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平成22年 第12回「米・食味分析鑑定コンクール:国際大会」(松江市)有機栽培・JAS認定部門で特別優秀賞を受賞。(食味90・味度83・計173点) 平成25年、第15回魚沼と第16回北京開催運動中! 無農薬魚沼産コシヒカリ生産農家・理想の稲作技術『CO2削減農法』 http://www.uonumakoshihikari.com/
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2018年までに、世界で活躍する日本人を育てるための、教育環境を作る!
 
 2011年2月20日放送 TBS 夢の扉 ドリームメーカー  庄司日出夫
 
舞台となるのは、富士山麓の河口湖にある自然豊かな森の中の幼稚園。
一見普通の幼稚園だが、実はここ、英語で生活する幼稚園。挨拶から、授業の時間、お昼の時間からレクリエーションに至るまで、先生の会話は全て英語で行なわれている。
今回のドリームメーカー庄司さんは、世界に通用する国際人を育てたいと、独自のシステムで幼稚園を運営している人物。

 

しかし、この幼稚園が目指すのは、英語を話す事ではなく、あくまで国際社会に通用する人物を育てる事。
「興味と好奇心が教育の原動力」と語る庄司さんは、園児たちに生き生きと学んでもらう独自の教育システムを作り出した。なんとこの幼稚園には、時間割もカリキュラムもないのだ。
積極性のある人間を育て、将来、子供達を国際社会に通用する人物に育てる、その取り組みを紹介。

そんな庄司さんの次なる目標は、幼稚園という一教育機関に留まらず、社会を巻き込んだ教育環境の設立。その名も国際教育村。
『教育は社会が作る』という信念のもと、幼稚園に加え、英語小学校の設立、そしてそれを中心とした社会=村までをも作る計画。

世界中から観光客が集まる富士山。その麓から、国際人を育てる新たな教育システムを作り上げようと、日々奮闘する庄司さんに密着します。
 
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2011年2月 7日 アドバンスニュース

戦後教育と事実に大きなギャップ!


 戦後66年。日本の人口の8割近くが太平洋戦争の後に生まれ、戦争体験の「風化」が進んでいる。多くの日本人にとって、国外で戦死した兵隊の遺骨収集は報道を通じて知る程度だ。だから、それを10年近く続けている若い女性フリーキャスター、佐波優子さんの存在が光る。佐波さんに遺骨収集にかける熱い思いを聞いた。(経済ジャーナリスト 本間俊典)

―― 佐波さんは現在、衛星放送「日本文化チャンネル桜」のキャスターを務めるかたわら、芸能プロダクション・オスカーに登録してイベントなどの司会、モデル業もこなしています。加えて約10年にわたり、東南アジアなどで戦死した日本軍人らの遺骨収集活動に参加されています。この行動力の源泉はなんですか。

佐波 明確には自分でもわかりません。父親は教職員で、しつけには厳しかったですが、どこにもある普通の家庭で、私もどこにもいる普通の子供でした。
 ただ、スカウトされて高校時代からテレビのステージに出るようになり、大学に入ってオスカーオーデションを受けて入ったこともあって、働くことへの抵抗感はありませんでした。
高校を出て大学へ入る前の1年間、新聞販売所に住み込みで新聞配達をしたこともあります。勉強もでき、とても良い経験になりました。
 オスカーではナレーター部に所属して、イベントのナレーションや司会などをしています。オスカーの指示でイベント現場へ派遣される派遣スタッフのようなものです。
 09年からは「日本文化チャンネル桜」で番組を担当させていただいております。


―― 学生時代から、戦争についてなにか勉強してきたのですか。 

佐波 それが、まったくしていませんでした。というか、戦争について学校で教わったことは、「日本はアジアに侵略戦争を仕掛けた悪い国だった」「日本軍は現地の人々をたくさん殺すという残虐なことをした」といった程度で、私も頭からそれを信じていました。
 そうした「戦後教育」がいかに一方的で、偏った見方なのか、後でわかったのですが。逆にいえば、そうした教育と事実のギャップがあまりに大きかったことが、戦争に対する私の意識を高める要因になったのかもしれません。その直接的なきっかけになったのは、靖国神社でのボランティア活動でした。 

(次回に続く)

 

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ロシア・ザバイカル地方での遺骨収集



「私たちを守ってくれた」軍人の遺骨収集!

