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奥田政行
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E7%94%B0%E6%94%BF%E8%A1%8C
2010年9月21日(火)日経ビジネス 福井隆
山形県鶴岡市の郊外に、年間4万4000人ものお客さんを接待するイタリア料理店がある。建物はお化けが出ると噂された廃業した喫茶店。真向かいは廃車の解体施設と決して恵まれた場所ではない。それにもかかわらず、1日平均125人の客を呼び寄せる。
その店の名前は「アル・ケッチァーノ」。イタリア語かと見まがう名前だが、鶴岡庄内地方の方言で「そこにあるけちゃの」、「そこにあるからね」という意味である。飲食業界で名を轟かせているアル・ケッチァーノ。これまで雑誌に取り上げられること300回以上、新聞にいたっては800回を超える。
庄内の顔になった「地場イタリアン」!
その多くは、グルメを唸らす名店として取り上げられる。特に、常識を覆す、新しい料理を生み出すレストランとして評価が高い。
えば、日本一の枝豆として名高いだだちゃ豆、普通に茹でて食べるのではなく、フライパンで炙り焦げ目をつけて塩で出す。新玉ねぎの料理では、玉ねぎの色が変化しないギリギリの温度でグリルし、胡椒をかけてオニオングラタンスープの形で提供する。そのほかの料理と大きく異なるのは、新鮮な食材の活かし方の違い。この料理を求めて、全国各地から人々がやってくる。
もっとも、アル・ケッチァーノの存在意義はただの名店というにとどまらない。庄内地方の元気を作る中核として、交流の場として大きな役割を果たしている。そして、経済的な評価を超えた、地域社会の新しいモノサシを提示している。
20人のスタッフが働く本店に訪れる客数は4万4000人。東京・銀座にある山形県のアンテナショップに出店している姉妹店、「サンダンデロ」にも2万1000人が訪れる。両店をあわせれば、6万5000人が利用している計算だ。仮に1人5000円とすれば、3億円強の売上高を上げている。
それに加えて、「地場イタリアン」を標榜しているアル・ケッチァーノは地元から食材を仕入れることに徹底してこだわっている。農産物だけでも仕入れ農家は50軒を数える。この経済効果も1億円近くはあるだろう。そして、ここで庄内の美味に出会った人々が新しい販路の誕生に一役買っている。
実際に、銀座松屋には庄内の野菜コーナーが誕生した。東京などから庄内に美味しいものを求めてやって来る人も増えている。この店が起点となって、庄内地方を訪れる人がいるということだ。観光経済効果も相当なものだろう。
この店と組み、後継者が生まれた農家多数!
その上、オーナーシェフの奥田政行氏は、山形県「食の都 庄内親善大使」としてイタリアやスペインなどにも庄内の食材を広く販促し、大きな効果を上げている。このような経済効果だけでも、一軒のイタリア料理店の経済効果としては驚きだが、それ以上にこの背後にある地域への貢献が凄いのだ。
アル・ケッチァーノと組んだ20軒の農家に後継者が誕生した。20歳代や30歳代の若手が会社員を辞め、農業を継いでいる。同じことが日本全国で起きれば、日本の食料自給率はあっという間に改善されるのではないか。今回は経済効果を超えた、アル・ケッチァーノの存在意義について考えてみたい。
8月25日の満月の夜、アル・ケッチァーノで奥田シェフに話を聞いた。
奥田政行、41歳。ここに来るまでは、決して平坦な順風満風の人生ではなかった。
それは、21歳の事だった。尊敬する父親が経営するドライブインが上手く行かず、経営を断念し競売にかかることになった。
このドライブインを継ぐために、東京に料理修業に出ていた奥田シェフは、急遽故郷に戻った。だが、自分にできることはあまりなかった。このまま故郷に残っても腕もなく、親を幸せにすることはできないと、あらためて東京で修業を続けることにした。
この21歳という、感受性豊かな時代に体験したことが、奥田シェフの人生を決定づけた。
「こら親父、カネ返せ」!
