E5%AE%89%E9%96%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6


中国ツイッターが情報統制を突き崩す?

2011年2月9日(水)日経ビジネス 福島香織

2月3日は中国などでいう春節、旧暦の正月で、2月2日は除夕、つまり旧暦の大みそか。中華社会ではこの日をもって新年で、虎は去りウサギ(卯)の年がやってきた。卯は東の方角、日の出に象徴される再生の象徴だ。そして足が速い。

 その新年を迎える瞬間、「放鞭炮」といって、爆竹をならす風習がある。もっとも今の時代は爆竹なんて可愛いものではなくて、お金をかけた華やかな打ち上げ花火がばんばん上げられる。

春節花火とエジプトの銃撃映像がシンクロ!

 2月2日夜から3日にかけて、そういう無数の花火が打ち上げられている北京の春節の様子を、知人が動画中継サイト・ユーストリームで中継してくれた。ツイッターアカウントからユーストリームのページに入ると、見慣れた北京の夜景に飛び交う花火の映像と、耳のつんざく爆竹音が流れた。インターネットやツイッターのおかげで、東京にいながら、懐かしい北京の春節気分を味わうことができた。

 しかし、その後、アルジャジーラのホームページでニュースを見ることになった。これも、ふと目にとまったツイッターのリンクから入った。タハリール広場で2日に発生した反体制派と親大統領派との激しい衝突の映像が流れていた。ツイッター上ではひっきりなしに、現場からの断片的な情報が流れてくる。

 軍が発砲した、611人以上負傷した、記者が親大統領派に暴行された後、行方不明だ…。1月25日から発生していたエジプトの反体制デモのニュースはそれなりに注目していたが、いつになく衝撃を受けたのは、広場という言葉と、そして春節の自動小銃の発砲音にも似た爆竹音が耳に残っていたからだ。

 この映像を見たあとに、春節花火の音を聞いていたら、おそらく北京を懐かしむより背筋が凍っただろう。天安門事件を連想せずにはおれないからだ。民主化を求めて北京・天安門広場に集まる寸鉄帯びぬ学生たちに向けて軍が発砲し、自由への望みを戦車が押しつぶした1989年6月3日から4日未明の事件である。

軍がデモ隊を武力鎮圧したか、しなかったか!

 天安門事件について、今さら説明の必要はないと思う。この事件は中国国内の最高28%にも達した高いインフレ率や、中国共産党内の保守派と改革派の権力闘争という国内的要因に加えて、連鎖する東欧諸国の民主化という国際情勢の影響を受けている。

 1979年に初のポーランド人のローマ法王・ヨハネ・パウロ2世が誕生し、ポーランドの民主化運動を後押しした。1985年に共産党書記長となりペレストロイカとグラスノチの大改革を断行していたゴルバチョフは、ポーランドの民主化を阻害することなく、1989年に初の自由選挙が行われる。この波及効果でベルリンの壁が崩れ、チェコでビロード革命がおこり、ルーマニアのチャウシェスク大統領が失脚した。そしてバルト三国の分離独立、ソ連の崩壊…と続いていくのだが、こういう時代の空気の中で1989年の中国の若者の民主や自由への希求が醸成されていった。

 中国が東欧と違うのは、軍がデモ隊を武力鎮圧したか、しなかったかである。鄧小平が学生デモの武力鎮圧の指示を出さなければ、中国の形も変わっていたかもしれない。

それから20年余りが経って発生したチュニジアのジャスミン革命からヨルダン、エジプトの反政府デモへの広がりは、当然、多くの人に党「1989年革命」を想起させている。チャイナウォッチャーや中国の指導者たち、一部の知的な中国人民はこれが中国にどう影響をもたらすかを必死に見定めようとしているところだろう。

ツイッターがいたちごっこを変えた!

 「中東の動きは中国に波及しない」という意見も多い。中国の国内情勢は1989年当時とは若干異なる。1つは、インフレ率だ。2010年11月のインフレ率が前年比5.1%で、12月が同4.6%だった。高いと言えば高いが1987~89年の緊迫した状況とは程遠い。

 もう1つは、中国の国際的地位の向上である。世界経済における影響力も国際政治における役割も格段に大きくなり、国際社会が中国の急激な体制変化を実は望んでいない。そして何より中国自身が、既に天安門事件という「教訓」を得ている。

 だからインフレ率が上昇するとすぐ引き締め、大学生など知識層の若者に愛国教育を徹底し、特権階級側に取り込み、その一方で厳しい情報・言論統制の締め付けを実施する。また、若者に天安門事件についての情報を与えず、民主化運動のリーダーになりそうな人物は早めに潰してきた。特に情報統制の徹底ぶりは見事なもので、今回のチュニジアやエジプトのデモの報道も表向きにはほぼ、コントロールできている。

 しかし、それでもなお「中東の波が中国にまで及ぶかもしれない」と思う人も少なくないのは、インターネットの発達、とりわけ動画サイトやツイッターの威力のすごさだ。チュニジアやエジプトの出来事は、ツイッターやフェイスブックに代表されるソーシャルネットワークシステムの影響が大きいというのが世界の共通認識である。

 中国には非常に洗練されたインターネット統制システム「金盾工程」があり、さらに人海戦術で、見事なネット統制とネット世論誘導を展開してきた。しかしインターネット統制はしょせん「技術」であり、より高度な「技術」を使えば破られる。すると体制側はさらに高い技術でもって統制破りを阻止するわけだが、突如登場したツイッターが、このいたちごっこを変えた。

天安門事件とは今、エジプトで起きているような状況」

 ツイッターはネット上の情報発信のロケットブースターのような役割を果たし、情報を発信しようとする側が、制御しようとする側より圧倒的に有利になったのだ。ネットは転載を繰り返すことで情報が拡散されていく。そして、ツイッターの拡散スピードは、人海戦術で敏感情報を削除するレベルでは到底追いつかなくなった。

 中国ではもちろんツイッターへのアクセスを禁じているが、同じシステムを使った国内向けの「微博(マイクロブログ)」があり、これが昨年の初めの段階でユーザー数が7500万人以上に膨れ上がっている。微博上のつぶやきは一瞬でフォロワー全員に拡散し、その数秒後にフォロワーの何人かが自分のフォロワーに転載し、ねずみ算式に情報が伝達される。

 ツイッターには、大陸の中国人約20万人がミラーサイトやバーチャルネットワークやプロキシ・サーバーなどを使って登録している。そういう人たちはたいてい中国の微博にもアカウントを持っている。中国の著名コラムニストで2月初旬現在で約3万4000人のフォロワーがいる安替も指摘していた通り、その結果、世界のツイッターと中国の微博は事実上リンクし、例え中国当局が報道統制を敷いても、世界の出来事は統制の網をかいくぐり中国国内に密やかに広がっている。

 中国当局は「エジプト」や「ムバラク」という言葉を検閲ワードにして、その用語の検索結果を示さないようにしたらしいが、ムバラクの中国語読みの「穆巴拉克」を「穆小平」、「穆錦濤」などと皮肉をこめた隠語に言い換えて、統制されているはずの微博の中で広がっていった。それは天安門事件を知らない世代に、天安門事件とは今、エジプトで起きているような状況である、と教えているようなものでもある。

