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http://www.risonare.com/cuisine/cuisine04.html
日本のリゾートを次々と再生させている星野リゾートは、リゾートで提供する食にも力を入れている。その地域ごとに特徴があり非常に高い品質の食を宿泊客に提供することが、リゾート産業を発展させるために不可欠と考えているからだ。
日本を高級ワインの生産地に!
その中で、最近、特に力を入れ始めたのが日本のワインである。ワインと言えばフランスやイタリア、ドイツ、スペインなどの欧州や米国のカリフォルニア、南米のチリ、オーストラリア、南アフリカなどを思い浮かべるが、どっこい、日本もワインの一大産地になろうとしている。
日本のような湿潤な気候はワイン用のブドウ栽培にはあまり適さないと思われていたせいか、既に大産地となっているワイン王国には到底かなわないと思っていたからか、これまではあまりワイン生産に本腰が入っていなかった。
しかし、ここ10年あまりで日本のワインは格段に進歩を遂げている。栽培方法に工夫を凝らし、世界市場に出しても遜色ない素晴らしいワインが造られ始めている。
星野リゾートの星野佳路社長はこう話す。
「フランスのワインが有名になったのは、フランスに旅行に来てフランスワインに惹かれた観光客が、お土産に持って帰って世界中に広めたからなんです」
「日本にもそのチャンスは必ずあると信じています。これからさらに手を加えていけば、例えば、星野リゾートで食事の時に堪能してもらった日本のワインを、それも1本1万円するような高級ワインをお土産に買ってもらえるようになる可能性は十分にある」
星野社長が惚れ込んだ女性!
その星野社長が惚れ込んだ女性がいる。もちろん、奥さんとは別の意味で。池野美映さんである。若くして日本を代表するワイン醸造士の1人だ。フランスの国家資格であるワイン醸造士の資格も持つ。
池野さんは今から3年前、星野リゾートが運営する山梨県小淵沢にある高級リゾート、リゾナーレのすぐ近くにあった桑畑をワイン畑に改良、約2ヘクタールの土地で葡萄の木を栽培し始めた。そして2009年6月には農業生産法人レ・パ・デュ・シャを立ち上げて代表となった。
現在、赤ワイン用にピノノワールとメルロー、白ワイン用にシャルドネを栽培している。2007年に3300本、2008年に2200本、2009年に800本を植樹した。
収穫した葡萄からワインがようやく作れるようになり、わずかながら出荷も始まった。星野社長はその出来栄えに満足の様子だ。
その証拠に、出来上がったワインを試飲しながら、池野さんは「売価2500円くらいで愛好家に満足してもらえるワイン造りをまずは目指します」と謙虚に話す一方で、星野社長は早くも「1本1万円のワインもいけるんじゃない」と期待を込める。
日本を世界的に有名なワイン産地にしたいと意気込む池野さんと高級ワインリゾートを目指す星野社長。作る側と売る側が二人三脚で進めるワイン作りは、今まで考えられなかったような新しい発展を予感させてくれる。(次ページから連載第1回)
9月、シャルドネが太陽の光を受け透き通って輝き出すこの季節になると、落ち着かない気分になる。もうすぐ収穫の時期がやってくるのだ。
抜けるような青空と残雪のコントラストに予感させられた!
初春の剪定作業から矢継ぎ早に押し寄せる栽培作業に追われているうちに、気がつくといつもこの時期になっている気がする。
山梨県と長野県の県境にある小淵沢を初めて訪れたのは2006年の初夏のことだった。長野県側から国道141号線の急な曲がりくねった山道を登り詰めると一面の野辺山のレタス畑が眼下に広がっていた。
その背後には堂々とした八ヶ岳連峰がそびえている。初夏と言っても高原の風は冷ややかで峰々にはまだ雪が残っていた。
抜けるような青空と残雪のコントラストが眩しく、八ヶ岳の圧倒的な存在感と美しさが迫ってきて息を呑むほどだった。それは新しい始まりを予感させるには十分すぎる、気持ちのいい朝だった。
私はその日、小淵沢のリゾートホテルで待ち合わせをしていた。相手は星野リゾート社長の星野佳路氏である。
旅館やリゾート再生のカリスマ経営者として既に有名になっていた星野氏は多くのメディアに囲まれ、多忙を極めていた。
星野氏とは同郷ということで以前から面識があったのだが、フランス留学から一時帰国している時に連絡をしたことから、メールでのやりとりがこの日まで続いていた。
再会の約束をしたものの、直接話をすることはそう容易いことではなかった。時が刻々と過ぎる中、ようやくこの日、その日がやってきたのだ。
待ち合わせ場所に指定されたのはイタリアの中世の山岳都市をイメージして造られたという豪華なデザイナーズホテル《リゾナーレ》だった。
ここが日本かと見まがうほどの景観に目を奪われつつ目的場所に向かって回廊を歩いていると、このホテルは星野氏のリゾート再生案件の記念すべき第1号だと、新聞に以前出ていたのをぼんやり思いだした。
日本を活性化するには地方が元気にならなくてはならない
約束の時間に現れた星野氏は、黒のTシャツスタイルのカジュアルないでたちで、世でいうカリスマ経営者像とは別人のように気さくな笑顔で出迎えてくれた。
「こんにちは。長い間お待たせしてすみませんでした」
分刻みでスケジュールをこなしている星野氏のこの第一声は私をすごく恐縮させた。
ランチをしながら話をすることとなり、北欧風のインテリアがおしゃれなホテル内のレストランに案内された。
実際に約束をしてから時は経過していたが、その間メールで連絡を取り合っていたのでこの日の話はそれほど時間がかからないはずだった。
話の趣旨はこういったものだ。星野氏は、私のワイナリーを作りたいという話に興味を持っていた。氏も小淵沢にワイナリーがあればいいとちょうど思っていたようだった。
「日本の観光を活性化していくためには、地方が元気にならなくてはいけない。もっともっと地域の魅力をつくって発信していく必要がある。それはリゾナーレのある小淵沢も同じことだ。山梨と長野の県境にある立地を活かしたワイナリーがあればありがたい」
これは、ワイナリー設立を目指す私にとっては、願ってもない話であった。考えるまでもなく話は進み、私はその後まもなく行動を開始した。
フランスで学んだことをすぐ生かせる機会に巡り会うことができたのは、今考えてもただただ幸運だったとしか言いようがない。(つづく)
池野 美映 Mie Ikeno エノログ。
フランス国家資格ワイン醸造士 (Diplôme National d’Œnologue) 2001年より渡仏し、国立モンペリエ大学薬学部D.N.O.専攻にて2005年ディプロム取得。公立ワイン技術研究所での研修、南仏やブルゴーニュでのワイナリー勤務を経て現職。フランス、スペイン、モナコ等国際ワインコンクールの審査員を務める。
http://allabout.co.jp/gm/gc/216511/
*ワイン王国・山梨での新たな取り組み!
ぶどう栽培から醸造までホテルが一括管理し、オリジナルワインの生産へ!
2009/02/26 小山田貴子
至れり尽くせりの空間。それでも足りないものって?