新潟県との県境に位置した父親のドライブインは、奥田シェフが小さい頃は経営も順調だった。奥田シェフも父親の背中を見ながら、自然と料理人の道を志すようになったという。
だが、最盛期には30名もいた従業員も競売が決まると、あっという間に辞めていった。「おやじさん、おやじさん」と慕っていた人間も「こら親父、カネ返せ」。奥田シェフは骨肉の修羅場を目の当たりにすることになった。「お金は妖怪」。奥田シェフの信条でもあるこの言葉は、この時の辛い体験から導き出された心の叫びと言っていいだろう。
あと3日で、26歳の誕生日を迎えるという日、奥田シェフは東京での修業を終え、同棲をしていた女性(現在の妻)と夜行列車で鶴岡駅に降り立った。鶴岡駅から駅前に出てみると、人は少なく、下を向いて歩いていた。折からの雪交じりの灰色の空の下、暗い所に戻ってきてしまったと思った。
自分の知っている、高校時代の鶴岡は、楽しそうに上を向いて歩く人々で一杯だった。「いつかこの暗く下を向いて歩いている人たちの顔を上げたい」。奥田シェフは、心の底からそう思った。
もう1つショックを受けたことがあった。修業時代の先輩が高く評価していた庄内の食材がどこの店に行っても売っていなかったのだ。
スーパーで目にする野菜は長野県産の野菜ばかり。庄内平野を見渡せば、野菜がたくさん育っているのに、どうして地元の美味しい食材を鶴岡の人は食べることができないのか。流通システムのおかしさを奥田シェフは目の当たりにした。
新鮮で美味しいものを地元で食べることが出来ない不幸せ。夢も希望もないと言う地元の農家。そして、下を向き歩く人々――。ここに戻った自分が変えるしかない、と奥田シェフは強く思った。生まれ育った鶴岡のために、「料理で地域を元気にしたい」という志を持って頑張る、と奥田シェフは決心を固めた。
庄内平野の食材を地元で買えない疑問!
鶴岡にUターンした奥田シェフはホテルのレストランで働いた。このホテルでは、最年少で料理長に就任し、順調にキャリアを積み重ねた。まわりの若手料理人を育てるなど、育成面でも力を発揮したという。
その後、奥田シェフはあるレストランの開業に関わった。それは。ジェーファーム穂波街道。「農家レストラン」という言葉が新鮮だった頃、その店は開店し、車が列をなすほどの人気店となった。全国に数多く展開された農家レストラン、その先駆けとなった存在だ。
このように、奥田シェフは鶴岡に戻った後の5年間、料理人や農家を元気にするという夢を、料理を通じて実現していった。ただ、この5年間で気づいたことがもう1つあった。それは、庄内平野に影を落とす歴史の傷跡だった。
江戸時代、米どころとして豊かな財政力を備えた庄内藩。徳川四天王の筆頭、酒井家を藩主に繁栄を謳歌していた。だが、幕末に江戸幕府から江戸市中の警備を託され、不穏な動きの附藩と目された薩摩藩の藩邸を焼き討ちした。その後、新政府軍に敵対する勢力として会津藩と同盟を結び、最後まで戦った。その結果、明治時代は不遇の時をかこつことになった。
「地元の食材がうまいわけがねぇ」!
