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巨匠ひしめくパリのショコラ界に新星現る!

2010.12.28(Tue)JBプレス 鈴木春恵


 フランスの年末年始にもやはり、各家庭のテーブルに上る定番メニューというのがいくつかある。フォアグラ、牡蠣、スモークサーモン・・・。クリスマスデザートならやはり、ブッシュ・ド・ノエル。そして、ショコラ(チョコレート)。

巨匠がひしめくパリのショコラ界!

本なら、チョコレート屋さんの書き入れ時と言えばバレンタインデーだが、フランスでは、年末年始の需要が最も多い。スーバーやデパートの食品売り場には、特設のショコラコーナーができ、専門店、つまり高級ショコラの店では、レジに行列ができる。

 東京をはじめ、日本の各都市でも恒例になった「サロン・ド・ショコラ」の影響もあって、フランスの高級ショコラの知名度はここ数年でかなり上昇し、一種のブランドと化した。それはフランス国内でもしかり。

 特にパリでは、老舗の名店に加えて、スターパティシエの店、M.O.F(フランス最優秀職人)の店など、群雄割拠とも言える状況が繰り広げられてきた。

 新顔の登場、巨匠らの支店が続々と増え続ける状況から、この業界もそろそろ飽和状態に達しつつあるのではないか、と思っていた。

 しかし、どうやらその読みは甘く、つまりショコラはまだまだ市場の開拓が望める分野らしく、ここにきてまた、新しい店のオープンが相次いでいるのである。

中でも、11月末に開店した「un dimanche à Paris(アン・ディモンシュ・ア・パリ)」は、従来のショコラティエとは一線を画す方向性を打ち出してきた。

 パリには、約10のグラン・ショコラティエ、つまりこの世界でのビッグブランドが存在するが、サンジェルマンからオデオンにかけては、特に激戦区といえる地域。

 「パトリック・ロジェ」「エール・エルメ」「ラデュレ」「エール・マルコリーニ」「ドゥボーヴ・エ・ギャレ」といった店が、徒歩5分圏内にひしめいている。

 「un dimanche à Paris」が出店したのもまたこの界隈。サンジェルマン大通りから枝分かれする小道、それもいかにも由緒を感じさせる石畳のパッサージュの真ん中に位置している。


オーナーは、Pierre CLUIZEL(エール・クリュイゼル)さん。今まさに働き盛りという年頃のスマートな紳士だ。

祖父の代からショコラティエの家!

「私はショコラの中に生まれたようなものです」

 と、彼は言う。つまり、ショコラティエは生家の家業だった。

 お祖父さん、マーク・クリュイゼルという人は、はじめ料理人だったのだが、パティシエ、そしてショコラティエとしてノルマンディーに店を開いたのが1947年のこと。

 その息子ミッシェルもまた、14歳の時からショコラティエとして働くことになる。

 そして、自身の名を冠したショコラティエ「Michel CLUIZEL」を全国規模、いや、今までは世界規模のマーケットを持つ企業にまで成長させてきた。その家の3世代目の長男としてエールさんは生まれたのである。

 弟と2人の妹同様、エールさんもファミリービジネスに参加。マーケティングの分野を主に担当し、それと並行して、ショコラの原料であるカカオを産出する国々に足を運び、また、消費者としての取引先である国にも何度も訪れている。

 「日本にも、十数回行きましたよ。大好きな国です」

 このように、世界をまたにかけて家業に打ち込むこと25年。その間に、ショコラの新しい方向性を実現させたいというパッションが育まれていった。

「カカオの産出国というのは、だいたい30カ国くらい。アフリカ、南米、中米、またインド洋周辺の島々ですね」

「そこで取れるカカオは、地元の仲買人から、世界各国の仲買人に渡り、それからショコラティエに回るというようなルートを経ます」

 「実際現地に行ってみると、そこで働いている人々の暮らしぶりというのは、自転車も買えないような非常に貧しいものですけれども、彼らの瞳の輝きは生き生きとしていて、実にエネルギーに満ちているんです」

 「これまで、その流通に何段階もの人の手が入るために、一般には、カカオの作り手のことが伝わってくるようなショコラというのはあまりなかったと思います」

 「しかし、そういった人たちに始まり、ショコラを味わう人まで直結するようなリレーションを築きたいと思っていました」

ファミリービジネスから独立して出店!

 つまり、ショコラの1から10までを実際に肌で知っているという経験をもとに、カカオ、ショコラの持つ可能性を最大限に引き出す方法を頭のなかで描いきた。

 そして、ファミリービジネスを離れ、つまり、自分の分の株式を手放して独立する形で、このたびの店を実現したのである。

それは「ショコラを核にしたコンセプトストア」というもので、単にショコラそのものを売るブティックだけでなく、レストラン、バーラウンジ、さらにクッキングスタジオまであるというものだ。

 「ショコラはいわばワインと一緒。テロワールごとのクリュ(銘柄)というのがあります。そういったことを、より深く味わうための様々な方法を通して伝えたいし、料理やお酒に合わせたりする楽しみ方も発信してゆきたいと思っています」

 それにしても、いわば無名のブランドとして、いきなり激戦区にこのような大規模な空間を出現させるというのは賭けに近い冒険だが・・・。

「一からの出発ではあっても、まず小さいところから始めるという発想はしませんでした」

 「コンセプトそのものが従来のショコラティエとは違っているわけですから、それを強調するためにも、まず『ワォ、いったいこれはなんだ?』というふうに、いきなり注目を集めることを狙いました」

愛想の悪いパリにあって異色のサービス!