山梨県北杜市小淵沢町。高原リゾートというと軽井沢や清里に注目が集まりがちだが、ここ小淵沢は東京からなら電車でも車でも約2時間で到着するリゾート地である。そんな小淵沢に1992年に誕生したリゾートホテルが「リゾナーレ」である。
JR小淵沢駅から送迎バスで3分。雄大な八ヶ岳のパノラマの歓迎を受けながら到着した。同ホテルは、イタリア・インダストリアルデザイン界の巨匠として知られるマリオ・ベリーニが、中世の山岳都市をイメージしてデザインしたという。ホテル内を散策すると、円錐形の建物が現れる。その奇抜ともいえるフォルムと連なる山々とが清涼な高原の空気に映え、思わずウンベルト・エーコの「薔薇の名前」の修道院を重ね合わせてしまった。
同ホテルには、南アルプス・八ヶ岳が一望できる宿泊施設はもちろん、レストラン、チャペル、スパ&プール、温浴施設、そしてカフェやブックストア、ブティックなどから成るショッピング街が集結している。開業は前述の通り1992年だが、2001年に運営が星野リゾートにかわってからは、その充実振りがさらに発揮されている。
メインダイニングは、政井茂シェフが腕を振るうイタリアン「OTTO SETTE」(オットセッテ)。地元の食材を使ったスタイリッシュな料理を提供する。巨大なワインセラーにはイタリアワインのみならず、秀逸な国産ワインやシャンパーニュも充実している。日が沈んでからは、露天温浴施設「もくもく湯」に行くのがオススメ。ゆらゆらと立ち上がる湯けむりの中、空を見上げると無数の星を見ることができ、なんとも神秘的である。
つまり、何が言いたいかというと、このホテル着いたなら、施設から一歩も出ることなくすべてがまかなえてしまうということである。しかもすべてが贅沢に……。
しかし、それでも「何かが足りない」と2006年8月、星野リゾート・八ヶ岳のスタッフとして一人の女性が入社した。池野美映さんである。
初めて会ったときは、服装はラフであったが「敏腕の美人営業マネージャーかな」と思うほど笑顔がチャーミングで、気勢にあふれる女性と感じられた。そして彼女と挨拶をしたとき、「何か足りないもの」がすぐにわかった。名刺に「ワインプロジェクト ディレクター」と刷り込まれていたからで、「足りないもの=ワイン」だったのだ。
今リゾナーレでは、自社でワインを生産するプロジェクトが稼動し始めていて、その責任者として池野さんが起用されたのである。
「ワイン特区」認定が追い風に!
経済誌の編集をしていた池野さんは、もともと「人が好き」「自然が好き」「文化が好き」。それらを集約していった結果、行き着いた先がワインであったという。そうなれば行動は早い。
フランス国立モンペリエ大学で栽培醸造学を3年間学び、フランス国家資格ワイン醸造士(D.N.O)を取得。その後ブルゴーニュなどの醸造所に勤務して帰国。そして、リゾナーレのプロジェクト参加となったわけだ。
「ワインプロジェクト ディレクター」という肩書きだけでは、ピンとこない人もいるかもしれない。基本的には、ぶどうを育てるところからワインにするまでの全般を手がける仕事とのことだ。ぶどうが収穫されるまでは畑と格闘し、収穫されたら今度はワイナリーでワインを仕込む。これはもう、想像を絶する知力と体力を必要とする仕事なのである。そんなわけで、ワインを造るにはまずぶどうありき、である。山梨といえば、勝沼という日本ワインの銘醸地があるように、ぶどう栽培には適しているはずだ。さらに、2008年11月11日、同ホテルがある北杜市が「ワイン特区」に認定されるという追い風も。つまり、最低製造量の規制が緩和されたため、自家栽培・自家醸造で質のよいワイン造りが可能になったのである。
完全自社生産のワインを目指して!
ホテルから車で10分ほど下った下笹尾地区。ここにリゾナーレが管理するぶどう畑がある。標高750m。甲斐駒ケ岳、八ヶ岳、晴れた日なら富士山まで見渡せる高台である。日照量は日本一。何より寒暖の差が大きいため、ph、酸、糖のバランスよいぶどうが採れるという。土壌は関東ローム火山灰であるが、池野さんは土壌よりも、「この気象条件でどの品種を植えるか」が重要だという。
ここに、もともとNPO法人が植えていたシャルドネ、メルロー、ヤマトナデシコの600本の苗に加え、ピノ・ノワール、シャルドネ、メルロー(2007年に3,300本、2008年に2,200本)をリゾナーレが新たに植えた。そして2010年、いよいよリゾナーレの敷地内にワイナリーが完成する予定となっている。最終的には年間130,000本のワイン生産を目指し、自社畑だけで採れたぶどうを使うというリゾナーレ独自のワイン造りが着々と進められている。
何もかもが揃っている完璧なホテルかと思われたリゾナーレ。そんな中でも同ホテルで働く人々が「何かが足りない」と感じていたのは、「地元の物産を販売し、八ヶ岳文化を発信することで地域の活性化につなげること」ということだったのだ。その手段として、地域性を生かしたワイン造りが選ばれ、そして2010年にリゾナーレは"ワイナリーリゾート"として生まれ変わるのである。
MIZUBASHO PURE
http://www.mizubasho.jp/a/J_PURE.html
2009.03.16(Mon)JBプレス志方拓生
「清酒」瓶から液体をグラスに注ぐと、シャンパンのような一筋の泡(バブル)がすーっと・・・。
発泡性の日本酒「MIZUBASHO PURE」を商品化したのが、群馬県の静かな山間にある永井酒造(利根郡川場村)。創業120年を超える老舗の4代目、永井彰一社長が不思議な酒の開発者だ。
11年前、ワイン界で「マン・オブ・ザ・イヤー」として知られる、フランス人のジャン・ミッシェル氏が永井酒造を訪れた。世界屈指のワイン醸造家は日本酒の味わいに魅かれる一方で、「ワインと比べると、アルコール度がちょっと高い。そこがネックかな・・・」と言い残して帰国した。この一言が、永井社長の頭にこびり付いて離れなかった。
そこで、吟醸酒と古酒をアレンジし、アルコール度数を抑えた商品を開発した。ところが、全く売れない。「テイストが中途半端だった」と永井さんは苦笑する。
しかし、1度の失敗ではへこたれない。「瓶内で2次発酵させ、シャンパンのようにスパークリングする日本酒ができないだろうか。消費者に与えるインパクトは大きいはずだ」と思いつき、再チャレンジに打って出た。
酒税法上のカテゴリー「日本酒」を徹底して守るため、商品開発には3つの大きな課題があったという。まずは、ガス圧。シャンパンと同じ「瓶内2次発酵」に成功し、法定基準もクリアした。
この2次発酵には、澱(おり)と呼ばれる「にごり」が必要。日本酒の場合、その量はシャンパンよりはるかに多い。通常の方法で、その澱を抜き取ろうとすると、酒として使いたい部分まで相当な量が失われてしまう。「抜き方が全く分からない」
行き詰まり、仏シャンパーニュへ!
行き詰まった永井さんは渡仏を決断、シャンパーニュ地方に乗り込んだ。そして、シャンパンの伝統的な「澱引き」の方法からヒントを得て、自己流のアレンジを確立した。
最後に立ちはだかったのが、微妙な温度管理。瓶内2次発酵は、蔵にあるタンクの中と同じ状態だ。従って、1本1本きちんと温度を管理しないと、品質を一定に保持できない。何とか採算ラインとなる1000本単位で管理できるようになり、「スパークリング酒」の商品化が見えてきた。
ようやく2008年冬、泡の出る日本酒「MIZUBASHO PURE」の発売に漕ぎ着けた。日本酒業界のみならず、ワイン製造の関係者からも称賛の声が上がり、外資系の高級ホテルが取引先に加わった。それまでは通常の清酒のプレゼンテーションを行っても、「いい商品だけど・・・」で終わることが多かった。だが、新商品の反応は全く違うという。
完成した商品のボトルを握り締め、永井さんは「清酒」の2文字を指差す。「リキュールで作ったら簡単だが、この『清酒』を守らなければ何の意味もない」。10年に及ぶ苦闘を支えたのは、蔵元の「こだわり」なのだ。国内で製法特許を取得したほか、国際特許も申請している。
継がないはずが・・・35歳で社長就任!
