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平成22年 第12回「米・食味分析鑑定コンクール:国際大会」(松江市)有機栽培・JAS認定部門で特別優秀賞を受賞。(食味90・味度83・計173点) 平成25年、第15回魚沼と第16回北京開催運動中! 無農薬魚沼産コシヒカリ生産農家・理想の稲作技術『CO2削減農法』 http://www.uonumakoshihikari.com/
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クワ
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2010年10月14日(木)日経ビジネス 福井隆

国の過疎集落研究会の報告によると、全国には6万2000もの過疎集落が存在している。そのうち、10年以内に2600集落が消滅する可能性があるという。「古老が1人なくなることは図書館が1つ消えること」。アフリカの古い言い伝えにあるように、それぞれの風土に寄り添い、作り上げてきた生活の知恵や文化が消え去ろうとしている。

 瀬戸際に立つ辺境。だが、時代に抗い、輝く人々は現実にいる。東京農工大の客員教授、福井隆氏はこういった“辺境で輝く人々”を目の当たりにしてきた。

 福井氏は年間250日以上、過疎集落に足を運ぶ「地元学」の実践者。これまで7年間、100カ所以上の現場で地域づくりの支援をしている。「地元学」とは、無い物ねだりではなく、今あるもので何ができるかを考える。そのプロセスを通して地域を元気にしていく学問である。

 多くの地域は「ここには何もない」と誇りを失っている。だが、それぞれの足元を見つめ直すことで、「何もない」と言われているところでも、未来への希望を作ることができる。地元学を通して、福井氏は地域住民に気づきを与えている。

 日本中を旅する「風の人」。ゆえに見える地域の未来。この連載では、辺境で力強く輝く人々を福井氏の目線で描く。地域を元気づけるにはどうすればいいか。住民の心に火をつけるにはどうすればいいか。集落に溶け込むにはどうすればいいか――。1つのヒントがわかるのではないだろうか。

 3回目の今回は島根県の奥地にある桜江町桑茶生産組合。見向きもされなかった桑園を再生、桑茶などの商品開発を進めることで50人の雇用を生み出した。「-」から「+」を生み出した桜江町桑茶生産組合の取り組みを見てみよう。

今回は、いわゆる地域資源を活用し、産業化を果たした有限会社・桜江町桑茶生産組合を取り上げる。この会社があるのは、江の川沿いの中山間地域に位置する島根県江津市桜江町(2004年の合併前は邑智郡桜江町)。最盛期に比べて人口も半分に減少するなど、典型的な高齢過疎の町である。

120ヘクタールの遊休耕地が復活! 

 最盛期の昭和30年代、産業の基盤はコメ作りと養蚕だった。だが、中国地方でも有数の桑畑が広がった桜江町も時代の波には逆らえない。約30ヘクタールの桑畑は放棄され、負の遺産になっていた。

そんな土地に、福岡県博多からアイターンでやってきたのが古野俊彦・房子夫婦である。現在、古野氏は桜江町桑茶生産組合など、3社の社長を務めている。グループの売上高は約4億円(平成22年度12月期見込み)。桑茶を中心とした機能性食品の加工、販売をしている。

 桜江町桑茶生産組合は放棄されていた120ヘクタールの遊休耕地を復活させた。地元での生産加工も実現、桜江町の活性化に大きく貢献している。この動きに呼応した行政も、地域での起業と定住を促進する「江津市定住促進ビジョン」を作成、この成功事例をひな型に、多くの取り組みを始めようとしている。

 桜江町桑茶生産組合の成功を振り返ると、福岡県から移り住んだ経済人と行政の協業関係(※“協働”という言葉は日経グループの用字用語になし)が大きな要素を占めていた。その軌跡をひもといてみよう。

 昭和19年に博多で生まれた古野氏は、東京の大学卒業後、家業の旅行代理店を継ぐために博多に戻った。時あたかも高度経済成長時代。右肩上がりの成長が当たり前の時代である。当時の旅行業も日本交通公社を頂点に、既得権で守られていた。

 時代の追い風を受けた古野氏は自身の斬新なアイデアによって事業を拡大していった。

大阪万博の日帰り弾丸ツアーで大成功!