確かに、パリの一等地にこれだけ間口の広い空間というのは、建築段階からしてとても気になる存在だし、実際出来上がってみれば、人々は金魚鉢を覗くように、必ず立ち止まって見ている。

 さらに言えば、オープン1週間目というタイミングでお邪魔したこの時、キッチンスタジオではフランス国営放送のテレビクルーによる撮影の真っ最中。

 常に新しいものを探しているメディアにとっては、格好の材料だし、それが報道されることによっての影響は言うまでもない。

 造りの素晴らしさにも増して、私が好印象を持ったのは、まずスタッフの感じのよさ。

お客様が神様の国からは想像しにくいかもしれないが、パリの接客というのは、しばしば不愉快と言えるくらいにお粗末であることが多い。それに比べると、ここのブティックの女性たちはとても感じがいい。

 それと、いかにもよく考えられた買いやすい値付けをしている。具体的にいうと、ギフトボックスのサイズと値段の刻み方が細かい。

 一口サイズのショコラが2つ入った2.90ユーロ(約310円)から、6個入り、15個入り、そして最大120個入り101.70ユーロ(約11000円)まで、8段階のサイズ、値段設定になっている。

 特にこの小さいサイズの充実が、独特の“お土産文化”をもつ我々日本人にはうれしいところだし、これが意外に、従来のショコラティエにはない。

ええ、よく分かっていますよ。日本の方は、ちょっとしたものをたくさん買われますものね。小さいサイズを設けたのはそのためです。それと中判サイズはフランス人向け、そしてアメリカ人にはビッグサイズです」

日本に学んだ店づくりと接客ノウハウ!

この新規事業の準備期間中、改めて集中的にビジネススクールに通ったというエールさん。それには海外の企業での研修というのもカリキュラムに含まれていたそうだが、先進数カ国の選択肢のなかから、彼は迷わず日本を選んだ。

 「数えきれないくらい行っていて、よく知っている国ですけれども、ビジネス、特に店づくりのディテールや接客のノウハウという点で、一番学ぶところの多い国だという確信があったので、日本を選んだのですよ」

スタッフの応対の良さや、箱のサイズの刻みには、紛れもなく、日本のエスプリが生かされているということになる。

 ところで、店名の意味は、「パリの日曜日」。

 これもまたショコラティエとしては珍しく、日曜日も営業するそうで、レストランでは、このところ流行しているブランチはもちろん、ランチとディナーの折衷スタイル「ドランチ」メニューも準備中とか。

 そして、ゆくゆくは、ニューヨークや東京への進出というのもエールさんの意中にある。さて、「パリの日曜日」が世界で楽しめる日はいつごろのことか・・・。まずしばらくは、大激戦区での健闘ぶりを見守ることにしよう。

カカオ産地の人々とショコラを味わう人を“結ぶ”という意味合いを表したかったという、トレードマークの紐がポイントになったパッケージング

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日本製品“高品質神話”の意外な落とし穴!

2010年12月29日 DIAMOND online 山谷剛史 [フリーランスライター]

上海や北京などの大都市に外国ブランド製品が中国初上陸し話題らしい話題となるのは過去の話。最近は内陸都市に様々な外資系ブランドが進出することのほうがその都市その土地で話題になる。

 中国の消費者は経験から母国製品の品質をよく思っておらず、企業規模の大小を問わず詐欺に関するニュースが連日報道されているため、金に余裕さえあれば外資系製品を購入したいと思っている(そうは言っても、近年の物価上昇・生活費上昇の中でそんな余裕もなかなかないのが現実ではあるが)。

 中国にも商品やサービスなど消費生活全般に関する苦情(中国語で「投訴」)や問合せなどを受ける「消費者センター」は存在する。インターネット上の「投訴サイト」は多数の苦情を受け付け、有効な苦情や意見は公開され、公開された苦情の一部は、例えば著名企業の製品の苦情であるために、どこかのサイトでニュースとなったりする。

 中国におけるインターネットの利用者の年齢構成は世界的にみても極めて特殊で、文革を経験していない35歳以下に偏っている。そのためインターネット上の投訴専門サイトで公開されている苦情は、中国のインターネット世代が好む「インターネットサービス」「家電製品」「IT製品」「車」「化粧品」などに偏っている。インターネット世代以外の世代に向けた製品ジャンルでは、老人向けの健康グッズで詐欺まがいの事案が頻繁に発生している。

 筆者は中国のITについて執筆する物書きであるため、仕事柄頻繁に新製品を購入しては使っているが、多くのモノに関して使い始めた当初は問題は無いが使ってしばらくすると壊れるか、どこか不具合が生じたりしている。