小学校の卒業文集に将来の夢を「酒造業」と書き残すぐらい、永井さんは3代目の父親から「英才教育」を受けた。高校生になっても「継ぐしかないだろう」と覚悟を決めていたが、大学卒業後にカナダへ渡ると「継ぎたくない」に。さらに、「絶対継がない」へエスカレートした。
「当時のウチは、地酒でなく地の酒。蔵の周囲20キロでしか売っていなかった。主力銘柄の『力鶴』が『頭鶴』と揶揄されていたのは、ウチの酒を飲むと頭が痛くなるから・・・」。青年の目には、家業が魅力的に映っていなかった。
とはいえ、やはり故郷が気になる。米国のスキー場で就職口を見つけたが、これを蹴って1989年に帰国。実家で働き始めたが、内心は「早く潰れないかな」。米国滞在中、大手酒屋チェーンの価格破壊を目の当たりにし、「日本もいつかそうなる」と確信。規制緩和で定価販売が崩れれば、「うちの蔵が生き残れる道はない」と考えていたのだ。
そんな思いを抱いていた時、ある酒屋さんに「もう少しちゃんと酒造りしなさい。お宅の杜氏さんは優秀だから、絶対いい酒ができるよ」と諭された。「ラッキーな出会い」と振り返る永井さんは、各地の蔵を歩いて回った。
新潟県内のある蔵で麹(こうじ)づくりを見て、永井さんは実家とのあまりの違いにショックを受けた。
馬に戻り、「なぜウチは、こういうのができないのか」と杜氏に尋ねると、「コメがないからだ」と相手にもされなかった。そこから、コメ探しの奔走が始まる。その一方で、親を説得して新しい蔵を建てた。
「永井酒造もこれで終わり。2年で潰れるよ」と同業者はささやいた。だが、永井さんは規制緩和の波を先読みし、「量から質へ」シフトしていた。1992年、地元の柔らかい水で造った「尾瀬の酒 水芭蕉」を世に送り出し、ヒットを飛ばした。
売り上げを順調に伸ばしていた矢先、1996年に父、99年には母が相次いで他界した。永井さんは35歳で社長に就任。「酒造りに携わり、北海道から九州まで酒屋さんの取引が拡大し、雑誌に載るようにもなった。何だ、簡単じゃないか」
しかし、驕りは「酒質低下」という仕返しをもたらした。失った信用は、質を元に戻しただけでは回復できない。品質追求の大切さを身をもって学んだ。その後、永井酒造は全国新酒艦評会で金賞を7回(通算12回)受賞している。
いつの日か、パリの3ツ星に!
持ち前の国際感覚を活かし、永井さんは香港やカナダ、米国でも販路を開拓。年商は1990年代前半の2億5000万円から、5億8000万円まで押し上げた。
外でも日本食が一過性のブームではなく、定番メニューに成長し、日本酒の需要も拡大するはず。ロサンゼルスやニューヨークに加え、永井さんは「パリやロンドンが外せない市場になる」とにらんでいる。
「仮にパリの3ツ星レストランで『MIZUBASHO PURE』が認められたら、日本人は絶対に手に入れたがるはずだ」。永井さんの積極的な海外攻勢は、同時に国内市場対策でもある。
仏シャンパーニュの人々がシャンパンを地域全体の誇りとするように、この「スパークリング酒」を地元の活性化につなげたい。永井さんの挑戦は、酒造りにとどまらない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AF
2010年10月14日(木)日経ビジネス 福井隆
国の過疎集落研究会の報告によると、全国には6万2000もの過疎集落が存在している。そのうち、10年以内に2600集落が消滅する可能性があるという。「古老が1人なくなることは図書館が1つ消えること」。アフリカの古い言い伝えにあるように、それぞれの風土に寄り添い、作り上げてきた生活の知恵や文化が消え去ろうとしている。
瀬戸際に立つ辺境。だが、時代に抗い、輝く人々は現実にいる。東京農工大の客員教授、福井隆氏はこういった“辺境で輝く人々”を目の当たりにしてきた。
福井氏は年間250日以上、過疎集落に足を運ぶ「地元学」の実践者。これまで7年間、100カ所以上の現場で地域づくりの支援をしている。「地元学」とは、無い物ねだりではなく、今あるもので何ができるかを考える。そのプロセスを通して地域を元気にしていく学問である。
多くの地域は「ここには何もない」と誇りを失っている。だが、それぞれの足元を見つめ直すことで、「何もない」と言われているところでも、未来への希望を作ることができる。地元学を通して、福井氏は地域住民に気づきを与えている。
日本中を旅する「風の人」。ゆえに見える地域の未来。この連載では、辺境で力強く輝く人々を福井氏の目線で描く。地域を元気づけるにはどうすればいいか。住民の心に火をつけるにはどうすればいいか。集落に溶け込むにはどうすればいいか――。1つのヒントがわかるのではないだろうか。
3回目の今回は島根県の奥地にある桜江町桑茶生産組合。見向きもされなかった桑園を再生、桑茶などの商品開発を進めることで50人の雇用を生み出した。「-」から「+」を生み出した桜江町桑茶生産組合の取り組みを見てみよう。
今回は、いわゆる地域資源を活用し、産業化を果たした有限会社・桜江町桑茶生産組合を取り上げる。この会社があるのは、江の川沿いの中山間地域に位置する島根県江津市桜江町(2004年の合併前は邑智郡桜江町)。最盛期に比べて人口も半分に減少するなど、典型的な高齢過疎の町である。
120ヘクタールの遊休耕地が復活!
最盛期の昭和30年代、産業の基盤はコメ作りと養蚕だった。だが、中国地方でも有数の桑畑が広がった桜江町も時代の波には逆らえない。約30ヘクタールの桑畑は放棄され、負の遺産になっていた。
そんな土地に、福岡県博多からアイターンでやってきたのが古野俊彦・房子夫婦である。現在、古野氏は桜江町桑茶生産組合など、3社の社長を務めている。グループの売上高は約4億円(平成22年度12月期見込み)。桑茶を中心とした機能性食品の加工、販売をしている。
桜江町桑茶生産組合は放棄されていた120ヘクタールの遊休耕地を復活させた。地元での生産加工も実現、桜江町の活性化に大きく貢献している。この動きに呼応した行政も、地域での起業と定住を促進する「江津市定住促進ビジョン」を作成、この成功事例をひな型に、多くの取り組みを始めようとしている。
桜江町桑茶生産組合の成功を振り返ると、福岡県から移り住んだ経済人と行政の協業関係(※“協働”という言葉は日経グループの用字用語になし)が大きな要素を占めていた。その軌跡をひもといてみよう。
昭和19年に博多で生まれた古野氏は、東京の大学卒業後、家業の旅行代理店を継ぐために博多に戻った。時あたかも高度経済成長時代。右肩上がりの成長が当たり前の時代である。当時の旅行業も日本交通公社を頂点に、既得権で守られていた。
時代の追い風を受けた古野氏は自身の斬新なアイデアによって事業を拡大していった。
大阪万博の日帰り弾丸ツアーで大成功!
例えば、大阪万国博覧会。当時、古野氏は日帰りで大阪万博を回る弾丸ツアーを企画した。近畿地方の宿は大手の旅行代理店が押さえており、入り込む余地はない。それに、当時の親にとっては子どもを万博に連れていくことが目的であり、京都や奈良を観光することが目的ではない。始発と最終便であれば航空券も手配できる――。そう考えた古野氏は、実際に1000人規模のツアーを成功させた。
「そんなものが成功するわけがない」。始めた当初は他社からバカにされた。だが、「行きたいのは万博であって観光地ではない」と旅行者のニーズを読み切った。この成功によって、中小の旅行代理店として初めて、日本航空の旅行代理店の認可を取得している。
もっとも、高度経済成長の終焉とともに、旅行業界も変化しつつあった。特に、パソコンの登場によって、旅行業に求められるノウハウが変質した。
それまでの旅行業で重要だったのは現場での処理。予約のダブルブッキングは日常茶飯事、現場のスタッフの対応が問題解決の大きな要素だった。百回以上の海外添乗で様々な修羅場をくぐり抜けてきた古野氏には現場を回すノウハウがある。だが、パソコンの浸透によって、自分の活躍の場は狭まりつつあった。
さらに、手塩にかけて育てた別会社を離れ、家業の旅行会社にもどらざるをえなかったことも旅行業界に見切りをつける一因になった。
古野氏は1984年、大企業の労組や日本航空の系列企業と新たな旅行会社を設立、社長に就任した。当時、新日鉄や三井鉱山が大規模なリストラを敢行しており、重厚長大産業で職を失った人々の雇用を創出することが新会社の目的だった。
ただ、道半ばで家業である旅行会社の社長の兄が他界し、そのあとを引き継ぐため、自分が育てた別会社を手放さざるをえなくなった。旅行業界に30年以上も関わってきた古野氏。達成感と同時に挫折感を感じていた。
旅行業界に見切りをつけ、Iターンを決断!