2010年、中国は「微博元年」と言われるほど微博の社会的影響力が認められた年でもあった。最初の微博は2009年8月に開設された「新浪微博」だが、その新浪微博には中国の記者たちが次々に実名で登録し、本来なら隠ぺいされかねない地方の小さな事件を転載した。それが拡散し、世論喚起する役割を担った。

 その中で記念碑的事件とされるのは、江西省宜黄県の小さな農村で発生した強制立ち退き焼身自殺だ。本来なら地方政府の圧力で封殺されたろう事件だったが、微博記者がこの件を取り上げたことで、全国に知れ渡り、社会の同情と支援を呼び、封殺し切れなくなった。この事件を広めた微博記者は「鳳凰週刊」の敏腕記者で知られる鄧飛で、中国の権威あるメディア関係者に贈られる「華語伝媒盛典」で2010年の年度記者に選ばれた。

 以前、北京で会った時、彼は微博の特徴についてその速さだけでなく「記者も官僚も警察も市民も微博の世界では、その発言力が平等・公平である」「ニュースによって人を連携させる」と評価した。その言下に含むのは、微博の中で人々が民主・自由を味わい、連携して圧政に抵抗することを知ったということだと私は思った。

 チュニジアエジプトも「抗議の焼身自殺」が世論喚起のきっかけになったことを思えば、中国で微博の影響力が広く認識された事件がやはり抗議の焼身自殺事件だったというのは、偶然の一致とはいえ、何がしかの予感もさせる。

ウサギは血まみれになりながらトラをかみ殺す!

 北京では天安門事件後の1993年から2005年まで、市内の爆竹が禁止されていた。それは安全強化の建前を取り入れながら、人々の天安門事件の恐怖の記憶を呼び起さないように、という配慮あるいは警戒によるものだった。2006年に爆竹・花火が市内で限定的ではあるが解禁されたのは、天安門事件の記憶が薄れたという判断と、むしろ爆竹花火に社会不満の鬱憤を晴らす効果を期待してのことだ。

 しかし、中国当局が1つ失念しているのは、「天安門事件の記憶が薄れるということは弾圧の恐怖の記憶も薄れていく」ということだ。その証拠に最近のインターネットに散見される若者たちの体制批判の表現は、こちらが心配になるほど大胆過激になっている。

 例えば、中国の動画サイトに流れたフラッシュアニメ「小ウサギ哐哐の2011年賀動画」は2010年に中国国内で発生した不条理な社会事件をウサギ(人民)とトラ(体制側)に見立てて揶揄した動画である。最後にウサギは怒りで目を真っ赤に燃え上がらせ、自分も血まみれになりながらトラをかみ殺す。

 “窮兎虎を咬む”。つまり、虐げられた人民も今に体制に楯突くぞ、と政権に向かって威嚇してみせたのだ。それは、「08憲章」を起草し、2010年のノーベル平和賞を受賞した劉暁波らの覚悟とは全く違う「軽さ」だけにインパクトがあった。当然、国内では既に削除され、封殺されている。動画作者が今後、どのように処遇されるかが気になるところだ。

完全なる情報統制や世論誘導が長続きするはずはない!

 こうやって考えていくと、この一連の中東、アフリカの動きの影響が中国に浸透していくことは防げないと思う。もちろん、中東に連動して体制変化がすぐに起こる可能性ということでは万に一つくらいだろうが、私が北京特派員時代、本社から言い含められていたのは「中国の体制変化が突如として起こる可能性は3割、との危機感で取材に当たれ」ということだった。

 「3割」に根拠はない。万に一つであっても3割でもあっても、何かが起こる時は起こる。その時に、起こると思わなかったなどと言わないように、最悪の事態の予測をもって、行動し観察せよ、ということだ。

 中国の経済成長ぶりを示す華やかな春節花火と、遠く離れた砂漠の国の騒乱が、インターネットによって奇妙にシンクロする時代だ。私たちがいかに前もって予測しても、世の中の動きは後からウサギのスピードで追い越してゆく。天安門事件が再来するかどうかは別にして、こんな時代に、完全なる情報統制や世論誘導が可能だという体制がそう長続きするはずはない、とも思う。

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アルカーイダ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%80

2011年1月20日(木)日経ビジネス 菅原出

公開された文書は「宝の山」!

 2010年7月26日、ウィキリークスは7万5000点におよぶアフガニスタン戦争の機密ファイルを公開した。米ニューヨーク・タイムズ、英ガーディアン、そして独シュピーゲルの大手メディアが一斉にファイルの中味を紹介したこともあって、ウィキリークスの暴露文書は瞬時に世界中に知れ渡った。

 公開された「アフガン戦争文書」は、アフガニスタン駐留米軍の最前線の部隊が、日々の任務の度につけている報告書や、現地のスパイやNATO諸国の他の部隊から寄せられた情報報告など、まさに現場から上層部にあげられている生の情報であった。

 通常、アフガニスタンで起きている戦争の様子は、ジャーナリストが現地で独自に取材を重ねたり、米軍に従軍するなどして得た情報を基に書かれた記事の中から、新聞社などメディア会社の編集部が「伝える価値」があると判断したものだけが報じられ、我々一般読者の目に届く。

 「もう爆弾テロのニュースは飽きた」と編集部に判断されれば、いくら悲惨な状況が続いていたとしても「ニュース」にはならないし、欧米諸国の一般読者には馴染みの薄い地元の部族間抗争のネタなどは、限られた紙面に掲載されることはほとんどない。

 我々一般読者が目にすることのできる情報は、実際に現地で起きている日々の出来事からすれば、豆粒ほどのわずかな現象に過ぎない。

 ウィキリークスが暴露した機密文書は、米軍の内部報告書であるから、もちろんアフガニスタンで起きていることすべてを反映している訳ではない。米軍側から見た一面的な見方に過ぎない。

 しかも、現場の最前線の部隊が見たり、聞いたり、実施したことが淡々と報告されているだけで、その情報が「正確なもの」かどうかも分からない。通常は、こうした現場からの生情報が分析部門に集約され、そこで分析・評価が加えられた上で、政策立案者たちが使える形に加工される。こうしてできた情報やこの過程のことを「インテリジェンス」と呼んでいる。

 公開された「アフガン戦争文書」のほとんどの情報は、メディアを介して我々に伝えられる情報と違い、何のストーリー性もアクセントもない、はっきり言って退屈な文書ばかりだ。しかし、現地に派遣されている部隊が日々どのような活動をしているのか。誰と会ってどのような話をしているのか。現地のスパイからどのような情報を入手して上層部に報告しているのかといった、通常では決して知ることのできない状況を明らかにする情報である。ジャーナリストや研究者、情報機関のインテリジェンス分析官にとっては、願ってもない「宝の山」である。

北朝鮮・アルカイダ武器取引」を示す断片情報も
 例えばこんな短い情報報告書がいくつも出てくる。

 「2009年4月24日:モコル地区でタリバンが支援するパシュトゥン族がZAD ALI族に報復攻撃を仕掛ける模様。バドギース県のモコル地区にいる2名のタリバンが支援するパシュトゥン族が、4月中旬にZAD ALI族に対する報復攻撃を計画した。これは去る1月末に両部族の衝突によって受けた被害に対するリベンジである。さらにタリバンの陰のバドギース知事であるムラー・モハメド・イスマイルは最近、20丁を超す中国製のカラシニコフ銃等を調達し、モルガーブ地区にいる手下たちに配っている。」