 読者の方々もニュースなどを通じて爆発するトイレの便座の話は聞いたことがあるかもしれないが、筆者自身の経験を挙げるだけでも「突然再生できなくなったDVDプレーヤー」「突然起動しなくなるパソコン」「電源をつけると何かが燃える臭いがする電気ストーブ」「電源を入れるとキーンという音が鳴るテレビ」「充電できなくなった充電器」「すぐに片方から音が出なくなるイヤフォン」など、枚挙にいとまがない。

恨み節を書いても仕方ないが、要は中国メーカーは品質管理を徹底せずそこそこの品質チェックをした後に、「この程度でいいや」とばかりに出荷する傾向にあり、それが低賃金・デザインの模倣とともに低価格を実現する要素のひとつとなっている。

 投訴サイトでの中国製品に関する苦情の東の横綱は、「突然壊れた」「おかしくなった」というものである。ちなみに、中国製品に関する西の横綱は「誇大広告で実際買ったら全然違うもの・サービスだった」というものだ。

 日本においてメーカーサポートの多くは「購入から一定の期間内のユーザーの過失以外の故障は無償修理」「ユーザーの過失や無償修理期間が過ぎたら有償修理」であり、いずれにしろ故障したらサポートセンターまで持ち込むか、宅配業者が家まで来て故障した製品をひきとってくれるというものである。だが、それが中国の消費者にウケが悪い。

「中国人は謝らない」とよく言われるが、品質が良くないことは中国メーカー自身も認識している。建前上保証期間は設定しているものの、故障や問題が発生した場合、原因究明を待たずして購入後どれだけ時間が経っていても、各都市のサポートセンターが無償交換対応をしてくれる。これは企業規模の大小を問わない。中国の消費者は品質の悪さや壊れやすさに慣れているが、一方で迅速な新品無償交換サポートもまた彼らの中の常識なのである。

 投訴サイトからは外資企業にも多くの苦情が集まっていることが確認できる。日系メーカーに対しても家電製品、IT製品、車のそれぞれの製品ジャンルで苦情が多く投げかけられている。

 その原因は中国メーカーにありがちな製品の品質ではなく、まさに日本式サポート体制にある(ちなみに韓国サムスンも同様にサポート面で苦境に立たされている)。日本人なら経験したことがあるであろう「故障したときに下手したら修理で部品を交換するだけで、ワンランク下の新品が買えてしまう修理代を見積もられる」ということが中国の消費者には到底受け入れられないのだ。

故障品をサポートセンターに送った場合、中国メーカーならすぐに新品を送り返してくれるのに、日系メーカーなど外資系企業は原因調査等を理由に、交換のための時間も中国メーカーよりもずっとかかる。

 中国の地場メーカーに比べれば、中国全土の各都市でのサポートセンターの展開は遅れがちだ。大都市に中国メーカーのサポートセンターは幾つもあるのに、日系メーカーのそれは1つしかない場合が多い。

 日系メーカーの製品のほうが、中国メーカーの製品よりもずっと値段が高いことから、中国の消費者の期待を裏切る結果となり、こうした感情的なことも背中を押して、投訴ネットへの苦情へと繋がる。

都市の大きな書店には、家電や車など本来「開けるな、危険」の製品の修理マニュアル本が並ぶ。都市の繁華街にはないが、大都市でも地方でも住宅地にはよろず修理屋があり、メーカーや製品ジャンルを問わず修理を試みてくれる。

 就職難の現在、各都市には修理のプロになるための専門学校も次々に出来ている。ネジ一本でもゆるめようものなら「無償サポート対象外」が先進国のメーカーのお作法だが、そうした点でも中国のメーカーは寛大であり、中国の消費者もそうした寛大さを外資系メーカに望んでいる。

 中国において315は消費者センターの代名詞。315とは3月15日のことで、この日は日本ではなじみがないが「世界消費者権利デー」である。

 この日、中国では毎年のようにテレビ、新聞、ネットメディアにおいて、サポートを含むあらゆる面から著名企業をチェックする。そこでやり玉に上がってしまった企業は、一時的とはいえ評価が急降下する。

 中国に進出している企業担当者は、年始からでも遅くないので、安心の品質面はそのままに、サポート体制も今一度見直してみてはいかがだろうか。

中高年が健康オタクへ、銀髪族の消費を狙え!

2010.12.27(Mon)JBプレス  山谷剛史

 中国で日々作られ使われる新語の中で今年ぽつぽつと見るようになった単語に「銀髪族」というのがある。

ケチな中高年が消費に目覚めた!