「庄内平野には厚い蓋がその時からかかっている」と奥田シェフが語るように、時代の中で忠義を尽くしたことが仇となり、鶴岡は歴史の中に埋もれた。町の人々も鬱屈とした想いを抱えていた。「その蓋を開きたい」。奥田シェフはそう感じていたが、行政や農協にアイデアを持ち込んでも、まったく採用してくれなかった。徒労感を覚えていた。
地場レストラン、アル・ケッチァーノを開業したのはそういう時だった。2000年春。家賃10万円、お化けが出ると囁かれるような物件での船出だった。手元資金も限られており、気に入った食器を揃えることもままならない。メインで使う皿だけは一皿5000円の見栄えのよいものを揃えたが、それ以外は100円ショップなどで調達した。
実際のオペレーションも苦難の連続だった。東京で一緒になった同僚が店を手伝ってくれることになったが、新しく採用した料理人とは意見が合わず、うまく回らなかった。奥田の料理が斬新過ぎることから、こんな料理で良いのかと次々と料理人は辞めて行った。その上、地場レストランと銘打った、地産地消の試みも船出の逆風にしかならなかった。有り体に言えば、同業者の嫌がらせである。
「地元の食材が揃うわけがない。嘘言うでねぇ。地元の食材がうまいわけがない。地元でやるのは不可能だ」。同業者は陰口をたたいた。「日本の流通システムが悪いから自分で変える」。そんな志を持って始めた奥田シェフの志は地元の人々には届かなかった。それでも、奥田シェフは地元の食材の良さを信じ、農家を訪ね歩いた。すると、ある食材に巡り会った。“丸山さんの羊”である。
日本一うまいラム肉を作る丸山さんとの出会い!
羽黒地区で羊を生産する肥育農家だった丸山さん。周囲の農家は羊の肥育から手を引いており、「自分もそろそろ潮時か」と考えていた。その元を訪れた奥田シェフはこのラム肉の質の高さに驚いた。聞けば、エサは庄内平野特産の「だだちゃ豆」を混ぜたもの。羽黒山麓でのびのび育てられていた。味の次元が違ったのも当然だろう。
その後、奥田シェフは自分の店で使うだけでなく、東京の有名料理店に自ら売り込んだ。そして、このラム肉は有名雑誌のグラビアを飾り、テレビの特集番組になった。
「雑誌を持っていくたびに、丸山さんの顔がどんどんきれいになっていくんだ」と奥田シェフは振り返るように、外部の評価は丸山さんに自信を与えた。30頭ほどだった羊も現在は約4倍に拡大。今では、「日本一うまいラム肉」という評価を得るまでになった。
「丸山さんのような食材を生産している人が庄内にはほかにもいるはず」。鳥肌が立つような衝撃を受けた奥田シェフは自分の使命を再確認した。料理を通して、みんなを幸せにしていくこと。それが、自分や庄内の人々が幸せになることだ、と。
そして、やるべきことが見えてきた。庄内平野の生産者の裾野を広げ、次世代に美味しい食材を残す――。そうすれば、いつか天才的なシェフが現れ、庄内平野のすごさを伝えてくれるだろう。伝道師によって庄内地域は大きく生まれ変わり、羽ばたくことができるだろう。もっとも、この時は山頂に立つ伝道師に自分がなるとは思っていなかったが・・・。
その後、アル・ケッチァーノが有名になり、取材がたくさん来始めた。この時、奥田シェフは取材をうまく利用しようと考えた。取材に来たマスコミに対して、美味しい食材を作る生産者なくしてアル・ケッチァーノは成立していないことを強調、生産者への直接取材をしてもらったのだ。その時、庄内平野の風景を一緒に見せることも条件にしている。
ちなみに、奥田シェフにこれまでで一番嬉しかったことは何かと聞くと、「雑誌に月山の写真が載ったこと」と答えた。雑誌に写真が載って、「庄内平野を世に出すことができた」と思った。
「やっと、庄内が日本に紹介された」!
生産者も取材を通して思いの丈を話した。「明治維新で蓋をされた」という思いを持つ人々がこれを機会に心の叫びを吐露していった。
ある時、テレビのドキュメント番組で庄内の風景が紹介された。その番組を見たおばあさんに突然、抱きつかれた。「ありがとね、奥田さん。やっと庄内が日本に紹介された」。江戸時代の豊かな庄内から、蓋をされ、陸の孤島になってしまった庄内。その悔しさに光が射した瞬間だった。
それでも、奥田シェフは悩んでいた。マスコミは来るようになったが、相変わらず、意見が合わない料理人はやめていった。経営も安定していなかった。
2002年2月、妻とともに子どもを保育園に送った後、「谷定」という集落を見ようと車を進めた。かつてこの場所では農業のプロ集団が農業を営んでいた。その時、雪に埋もれた山の中に迷い込んだ。しんしんと雪が降っていた。小川が流れ、そのかたわらには孟宗竹が生えていた。段々畑もそこにあり、まるで山水画のような風景だった。この風景に、奥田シェフは強い啓示を受けた。
深い雪の下には歴史に埋没した庄内平野の食材や人材が眠っている。この雪が溶ければ、庄内平野の食材が芽吹く。この雪が溶ければ、かつての繁栄を取り戻せる。そのための太陽に自分がなるのだ、と。奥田シェフは強く感じた。「この時、今までの悩みと目指すべき方向性が一直線につながった」。そして、「食の都庄内」の実現に奔走し始める。
“取り残された街”ゆえに残された伝統食材!