―― 靖国神社のボランティア活動は、どんないきさつで行ったのですか。

佐波 大学在学中に教員免許の取得と並行して、様々なボランティア活動を行っていました。その一環で靖国へ行こうと友人に誘われました。仕事は境内の掃除などです。
 靖国では、「戦死者の遺書を読む会」という勉強会も開かれていて、ある日、「これも勉強」と思って参加しました。そこで大変なショックを受けたのです。私が読んだ人の遺書には、自分は家族を守るために出征すること、自分を礎にして生まれてくる子供たちを思えば、戦死しても嘆くに当たらないことが切々と書かれていました。
 日本軍は悪いことをしたはずなのに、なぜ家族を、未来の子供たちを守るために死んでいったのか。学校で教わったこととまったく違う「戦争」がそこにありました。それも、私とほぼ同じ年齢の若者が、私を含む未来の子供たちを思って死んでいった。もう、なにがなんだかわからなくなりました。

―― それが遺骨収集につながったのですね。

佐波 靖国の勉強会に出るうちに、政府事業で海外の戦没兵の遺骨収集作業があることを聞き、それに応募しました。私たちを守るために死んでいった人々の遺骨が、まだ埋もれたままになっていることに我慢できませんでした。

最初に行ったのは、01年11月、ミャンマーのインパール作戦(注1)で亡くなった方々の収集です。この時は残念ながら、地面を掘っても掘っても遺骨との対面はかないませんでした。
 以来、09年11月のフィリピンまで、硫黄島など10カ所に出かけました。蒙古にあるノモンハン事件(注2)の現場では、土の中から旧ソ連の戦車が出てきて、それにしがみついたままの頭部のない日本兵の遺骨を収集しました。まるで、土の中に戦闘状態のまま時間が止まっていたような感じを受けました。
 先の大戦では軍人軍属の約240万人が戦地で亡くなりましたが、まだ115万人ほどの遺骨が残されたままだそうです。私たちを守ってくれた方々の遺骨を収集することで、せめてもの感謝の気持ちをお伝えしたいので、これからも続けるつもりです。

(次回に続く)

戦没者に「感謝の念」忘れず、後代に引き継ぐ!

佐波 9年間、遺骨収集のお手伝いを続けるうちに、先の戦争に対してさまざまな意見、見方のあることがわかってきました。およそ、学校で習ったような「戦軍=軍国主義」として全否定されるべきものではなかったのです。
そこで、「祖父たちの戦争体験をお聞きする孫の会」「シベリア抑留の真実を学ぶ会」といった勉強会を立ち上げて、代表を務めています。
 戦後も66年目になると、戦争体験を語れる方々は本当に少なくなっています。この方々のお話をできる限り聞き取って、資料として残したい、戦争体験を風化させない。それが、「守ってもらった」後世の私たちの仕事ではないか。そんな気持ちでやっています。
 これらの活動を書いた論文「大東亜戦争を戦った全ての日本軍将兵の方々に感謝を~9年間の遺骨収集を通じて感じたもの~」で、第3回「真の近現代史観」懸賞論文で最優秀賞をいただきました。
 これを励みに、「戦後問題ジャーナリスト」としての活動を深めたいと思っているところです。それにしても、世の中の仕組みを知らな過ぎる。で、政治経済を学ぶため、昨年は予備校に通い、高校時代より勉強しました。あの時にもっと勉強しておけばよかった、と後悔しながらですが(笑)。

―― 自衛隊の入隊試験を受けたのは?

佐波 自分自身の手で国を守りたいと思ったからです。同時に、災害時の派遣要員として、スタンバイしようという気持ちもありました。2010年に陸上自衛隊予備自衛官・二等陸士・普通科小銃手の資格をいただきました。普段は本来の仕事をしていて、「有事」に駆け付ける役割です。
 ただ、この資格を取るのはかなり大変で、訓練に延べ50日を要します。資格取得後も年に5日間の訓練が義務付けられています。
 訓練に参加してわかったことですが、参加者の中にはいわゆるニート、フリーターの男性もいて、厳しい訓練を通じて自分を見つめ直そうとしている人もいました。私にとっても大変な勉強になりました。

―― 今後の抱負を聞かせてください。
佐波 これまでの活動を通じて感じたことは、先の大戦をただ否定するだけでなく、そこから現代の私たちは多くのことを学びとらなければならない、と思います。それは、あれが「侵略戦争」だったと考えている人でも、同じことではないでしょうか。決して風化させてはなりません。
 私の場合は、戦死した日本兵の方々にまず感謝し、それを私の後の世代に伝え、遺骨収集を継続すること。微力ですが、それに全力を尽くします。執筆活動のほか、講演会が年30回ほどありますが、そうした機会にも情報発信していくつもりです。  (おわり)

 

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佐波優子(さなみ・ゆうこ)1979年、埼玉県出身。桐朋芸術短期大学卒業。フリーアナウンサー、戦後問題ジャーナリスト。日本文化チャンネル桜「桜プロジェクト」キャスター。2001年、ミャンマーで戦死した日本軍将兵の遺骨収集に参加。以後9年にわたり、フィリピン硫黄島など10カ所の戦跡で遺骨収集しながら、日本各地で収集の大切さを訴える講演会を行っている。「祖父たちの戦争体験をお聞きする孫の会」「シベリア抑留の真実を学ぶ会」を設立、元将兵と若い世代との交流会を開催。10年、予備自衛官二等陸士・普通科小銃手に任用。同年、アパグループ主催「真の近現代史観懸賞論文」で最優秀藤誠志賞を受賞。

松下村塾
 
吉田松陰.com
 
わずか3年で維新の傑物を輩出できた理由!
 