銀髪族とはその名の示す通り、60歳以上の老人を指す言葉であり、老人絡みのトピックでは銀髪族のほかに「老年(人)消費」という単語が絡むニュースもよく見かける。

 本国中国はおろか日本のあらゆる経済誌ですらも消費の中心が「80后(パーリンホウ)」と呼ばれる1980年代生まれであるという情報がありふれた情報となっている。

 その中で、銀髪族が話題に上り始めたのは、彼らが消費し始めたことにほかならない。現在中国における60歳以上の老人の人口は日本の人口以上の1億6000万人で、この数字は全人口の12%に当たり、毎年800万人ほど銀髪族が増えている。

 今年上海万博を契機に「誰もが」ではないが、「多くの」都市部の住民が上海万博を見に行った。

 この時、上海および、南京や杭州観光をセットにした「華東地域ツアー」に多くの老人が参加し、また上海万博後についても平日の中国国内観光ツアーは時間に余裕のある老人ばかり。そうしたことから老人の団体を歓迎する旅行会社の広告は年々増えている。

中国でも問題になってきた所得格差、年金格差!

 中国の老人は金を持っている。現在の若者が就職難に直面しているのとは対照的に、中高年の若き頃は仕事が分配され、家も非常に安く購入できた(「中国にうっ積する「世代間格差」というマグマ」)。

 当時、国営・公営企業のほか、準公務員的なポジションの「単位」と呼ばれる組織はゴマンとあり、そこで働いていた人々の一部が現在銀髪族になると、在職時のステータスによりその都市の一般的な月収から月収数カ月分の年金を毎月もらえるようになる。

 当然、中国の掲示板やブログなどでは、所得格差と同様に年金問題に不満の声が多数確認できる。

 また、数は少ないものの、過去に技術職として国の研究所などで働いていた老人が、研究機関などで技術顧問として再就職するケースもある。もちろん貴重な経験豊富な技術者には老人といえども金に糸目はつけない。

老人、もっと言うと中高年は物欲がなさそうに見える。新ジャンルの製品を欲しがらず、ITにより中国ではここ10年で飛躍的に便利になったというのに、周囲から強く推薦されない限りパソコンはおろか携帯電話すらも触れようともしない。

昔のままの貧しい生活スタイルを好む中高年!


高い買い物である車や家も買おうとせず、家はずっと居住している築20~30年の集合住宅に住みたがる。

 服は中国のアパレル企業がこぞって様々な年齢層に向けて製品をリリースするにもかかわらず、日本で言えばシャッター街寸前の商店街にある“ファッションショップ”のような店で安い服を購入したがる。

 結婚披露宴などのパーティがあれば、そこで出された御飯の残りを発泡スチロールの弁当箱やビニール袋に入れて持って帰り、後日家族に残り物を振る舞う。

 日本の地方に住む老人以上に頑固で保守的でケチなのである。

 ところが、さきほど旅行の例を挙げたように、この人たちにあるスイッチを入れると、今までの吝嗇感覚で言えば、“狂ったように”消費するようになるのだ。

文革の影響で知識欲まで減退した古い世代!

 新しいモノや技術やトレンドに無関心な原因として、文化大革命が影響しているというのが中国では定説になっている。

 知識を持つことを良しとしなかった風潮が長く続いたことから、文革後は知識にとどまらず知識欲までも減退してしまったようである。

 インターネット利用者層を見ると、1970年代生まれ以降の世代でのインターネット利用率と、1960年代生まれ以前の世代でのインターネット利用率には大きな隔離がある。

 中国におけるパソコンやインターネットの普及はもはやお金の問題ではなく、歴史に裏打ちされた「やる気」の問題となっている。米国風に言えば、明確なデジタルデバイドが生じているのである。

インターネットを利用するのは若者、利用しないのは中高年であるために、多くの若者はニュースをはじめとしたあらゆる情報をインターネットを介して知り、多くの中高年は新聞やテレビを介して知る。

孫に使う以外はお金を貯金するだけ!


若者のテレビ・新聞離れに比例して、広告もネット広告は若者向け、新聞広告は中高年向けのものばかりとなった。

 また、そうした中高年の少し下の世代、文革の影響をもろに受けた1960年代生まれの人々も、中高年と同じような消費性向を持つ。

 彼らは、研究開発(R&D)の戦力にはならなず、「断層(の世代)」とも呼ばれているが、やはり新しい物事を取り入れようとしない。

 いわば老人予備軍なのである。つまり、何もしなければ、中国の市場にとっては期待できない存在ということになる。

 物欲が薄く貯金が貯まるだけ貯まる老人は、せいぜい物欲のある新世代の子供や孫に言われるままにお金を出すくらいしか、貯金の利用用途がなかった。

急速に人気が出てきた健康グッズ!

こうした風潮にもかかわらず、銀髪族市場をメディアが紹介する背景には、彼らの心理に若干の変化が見られ始めたことがある。

 この心理の変化の背景として、「近年、中国社会保障制度が改善するというニュースが頻繁にされた結果、老人たちが貯蓄しなければならないという警戒心を少しずつ解き始めている」と分析する中国メディアもある。

 そうした銀髪族の消費の行く先はどこへ向かうのか。

 いくつかの調査結果を見比べても、「健康食品」に「健康グッズ」ばかり。「1に健康、2に健康」と、中国の老人たちは健康に対する関心が極めて高くなっている。

 それに呼応するように、中国の新聞を広げれば老人向けの健康食品・健康グッズ・病院の広告がゴマンと載っている。

そうした商品の中には当然、ニセモノも多い。そこはやはり中国である。老人を敬う習慣のあるはずの国でも、各社が競って老人の弱みにつけこんだニセ健康商品を売りつける。

中国の中高年に人気は日本の健康商品!