旅行業界に見切りをつけた古野氏は田舎暮らしを考えた。子育てが終わったら田舎に住もうと妻と約束していた。古野氏自身もアウトドア好きで、園芸に関心があった。現役の時も、時折、車を走らせては終の棲家を探していた。
桜江町を訪れたのは1996年11月のことだった。町が地域活性化の一環として建設していたラン栽培の大型ハウスを見るためだ。その時、桜江町の農林水産課職員だった釜瀬隆司氏が、桜江町の取り組についての説明のため同行してくれた。
釜瀬氏は、江の川など町内を案内し、地域の状況を熱心に説明した。古野夫妻も桜江町に魅せられた。「風光明媚ないいところだと思った。何より、中国地方で随一の大河、江の川が素晴らしい、と感じました」。古野氏はこう振り返る。
その後の古野氏の行動は早かった。その年の12月には、役場が斡旋してくれた空き家を借り、2~3カ月のつもりで住んでみた。団塊の世代や若い世代など田舎暮らしを望む人は少なくない。だが、一番のハードルは住まい探し。その点、桜江町は空き家を活用した移住受け入れを積極的に進めていた。このような行政の取り組みがあったらこそ、田舎暮らしがスムーズに進んだと言える。
桜江町に移住した古野氏は地域を歩き、地元にあるものを調べた。この時は行政の斡旋で、地元の漁協や土建業で就業体験をしている。そして、約1年半をかけて、地元の人々との交わりの中で、自らがやるべきテーマを模索した。
その中で、数多くの可能性が見えた。特に、豊かな中国山地に育つシダやコケ類の豊富さ、江の川の豊かな恵みなど、地域資源に多くの可能性を感じた。この地元でのあるもの探しが古野氏の人生を変えた。
地域を歩いている変な都会人がいる」。1997年春、農業者が集まる会議にオブザーバーとして参加を求められた。その場で、かつて桜江町には30ヘクタール以上の桑園があったこと、その桑の圃場は荒れるに任せて地域のお荷物になっていたこと――などを知った。
役場に頼み、現場を見てみると、桑は元気に伸びていた。これほど元気に育つのは、桑に適した土地だからだろう、と古野氏は思った。それに、投資コストや費用対効果を考えれば、この桑の木をそのまま生かすのが最適に違いない。いずれにせよ、この桑を除外した農業振興はないだろう、と考えた。
田舎に染みついた諦念が最大のハードル!
昭和40年代、桜江町には6800人が生活していた。当時の農産品出荷額を見ると、米と蚕の売り上げはともに1億円と、この2つが地域の二大産業だった。ところが、その片方が衰退し、人口は最盛期の半分になった。であるならば、“桑の産業化”に活路を見出すことで、地域に少しでも貢献できるのではないか。古野氏はそう考えた。
だが、地域の人々の頭の中には「桑はお荷物」という考え方が染みついている。その考え方を変えるには、実際に桑で何かができることを示す必要がある。それも、「えっ、そんなことができるの」という驚きがないと、容易に考え方は変わらないだろう。
多くの中山間地域は「ここには何もない。農業はもう儲からない」という想いが渦巻き、誇りを失っている。未来への希望を失った人々を前に、希望に燃えた移住者が移り住んでも、「そんなことをやってどうする」と揶揄され、うまくいかない。それが地域での現実である。
ただ、古野氏には経済人としての自負があった。大阪万博弾丸ツアーを成功させたように、自分がしてきたことへの自負があった。自分に経済人としての能力があったことを、証明してみせたかった。自らの存在意義をかけて、“桑の産業化”の実現に動いたのはそのためだ。
町内の約30ヘクタールの桑園で採れる葉は150トン。乾燥させて茶にすれば、20~30トンの茶葉になる。お茶は、日本人の嗜好に合っている。その上、桑の葉に含まれる成分が糖尿病に良いとの調査結果もある。桑の葉で、お茶がつくれれば健康志向の市場に合い、充分産業になると考えた。
中小の旅行代理店であったにも関わらず、大手に伍して日本航空や国鉄、西武セゾングループなどの代理店業務を次々と取得した古野氏。その力が本物であることを証明するために、ゼロからの挑戦を決意した。
桑の産業化を進める上で、重要なことはスピードとテーマの設定だった。
1998年6月に桜江町桑茶生産組合を立ち上げると、5年後に1億円の売上高を目指すという計画を立てた。古野氏の目的は地域の人々のあきらめの気持ちを変えること。そのためには、5年で1億円というスピードが何よりも必要だった。さらに、「5年間で桑園の耕作放棄をなくす」という目標を立てた。目標が正しければ、地域の人々はついてきてくれると考えたためだ。
総力戦だった。行政も家族も総動員でできることはすべてやった。桑の葉の値段をどこまで高くできるかが勝負だった。「新聞もテレビも見ないで、桑以外の情報はすべて遮断して突っ走った」。そう振り返るように、古野氏は桑茶の開発から、マーケティング、製造、販売を総力戦で戦った。
あえて、マーケットの頂上に狙いを定めた
重要な事は、桑で産業を産み出し再生産ができること。そのため、いくらであれば持続できるのか、先に販売価格を決め販路を開拓した。その時も、強気の価格で、マーケットの頂上を攻めることに決めた。その当時、桑の葉で作るお茶はどこにもなかったためだ。
まったく取引のない状況で、島根県唯一のデパート、一畑百貨店に商品を持ち込んだ。訴えた内容はただ1つ。「桑茶は日本に1つしかない島根県の特産品である」。すると、支配人は喜んで桑茶をおいてくれた。それも、「地元の大切な商品だから、1カ月に一個売れるだけでいい」といってくれた。そして、2年遅れたが、2005年にに売上高1億円の目標を達成した。
地域で新しいことをやる時には必ず利害が発生する。既に価値を生み出しており、人々が関わっているものをよそ者が扱うのは難しい。逆に、古野氏のように、経済効果がゼロかマイナスのものを扱う場合は利害関係が発生しにくい。負の遺産を扱うことはプラスにしか働かない。よそ者の足を引っ張るマイナスのエネルギーは発生しない。
もちろん、桜江町桑茶生産組合の成功は古野氏1人の奮闘ではない。ある町会議員は桑を使った健康茶の存在を教えてくれた。役場の職員は桑の成分が糖尿病にいいという研究成果を探し出した。桑の葉をお茶にするため、家族は手作りで試作を繰り返した。
桑の葉の乾燥方法がわからず途方に暮れていると、安田さんという椎茸の乾燥名人が乾燥技術を教えてくれた。荒れ放題の桑園に手を入れる時も、78歳の坂本さんが再生を手伝ってくれた。役場職員の釜瀬氏が中心となり、試作品のマーケティング調査に同行してくれたことも大きかった。
「地域活性化は行政とのジャムセッション」
「地域活性化は行政とのジャムセッション。民間人は自由に動くが行政は組織で動く。こちらの音色と向こうの音色がずれているとうまくいかない。向こうの立場をよく理解し、事情を読んで動きに合わせることが必要」と古野氏は言う。このジャムセッションが桜江町ではうまくいった。
当時、釜瀬氏を始め、当時の課長が積極的にマーケティングの現場に足を運び、桑茶の可能性を感じたことが、その後の動きにスピード感を与えることになった。
例えば、遊休米蔵の活用だ。300キログラムの生葉の注文が来た際、保管する場所がなかったため、使われていなかった倉庫の活用を行政に願い出た。この手の承認は時間がかかるものだが、行政の支援もあり、首長はすぐにOKを出した。
この米蔵の活用は、その後の設備投資にも大きく寄与した。最初の頃は夜中に鍋釜を引っ張り出し、夫婦2人で焙煎していた。目標の売上高1億円を実現するためには、粉砕機や焙煎機を導入しなければならない。米蔵を借りたことで機械設備の導入も容易になった。
行政とのコラボレーションはもう1つある。
桜江町桑茶生産組合の主力商品は言うまでもなく桑茶である。蚕を飼うために栽培されていた桑の葉は繊細な蚕に食べさせていたこともあり、数十年にわたって無農薬有機栽培で育てられていた。それは今も変わらない。そのため、有機JASの認証を取得、安全性を最大限に打ち出している。