 「2009年7月11日:ワルダック県でハザラ族がクチス族から羊を強奪したことから、両部族間の対立が激化。地元のハザラ人たちが数百頭の羊を力づくでクチス族から奪い取ったことが原因である。武装したクチス人たちが続々と集結を始めており、羊の返還を要求している。」

 こうした現地の部族間抗争の断片情報などは、当然大手メディアにとっては「取るに足らない」ものであり、「ニュースとしての価値」は低い。しかし、インテリジェンス分析官たちはこうした生の断片情報を集めて分析し、より大きな背景を明らかにして、その事象が米国にとってどのような意味を持つのか、を評価している(はずである)。

そして時々、我々日本人にとって、見過ごすことのできないびっくりするような情報も含まれている。日本のメディアでも一部報じられたが、北朝鮮とアルカイダの武器売買を記した以下の報告書はその代表例だろう。

 「2005年11月19日:ヒズベ・イスラミ・ヘキマティアル派のリーダー、グルブディン・ヘクマティアルと、オサマ・ビン・ラディンの金融アドバイザーであるアミ氏がイラン経由で北朝鮮を訪問。北朝鮮で、2人は同国政府と、米国やその同盟諸国の航空機を撃ち落とすために使う遠隔操作式ロケットの商談を取りまとめた。金額は分からないがこの取引は成立し、この兵器の出荷は翌年の年明けすぐになされることが決まった。2人は北朝鮮に2週間滞在した後、12月3日頃にアフガニスタンのヘルマンド県に帰国。アミンはそのままヘルマンドに滞在し、ヘクマティアルはヌーリスタン県のクナールに向かった。」

 この文書で登場する「アミン氏」とは「アミン・アル・ハク(Amin al‐Huq)」のことだと考えられている。この人物は2008年にパキスタンのラホールで同国の治安機関に逮捕されている。2007年12月21日付の『ロング・ウォー・ジャーナル』によれば、アミンはオサマ・ビン・ラディンの身辺警護部隊Black Guardの隊員の一人で、2008年1月にパキスタン当局に逮捕されたという。

 そして、それから18カ月後、こんな報告書もある。

 「2007年5月30日:CH‐47(チヌーク)ヘリコプターが、ヘルマンド川の上空を通過した直後に、ミサイルによる攻撃を受けて撃墜された。ミサイルの衝撃が機体の後部を上方に突きあげ、墜落現場へ急降下するとすぐに炎上。生存者はなし。」

 北朝鮮とアルカイダの武器取引に関する文書は、この報告書がウィキリークス文書に含まれる唯一のもので、ウィキリークス文書だけでこれ以上この取引について検証することは困難である。もしこの情報が正しいとすれば、2006年1月には「遠隔操作式ロケット」の出荷が行われたはずである。2007年5月のヘリコプター撃墜の情報は、北朝鮮製の武器と関係があるかどうかは分からない。「ミサイル」と記されているだけで、それ以上のことは不明である。

 ただ、少なくともこのような断片情報が存在することを、我々はこのウィキリークス文書を通じて知ることが出来るし、「北朝鮮・アルカイダ武器取引情報」の真偽の確認作業はもちろんのこと、こうした取引の可能性を考慮して、それまでとはまた別の角度から既存の情報を分析し直したり、さらなる情報収集活動に役立てることも出来るはずである。

 

知られざるイランタリバン・ネットワーク!

 この北朝鮮とアルカイダの武器取引情報によれば、ヘクマティアルとアミンはイランを経由して北朝鮮に向かったとされている。イランと北朝鮮の武器取引に関する深い関係を考えれば、このルート自体何ら驚くべきものではないが、イランとアルカイダやタリバンの関係がここまで緊密であることを示す情報が出たのは、おそらくこのウィキリークス文書が初めてであろう。

 「2005年1月30日:イランの諜報機関は1000億アフガニー(22万1800米ドルに相当)をイランとアフガニスタンの国境の県ファラ県まで運んだ。この現金はトヨタ・カローラ・ステーション・ワゴンの1990年モデルに積み込まれ、様々な食料品の間に隠された。このカローラにはヒズベ・イスラミ・ヘキマティアル派(HIG)の4名のメンバーが乗っていた。現金はそのままどこかに運ばれていった。」

 ちなみにヘクマティアルは1996年から2002年までイランに住んでいたことがよく知られている。彼は80年代のアフガン戦争の時に米国やパキスタンが支援した軍閥の長だが、90年代終わりからイランの庇護下に入っていた。米国によるアフガン戦争が始まった後、アフガニスタンに舞い戻ったわけだが、その後も継続してイランから資金援助を受けていた訳である。これには十分説得力がある。

 「2005年2月19日:8名の指導者から成るタリバン指揮官のグループが、ヘルマンド県とウルズガン県で米軍に対する一斉攻撃を計画している。このグループはイランに住み、アフガニスタンにボランティア・メンバーをリクルートする旅に出ていた。このグループはイラン政府から、アフガニスタン軍の兵士を1人殺害すれば10万ルピー(1740米ドル相当)、アフガン政府高官の場合は20万ルピー(3481米ドル相当)を支払うというオファーを受けていた。」

 イラクでもパレスチナでもこのように「テロで敵を一人殺せばいくら」という報奨金を与える制度は普及しているが、アフガニスタンの不安定化のためにイランタリバンのテロ攻撃に報奨金を払っていたとことを示すこの情報は、非常に生々しく興味深い。

「2005年9月18日:タリバンのメンバー数名がイランのマシャド(Mashad)に集まり、アフガン政府に対する攻撃の計画について話し合った。マシャドに住んでいると報じられているタリバンのメンバーの一人は、タリバン幹部の代理であり、アルカイダやタリバンのメンバーがアフガニスタンイランを行き来する際の中継の役を担っている」

 「2006年6月3日:2名のイラン人工作員が偽装身分でアフガニスタンに潜入している。彼らの任務は地元のアフガン人たちを扇動してアフガン政府やNATO諸国に対する反対運動を起こさせることである。このイラン人工作員は、ヒズベ・イスラミ・ヘキマティアル派(HIG)とタリバンのメンバーが、アフガン政府やNATO諸国の政府関係者、とりわけ米国に対してテロ攻撃を行うのを支援している」

 さらに2008年9月には、「オサマ・ビン・ラディンの側近の一人であるアル・マンスール(Al Mansour)と関係のある7名のアラブ人が、アフガニスタンのヘラート県の村で目撃された。このアラブ人たちは、米軍やイタリア軍、もしくは誰でもいいので外国人に対する自爆テロを実行する部隊である。イラン革命防衛隊の一部門である諜報部隊に所属する4名のイラン人が、このアラブ人のグループにインテリジェンスを提供したり、グループ・メンバー間の活動を調整するなど、様々な支援をしている」とある。

 イスラム教シーア派イランスンニ派の過激派であるアルカイダやタリバンは、対立する宗派であるため、当時、両者の間に協力関係はあまりないのではないかと思われていた。しかし、現実には「敵の敵は味方」の論理で、現場レベルでの協力関係がとられていたことを、これらのウィキリークス文書は示している。