しかしその一方で、その類の広告を掲載する中国メディアは「ニセモノに注意」と警鐘を鳴らしている。

 まさにマッチポンプだが、それだけ市場が拡大していることの証拠でもある。

 健康商品で人気があるのが日本製品だ。

 老人の中でも中国製品不信がじわりじわりと広がる中、老人や老人がいる家庭の中でオムロンをはじめとした日系健康機器メーカーの評判が口コミを通じてじわりじわりと上がっている。

 健康機器だけではない。

 昨年には老人コミュニティの口コミを通して話題が話題を呼び、ピップマグネループへの注目が急上昇し、成田・関空・中部などの空港の販売店で売られるようになり、さらに中国ではニセモノも登場した。

医者も好んで使う日本の健康機器!

 私にしても、「日本に一時帰国する」と言うと、必ず周囲からピップマグネループを5個単位で買ってくるよう依頼された。

 個人で購入するだけではない。多くの病院で患者に対し安心安全の日系メーカーの健康機器を売りつけて、信頼を得つつ病院や担当医師の売り上げを上げている。

 老人が集まりやすい場所での各社の老人向け製品の広告が活発になってきているらしく、最近日系メーカーの健康器具のチラシが老人のいる家庭に置かれているのをよく見かけるようになった。

 「日本で人気の老人向け商品!」をアピールするニセモノの広告が近年見られ始めたことは日系メーカーへの信頼の裏返しだろう。

本来銀髪族のニーズはないが、デジカメやパソコンなど物欲旺盛な若者たちが新製品を購入する際、お古を両親に譲った結果、それらを所有し使い始めることもある。

中国のお年寄りを狙え!

また「老年大学」と呼ばれる公営の老人向けカルチャースクールが中国全土の都市にできることで、パソコンなどハイテク機器に触り始めるケースも少数派だがある。

 利用し始めた人たちの口コミにより、銀髪族の中で徐々に文革の悪影響が薄れていく可能性はあろう。

 その結果、ピップマグネループのような銀髪族限定の日本製品ブームが健康グッズ以外で起きるかもしれない。

 中国市場というと、とかく団体旅行で日本に来て銀座・秋葉原・新宿などでまとめ買いをする現役世代の中国人ばかりが目立つが、中国人イコール青少年ではない。

 やがて韓国人旅行客のように、日本に旅行で大挙して来るかもしれない年配の中国人観光客に備え、今のうちからこれらの世代にPRしていく投資は、選択肢として検討すべきではなかろうか。

本田技研工業株式会社
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E7%94%B0%E6%8A%80%E7%A0%94%E5%B7%A5%E6%A5%AD

http://www.honda.co.jp/jet/?from=rcount

http://www.honda.co.jp/tech/new-category/airplane/HondaJet/

http://www.honda.co.jp/tech/new-category/airplane/HF120/

Hondaの航空機事業子会社、ホンダ エアクラフト カンパニーは、米国東部時間2010年12月21日10時00分(日本時間22日00時00分)に以下の内容を発表しましたので、ご案内いたします。

Hondaの米国における航空機事業の子会社であるホンダ エアクラフト カンパニー(Honda Aircraft Company, Inc. 以下、HACI)は、米国ノースカロライナ州にあるピードモントトライアッド国際空港で、小型ビジネスジェット機HondaJetの米国連邦航空局(以下、FAA)の型式認定取得に向け、量産型初号機の初飛行に成功しました。

この量産型初号機は、12月20日15時31分(日本時間21日5時31分)に離陸、約50分間飛行し、性能、飛行特性の評価、その他システムの機能試験が行われました。

HondaJetの開発責任者であり、開発・製造・販売を担当するHACI社長の藤野 道格は、「今回の量産型初号機の初飛行の成功は、HondaJetの開発、認定における重要なマイルストーンであり、FAAの認定基準を満たす機体の開発が順調に進んでいることを実証しました。性能や飛行特性が非常に優れていることを確認し、Hondaの技術力の高さを実証できたことを大変うれしく思います。今までにない最先端の小型ビジネスジェット機をお客様にお届けできるよう、引き続き努力していきます」と語りました。

今後も、HondaJetは必要な認定飛行、地上試験を実施し、2012年のFAAおよび欧州航空安全局(以下、EASA)の型式認定取得を目指します。お客様への機体引き渡しは2012年後半を予定しています。なお、HondaJetには、燃費と環境性能に優れた二基のGE Honda エアロ エンジンズ社製ターボファンエンジンHF120が搭載されています。HF120は、今回の初飛行に先行して、量産型の飛行試験を実施、FAAおよびEASAの型式認定取得に向けてさらに認定試験を進めていきます。

また、HACI本社隣接地に建設中の機体生産工場は2011年前半に完成予定で、2012年の量産開始に向けて、準備を進めています。



*ホンダは航空エンジン事業を手がける100%子会社「ホンダ エアロ インク」の新社屋とジェットエンジン工場を米ノースカロライナ州に建設する。2007年10月に着工し、2010年後半にも生産を始める。このエンジンを搭載するホンダ独自の航空機は「HondaJet」(ホンダジェット)。“空飛ぶシビック”を目指し、社内でだれも経験したことのない航空機づくりを一から始め、開発にこぎつけた。航空機ビジネスは、創業者の本田宗一郎氏の夢でもあった。オリジナルなものづくりに挑戦するホンダスピリットが生み出した小型ジェット機は2010年、長年ホンダの自動車や二輪車を愛用してきた人たちの夢も乗せ、大空へ飛び立つ。

自動車以前にあった航空機の開発構想!