実はここでも行政との協業が働いている。
島根県産業技術センターと島根大学はここの桑茶の成分に、Q3MGという抗動脈硬化作用のある抗酸化物質が含まれていることを発見、桑茶の成分効果として特許を取得している。
この特許取得によって、桑の成分が動脈硬化に効果がある、ということを前面に出して広告宣伝を行うことが可能になった。そして、その結果として、桜江町桑茶生産組合を中心として、この桜江町のエリアに機能性食品の一大産地が誕生する可能性が広がった。事実、桑をお茶にするだけでなく、粉がフラボノイド成分として薬剤の基材に利用されている。
桜江町桑茶生産組合の軌跡を振り返ってわかることは何か。1つは、この地域の人々を目覚めさせたことだ。
桑茶を産業化したことで、地域の負の遺産に価値が生まれた。周辺地域まで含めれば、120ヘクタールもの圃場が機能性食品原料の生産基地となり、農地が守られた。農地が農地として利用されたことで、桑のある里山風景も復活している。
「50名もの雇用を継続して創出し、地域コミュニティーの生き甲斐作りに大きく貢献した」。江津氏の釜瀬産業振興部長が指摘するように、福祉的な側面も評価されている。
だが、何より重要な成果は、釜瀬部長が指摘する次の事実だろう。「江津は農業を捨てていた。桜江で桑茶が成功するまで、中山間地の農業を大切にしなければならないということに、多くの人は気づいていなかった」。
中山間地では、高齢者が米や野菜を作り、子供や孫に分け与えるという心豊かな生活を営む空間があった。その豊かな空間を、農業はつまらないと捨ててきた。だが、この中山間地農業こそ、求められているのではないか。現在、江津市役所は直売所や学校給食と中山間地農業を結びつけるだけでなく、遊休耕地の再生や高齢者の生き甲斐、健康作りの場と組み合わせようとしている。
桜江町でつくられた産業の仕組みは、「農業の六次産業化」の代表的な事例として国から表彰を受けている。六次産業化とは、一次産品を生産する農業、それを加工する二次産業、販売する三次産業を融合すること。すなわち、「1×2×3=6」と見立てることで、付加価値を作りだし、地域に経済価値を呼び込もうとしているのだ。
問題は六次産業化を果たした企業が競争の中で、地域への利益を生み出し続ける事ができるかということである。大手企業を始めとするグローバル企業は、世界中から原料を調達し、事業を推進しており、常にこのような企業との競争がある。
ただ、地域における六次産業化の意味するところは、雇用や原料、資材の地域内調達を持続させるということにある。原料が多少高くとも買い入れ、地域の雇用を確保し、土地利用を進める――。六次産業には地域内経済の活性化不可欠。この地域内経済循環を円滑に回すことを手助けすることが行政の大切な役割と言えるだろう。
そして、この仕組みを持続させなければならない。
グローバル企業は生産性で測られる。だが、コミュニティーに根付くビジネスは地域の公益に資することが最も重要で、生産性のモノサシで測ると間違うのではないだろうか。高齢者の雇用と福祉、中山間地の土地利用など、別の役割を与えられているのだから
事実、桜江町桑茶生産組合の決算はほぼトントン。内部留保もほとんどない。行政からは借入金の利子補給も受けている。だが、120ヘクタールの農地が利用され、約50人の雇用が生まれている。しかも、地域に落とされる人件費や資材の仕入れなどの地域内経済の活性効果を考えれば、その貢献は計り知れない。
これまで、田舎であったがために、「ここには何もない、何もできない」とあきらめにも似た気持ちを持っていた。だが、人々は確実に前を向き始めている。何もないところなど存在しない。桜江町桑茶生産組合はそれを教えてくれる。
奥田政行
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E7%94%B0%E6%94%BF%E8%A1%8C
2010年9月21日(火)日経ビジネス 福井隆
山形県鶴岡市の郊外に、年間4万4000人ものお客さんを接待するイタリア料理店がある。建物はお化けが出ると噂された廃業した喫茶店。真向かいは廃車の解体施設と決して恵まれた場所ではない。それにもかかわらず、1日平均125人の客を呼び寄せる。
その店の名前は「アル・ケッチァーノ」。イタリア語かと見まがう名前だが、鶴岡庄内地方の方言で「そこにあるけちゃの」、「そこにあるからね」という意味である。飲食業界で名を轟かせているアル・ケッチァーノ。これまで雑誌に取り上げられること300回以上、新聞にいたっては800回を超える。
庄内の顔になった「地場イタリアン」!
その多くは、グルメを唸らす名店として取り上げられる。特に、常識を覆す、新しい料理を生み出すレストランとして評価が高い。
えば、日本一の枝豆として名高いだだちゃ豆、普通に茹でて食べるのではなく、フライパンで炙り焦げ目をつけて塩で出す。新玉ねぎの料理では、玉ねぎの色が変化しないギリギリの温度でグリルし、胡椒をかけてオニオングラタンスープの形で提供する。そのほかの料理と大きく異なるのは、新鮮な食材の活かし方の違い。この料理を求めて、全国各地から人々がやってくる。
もっとも、アル・ケッチァーノの存在意義はただの名店というにとどまらない。庄内地方の元気を作る中核として、交流の場として大きな役割を果たしている。そして、経済的な評価を超えた、地域社会の新しいモノサシを提示している。
20人のスタッフが働く本店に訪れる客数は4万4000人。東京・銀座にある山形県のアンテナショップに出店している姉妹店、「サンダンデロ」にも2万1000人が訪れる。両店をあわせれば、6万5000人が利用している計算だ。仮に1人5000円とすれば、3億円強の売上高を上げている。
それに加えて、「地場イタリアン」を標榜しているアル・ケッチァーノは地元から食材を仕入れることに徹底してこだわっている。農産物だけでも仕入れ農家は50軒を数える。この経済効果も1億円近くはあるだろう。そして、ここで庄内の美味に出会った人々が新しい販路の誕生に一役買っている。
実際に、銀座松屋には庄内の野菜コーナーが誕生した。東京などから庄内に美味しいものを求めてやって来る人も増えている。この店が起点となって、庄内地方を訪れる人がいるということだ。観光経済効果も相当なものだろう。
この店と組み、後継者が生まれた農家多数!
その上、オーナーシェフの奥田政行氏は、山形県「食の都 庄内親善大使」としてイタリアやスペインなどにも庄内の食材を広く販促し、大きな効果を上げている。このような経済効果だけでも、一軒のイタリア料理店の経済効果としては驚きだが、それ以上にこの背後にある地域への貢献が凄いのだ。
アル・ケッチァーノと組んだ20軒の農家に後継者が誕生した。20歳代や30歳代の若手が会社員を辞め、農業を継いでいる。同じことが日本全国で起きれば、日本の食料自給率はあっという間に改善されるのではないか。今回は経済効果を超えた、アル・ケッチァーノの存在意義について考えてみたい。
8月25日の満月の夜、アル・ケッチァーノで奥田シェフに話を聞いた。
奥田政行、41歳。ここに来るまでは、決して平坦な順風満風の人生ではなかった。
それは、21歳の事だった。尊敬する父親が経営するドライブインが上手く行かず、経営を断念し競売にかかることになった。
このドライブインを継ぐために、東京に料理修業に出ていた奥田シェフは、急遽故郷に戻った。だが、自分にできることはあまりなかった。このまま故郷に残っても腕もなく、親を幸せにすることはできないと、あらためて東京で修業を続けることにした。
この21歳という、感受性豊かな時代に体験したことが、奥田シェフの人生を決定づけた。
「こら親父、カネ返せ」!