 例えば、大阪万国博覧会。当時、古野氏は日帰りで大阪万博を回る弾丸ツアーを企画した。近畿地方の宿は大手の旅行代理店が押さえており、入り込む余地はない。それに、当時の親にとっては子どもを万博に連れていくことが目的であり、京都や奈良を観光することが目的ではない。始発と最終便であれば航空券も手配できる――。そう考えた古野氏は、実際に1000人規模のツアーを成功させた。

 「そんなものが成功するわけがない」。始めた当初は他社からバカにされた。だが、「行きたいのは万博であって観光地ではない」と旅行者のニーズを読み切った。この成功によって、中小の旅行代理店として初めて、日本航空の旅行代理店の認可を取得している。

 もっとも、高度経済成長の終焉とともに、旅行業界も変化しつつあった。特に、パソコンの登場によって、旅行業に求められるノウハウが変質した。

 それまでの旅行業で重要だったのは現場での処理。予約のダブルブッキングは日常茶飯事、現場のスタッフの対応が問題解決の大きな要素だった。百回以上の海外添乗で様々な修羅場をくぐり抜けてきた古野氏には現場を回すノウハウがある。だが、パソコンの浸透によって、自分の活躍の場は狭まりつつあった。

 さらに、手塩にかけて育てた別会社を離れ、家業の旅行会社にもどらざるをえなかったことも旅行業界に見切りをつける一因になった。

 古野氏は1984年、大企業の労組や日本航空の系列企業と新たな旅行会社を設立、社長に就任した。当時、新日鉄や三井鉱山が大規模なリストラを敢行しており、重厚長大産業で職を失った人々の雇用を創出することが新会社の目的だった。

 ただ、道半ばで家業である旅行会社の社長の兄が他界し、そのあとを引き継ぐため、自分が育てた別会社を手放さざるをえなくなった。旅行業界に30年以上も関わってきた古野氏。達成感と同時に挫折感を感じていた。

旅行業界に見切りをつけ、Iターンを決断!

 旅行業界に見切りをつけた古野氏は田舎暮らしを考えた。子育てが終わったら田舎に住もうと妻と約束していた。古野氏自身もアウトドア好きで、園芸に関心があった。現役の時も、時折、車を走らせては終の棲家を探していた。

 桜江町を訪れたのは1996年11月のことだった。町が地域活性化の一環として建設していたラン栽培の大型ハウスを見るためだ。その時、桜江町の農林水産課職員だった釜瀬隆司氏が、桜江町の取り組についての説明のため同行してくれた。

 釜瀬氏は、江の川など町内を案内し、地域の状況を熱心に説明した。古野夫妻も桜江町に魅せられた。「風光明媚ないいところだと思った。何より、中国地方で随一の大河、江の川が素晴らしい、と感じました」。古野氏はこう振り返る。

 その後の古野氏の行動は早かった。その年の12月には、役場が斡旋してくれた空き家を借り、2~3カ月のつもりで住んでみた。団塊の世代や若い世代など田舎暮らしを望む人は少なくない。だが、一番のハードルは住まい探し。その点、桜江町は空き家を活用した移住受け入れを積極的に進めていた。このような行政の取り組みがあったらこそ、田舎暮らしがスムーズに進んだと言える。

 桜江町に移住した古野氏は地域を歩き、地元にあるものを調べた。この時は行政の斡旋で、地元の漁協や土建業で就業体験をしている。そして、約1年半をかけて、地元の人々との交わりの中で、自らがやるべきテーマを模索した。

 その中で、数多くの可能性が見えた。特に、豊かな中国山地に育つシダやコケ類の豊富さ、江の川の豊かな恵みなど、地域資源に多くの可能性を感じた。この地元でのあるもの探しが古野氏の人生を変えた。

 地域を歩いている変な都会人がいる」。1997年春、農業者が集まる会議にオブザーバーとして参加を求められた。その場で、かつて桜江町には30ヘクタール以上の桑園があったこと、その桑の圃場は荒れるに任せて地域のお荷物になっていたこと――などを知った。

 役場に頼み、現場を見てみると、桑は元気に伸びていた。これほど元気に育つのは、桑に適した土地だからだろう、と古野氏は思った。それに、投資コストや費用対効果を考えれば、この桑の木をそのまま生かすのが最適に違いない。いずれにせよ、この桑を除外した農業振興はないだろう、と考えた。

田舎に染みついた諦念が最大のハードル!