ホンダ広報部の遠藤茂樹さんによると、ホンダの歴史に航空機という言葉が最初に刻まれたのは1962(昭和37)年。新聞紙上で、通商産業省(現経済産業省)主催、ホンダ協賛の企画としてプロペラ飛行機の設計を一般から公募したのが始まりだ。当時はまだ自動車の製造は行っておらず、スーパーカブの大ヒットで二輪車メーカーとして地位を築いたころだ。社長だった本田宗一郎氏はインタビューで「やさしい操縦で値段も安い、だれにでも乗れる軽飛行機を開発しようと思っている」と話していたが、結局、この時は航空機が世に出ることはなかった。
しかし、プロペラ飛行機の設計を公募した効果は絶大だった。航空学科出身の学生が「ホンダは航空機をやるんだ」と信じて入社。その中のひとりに東京大学工学部航空学科を卒業した吉野浩行氏(元代表取締役社長、現取締役相談役)がいる。吉野氏は後にジェットエンジンの開発や「HondaJet」の開発を後押しする存在になる。

1986年に基礎研究として航空機開発を開始!

プロペラ機の設計の公募からしばらくの間は航空機づくりの記録は残っていない。次に航空機がホンダの歴史に現れたのは基礎研究所が設立された1986(昭和61)年。この研究所はホンダが21世紀にも存続するための創造的新領域技術の開発を目指して設置された。一つの研究開発テーマとして、移動ロボット、バイオ(生体)、新エネルギーとともに航空機があった。航空機を選んだ理由は「自由に大空を翔る3次元の移動手段だったから」。この時の移動ロボットは世界初の人型ロボットの「ASIMO」に、新エネルギーは太陽電池という形でホンダの新しいビジネスとなっている。

オリジナルの小型ジェットがコンセプト

目指すのは“空飛ぶシビック”。あくまでオリジナルの小型ジェット機の開発にこだわった。開発メンバーは社内から集めたのだが、飛行機づくりに携わった経験のあるものはいない。手探り状態のスタートだ。この時のメンバーに、入社したばかりの藤野道格氏(ホンダの航空機事業の子会社ホンダ・エアクラフト・カンパニー代表取締役)がいた。
航空機づくりは一筋縄ではいかず、若い技術者たちをミシシッピー州立大学に派遣して航空機づくりを学ばせた。この大学は当時唯一、カーボン複合素材で機体をつくっていた。ここでの研究と数年にわたる試行錯誤の成果が実り、ホンダの初号機「MH02」が1992(平成4)年に開発された。「MH02」は自動車のように操縦席のドアから乗り込む。翼は機体の上につき、エンジンも翼の上だ。翼も従来の翼とは逆の前進翼を採用。かなり奇抜な航空機だった。だが、「MH02」は93年の初飛行後、96年にフライトテストを終了し、実用化されることなかった。

ライト兄弟から100年後、2003年に初飛行!

ホンダの航空機づくりはひと段落するかにみえたが、藤野氏が「ここまでやったんだから実用化できるものをつくりたい」と当時の川本社長に直談判し、再び着手した。一方で、ホンダは1986(昭和61)年に航空機用のジェットエンジンの開発もスタートさせていた。ジェットエンジンの構造は自動車用ピストンエンジンに用いられるターボチャージャーに近いことから、ターボエンジンの開発経験者を中心に開発チームを結成。当時としては画期的なセラミック素材を使用したエンジンを開発したのだが、最初は始動すらしなかった。競合エンジンに対し燃費性能10%向上という独自の自社エンジン「HF118」を開発したのは2003年のことである。

自社エンジンができあがるころ、「HondaJet」の完成も近づいていた。特許を取得した独自の「Over The Wing Engine Mount」(OTWEM:翼上面エンジン配置)技術によって、空気抵抗を3割減少して燃費を向上させるだけでなく、他機種よりも3割広いキャビンを実現した航空機の完成が見えてきた。胴体の後部ではなく、揚力を生む翼の上にエンジンを置くことは、航空業界のタブーとされてきたのだが、機内のスペースを確保するためにあえて挑戦。実証実験を繰り返し、ついに空気抵抗を通常配置よりも改善するスイートスポットを発見した。航空機づくりの分業化が進む中、1社が機体もエンジンも自社製作したというジェット機は他にない。「HondaJet」は開発当初からの志を貫き通したホンダのオリジナルの航空機となった。
そして、2003年12月、ライト兄弟による人類初飛行から100年を経て、「HondaJet」は飛行に成功した。

開発の秘訣は技術者スピリットにあり!