2011年02月20日(日) 現代ビジネス 井上 久男
 
今、大学の入試シーズン真っ盛りである。合格した人は、これから新しい4年間の生活に期待を膨らませていることでしょう。しかし、残念ながら今の大学というところは、皆さんの期待に応えてくれるところではない、とはっきり断言しておく。

日本の多くの大学では、学生そっちのけで権力闘争が繰り広げられている。本コラムでも大阪産業大の問題を取り上げ、経営する理事会と教育現場を預かる教授会で不毛な対立が起きているケースを紹介した。同じようなケースがどの大学でも起きている。その構図は、少子高齢化により授業料などの収入が細ると考える経営側と、既得権を維持したい(努力をしたくないといっても過言ではない)教授陣の対立である。
 また、「大学などの教育はビジネスではない」と言い張る輩も跋扈している。そのほとんどが全共闘崩れか左翼崩れである。筆者は、大学はれっきとしたビジネスであると考える。私学の教員や職員は誰から給料をもらっているのかを考えた方がいい。補助金はあるにせよ、学生側が払う授業料や入学金から出ている。学生=顧客である。
 ただ、大学はビジネスではあるが、「営利」ではなく、「非営利」であるべきだと筆者は思う。この「営利」「非営利」について、日本人の知的劣化もあり、正確に理解されていない。ここでいう「営利」とは利益の配分を役員が受けたり、関係者に配当したりする意味だ。「非営利」とは非配分・非配当のことを指す。平たく言うならば、大学運営によって生まれた利益を関係者で山分けしてはいけないという意味である。その利益は教育や研究向上のためのミッションに用いられるべきだ。だから、大学はビジネスではあるものの、配当を行うような株式会社的な利益は不必要なのだ。
 大学には教員・職員がいて給料を払わなければならない。教育環境を整える設備投資も必要であり、それには一定の利益がないと賄えない。

 

実働期間はわずか1年でも才能を次々に輩出

 
 学生=顧客であるが、実際にお金を出しているのは親が多く、顧客=親なのである。その親が「顧客面」して学校運営に難癖をつける「モンスターペアレント」もいると聞く。親としての責任を放棄した挙句、その結末をすべて大学に押し付けるのはいただけない。
 しかし、私の知る限り、大学というのはセクハラやパワハラなどが横行する「無法地帯」であり、「人面獣心」の輩も多い。教員が女子学生に単位と交換に関係を迫っても不問に付されたり、退職金の出る依願退職として処理されていたりするケースも散見される。民間企業なら即刻懲戒免職のケースだ。こうした破廉恥なケースではなくても、教育・研究といった本業そっちのけで、コンサルタント業務に邁進しているお歴々もいる。
 こうしたことを考えているうちに日本社会の劣化の大きな要因は、大学の教育力の凋落ではないかと感じるようになった。「教育力」には様々な定義があるだろうが、筆者が感じる教育力とは、「師匠」としていかに「弟子」たちを感化する力を持っているかである。
 最近、山口県萩市にある松下村塾跡を訪れ、吉田松陰の業績を改めて確認してその思いが強くなった。吉田松陰については、その業績や人物像についてご存じの方も多いだろうが、念のためにここで紹介する。松陰は1830生まれ。安政の大獄で1859年に刑死する短い人生であったが、遺したものは多い。
 
世界史、日本史の両方から松陰が生きた時代を振り返る。世界史では1840年にアヘン戦争が勃発、香港を割譲して隣国の中国では欧米列強の侵略攻勢にさらされ始めた。1856年にはアロー(第二次アヘン)戦争も起こり、中国の植民地化が一層進んだ。この頃の日本は、1853年のペリー(黒船)来航を契機に、開国か鎖国かで国論が二分していた。ロシアも南下を狙っていた。東アジアが大きな変動期であった。アジア市場を取り込もうと各国が競い合う姿は、現在と似ているものがある。
 松陰はペリー来航の半年ほど前、江戸に勉学に向かった。そこでペリーの話を聞き、2度目の来航の折に黒船へ乗り込もうとしたことが発覚し、一度目の投獄生活が始まる。身柄を長州藩に移され「野山獄」に入れられた。1年余入獄し、1855年に許されるも実家で幽閉生活を2年近く送った。そして松下村塾の成立が1957年。しかし、すぐに安政の大獄が始まり、1858年に再入獄し翌年、江戸に送られて処刑された。
 松下村塾の実働期間はわずか1年余。幽閉時代にも学問を教えていたとされるので、その期間を含めても松陰が教育を行ったのはわずか3年ほどだ。短期間での教育にも関わらず、この塾からは明治維新を起こす原動力となった高杉晋作、初代首相となる伊藤博文ら錚々たる顔ぶれが巣立った。