新潟県との県境に位置した父親のドライブインは、奥田シェフが小さい頃は経営も順調だった。奥田シェフも父親の背中を見ながら、自然と料理人の道を志すようになったという。
だが、最盛期には30名もいた従業員も競売が決まると、あっという間に辞めていった。「おやじさん、おやじさん」と慕っていた人間も「こら親父、カネ返せ」。奥田シェフは骨肉の修羅場を目の当たりにすることになった。「お金は妖怪」。奥田シェフの信条でもあるこの言葉は、この時の辛い体験から導き出された心の叫びと言っていいだろう。
あと3日で、26歳の誕生日を迎えるという日、奥田シェフは東京での修業を終え、同棲をしていた女性(現在の妻)と夜行列車で鶴岡駅に降り立った。鶴岡駅から駅前に出てみると、人は少なく、下を向いて歩いていた。折からの雪交じりの灰色の空の下、暗い所に戻ってきてしまったと思った。
自分の知っている、高校時代の鶴岡は、楽しそうに上を向いて歩く人々で一杯だった。「いつかこの暗く下を向いて歩いている人たちの顔を上げたい」。奥田シェフは、心の底からそう思った。
もう1つショックを受けたことがあった。修業時代の先輩が高く評価していた庄内の食材がどこの店に行っても売っていなかったのだ。
スーパーで目にする野菜は長野県産の野菜ばかり。庄内平野を見渡せば、野菜がたくさん育っているのに、どうして地元の美味しい食材を鶴岡の人は食べることができないのか。流通システムのおかしさを奥田シェフは目の当たりにした。
新鮮で美味しいものを地元で食べることが出来ない不幸せ。夢も希望もないと言う地元の農家。そして、下を向き歩く人々――。ここに戻った自分が変えるしかない、と奥田シェフは強く思った。生まれ育った鶴岡のために、「料理で地域を元気にしたい」という志を持って頑張る、と奥田シェフは決心を固めた。
庄内平野の食材を地元で買えない疑問!
鶴岡にUターンした奥田シェフはホテルのレストランで働いた。このホテルでは、最年少で料理長に就任し、順調にキャリアを積み重ねた。まわりの若手料理人を育てるなど、育成面でも力を発揮したという。
その後、奥田シェフはあるレストランの開業に関わった。それは。ジェーファーム穂波街道。「農家レストラン」という言葉が新鮮だった頃、その店は開店し、車が列をなすほどの人気店となった。全国に数多く展開された農家レストラン、その先駆けとなった存在だ。
このように、奥田シェフは鶴岡に戻った後の5年間、料理人や農家を元気にするという夢を、料理を通じて実現していった。ただ、この5年間で気づいたことがもう1つあった。それは、庄内平野に影を落とす歴史の傷跡だった。
江戸時代、米どころとして豊かな財政力を備えた庄内藩。徳川四天王の筆頭、酒井家を藩主に繁栄を謳歌していた。だが、幕末に江戸幕府から江戸市中の警備を託され、不穏な動きの附藩と目された薩摩藩の藩邸を焼き討ちした。その後、新政府軍に敵対する勢力として会津藩と同盟を結び、最後まで戦った。その結果、明治時代は不遇の時をかこつことになった。
「地元の食材がうまいわけがねぇ」!
「庄内平野には厚い蓋がその時からかかっている」と奥田シェフが語るように、時代の中で忠義を尽くしたことが仇となり、鶴岡は歴史の中に埋もれた。町の人々も鬱屈とした想いを抱えていた。「その蓋を開きたい」。奥田シェフはそう感じていたが、行政や農協にアイデアを持ち込んでも、まったく採用してくれなかった。徒労感を覚えていた。
地場レストラン、アル・ケッチァーノを開業したのはそういう時だった。2000年春。家賃10万円、お化けが出ると囁かれるような物件での船出だった。手元資金も限られており、気に入った食器を揃えることもままならない。メインで使う皿だけは一皿5000円の見栄えのよいものを揃えたが、それ以外は100円ショップなどで調達した。
実際のオペレーションも苦難の連続だった。東京で一緒になった同僚が店を手伝ってくれることになったが、新しく採用した料理人とは意見が合わず、うまく回らなかった。奥田の料理が斬新過ぎることから、こんな料理で良いのかと次々と料理人は辞めて行った。その上、地場レストランと銘打った、地産地消の試みも船出の逆風にしかならなかった。有り体に言えば、同業者の嫌がらせである。
「地元の食材が揃うわけがない。嘘言うでねぇ。地元の食材がうまいわけがない。地元でやるのは不可能だ」。同業者は陰口をたたいた。「日本の流通システムが悪いから自分で変える」。そんな志を持って始めた奥田シェフの志は地元の人々には届かなかった。それでも、奥田シェフは地元の食材の良さを信じ、農家を訪ね歩いた。すると、ある食材に巡り会った。“丸山さんの羊”である。
日本一うまいラム肉を作る丸山さんとの出会い!
羽黒地区で羊を生産する肥育農家だった丸山さん。周囲の農家は羊の肥育から手を引いており、「自分もそろそろ潮時か」と考えていた。その元を訪れた奥田シェフはこのラム肉の質の高さに驚いた。聞けば、エサは庄内平野特産の「だだちゃ豆」を混ぜたもの。羽黒山麓でのびのび育てられていた。味の次元が違ったのも当然だろう。
その後、奥田シェフは自分の店で使うだけでなく、東京の有名料理店に自ら売り込んだ。そして、このラム肉は有名雑誌のグラビアを飾り、テレビの特集番組になった。
「雑誌を持っていくたびに、丸山さんの顔がどんどんきれいになっていくんだ」と奥田シェフは振り返るように、外部の評価は丸山さんに自信を与えた。30頭ほどだった羊も現在は約4倍に拡大。今では、「日本一うまいラム肉」という評価を得るまでになった。
「丸山さんのような食材を生産している人が庄内にはほかにもいるはず」。鳥肌が立つような衝撃を受けた奥田シェフは自分の使命を再確認した。料理を通して、みんなを幸せにしていくこと。それが、自分や庄内の人々が幸せになることだ、と。
そして、やるべきことが見えてきた。庄内平野の生産者の裾野を広げ、次世代に美味しい食材を残す――。そうすれば、いつか天才的なシェフが現れ、庄内平野のすごさを伝えてくれるだろう。伝道師によって庄内地域は大きく生まれ変わり、羽ばたくことができるだろう。もっとも、この時は山頂に立つ伝道師に自分がなるとは思っていなかったが・・・。
その後、アル・ケッチァーノが有名になり、取材がたくさん来始めた。この時、奥田シェフは取材をうまく利用しようと考えた。取材に来たマスコミに対して、美味しい食材を作る生産者なくしてアル・ケッチァーノは成立していないことを強調、生産者への直接取材をしてもらったのだ。その時、庄内平野の風景を一緒に見せることも条件にしている。
ちなみに、奥田シェフにこれまでで一番嬉しかったことは何かと聞くと、「雑誌に月山の写真が載ったこと」と答えた。雑誌に写真が載って、「庄内平野を世に出すことができた」と思った。
「やっと、庄内が日本に紹介された」!