「HondaJet」の開発の歴史は、他社にはないオリジナルなものをつくる開拓者精神と航空機という未経験の分野でも自社の技術者で取り組むチャレンジ精神で満ちあふれている。
「手っ取り早く航空機事業に参入するのであれば、開発メンバーを他社から引き抜けばいい。しかし、ホンダではどんな新分野でもたくさんの経験をさせて技術者を育てます。オリジナルを開発するという思いから生まれたユニークな技術に、試行錯誤から得た技術が加わり、ホンダならではのアドバンテージを持つ製品の開発ができるのです。自動車も二輪車も同じように開発してきました」。「HondaJet」は代々引き継がれてきたホンダの技術者スピリットによって開発された製品なのだ。
「航空機は自動車や二輪車と比較すると事業規模は小さいかもしれません。しかし、苦労して自社で航空機を開発する技術は他の分野にも応用でき、何より夢がかなうというモチベーションが技術者に生まれます。これが、ホンダを支える原動力にもなるのです」。
「HondaJet」が出荷される2010年。また新しい夢を持った技術者による新製品がホンダから発表されているかもしれない。
ホンダが2007年7月25日に発表した2008年3月期の連結業績予想の修正によると、売上高は前期比11.4%増の12兆3500億円(従来予想は11兆7500億円)、営業利益が同3.3%増の8800億円(同7700億円)、純利益が同5.5%増の6250億円(同5750億円)になる見込みという。円安による為替の影響が大。今期の為替レートは1ドル=115円から117円、1ユーロ=150円から155円に変更した。ちなみに、「HondaJet」は7人乗りの標準タイプで販売価格が365万ドル。当初は年間200機の生産を見込んでいるという。(QUICK MoneyLife)

掲載日:2007年7月31日


*HondaJet事業化に向けて新会社を設立!

Hondaは、航空機の機体の開発、製造、販売を行う全額出資子会社、ホンダ エアクラフト カンパニー(Honda Aircraft Company)を米国に設立すると本日発表した。

 新会社は、これまでHondaJetの試験飛行の拠点となってきた米国ノースカロライナ州グリーンズボロ市のピードモントトライアッド国際空港の敷地内に設立し、社長にはHondaJetの開発責任者である藤野 道格(ふじの みちまさ)が就任の予定。10月からの本格稼動に向けて今後準備を進め、秋頃からHondaJetの受注を開始する。

 2010年頃の量産販売開始を目指し、今後この新会社は、HondaJet量産型機体の開発、認定取得、生産準備、ならびに提携先であるパイパー・エアクラフト社との協力体制のもと、販売とサービスのネットワーク構築を進めていく。

 これにより、2004年に設立した航空エンジン事業の全額出資子会社であるホンダエアロ インクと、同社とGEとの折半出資会社であるGE Honda エアロ エンジンズに続き、Hondaの航空事業への参入はエンジン事業と機体事業の両面で実現することになる。

【 新会社概要 】
社名 : ホンダ エアクラフト カンパニー(Honda Aircraft Company)
設立 : 2006年8月
出資形態 : 本田技研工業株式会社 100%出資
代表者(社長) : 藤野 道格(ふじの みちまさ)
所在地 : 米国ノースカロライナ州 グリーンズボロ市

売るのは秋田の地酒だけ、「限定」商売で逆風を生き抜く!

「秋田地酒の伝道師 天洋酒店浅野」
http://www.shirakami.or.jp/~asano/

016-0824
秋田県能代市住吉町9-22
天洋酒店 浅野貞博
0185-52-3722
090-3754-9434
asano@shirakami.or.jp

2010.12.20(Mon) JBプレス相場英雄

 皆さんの住む街の商店街で、鮮魚、本、お酒などを売る個人商店が何軒あるだろうか。ちなみに筆者の住む街で鮮魚店はゼロ、書店は3軒、酒屋もわずか1軒だけだ。

 大規模店舗が幅を利かせる中、魚屋、本屋、酒屋と「屋」がつく個人商店が次々に姿を消している。

 しかし、不況が長期化し一段と疲弊する地方都市にありながら、全国から客を呼び寄せ、気を吐く個人経営の酒店がある。

 全国の個人商店に厳しい逆風が吹く中、一体何が顧客の心をとらえているのだろうか。

扱い品目は秋田の地酒のみ
 帝国データバンクの2010年度上半期の全国企業倒産集計によると、酒小売業の倒産は39件に上り、前年同期比で50%増加した。

 同社によれば、半期ベースの集計では過去最多であり、「不況による販売不振のほか、スーパー、コンビニ、ディスカウンターとの価格競争も影響し、小規模業者を中心に倒産が続発した」。全国規模で「屋」がつく個人商店が追い込まれている姿が、同社のデータに如実に反映されている。