 昭和40年代、桜江町には6800人が生活していた。当時の農産品出荷額を見ると、米と蚕の売り上げはともに1億円と、この2つが地域の二大産業だった。ところが、その片方が衰退し、人口は最盛期の半分になった。であるならば、“桑の産業化”に活路を見出すことで、地域に少しでも貢献できるのではないか。古野氏はそう考えた。

 だが、地域の人々の頭の中には「桑はお荷物」という考え方が染みついている。その考え方を変えるには、実際に桑で何かができることを示す必要がある。それも、「えっ、そんなことができるの」という驚きがないと、容易に考え方は変わらないだろう。

 多くの中山間地域は「ここには何もない。農業はもう儲からない」という想いが渦巻き、誇りを失っている。未来への希望を失った人々を前に、希望に燃えた移住者が移り住んでも、「そんなことをやってどうする」と揶揄され、うまくいかない。それが地域での現実である。

 ただ、古野氏には経済人としての自負があった。大阪万博弾丸ツアーを成功させたように、自分がしてきたことへの自負があった。自分に経済人としての能力があったことを、証明してみせたかった。自らの存在意義をかけて、“桑の産業化”の実現に動いたのはそのためだ。

町内の約30ヘクタールの桑園で採れる葉は150トン。乾燥させて茶にすれば、20~30トンの茶葉になる。お茶は、日本人の嗜好に合っている。その上、桑の葉に含まれる成分が糖尿病に良いとの調査結果もある。桑の葉で、お茶がつくれれば健康志向の市場に合い、充分産業になると考えた。

 中小の旅行代理店であったにも関わらず、大手に伍して日本航空や国鉄、西武セゾングループなどの代理店業務を次々と取得した古野氏。その力が本物であることを証明するために、ゼロからの挑戦を決意した。

桑の産業化を進める上で、重要なことはスピードとテーマの設定だった。

 1998年6月に桜江町桑茶生産組合を立ち上げると、5年後に1億円の売上高を目指すという計画を立てた。古野氏の目的は地域の人々のあきらめの気持ちを変えること。そのためには、5年で1億円というスピードが何よりも必要だった。さらに、「5年間で桑園の耕作放棄をなくす」という目標を立てた。目標が正しければ、地域の人々はついてきてくれると考えたためだ。

 総力戦だった。行政も家族も総動員でできることはすべてやった。桑の葉の値段をどこまで高くできるかが勝負だった。「新聞もテレビも見ないで、桑以外の情報はすべて遮断して突っ走った」。そう振り返るように、古野氏は桑茶の開発から、マーケティング、製造、販売を総力戦で戦った。

あえて、マーケットの頂上に狙いを定めた
 重要な事は、桑で産業を産み出し再生産ができること。そのため、いくらであれば持続できるのか、先に販売価格を決め販路を開拓した。その時も、強気の価格で、マーケットの頂上を攻めることに決めた。その当時、桑の葉で作るお茶はどこにもなかったためだ。

 まったく取引のない状況で、島根県唯一のデパート、一畑百貨店に商品を持ち込んだ。訴えた内容はただ1つ。「桑茶は日本に1つしかない島根県の特産品である」。すると、支配人は喜んで桑茶をおいてくれた。それも、「地元の大切な商品だから、1カ月に一個売れるだけでいい」といってくれた。そして、2年遅れたが、2005年にに売上高1億円の目標を達成した。

 地域で新しいことをやる時には必ず利害が発生する。既に価値を生み出しており、人々が関わっているものをよそ者が扱うのは難しい。逆に、古野氏のように、経済効果がゼロかマイナスのものを扱う場合は利害関係が発生しにくい。負の遺産を扱うことはプラスにしか働かない。よそ者の足を引っ張るマイナスのエネルギーは発生しない。

 もちろん、桜江町桑茶生産組合の成功は古野氏1人の奮闘ではない。ある町会議員は桑を使った健康茶の存在を教えてくれた。役場の職員は桑の成分が糖尿病にいいという研究成果を探し出した。桑の葉をお茶にするため、家族は手作りで試作を繰り返した。

 桑の葉の乾燥方法がわからず途方に暮れていると、安田さんという椎茸の乾燥名人が乾燥技術を教えてくれた。荒れ放題の桑園に手を入れる時も、78歳の坂本さんが再生を手伝ってくれた。役場職員の釜瀬氏が中心となり、試作品のマーケティング調査に同行してくれたことも大きかった。

「地域活性化は行政とのジャムセッション」

 「地域活性化は行政とのジャムセッション。民間人は自由に動くが行政は組織で動く。こちらの音色と向こうの音色がずれているとうまくいかない。向こうの立場をよく理解し、事情を読んで動きに合わせることが必要」と古野氏は言う。このジャムセッションが桜江町ではうまくいった。

 当時、釜瀬氏を始め、当時の課長が積極的にマーケティングの現場に足を運び、桑茶の可能性を感じたことが、その後の動きにスピード感を与えることになった。

 例えば、遊休米蔵の活用だ。300キログラムの生葉の注文が来た際、保管する場所がなかったため、使われていなかった倉庫の活用を行政に願い出た。この手の承認は時間がかかるものだが、行政の支援もあり、首長はすぐにOKを出した。