生産者も取材を通して思いの丈を話した。「明治維新で蓋をされた」という思いを持つ人々がこれを機会に心の叫びを吐露していった。
ある時、テレビのドキュメント番組で庄内の風景が紹介された。その番組を見たおばあさんに突然、抱きつかれた。「ありがとね、奥田さん。やっと庄内が日本に紹介された」。江戸時代の豊かな庄内から、蓋をされ、陸の孤島になってしまった庄内。その悔しさに光が射した瞬間だった。
それでも、奥田シェフは悩んでいた。マスコミは来るようになったが、相変わらず、意見が合わない料理人はやめていった。経営も安定していなかった。
2002年2月、妻とともに子どもを保育園に送った後、「谷定」という集落を見ようと車を進めた。かつてこの場所では農業のプロ集団が農業を営んでいた。その時、雪に埋もれた山の中に迷い込んだ。しんしんと雪が降っていた。小川が流れ、そのかたわらには孟宗竹が生えていた。段々畑もそこにあり、まるで山水画のような風景だった。この風景に、奥田シェフは強い啓示を受けた。
深い雪の下には歴史に埋没した庄内平野の食材や人材が眠っている。この雪が溶ければ、庄内平野の食材が芽吹く。この雪が溶ければ、かつての繁栄を取り戻せる。そのための太陽に自分がなるのだ、と。奥田シェフは強く感じた。「この時、今までの悩みと目指すべき方向性が一直線につながった」。そして、「食の都庄内」の実現に奔走し始める。
“取り残された街”ゆえに残された伝統食材!
「食の都庄内」とは、多彩な食材と風景を軸に街づくりをしようという試みだ。庄内は“取り残された街”であるがゆえに、素朴な風景や自然、焼き畑でつくるカブなど古くからの農産物などがたくさん残っている。これがかえって、庄内の可能性を開くのではないか。庄内には、古き良き日本がたくさん残っている、これこそがまさに時代が望む街ではないか。そう考えた奥田シェフは「食の都庄内」を旗印に掲げた。
このアイデアを奥田シェフが思いついた背景には2002年6月に起きた無登録農薬の使用問題があった。自殺者まで出したこの事件で、奥田シェフは山形県のイメージを変える必要性を痛感した。この時、「庄内食の都」という像を描き、食の都を具体化するためのロードマップを作成している。
そして、変化が始まった。
地元テレビ局が「食の都庄内」という番組を放送した。それを見た行政職員が「素晴らしい」とファクスを送ってきた。その後、2004年5月には山形県が「食の都庄内」の親善大使に奥田シェフを指名、「食の都」を御旗に立てることを内外に示した。
このファクスを送ってきた行政職員は県の職員だった。県も、悪いイメージを払しょくするのに必死であった。その当時、奥田シェフを支援した県職員の1人が今の副知事である。
奥田シェフと県の担当者は死に物狂いで頑張った。朝4時半に起き、2人で東京に行き、日帰り業務をこなした。斎藤さんという担当者は料理の素人だったが、料理を覚えるため、自腹でフランス料理店を回って料理を覚えた。山形県のため、庄内のために、と頑張った。
「藤沢カブ」「平田赤ネギ」「民田ナス」!
親善大使としての活動が実を結んだからだろう。新聞や雑誌、テレビでの露出が増え、アル・ケッチァーノは日増しに有名になっていった。そして、庄内平野で受け継がれていた在来野菜に光が当たり始めた。
庄内平野には豊かな食材が豊富にある。とりわけ、在来種と呼ばれるその地域の伝統野菜が多い。焼き畑で作る「藤沢カブ」、月山の恵み「月山筍」、生で食べると飛び上がるほど辛いが火を入れるととろけるように甘い「平田赤ネギ」、漬け物にすると絶品の「民田ナス」――。約60種類の在来野菜が庄内では受け継がれている。
だが、奥田シェフが鶴岡に戻ってきた当時、在来野菜は農家の自家用として細々と作られているに過ぎなかった。在来野菜はロットにならず、手間もかかるため、商業ベースに乗りづらかったということだ。その状況下、在来野菜を使った奥田シェフの美味しい料理が風穴を空けた。
これまでの農政は、主に米や野菜、畜産を中心に効率化を図り国際競争の中で生き残れるよう農業振興を行ってきた。そのため、細々とつくられてきた各地域の在来野菜などは、主役にはなれなかった。
だが、ここでは丸山さんのラム肉のように、奥田シェフの料理が光りを当てたことにより、おいしくほかにない食材と価値が高まり、流通商品としての可能性が開き始めた。
実際に、この地域には良い前例があった。1986年に、首都圏に初出荷された鶴岡の在来種、だだちゃ豆。当時320キロの出荷だったが、2006年には870トン、約8億円もの生産出荷額を誇る日本一の枝豆になった。このような前例もあって、庄内地方では在来種の生産奨励がスタートし始めた。
「奥田さんは生産者に希望を与えた」!
そして、庄内平野は江戸時代からの米どころ、果樹どころでもある。その上、目の前の海は月山から流れ出る水の恵みにより、養分が豊か。庄内の由良港に揚がる魚介類は百種類と多彩な恵みを届けてくれる。庄内平野にはすべてが揃っていた。奥田シェフの料理を通じて、都会で注目され始めたのだ。
先に紹介した丸山さんの羊はもちろんのこと、平田赤ネギは作付面積が何倍にもなり、下仁田ネギの単価を追い抜いた。今では九条ネギに次ぐ高値の高級食材として取り引きされている。同時に、店の噂を聞きつけて、アル・ケチァーノで食事をしたいと鶴岡を目指す人も増えている。
その中には、アカデミー賞を受賞した「おくりびと」の脚本家のように、この店が庄内にあるから脚本を引き受けた、と公言した人もいる。庄内向けの観光ツアーが50以上も生まれるなど、一軒のレストランが起点となって、様々な波及効果がさざ波のように広がった。
地域の人々も庄内の食べ物が美味しいということに気がつき始めた。数多くの人々が都会からはるばるアル・ケッチァーノにやってくる。これまで、庄内平野の人々は枝豆を味噌汁に入れるとテレビで笑われ、美味しいものはここには無いと自信を失っていた。だが、奥田シェフが枝豆は決して茹でるだけが美味しいのではないと料理で示し、人気を得たことによって、地元の人々の自信は復活した。
行政も動き始めた。これまで在来野菜に目を向けてこなかった行政職員も庄内平野の食材が素晴らしいことに気がついた。生産者の高齢化が進んでいるが、今年から小さな支援モデルを検討し、実施する予定だそうだ。在来野菜の栽培に資材費などを補助、在来野菜の栽培拡大を目指すという。
行政担当者は、「奥田さんは生産者に希望を与えた」と言う。自分たちが生産する野菜が、美味しいとみんなが評価してくれること。それが、お金以上に生産者の背中を押し、その気にさせていると。
このような変化に、当の農家も嬉しいながらも当惑気味だ。
平田赤ネギを生産する後藤博、喜博親子に話を聞くと、「考えもよらないところからお客さんが畑にやってくる。先日は野菜ソムリエが大型バスでやってきた」。
義博氏は31歳。親父の姿を見て、「面白そうだ」と後を継いで4年目になる。その前は会社員として植木屋で働いていた。だが、会社員生活に未練はない。むしろ、今の方が楽しいし希望がある。平田にしかない赤ネギを育てる喜びと、作付面積を広げるという夢を持っているためだ。「奥田さんと出会ったことが最大の幸運だった」と親子はいう。
「後継者づくりは希望づくり」と奥田シェフは考えている。奥田シェフにとって、「食の都庄内」の実現が大きな夢であり、誇りだった。それは、後継者となった若者たちも同じだ。
親父たちは苦労して自家採取をし、種を残してきた。そのことに光があたり、たくさんの人たちが圃場にまでやってくるようになった。皆一様に、その味を褒め、経済的な価値も高まった。若者たちはこれからも作り続けて行こうと、その気になっている。
奥田シェフは、食べ方の新しいモノサシを示し、市場出荷に馴染まない在来野菜に光をあてた。その結果、在来野菜の価値が高まり、生産者に希望を与えた。
この奥田シェフの動きに、県や市も引っ張られている。鶴岡市は、本年度からユネスコ食文化都市登録を目指し、予算を計上し奥田シェフと二人三脚でその実現を目指すことになった。
庄内の雪解けのための太陽になる――。そう誓った奥田シェフの夢は現実のものになりつつある。そして今、奥田シェフは庄内の方法論を日本中に広げようと考えている。地元の食材を生かし、生産者も消費者も幸せになる。そんな国を作りたい。そのために、奥田シェフは走り続ける。
旧ソ連時代から抜け出せなかったワイン品質!