 今回、筆者が取り上げるのは秋田県北部の港町、能代市にある「天洋酒店」だ。

 なぜ筆者がこの店に注目したのか。その理由は、そこには不況を逆手に取るしたたかな戦略があるからなのだ。

天洋酒店の創業は1917(大正6)年、現在の店主・浅野貞博氏で3代目となる。年商は約5000万円と決して多くはない。

 天洋酒店が全国の個人経営の酒店と一線を画すのは、扱い品目が日本酒、しかも秋田地酒のみという点だ。酒どころ秋田には、38の蔵が存在する。天洋酒店はその中の10蔵、約70銘柄を扱う。

 ビール、焼酎、ワインと消費者の好みが多様化する中、なぜ日本酒、しかも県内の10蔵限定なのか。

筆者は2009年に拙著『誤認』(双葉文庫)の取材でなんども能代に出かけたが、市内の至る所にコンビニやスーパー、酒のディスカウンターが立ち並んでいるのを目にした。

 浅野氏は10年以上前に、こうした状況が顕在化していくとにらみ、「97年にビールや焼酎、ワインの販売から一切手を引いた」と語る。駐車場を備えた店舗を作っても、大資本が大規模店舗を出店すれば、地元の飲食店向けなどで営んできた昔ながらの商売は太刀打ちできなくなると予想したからだ。

 日本酒に特化した直後、当然のごとく売り上げは減少。ピーク時の7000万円から2400万円まで激減した。しかし、粗利益率はピーク時の18%から25%にアップした。ディスカウンターの台頭でビールや焼酎の利幅が減少する中、付加価値の高い日本酒のみを提供したからだ。「日本酒に特化して以降、売り上げは一度も落としていない」という。

 能代はかつて秋田杉の一大集積地として栄えたが、現在は他の地方都市と同様、お世辞にも活気に溢れているとは言い難い状況にある。おまけに日本酒離れが叫ばれて久しい中、どこにビジネスのキモがあるのだろうか。 

杜氏も知らない酒の持ち味を引き出す!

 天洋酒店の店舗で、浅野氏が数種類の地酒を筆者の前に並べた(下の写真)。

いずれも県内の蔵元が小数限定で造った地酒である。右端にあるのは熱湯を入れたポットだ。このポットの中にお手製の試験管を入れ、お燗をして飲み比べをさせてくれるのだ。

 日本酒の知識が乏しい筆者は、従来キンキンに冷やした酒を嗜んできたが、「温く燗をすることで、酒の風味が変わる」というのだ。

 実際、燗の時間を変えることで、辛口だった酒の味が果実味を帯びた風味に変化したり、尖った味がまろやかに変貌するなど、今まで体験したことのない日本酒を味わった。

 蔵元の杜氏たちは、常温状態で評価される品評会向けの酒造りに注力するが、様々な条件で飲むスタイルまでは想定していないという。お手製の「燗テスター」は「杜氏さえ知らない酒そのもの潜在能力を引き出すツール」なのだ。

浅野氏は、頻繁に蔵元に足を運ぶ。「酒の出来はもちろん、去年とどう違うか、杜氏や蔵元から得た情報を顧客にいち早く伝えるため」だ。

 1~3月の仕込み中にも蔵元を訪れる。仕込みの時期、しかも豪雪の中を訪問できる蔵の数は限られる。だから、天洋酒店が扱う蔵元は10程度にとどまるのだ。これが天洋酒店の強みとなっている「限定」の根幹である。

メルマガを発行しているが、サービスはアナログ!

 天洋酒店には約3000人分の顧客リストがある。このうち、定期的に500人の顧客から注文が入るという。

 内訳は秋田県内が1割、残りは北海道から沖縄まで全国津々浦々に及ぶ。「当初は手紙を郵送していたが、メルマガを導入して以降は格段に蔵の情報伝達速度が上がった」という。日本酒党、特にマニアには得難い情報に違いない。

 固定客のうち、何割かは実際に能代を訪れてくる。すると、浅野氏は自らハンドルを握って能代市内の喜久水、八峰町の白瀑、由利本荘市の由利正宗、湯沢市の福小町などの蔵元に案内する。また、地元の食料品店や景勝地、郷土料理を出す居酒屋にも同行する。こうしたガイドはすべて無料だ。

 「楽天などのネット市場への出店を勧められる機会は多いが、実際に顧客と接して地酒を理解してもらう方がよい」として、「アナログ」なサービスを提供し続ける心構えだという。

 浅野氏に天洋酒店の強みを尋ねると、即座にこんな答えが返ってきた。「長年の取引を通じ、職業や家族構成、好きな酒のタイプ等々、お得意様を知り尽くしていることでしょう」

 物流の発達とともに、天洋酒店が扱う秋田地酒は都会でも購入が可能な上、問屋やネット市場でも入手可能だ。ただ、一度馴染みになった顧客は離れない。蔵元情報の素早い配信と、きめ細かな顧客対応が「次もあの店で買う」というリピーターを生んでいるからだ。

全国の地方都市で、大規模流通資本が街を壊し続けているが、「得意分野に特化」し「きめ細かい顧客対応」を実践することができれば、天洋酒店のような個人商店でも十分に対抗できると筆者は見る。

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