「食の都庄内」とは、多彩な食材と風景を軸に街づくりをしようという試みだ。庄内は“取り残された街”であるがゆえに、素朴な風景や自然、焼き畑でつくるカブなど古くからの農産物などがたくさん残っている。これがかえって、庄内の可能性を開くのではないか。庄内には、古き良き日本がたくさん残っている、これこそがまさに時代が望む街ではないか。そう考えた奥田シェフは「食の都庄内」を旗印に掲げた。
このアイデアを奥田シェフが思いついた背景には2002年6月に起きた無登録農薬の使用問題があった。自殺者まで出したこの事件で、奥田シェフは山形県のイメージを変える必要性を痛感した。この時、「庄内食の都」という像を描き、食の都を具体化するためのロードマップを作成している。
そして、変化が始まった。
地元テレビ局が「食の都庄内」という番組を放送した。それを見た行政職員が「素晴らしい」とファクスを送ってきた。その後、2004年5月には山形県が「食の都庄内」の親善大使に奥田シェフを指名、「食の都」を御旗に立てることを内外に示した。
このファクスを送ってきた行政職員は県の職員だった。県も、悪いイメージを払しょくするのに必死であった。その当時、奥田シェフを支援した県職員の1人が今の副知事である。
奥田シェフと県の担当者は死に物狂いで頑張った。朝4時半に起き、2人で東京に行き、日帰り業務をこなした。斎藤さんという担当者は料理の素人だったが、料理を覚えるため、自腹でフランス料理店を回って料理を覚えた。山形県のため、庄内のために、と頑張った。
「藤沢カブ」「平田赤ネギ」「民田ナス」!
親善大使としての活動が実を結んだからだろう。新聞や雑誌、テレビでの露出が増え、アル・ケッチァーノは日増しに有名になっていった。そして、庄内平野で受け継がれていた在来野菜に光が当たり始めた。
庄内平野には豊かな食材が豊富にある。とりわけ、在来種と呼ばれるその地域の伝統野菜が多い。焼き畑で作る「藤沢カブ」、月山の恵み「月山筍」、生で食べると飛び上がるほど辛いが火を入れるととろけるように甘い「平田赤ネギ」、漬け物にすると絶品の「民田ナス」――。約60種類の在来野菜が庄内では受け継がれている。
だが、奥田シェフが鶴岡に戻ってきた当時、在来野菜は農家の自家用として細々と作られているに過ぎなかった。在来野菜はロットにならず、手間もかかるため、商業ベースに乗りづらかったということだ。その状況下、在来野菜を使った奥田シェフの美味しい料理が風穴を空けた。
これまでの農政は、主に米や野菜、畜産を中心に効率化を図り国際競争の中で生き残れるよう農業振興を行ってきた。そのため、細々とつくられてきた各地域の在来野菜などは、主役にはなれなかった。
だが、ここでは丸山さんのラム肉のように、奥田シェフの料理が光りを当てたことにより、おいしくほかにない食材と価値が高まり、流通商品としての可能性が開き始めた。
実際に、この地域には良い前例があった。1986年に、首都圏に初出荷された鶴岡の在来種、だだちゃ豆。当時320キロの出荷だったが、2006年には870トン、約8億円もの生産出荷額を誇る日本一の枝豆になった。このような前例もあって、庄内地方では在来種の生産奨励がスタートし始めた。
「奥田さんは生産者に希望を与えた」!