 2011年1月、筆者は、アフガニスタンで米国防情報局(DIA)など主にインテリジェンス関係の任務につき、現在は米国際開発局(USAID)や米麻薬取締局(DEA)などのアドバイザーをつとめるA氏に、イランタリバンの関係についてインタビューをした。

 A氏は「イランが今でもタリバンや他の民兵組織に大量の武器を供給し、大きな影響力を持っている」として、ウィキリークス文書の情報が正確であることを認めた。さらに、

 「米国の衛星は、イランの軍に属するトラックが、アフガンの麻薬マフィアから麻薬を引き取り、イラン領内を通過して国境まで運ぶ運び屋の役割を果たしていることを記録している」

 と述べて、イラン政府の一部が実はアフガン麻薬マフィアと組んでアフガン麻薬密輸のイラン・ルートが非常に活性化している事実も明らかにした。

 「イランはアフガニスタンの議会選挙でも大量の現金を配ってアフガン政界に隠然たる影響力を持ち始めている。この辺はイラクと状況が似ている。カルザイ大統領タリバンの和解交渉の仲介も積極的に始める一方、旧北部同盟の軍閥たちの資金援助も拡大することで、反タリバンの民兵組織も勢いを増している。米軍撤退後のアフガニスタンがどのように転んでも一定の影響力を維持できるように、あらゆる勢力に資金をぶち込んでいる」

 まさに戦国時代を思わせる権謀術数の限りを尽くした謀略戦がアフガニスタンで続けられているようである。

 ウィキリークスのアフガン文書から、そうした国際政治の暗闘の一端が垣間見えたのである。

RQ-1 プレデター
http://ja.wikipedia.org/wiki/RQ-1_%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%87%E3%82%BF%E3%83%BC

MQ-9 リーパー
http://ja.wikipedia.org/wiki/MQ-9_%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC


2011年1月26日(水)日経ビジネス 菅原出

 無人機作戦の日常的な光景!

 ウィキリークスが公開した「アフガン戦争文書」は、それまでベールに包まれていた米中央情報局CIA)や米軍特殊部隊の隠密活動の一端も白日の下に曝した。

 CIAはその名の通り「情報機関」であるから、情報を収集し、分析することがその主要な任務である。しかし、こうした伝統的な分析作業のほかに、米国に対して直接的な脅威を与えるテロリストを探し出し、暗殺する特殊工作活動も実施している。そしてアフガニスタンパキスタンでは、こうした特殊工作活動の手段として、近年、無人機によるミサイル攻撃が多用されている。

 CIAが運用する無人機「プレデター」は、超高性能のビデオ・カメラとミサイルを搭載し、上空3キロほどを飛行し、CIAの要員や特殊部隊員ですら近づけないアフガニスタンパキスタン国境の村々を上空から監視し、「テロリスト」を発見し次第、ミサイルを発射して殺害する能力を有する。CIAは、まさにリモコン操作の暗殺作戦を実施しているわけである。

 また米軍も「プレデター」や「リーパー」などいくつかの無人機を運用し、同様に武装勢力に対する偵察や攻撃を実施している。こうした無人機による作戦は、政治的にも非常にセンシティブな問題であり、極めて秘密性が高い。これまでその運用実態はほとんど外部には知られていなかったと言っていい。

 ウィキリークスが暴露したアフガン戦争文書の中には、以下のような短い報告書がいくつも含まれている。

 「2009年6月4日:攻撃的なパトロールを実施中に、無人機(リーパー)が武装した反乱勢力一個小隊が(GR41RQQ45779072)地点の林に向かって移動しているのを発見。友好国の友軍がこの一群と交戦を開始したのを確認。13時52分、無人機は2発のレーザー誘導爆弾GBU-12で攻撃し5名の反乱武装兵が死亡。反乱武装勢力は再集結して無人機は再び交戦。1発のヘルファイヤー・ミサイルで攻撃し3名の反乱武装兵が死亡。14時20分、無人機は3名の反乱武装兵が携帯型対戦車砲(RPG)とAK47ライフルで武装し、(41RQQ449900)の地点から西に向かっているのを確認。無人機は1発のヘルファイヤー・ミサイルで攻撃。1名の反乱武装兵が死亡。9名の反乱武装兵ではない人々が死亡。」

 この「反乱武装兵ではない人々」とは一般民間人のことであろう。

 「2009年8月19日:第2軽装甲偵察大隊が無人機プレデターを用いてタリバン戦闘員を確認。白いトラックに乗車している。この敵勢力は地中にある武器庫から武器を運び出しているところが確認されている。これを受けて無人機はこの白いトラックに1発のヘルファイヤー・ミサイルで攻撃。6名の敵が死亡。連合国側の被害はなし。」

 これはタリバン戦闘員たちが武器を仲間に輸送しようとしていたところ、無人機で発見されて、そのままミサイルを撃ち込まれたことを意味している。無人機を使った日常的な軍事作戦の様子が、淡々と記されている。

実は無人機は故障ばかりだった!

 「アフガン戦争文書」で無人機関連の報告書を追っていて驚かされるのが、事故や故障の多さである。

 「2009年10月17日:1300頃、ANA(アフガン国軍)は、20名ほどの反乱武装兵が干上がった川床にポジションを取るために南へ移動しているとの情報を入手。1400頃、無人機「レイブン(Raven)」が発車され、指定された地点へと向かった。しかし、川床で敵を確認することは出来なかった・・・(中略)無人機がUターンをしているとき、敵がいるとされたポジションから300メートルほどのところで、無人機は突然高度を失い墜落した」

一度、この高価なハイテクの塊が墜落してしまうとその後が大変である。機体が敵の手に渡る前に残骸を回収しなければならないからだ。

 「直ちにわれわれは墜落した無人機を確保するために徒歩によるパトロールを6名の米兵と40名のアフガン国軍に要請し、墜落現場を上空からカバーし、監視するための航空支援も要請した。探索のためのパトロールを準備する間、アフガン国軍がこの任務に冷淡で、要請に応じないと通告してきた・・・(中略)われわれは警察の指導にあたっている教官チームと連絡を取り、無人機を回収するための徒歩もしくは車両でのパトロールを手伝ってくれるように要請。しかし、この教官たちは、現地でこの無人機が反乱武装兵たちに撃墜されたとのインテリジェンスがあるため、墜落現場近辺では待ち伏せがある可能性が高いとして、この要請に冷淡。しかも、すでに機体はタリバンの指揮官の家に運ばれたとの情報もある・・・」

 結局、最終的には米軍部隊が無人機の回収に向かったが、タリバンは米軍に待ち伏せ攻撃をかけたため、米軍は撤退せざるを得なかったと記されている。

 この事件は例外というわけではなく、「無人機が墜落」「無人機が故障」といったタイトルの報告書が次々と出てくる。2009年9月13日には、次のような事件も報告されている。

 「アフガニスタン南部でコントロール・リンクを失った無人機リーパーを撃墜するためF-15戦闘機の発進要請がかけられた。この無人機を撃墜するとの決断が下される前に、同機とのリンクを回復するためのあらゆる手段がとられたが、結局同機が国境を越えてタジキスタン領内に入ってしまう前に撃墜するとの決定が下された。F-15はリーパーに射撃を行い、そのエンジンを破壊した。すると同機とのリンクが再び回復し、コントローラーは同機がRagh地区の山中に墜落したことを確認。同機の墜落地点も確認できた。リーパーには重要なアイテムは搭載されていないが、ヘルファイヤー・ミサイルとレーザー誘導型爆弾GBU-12が搭載されたままである。」