 この米蔵の活用は、その後の設備投資にも大きく寄与した。最初の頃は夜中に鍋釜を引っ張り出し、夫婦2人で焙煎していた。目標の売上高1億円を実現するためには、粉砕機や焙煎機を導入しなければならない。米蔵を借りたことで機械設備の導入も容易になった。

 行政とのコラボレーションはもう1つある。

 桜江町桑茶生産組合の主力商品は言うまでもなく桑茶である。蚕を飼うために栽培されていた桑の葉は繊細な蚕に食べさせていたこともあり、数十年にわたって無農薬有機栽培で育てられていた。それは今も変わらない。そのため、有機JASの認証を取得、安全性を最大限に打ち出している。

 実はここでも行政との協業が働いている。

 島根県産業技術センターと島根大学はここの桑茶の成分に、Q3MGという抗動脈硬化作用のある抗酸化物質が含まれていることを発見、桑茶の成分効果として特許を取得している。

 この特許取得によって、桑の成分が動脈硬化に効果がある、ということを前面に出して広告宣伝を行うことが可能になった。そして、その結果として、桜江町桑茶生産組合を中心として、この桜江町のエリアに機能性食品の一大産地が誕生する可能性が広がった。事実、桑をお茶にするだけでなく、粉がフラボノイド成分として薬剤の基材に利用されている。

 桜江町桑茶生産組合の軌跡を振り返ってわかることは何か。1つは、この地域の人々を目覚めさせたことだ。

桑茶を産業化したことで、地域の負の遺産に価値が生まれた。周辺地域まで含めれば、120ヘクタールもの圃場が機能性食品原料の生産基地となり、農地が守られた。農地が農地として利用されたことで、桑のある里山風景も復活している。

 「50名もの雇用を継続して創出し、地域コミュニティーの生き甲斐作りに大きく貢献した」。江津氏の釜瀬産業振興部長が指摘するように、福祉的な側面も評価されている。

 だが、何より重要な成果は、釜瀬部長が指摘する次の事実だろう。「江津は農業を捨てていた。桜江で桑茶が成功するまで、中山間地の農業を大切にしなければならないということに、多くの人は気づいていなかった」。

中山間地では、高齢者が米や野菜を作り、子供や孫に分け与えるという心豊かな生活を営む空間があった。その豊かな空間を、農業はつまらないと捨ててきた。だが、この中山間地農業こそ、求められているのではないか。現在、江津市役所は直売所や学校給食と中山間地農業を結びつけるだけでなく、遊休耕地の再生や高齢者の生き甲斐、健康作りの場と組み合わせようとしている。

 桜江町でつくられた産業の仕組みは、「農業の六次産業化」の代表的な事例として国から表彰を受けている。六次産業化とは、一次産品を生産する農業、それを加工する二次産業、販売する三次産業を融合すること。すなわち、「1×2×3=6」と見立てることで、付加価値を作りだし、地域に経済価値を呼び込もうとしているのだ。

 問題は六次産業化を果たした企業が競争の中で、地域への利益を生み出し続ける事ができるかということである。大手企業を始めとするグローバル企業は、世界中から原料を調達し、事業を推進しており、常にこのような企業との競争がある。

 ただ、地域における六次産業化の意味するところは、雇用や原料、資材の地域内調達を持続させるということにある。原料が多少高くとも買い入れ、地域の雇用を確保し、土地利用を進める――。六次産業には地域内経済の活性化不可欠。この地域内経済循環を円滑に回すことを手助けすることが行政の大切な役割と言えるだろう。

 そして、この仕組みを持続させなければならない。

 グローバル企業は生産性で測られる。だが、コミュニティーに根付くビジネスは地域の公益に資することが最も重要で、生産性のモノサシで測ると間違うのではないだろうか。高齢者の雇用と福祉、中山間地の土地利用など、別の役割を与えられているのだから

 事実、桜江町桑茶生産組合の決算はほぼトントン。内部留保もほとんどない。行政からは借入金の利子補給も受けている。だが、120ヘクタールの農地が利用され、約50人の雇用が生まれている。しかも、地域に落とされる人件費や資材の仕入れなどの地域内経済の活性効果を考えれば、その貢献は計り知れない。

 これまで、田舎であったがために、「ここには何もない、何もできない」とあきらめにも似た気持ちを持っていた。だが、人々は確実に前を向き始めている。何もないところなど存在しない。桜江町桑茶生産組合はそれを教えてくれる。

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