そして、庄内平野は江戸時代からの米どころ、果樹どころでもある。その上、目の前の海は月山から流れ出る水の恵みにより、養分が豊か。庄内の由良港に揚がる魚介類は百種類と多彩な恵みを届けてくれる。庄内平野にはすべてが揃っていた。奥田シェフの料理を通じて、都会で注目され始めたのだ。
先に紹介した丸山さんの羊はもちろんのこと、平田赤ネギは作付面積が何倍にもなり、下仁田ネギの単価を追い抜いた。今では九条ネギに次ぐ高値の高級食材として取り引きされている。同時に、店の噂を聞きつけて、アル・ケチァーノで食事をしたいと鶴岡を目指す人も増えている。
その中には、アカデミー賞を受賞した「おくりびと」の脚本家のように、この店が庄内にあるから脚本を引き受けた、と公言した人もいる。庄内向けの観光ツアーが50以上も生まれるなど、一軒のレストランが起点となって、様々な波及効果がさざ波のように広がった。
地域の人々も庄内の食べ物が美味しいということに気がつき始めた。数多くの人々が都会からはるばるアル・ケッチァーノにやってくる。これまで、庄内平野の人々は枝豆を味噌汁に入れるとテレビで笑われ、美味しいものはここには無いと自信を失っていた。だが、奥田シェフが枝豆は決して茹でるだけが美味しいのではないと料理で示し、人気を得たことによって、地元の人々の自信は復活した。
行政も動き始めた。これまで在来野菜に目を向けてこなかった行政職員も庄内平野の食材が素晴らしいことに気がついた。生産者の高齢化が進んでいるが、今年から小さな支援モデルを検討し、実施する予定だそうだ。在来野菜の栽培に資材費などを補助、在来野菜の栽培拡大を目指すという。
行政担当者は、「奥田さんは生産者に希望を与えた」と言う。自分たちが生産する野菜が、美味しいとみんなが評価してくれること。それが、お金以上に生産者の背中を押し、その気にさせていると。
このような変化に、当の農家も嬉しいながらも当惑気味だ。
平田赤ネギを生産する後藤博、喜博親子に話を聞くと、「考えもよらないところからお客さんが畑にやってくる。先日は野菜ソムリエが大型バスでやってきた」。
義博氏は31歳。親父の姿を見て、「面白そうだ」と後を継いで4年目になる。その前は会社員として植木屋で働いていた。だが、会社員生活に未練はない。むしろ、今の方が楽しいし希望がある。平田にしかない赤ネギを育てる喜びと、作付面積を広げるという夢を持っているためだ。「奥田さんと出会ったことが最大の幸運だった」と親子はいう。
「後継者づくりは希望づくり」と奥田シェフは考えている。奥田シェフにとって、「食の都庄内」の実現が大きな夢であり、誇りだった。それは、後継者となった若者たちも同じだ。
親父たちは苦労して自家採取をし、種を残してきた。そのことに光があたり、たくさんの人たちが圃場にまでやってくるようになった。皆一様に、その味を褒め、経済的な価値も高まった。若者たちはこれからも作り続けて行こうと、その気になっている。
奥田シェフは、食べ方の新しいモノサシを示し、市場出荷に馴染まない在来野菜に光をあてた。その結果、在来野菜の価値が高まり、生産者に希望を与えた。
この奥田シェフの動きに、県や市も引っ張られている。鶴岡市は、本年度からユネスコ食文化都市登録を目指し、予算を計上し奥田シェフと二人三脚でその実現を目指すことになった。
庄内の雪解けのための太陽になる――。そう誓った奥田シェフの夢は現実のものになりつつある。そして今、奥田シェフは庄内の方法論を日本中に広げようと考えている。地元の食材を生かし、生産者も消費者も幸せになる。そんな国を作りたい。そのために、奥田シェフは走り続ける。
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