 現在、無人機はオバマ政権が対アフガン戦略を進める上で、最も重要なツールの1つとなっている。増派部隊によるアフガン安定化作戦が思うように進まない中で、無人機によるタリバン指揮官やアルカイダ指導部への攻撃は、オバマ政権が唯一「成功している」と胸を張って主張している作戦だからである。

 特にアフガニスタンから国境を越えてパキスタン側へ逃げ込み、そこに拠点を築いているタリバンなど反米武装勢力に攻撃を加えるため、米軍及びCIAはますます無人機への依存度を強めている。

 2010年9月、デヴィッド・ペトレイアス駐アフガン米軍司令官は、CIAに対して米空軍が運用していた無人機を貸し出し、CIAの権限で進められているパキスタン領内への無人機攻撃をさらに倍増させることを認めた。

 これにより、それまでは週に2回程度だった無人機による攻撃が、9月に入ってから週5回のペースに倍増されたという。この結果9月の1カ月間だけで、パキスタン領内で実施された無人機によるミサイル攻撃数は22回に上っており、9年前にアフガン戦争が開始されて以来、最多を記録している。

 オバマ政権は、無人機の使用をさらに拡大させ、対テロ任務の柱に据えている感さえ見受けられるが、実際の運用面ではトラブルも多く、墜落した際の機体回収の問題など、負の側面も多く存在することを、ウィキリークスの機密文書は教えてくれる。

アフガニスタン紛争2001年-
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%82%AC%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E7%B4%9B%E4%BA%89_(2001%E5%B9%B4-)


2011年2月8日(火)日経ビジネス

オバマは言う。アフガニスタン戦争は「正しい戦争」!

 2010年11月28日にウィキリークスが公開を始めた米国務省の秘密公電は、アフガニスタン戦争をめぐるオバマ政権内部の迷走ぶりを、リアルに伝えている。

 もともとバラク・オバマは、大統領選挙キャンペーンの時から「アフガニスタン戦争を外交・安全保障政策の最優先課題にすべきだ」と主張していた政治家の1人だった。

 イラク戦争に反対した数少ない議員の1人として、オバマ氏は「イラク戦争は間違い、アフガニスタン戦争は正しい」と位置づけていた。アフガニスタン戦争の立て直しは、バラク・オバマの選挙公約の1つであった。

 2001年11月に、わずか1カ月足らずの戦闘で国際テロ組織アルカイダを庇護していたタリバン政権を崩壊させた米国は、ハミド・カルザイ氏を中心に国内各勢力の代表を集めた新政府を誕生させた。

 野に下ったタリバンやアルカイダの指導部は、アフガニスタン国境を越えてパキスタン側の国境付近に潜伏し、カルザイ政権に対する反乱武装闘争を指揮した。このアフガニスタンとの国境付近は、パキスタン政府の実効支配が及ばない「連邦直轄部族地域(FATA)」と指定されており、部族による独自の慣習法と自治が認められている。

 政権を追われたタリバンは、いわばパキスタンに「亡命政府」をつくってカルザイ政権への反乱闘争を続けているのである。

 タリバン政権崩壊後、国際社会の支援を受けて誕生したカルザイ政権は、タリバンの影響力の強い南部・東部の実効支配に失敗し、莫大な国際社会からの援助にもかかわらず、経済復興を実現し雇用を創出することができずにいる。

 カルザイ政権の閣僚やその親族ばかりが裕福になり、腐敗が蔓延する中、同政権は民衆の支持を失い、それと同時に反政府勢力としてのタリバンが徐々に力を盛り返していった。

 タリバンはアフガン政府の治安機関や米軍など外国軍に対するテロを激化させ、治安は著しく悪化。治安が悪くなれば復興事業はストップし、復興が進まなければ政府や米軍に対する民衆の不満はますます増大し、タリバンへの支持が高まるという悪循環に陥り、タリバンの支配地域が次第に拡大していった。

 こうした中でオバマ政権は、2009年12月1日に、3万人規模の新たな米軍部隊をアフガニスタンに派遣し、2011年7月には撤退を開始することを盛り込んだ新アフガン戦略を発表した。3万の増派部隊をタリバンの影響力のもっとも強い南部・東部地域に投入し、タリバンの勢いを止める。

 そして、アフガン政府の能力、とりわけ治安機関を強化して、アフガン側に早期に権限を移譲していくという戦略であった。

生半可なレベルでない腐敗状態のカルザイ政権!

 オバマ政権がわざわざ撤退開始期限を明示したのには理由があった。

 通常軍隊を派遣してこれから戦争をやろうという時に、「~までに撤退します」と宣言することはない。敵は喜んで米国が撤退するまで待って、その後にアフガン政府を倒してしまえばいいからだ。

 あえてそうせざるを得なかったのは、カルザイ政権がいつまで経っても米国の支援に対する依存を断ち切ることができず、自らの足で立ち、アフガン政府の機能向上に努めようとしないからだった。カルザイ政権の腐敗が酷過ぎるため、何の条件もつけずにただ増派して、支援を強化しても無駄だと考えられたのである。

 実際、カルザイ政権の腐敗は生半可なレベルではない。2009年10月19日、カール・エイケンベリー駐カブール米国大使は、カルザイ政権高官たちによって、出所不明の現金が毎日のようにドバイに運ばれている様子を報告している。

 「報告には大きなばらつきがあるものの、カブール国際空港から入手した記録は、カブールからドバイへ莫大な額の不審な現金の移動が週ごと、月ごと、そして年ごとに起きていることを示している。極秘の報告書によれば、7、8、9月の3カ月間に1億9000万ドル以上の現金がカブールからドバイに運ばれている。しかし、実際の額はそれ以上であろう。直接情報を持つある職員が最近、大使館付財務省員に対して、7月中にたった1日で7500万ドルもの現金がカブール空港からドバイに持ち出されたと語っているからである」

エイケンベリー米大使は、この公電の中で、「こうした現金の輸送にはPamir航空が使われることが多いが、この航空会社は、カブール銀行とカルザイ大統領の弟であるマフムード・カルザイが所有している」と報告している。またこうした現金の出所については、

 「現時点で確実なことを知ることはできないものの、アフガニスタンから出て行っているこれらの現金は、違法なものと合法なものが入り混じっていると考えられる。麻薬取引業者、腐敗した政府高官、そして合法的な会社のオーナーたちが何百万ドルもの資金をアフガニスタンに置いておいても何の利益にもならないため、国外の口座や投資のために動かそうという動機があるものと推測される。アラブ首長国連邦政府は、米麻薬取締局(DEA)とアフガン麻薬捜査当局による捜査の結果、昨年アフガニスタンのアフマド・マスード副大統領が5200万ドルの現金を持って入国しようとしたところを取り押さえている。結局、その資金の出所を突き止めることなく、副大統領を解放せざるを得なかったが…。」

 と述べている。アフガニスタン政府高官が、麻薬取引と関係するダーティー・マネーをドバイに持ち出していることを強く示唆する公電である。

 米国務省や米連邦捜査局(FBI)やDEAなどは、カルザイ政権高官と麻薬ビジネスのつながりや、ドバイへの資金移動の動きに業を煮やしたのだろう。政権内でこのような公電が飛び交った数ヵ月後から、欧米メディアでこの種のカルザイ政権の腐敗に関する記事が大量に報じられるようになる。

 「何十億ドルもの資金がカブールからドバイに流れ、裕福なアフガン政府関係者が豪華な屋敷を購入している」

 米『ウォールストリート・ジャーナル』紙や独『シュピーゲル』誌は、「2007年以来、少なくとも30億ドルの現金が、スーツケースや箱に入れられてカブール国際空港から国外に持ち出された」というスクープ記事を連発した。この間のアフガニスタンの国内総生産GDP)の合計が135億ドル相当と見積もられていたので、国外逃避した資金の量がどれくらい多いか想像がつくだろう。

逮捕されたカルザイ大統領の側近!