アナパは、モスクワから直行便が約2時間で結んでいる黒海沿岸の保養地。
目的のワイナリー「シャトー・ル・グラン・ヴォストーク(CGV)」はアナパから丘陵地帯を自動車でクラスノダール方面に1時間ほど行ったところにある。
私は2006年から毎年CGVを訪ねているが、このワイナリーとの出合いは2004年にさかのぼる。
当時、イタリアワインの輸入会社を東京で経営していた私は、ロシアの食品飲料が西側の技術の導入で急速に改善されていく中で、ワインだけが取り残されたように、いつまでもソ連時代の品質を超えることができない状況を非常に不思議に思っていた。
ブドウ品種こそ、シャルドネ、カベルネ・ソービニヨン、リースリングなど国際品種を使用しているが、その香り、味にそれぞれの品種の特徴を感じることができないのだ。
1991年のソ連崩壊前には、グルジア、モルドバといったワイン生産国を連邦内に持つソ連は世界のワイン生産国として五指に入る存在だった。しかし、その裏で、今回の話の舞台になる黒海沿岸、クラスノダール地方のワインは、ほとんど話題に上ることがなかった。
黒海を訪れる保養客が、安い地酒として滞在中にがぶ飲みするか、お土産として持ち帰ること以外、これといって特徴のないワインだった。
私もこの地区のワインを数本持ち帰り、当時自社が銀座で経営していたワインバー「HIBINO1882」で希望者を集めた試飲会を何度か実施したが、毎回ひどい評価であった。
グルジア、モルドバからの輸入禁止で市場は大混乱に!
ソ連邦の崩壊とともに、2大ワイン生産国を自国領から失ったロシアには、輸入という形で引き続き両国産ワインがロシアに大量に流入していた。
それが、2006年に突然両国のワインがミネラルウオーターなどとともに輸入禁止となり、特にグルジア産ワインが棚の多くを占めていたロシアのワイン売り場は大混乱となる。
その後、モルドバ産は輸入が再開されたが、グルジア産は引き続き輸入禁止のままだ。輸入禁止の理由は、ワインから有毒物質が発見されたためとロシア当局は言うが、信ずる人はいない。グルジアの現政権が存続する限り、グルジアワインがロシアに輸入されることはないだろうと多くの人は見ている。
その結果として、グルジアワイン禁輸が黒海沿岸、クラスノダール地方のワインにスポットを当てることになった。
国際会議などで自国産ワインを使用したいロシア政府は、当時経済発展貿易省の大臣だったゲルマン・グレフ氏を先頭に、多くの政府関係者が各地のワイン生産者を訪問、必要に応じて融資の相談を受けるなど、積極的に自国産ワインの生産と品質の向上を奨励した。
そんな動きの中で登場したのがCGVの新世紀ワインだった。
CGVの親会社であるアブローラ社は、1992年の民営化で私企業となった国有農園、旧「アブローラ」を数名のロシア人投資家が買い上げる形で誕生した。国有農園の土地、約3000ヘクタールも自動的にアブローラ社の所有となり、そこには500ヘクタールのブドウ園も含まれる。
世界水準のワイナリーを目指して建設!
それまで収穫されたブドウは、近隣のワイン工場に売却され、自社でワイン醸造を行うことはなかった。しかし、新たに経営権を握った投資家グループは、ここに世界水準のワイナリーを建設することを当初から計画した(写真右)。
そして早くも2003年にはフランスのワイナリー建設専門の建築会社の手による近代的ワイナリーが完成、同年秋には80万リットルのワインが仕込まれた。
こうして醸造されたワインは、2004年ボトリングされ、モスクワに運ばれ、いくつかのワイン品評会や、イベントに出品された。
2004年10月、たまたまモスクワ市内で開催された「ワールド・ワイン・イニシアティブ2004」という企画展を覗いた私は、そこでCGVワインと驚愕の出合いを体験することになる(写真右)。
CGVワインの特徴は、フランスから持ち込まれた近代的ワイン製造技術だ。
ロシア投資家グループは、近代的ワイナリーの建設を進めるとともに、ボルドー型ワイン造りをフランス人の若き醸造家、フランク・デュセナー氏にワイナリー、ぶどう園経営の全権を委任する形で実現した。
国営農園時代から栽培されているブドウ果樹の品質レベルが低いことを認識したデュセナー氏は、早速フランスの苗屋からシャルドネ、ソービニヨン・ブラン、カベルネ・ソービニヨン、アリゴテ、シラーなど8種類の幼樹を輸入、さらに、地元のブドウ「クラスノストップ」をフランスに送り、遺伝子のクリーンアップという作業を行った。
これは、何代にもわたる雑交配のため、ブドウに本来のクラスノストップとは異なる種類のブドウのDNAが混入しており、それを除く必要があるため、ということだった。
フランスの味ではなくロシアの味を追究へ
ロシア人投資家の希望とは異なり、デュセナー氏は、ロシアでボルドー型ワインを造ることに、それほどのこだわりを持たず、むしろ、地元のブドウ品種を使うことに情熱を燃やしている。DNAクリーンアップされた苗木は既にCGVのぶどう園に戻り、順調に成長している。
シラー、クラスノストップブレンドワインが誕生するのも時間の問題だ。
今年会ったデュセナー氏は、昨年までの「ぶどう園、ワイナリー支配人」からCGVの活動全般に責任を持つ「総支配人」に昇格していた。
長男のサミュエルくんも2歳になり、奥さんのゲールさんもすっかり品質管理部長職が板についたようだ。
三菱自動車の「パジェロ」を駆って、起伏の多い丘陵地帯を寸暇を惜しんで動き回るデュセナー氏に、「フランスに帰ってのんびりする時間ができるといいね」と言うと、「いや、信夫、人生は短い、時間があれば、京都で日本酒の醸造技術を勉強したいよ」と言い返された。骨の髄まで醸造家魂が染み込んでいるようだ。
CGVにデュセナー氏を訪ねた夜、夕食に誘われた。
フランス人の友人たちだと紹介されたのは、同じクラスノダール州にあるネスレのインスタントコーヒー工場の技術者たちだった。
ひとしきり、フランス人から見たロシアとロシア人、という話題に花が咲いた。彼らが非常に好意的にロシアを見ていることが印象に残った。CGVの方でもデュセナー氏を支え、そしてワイナリーの隅々まで熟知しようとするロシア人スタッフたちがいた。
デュセナー氏も言うように、彼は永久にこの地にとどまることはできない。ワイナリーを本当に発展させるのは、ロシア人スタッフをおいてないわけである。
外国人の力を借りて国を建設!
資源輸出国として今や世界第3位の外貨準備高を持つロシア。
この豊かな財力に任せて世界から買いつけるのは、自動車、機械など目に見えるものだけではなく、実はこうした外国人専門家の招聘も大きな動きとなりつつある。
そして、その中でもフランス人の占める割合が高いことは特筆に価する。家族連れでロシアに赴任し、しっかりと現地に根を下ろす彼らと、単身赴任中心の日本人駐在員。
この差が、今後どのように対ロシアビジネスに影響を与えるのか、しっかりと見ていきたいと思っている。
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魚沼コシヒカリ理想の稲作技術『CO2削減農法研究会』(勉強会)の設立計画!