 米政府とアフガン政府の捜査当局がこのカブール空港からの資金逃避の捜査を進めていると、意外な会社が浮かび上がってきた。アフガニスタン最大の送金サービス会社である「ニュー・アンサリ両替」である。2007年から2010年2月までに、公式記録では31億ドル以上の現金が国外に出しているが、その大部分にあたる27億8千万ドルをこの「ニュー・アンサリ」が手掛けていたことを突き止めたのである。

 「ニュー・アンサリ両替」は90年代前半に、タリバンの拠点である南部のカンダハルで設立されており、そもそもタリバンとの関係が深い会社だった。しかし一方でカルザイ大統領の弟マフムード・カルザイ氏がパートナーをつとめており、カルザイ政権の中枢にもコネクションを持っていた。つまりこの会社は、カルザイ政権とタリバン、そして麻薬ビジネスを繋ぐブラックマネーの送金を一手に引き受けている可能性が高かったのだ。

「すでに議論してきたように、ニュー・アンサリはアフガン政府高官を腐敗させるための賄賂やその他さまざまな違法資金の送金を促し、アフガニスタンやUAEにある多くのダミー会社を通じて麻薬取引業者や反乱武装勢力、それに犯罪集団たちに違法な金融サービスを提供してきた…。カブールに本社を置くニュー・アンサリはドバイや他の世界中の金融センターとコネクションを持っている。法執行機関やNATO軍は現在ニュー・アンサリに対する捜査を進めており9月8日にはワシントンでも説明を行った…」

 エイケンベリー米大使は、2009年10月18日にこのような公電を送っていた。そしてこの凄まじいアフガン政府の腐敗の温床を潰すため、米政府のあらゆる機関が協力して当たらなければならない、とワシントンにリーダーシップを促した。

 この後の経過は、米メディアが、おそらくは米政府のリークを受けて詳細に報じている。

この捜査を進めたのは、アフガン捜査当局の中でも大物麻薬取引業者に対する捜査を担当する「極秘捜査局(SIU)」で、米麻薬取締局(DEA)が全面的に支援していた。また政府高官の腐敗や組織犯罪の捜査を担当する「重大犯罪特別捜査班(MCTF)」も合同で捜査に協力した。こちらは米連邦捜査局(FBI)が育てた機関で、FBIがアフガン要員の訓練や犯罪捜査の事実上の指揮をとっている。

 米捜査機関の指揮の下、SIUとMCTFが腐敗容疑でニュー・アンサリのカブール事務所を家宅捜索したのは、2010年1月14日のことだった。そして、この家宅捜索から5カ月が過ぎ、さまざまな証拠を入手した米・アフガン捜査当局が狙いを定めた人物は、何とカルザイ大統領の側近中の側近で、アフガン政府の国家安全保障会議の議長をつとめたモハメド・ジア・サレヒ氏だった。

 米捜査当局は、この大物逮捕に向けて慎重に事を進めた。

 莫大な量の現金がカブール国際空港から国外に出しており、カルザイ政権高官が絡んでいることを示唆する情報をメディアにリークし、米『ウォールストリート・ジャーナル』紙がこれを報じたのが6月25日。そして続く7月に捜査当局は、汚職容疑でサレヒ氏を逮捕した。

 米・アフガン捜査当局は、サレヒ国家安全保障会議議長が、ニュー・アンサリ両替とカルザイ政権を繋ぐキーマンだと考えたのである。そしてサレヒ氏がニュー・アンサリに対する捜査を中止させる見返りに賄賂を要求している会話を録音し、この盗聴テープを決定的な証拠としてサレヒ氏の逮捕に踏み切ったのだった。

 

逮捕されたカルザイの側近はCIAの協力者!

 ところが、このサレヒ氏の逮捕に、カルザイ大統領は激怒した。大統領はすぐに捜査当局に圧力をかけ、逮捕からわずか7時間後にサレヒ氏を釈放させると、米FBIやDEAが支援するアフガン捜査当局のSIUとMCTFを大統領自身が任命したメンバーで構成される委員会の監視の下に置き、「捜査の見直しを行う」と発表したのである。

 「私は彼らの捜査に反対しているわけではない。しかしこれらの捜査機関は外国からの干渉や政治的圧力から自由でなくてはならない」

 2010年8月20日の演説でカルザイ大統領はこのように述べて、両捜査機関を指揮してきた米政府を痛烈に批判した。そしてその5日後、今度は米『ニューヨーク・タイムズ』紙が劇的なスクープ記事を掲載した。

 米・アフガン捜査当局に汚職容疑で逮捕されたサレヒ国家安全保障会議議長は、長年にわたって米中央情報局CIA)から資金を受け取っていた米諜報機関の協力者だと報じられたのである。

 サレヒ氏は、もともとウズベク系軍閥のボス・アブドル・ラシッド・ドスタムの通訳を長年つとめた人物である。ドスタムは2001年に米国がアフガン攻撃を行った際に、CIAに協力し、当時のタリバン政権を打倒するために、民兵を米軍に協力させた軍閥の一つであった。サレヒ氏とCIAの関係は少なくともこの頃まで遡る根深いものだというのである。

 この記事を書いたデクスター・フィルキンズとマーク・マッゼッティは、この記事の情報源は「アフガン政府及び米政府関係者」としか明らかにしていない。ここで言う「アフガン政府関係者」はおそらくカルザイ大統領に近い筋であろう。

 「これまでCIAに協力してきた我々の仲間を逮捕するとは何事だ。あんたらのやっていることは矛盾だらけだ」

 カルザイ大統領派としては、これまで米国に協力してきた仲間を裏切るのであれば、こちらだって知っていることを暴露するぞ、と米国を脅す意味も込めて、「サレヒ=CIA・コネクション」についてメディアにリークしたのではないか。

 オバマ政権の対アフガン戦略の柱である3万人の増派作戦は、はじめからカルザイ政権の腐敗対策とセットだった。カルザイ政権の腐敗を糺さずに増派だけすれば、「腐敗した政府を助ける」だけになり、いつまで経っても政府は安定しないからである。

 しかし、腐敗対策はカルザイ大統領の反発を受けて壁にぶつかり、カルザイ政権とオバマ政権間の激しい情報暗闘に発展。本来パートナーとして手を組まなければならないはずのカルザイ政権との関係はズタズタになっていったのである。

米国を裏切るパキスタンの諜報機関!

 一方、もう1つの重要なパートナーであるパキスタンにも、オバマ政権は悩まされ続けた。

 前述したようにタリバンやアルカイダの指導部はアフガニスタンとの国境付近のパキスタン領内に潜伏している。そこで米国パキスタン政府に対し、この「聖域」に隠れているタリバンやアルカイダを攻撃し、アフガニスタンとの国境近辺に彼らの拠点をつくらせないようにと猛烈な圧力をかけ続けている。

 しかし、アフガニスタンタリバンやアルカイダはそもそもパキスタンの諜報機関(Inter-Services Intelligence ISI)が育てた民兵部隊である。パキスタン軍やISIは、自国の後背地に友好的な勢力を置くことで、敵対勢力に背後から撃たれないようにするという戦略的な考え方を持っている。

 パキスタンにとって一番の安全保障上の脅威はインドであり、インドとの対抗上アフガニスタンパキスタン寄りにしたい。アフガニスタンで親インド勢力に権力を握らせないようにすることが、パキスタンが何より気にかけていることなのである。

 ウィキリークスが公開した秘密公電で、アン・パターソン駐パキスタン米大使(当時)は次のように報告していた。

 「2009年9月23日:パキスタンのエスタブリッシュメントがテロリストや過激派勢力に対する支持をやめることが、(米政府のアフガン戦略を)成功させる主要な要素である。しかし、パキスタンが(米国の)支援強化を、武装勢力に対する支援を放棄するのに十分な見返りとしてとらえる可能性はない」

 パターソン大使はこのように述べ、いくら米国がパキスタンに支援をしたところで、その見返りとしてパキスタンタリバンへの支援を止めることはないだろうとの悲観的な見方を示していた。そしてパキスタンのエスタブリッシュメントの間で、「インドアフガニスタンへの影響力を強めてパキスタンを挟み撃ちにしようとしている」との懸念がパラノイア(妄想症)のごとく強いため、

 「もし米国がインドとの関係を改善させ続ければ、パキスタンのエスタブリッシュメントのパラノイアはさらに強くなり、彼らをアフガニスタンカシミールのテロリスト・グループの近くへ追いやってしまうだろう」

 と分析している。パキスタン軍や諜報機関の中には、米国がインドとの関係を強化し、アフガニスタンでも親インド勢力を支援しているため、それに対抗するタリバンを支援するという戦略的思考が存在するのである。

 実際ウィキリークスの「アフガン戦争文書」には、タリバンとパキスタンの諜報機関ISIの繋がりを指摘する報告書が数多く含まれていた。

 「2009年1月5日:パキスタン、連邦直轄部族地域(FATA)、南ワリジスタンのワナを拠点とする反アフガン政府部隊指揮官が、ザマライの死に対する復讐の計画について議論する会合を開催。この会合はワナにある××の邸宅で開催された。3名の身元の確認できない年配のアラブ系の男性も参加した。この3名は影響力のある人物であると思われる(情報源コメント:このアラブ系男性は大規模な警護チームが付いていたことから重要人物だと考えられる)…(中略)…ハミド・グル、元パキスタン諜報機関ISIのメンバーも会合に参加した。ハミド・グルは非常に年配でISIの中でも影響力のある人物だと言われている」

 ここで登場する「ザマライ」とはその数日前に米中央情報局CIA)の無人機攻撃で殺害されたオサマ・アル・キニのゲリラ名である。

 ハミド・グルはパキスタン諜報機関ISIの将軍で、1987年から89年までISIの長官をつとめた人物である。この情報源は、「ハミド・グルがISIの同意の上でこのような活動をしているのかどうかは不明」と報告している。

この会合では、ザマライ殺害に対する復讐としてアフガニスタンで自動車自爆テロを実行することが話し合われた。この文書はさらに、

 「ハミド・グルは反アフガン政府部隊指揮官たちに対して、アフガニスタン国内での作戦に焦点を絞るように促した。というのも、パキスタン政府の治安機関は反アフガン政府部隊指揮官やその戦闘員がパキスタン国内にいることに目を瞑るからだ」

 との情報を伝えている。パキスタン・スパイ機関の元長官が「反アフガン政府部隊指揮官」、すなわちタリバンの指揮官たちに、「パキスタンにいる間は心配ないので、アフガニスタン国内の作戦に集中しろ」とアドバイスをしているというのである。

 さらにパキスタン諜報機関ISIがテロリストの自爆テロの訓練をしていることを示す文書もある。

 「アフガニスタンとパキスタンのテロリストのネットワークは、カブールにおける自爆テロ攻撃を計画している。この計画のプロセスは、自爆攻撃者の訓練、作戦区域の偵察、作戦計画、輸送や自爆攻撃者の滞在場所や実際の攻撃の実施に分けられる。一般的にカブールの自爆作戦はパキスタンにいる×××の責任である。彼はISIの××事務所のメンバーであり、彼の任務の一部は×××である…」

 個人名や所属部隊などの情報は削除されているものの、アフガニスタンの首都カブールで実施される自爆テロ攻撃が、パキスタンの諜報機関ISIメンバーの責任の下で計画・実施されている、とこの文書は述べている。これまでもパキスタン諜報機関とタリバンの関係については多くが語られてきたが、具体的にパキスタンの情報機関員が自爆テロ作戦の指揮をとっていることを示す証拠が明らかにされたのは、このウィキリークス文書が初めてであろう。

 オバマ政権のパートナーであるはずのカルザイ政権も、「対テロ戦争の同盟国」であるはずのパキスタン政府も、実際には米国の利益に真っ向から反対する政策をとり、米国の足を引っ張っている。

 ウィキリークスの秘密文書は、バラク・オバマが「正しい」と信じたアフガニスタン戦争が迷走に迷走を重ねているという現実を、圧倒的なリアリティを持って我々に伝えているのである。

編集部注 「ウィキリークス」に関しては連載コラム「オバマと戦争」でも関連記事があります。あわせてお読み下さい。

 ウィキリークスで“タダ漏れ”された「秘密資料」の読み方

 米国諜報史上に残るCIAの大失態

 軍事作戦を仕切る“素人”CIA

* * * * * * * * * * * * *

【ファイルNO1】前代未聞 メガトン級の機密漏えい事件に迫る

【ファイルNO2】ウィキリークスを作るために生まれた男

【ファイルNO3】CIA長官「暴露された機密情報の影響を調べよ」

【ファイルNO4】アメリカの国家機密を漏洩した男

【ファイルNO5】911テロのトラウマが機密情報の大量漏洩を可能にした・・・

【ファイルNO6】暴かれた「北朝鮮・アルカイダ・コネクション」

【ファイルNO7】曝されたCIAと米軍特殊部隊の「秘密戦争」

【ファイルNO8】テロ、暗殺、拷問、無差別殺人―公開された「戦争の悲劇」

エジプト
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B8%E3%83%97%E3%83%88

蜂起するエジプトの民衆!

2011.02.07(Mon)The Economist (英エコノミスト誌 2011年2月5日号)

西側諸国はエジプトでの激変を恐れるのではなく、祝福すべきだ。


 独裁政治への恐怖から、幸福なひと時を経て、無秩序への恐怖へ――。過去10日間でエジプトは弧を描くような心情の変化を経験してきた。1月25日に数千人規模で始まった抗議行動は、2月1日に劇的な最高潮に達した。

 この日、数十万人がカイロのタハリール広場に結集してホスニ・ムバラク大統領の退陣を要求。その後、大統領支持派がデモ参加者を攻撃したことで、事態は暴動へと悪化した。

 だが、週半ばのひどい光景にもかかわらず、エジプトにおける事態の展開は歓迎されるべきである。弾圧されてきた地域が自由の味を覚えつつあるのだ。中東では、奇跡のようなこの数週間の間に、独裁者が1人失墜し、そしてもう1人、アラブ最強の国家を30年間支配してきた人物が倒れかけている。

 3億5000万人を擁するアラブ世界は期待に活気づき、高齢の独裁者たちの立場はにわかに危うく見えてきた。これらの目覚ましい出来事は、いかなる人民も永遠に隷属させることはできないという普遍的真理を思い出させてくれる。

 中東と接する際に概して民主主義より安定を優先させてきた西側諸国では、一部の人が今回の展開に不安を抱いている。抗議運動によってムバラク体制の力が失われた今、その空白を満たすのは、民主主義者ではなく、混沌と闘争か、あるいは反西洋、反イスラエルを標榜するムスリム同胞団になるだろう、と彼らは言う。

 そして、米国ムバラク大統領や同様の独裁者を支えることによって、長期にわたる「管理された移行」を保証する取り組みを強化すべきだと結論づける。

ロゼッタ革命
 しかし、そうした主張は間違っている。ムバラク大統領に対する民衆の拒絶は、中東の改革に向けてこの数十年間で最良の機会をもたらすものだ。もし西側諸国が、自らの運命を決することを求めて行動するエジプト国民を支持できないとしたら、他国での民主主義や人権を求める西側の議論は意味を失う。

 変化はある程度のリスクをもたらす。これほど長期に及ぶ政権の後なら当然だ。だが、変化を選ばなかった場合に訪れる容赦ない停滞に比べれば、リスクは小さい。

革命は必ずしも、1789年のフランス革命や、1917年のロシア革命、1979年のイラン革命のようである必要はない。中東に吹き荒れる抗議運動はむしろ、20世紀末に世界地図を塗り替えた「カラー革命」との共通点の方が多い。

 この運動は平和的で(政府の暴漢たちが現れるまではそうだった)、民衆的で(裏で操るロベスピエールやトロツキーはいない)、非宗教的だ(イスラム教が頭をもたげることはほとんどなかった)。エジプトの動乱は、市民のパワーが原動力となり、東欧革命と同じくらい良性の変革につながる可能性がある。

 悲観論者らは、エジプトには円滑な移行を保証する制度も政治的リーダーシップもないことを指摘する。だが、もしそういうものがあったなら、そもそも民衆が街頭に繰り出すことはなかった。

ムバラク体制の残骸の中から、ただちに完全な形の民主政治が出現してくることはない。混乱状態はしばらく続く可能性が高いと思われる。

 しかし、エジプトは、貧しいとはいえ、見識のあるエリートと、教育を受けた中間層を擁し、国の誇りを強く抱いている。これらは、エジプト人がこの混沌から秩序を引き出し得ると信じる十分な根拠となる。

 ムスリム同胞団への懸念は、いずれにしろ誇張されている。この組織が、今やウサマ・ビンラディンのナンバー2であり最高位の理論的指導者となったアイマン・アル・ザワヒリを生み出したことは事実だ。

 また、1950年代から1960年代にかけて同胞団の主導的な思想家だったサイイド・クトゥブの著作は確かに不寛容で、西側諸国を敵視している。エジプト新政府がどんな形になるにせよ、恐らくイスラエルへの姿勢を硬化させ、ハマス寄りになるだろうし、ムスリム同胞団が政権に関与した場合は特にその傾向が強まるはずだ。

 ムスリム同胞団から分かれたイスラム原理主義者の一派で、エジプトとイスラエルの間にあるガザ地区を支配しているハマスは、理論上、イスラエルの存在を否定している。

 だが、ムスリム同胞団は様々な派閥の集まりであり、以前より柔軟さを増している。エジプトが1979年にイスラエルと交わした平和条約を破棄せよと主張する向きもあるが、新たな戦争のリスクを冒すことは恐らくないだろう。

 さらに、ムスリム同胞団が選挙で勝つ見込みも低い。彼らはその信仰心と規律と粘り強さで評価されているが、支持率は20%前後と推定され、低下傾向にある。仮にムスリム同胞団の支持率がもっと高く、選挙で最大勢力になったとしたら、その地位を決して手放さないのではないかと懸念する向きもある。

 だが、トルコやマレーシア、インドネシアのように、民主主義が定着していている国でも、イスラム主義者は選挙に加わっている。

エジプトで民主主義が花開くには、ムスリム同胞団が選挙で競うことが許容されなくてはならない。そして、これまでの数週間で得られた教訓は、民主主義に代わる選択肢に未来はないということだ。

 ここ数年間、制度を刷新できず、若者の仕事も見つけられなかったエジプトは、次第に抑圧的になっていった。8500万の人々を、堕落した残忍な警察、批判への弾圧、政治犯への拷問といった重荷を負わされたまま独裁政権下に放置するのは、道徳的に間違っているだけでなく、次の蜂起につながる導火線に火をつけることにもなる。

 新たな独裁者を据え、その人物が非宗教的な民主主義に向けた条件を整えるのを待ちたいと考える向きもあるだろう。だが、中東の悲しい状況が示すように、独裁者が自身の退任を計画することはほとんどない。

バラクとムバラク!

短期的に困難が立ちはだかるだろうことは疑いようがないが、それでも、混乱した民主主義でさえ、やがて豊かな成果をもたらす可能性がある。そして、それはエジプト人にとってだけの話ではない。

 民主的なエジプトは、再び中東の道しるべとなり得る。アラブの民主主義にイスラム教をどう取り入れるべきかという難問への答えを出す一助になるかもしれない。

 そして、イスラエルが国境付近の脅威を恐れるのは理解できるとはいえ、民衆を代弁するエジプト政府はいつの日かイスラエルパレスチナ人との和解に、権威主義者による「冷たい平和」がなし得るよりも大きな貢献をするかもしれない。

 西側諸国は、エジプトがこの成果を勝ち取れるよう支援することができる。民主主義よりも安定を求めたことで西側はイメージを損なったが、今こそ、それを償える。特に米国は、今もなおエジプトの政界、財界、軍部エリート層への影響力を維持している。その影響力を利用すれば、独裁政治から混乱期を経て新体制へと至る移行を加速させる手助けをし、中東での米国の立場を改善できるだろう。

 西側の人間はエジプトの動乱に神経質になっているかもしれないが、エジプト人が自由と自己決定を要求する時、彼らは西側が依拠する価値観を認めているのだ。エジプトの革命が最良の結末になるという保証は全くない。唯一確かなのは、独裁政治は動乱を招くものであり、安定を保証する最良のものは民主主義であるということだ。

© 2010 The Economist Newspaper Limited. All rights reserved.英エコノミスト誌の記事は、JBプレスがライセンス契約 に基づき翻訳したものです。
英語の原文記事はwww.economist.comで読むことができます。

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