 

「戦争が起きているから世の中が乱れているわけではない」

 
 松陰はなぜ、こうした有為な人材を育てることができたのか。様々な文献からのデータをまとめると、4つのキーワードが浮かび上がる。
 
1.身分を問わない教育
 
2.学問は実行のためにあることの徹底
 
3.学問を学ぶ前に人間としての基本を身に付ける
 
4.松陰自身の人間力による感化の4つだ。
 
 4の人間力はポイントではないかと思う。学者でありながら、国家とは何かなど、常に理念と現実の葛藤にさいなまれ、知識は実行の中で検証されなくてはならないと常に強く思っていた師匠の思いが、弟子たちに伝播し、それが変革の原動力になったのであろう。
 話は少し変わるが、新しいビジネスを行う起業家を育成するためには、実際に人間的に優れた創業者の下で薫陶を受けることが効果的だと見る向きもある。
 
松下村塾は松陰という偉大なる師匠の「感化の場」であったに違いない。以前、本コラムでも触れたが、大阪の「適塾」も緒方洪庵という優れた教育者が弟子たちを感化させた。今の大学からはその「感化の場」が失われており、それが教育力の低下につながっているように思えてならない。その本質的な要因は教師の人間力の低下であろう。
 次のような松陰の言葉がある。
「乱は兵戦にも非ず、平は豊饒に非ず、君君たり臣臣たり、父父たり子子たり、天下平なり」
 これを訳せば、「戦争が起きているから世の中が乱れているわけではない、豊作だから世の中が平和ということでもない、主君が主君の役目を果たし、家臣が家臣の役目を果たし、父親が父親の役目を果たし、子が子の役目を果たして初めて天下は治まる」という意味である。
 これは現代にも通じる。今の日本は失業や格差の問題があるとはいえ、アルバイトでも働けば食うに困ることはない。隣の朝鮮半島情勢は不安定でも日本で直接戦争が起こることはたぶんない。しかし、なぜか世の中は不安定であり、企業社会、教育、医療、介護など様々な現場で想像もできないような問題が起きている。
 教師が教師の責務を全うしているのか。教師の責任を責めるだけで、親や学生はその責務を果たしているのだろうか。経営者は経営者の仕事をしっかりしているのか。社員もまた然り。さらに言えば、政治家はその使命を果たしているのか、その政治家を選んだ国民は、国民としての義務を果たしているのか---。
 自戒の念を込めて松陰の言葉を噛み締めたい。



 

世界の子供たちの笑顔 世界の子供たちの笑顔

 

佐波優子

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E6%B3%A2%E5%84%AA%E5%AD%90

 

 

佐波優子キャスターが、アパグループの第三回「真の近現代史観」懸賞論文に応募し、「­最優秀藤誠志賞」を受賞されました。受賞の喜びをお聞きしていきます。
http://www.youtube.com/watch?v=VTlS3uOxdak

総合都市開発のアパグループ(本社:東京都港区赤坂3-2-3)は、第三回「真の近現代史観」懸賞論文の募集を平成22年5月10日より開始し多数の応募がありました。第一回最優秀藤誠志賞には航空幕僚長の田母神俊雄氏が選出、第二回には明治天皇の玄孫で慶應大学講師である竹田恒泰氏が選出され大きな話題となりました。本年はテーマも多岐にわたり素晴らしい作品が多数あり、今回も審査委員長・上智大学名誉教授渡部昇一氏をはじめとする審査委員会にて慎重に審査を進めて参りましたが、この度、最優秀藤誠志賞を含め13賞の受賞者が決定致しました。
http://www.apa.co.jp/newsrelease/news/20101025.html



遺骨収集を始めたきっかけ!

 私は大東亜戦争で戦死された日本軍将兵の方々の戦没者のご遺骨を9年間お迎えし続けてきた。そして今の日本にとって一番大切なことは、あの大東亜戦争を戦った全ての日本軍将兵の方々に感謝の気持ちを伝えることだと思った。
 この論文では、今までの遺骨収集の現場の話を通じて見てきた実際のことと日本軍将兵の方々への思いを話して行きたいと思う。

 大東亜戦争で戦死された日本軍将兵の数は約240万人と言われていて、その内の半分に当たる約115万人の方々が未だ世界各地の戦跡で眠っておられる。将兵の方々は祖国を護る為に命を懸けて戦い、亡くなった。その日本人のご遺骨が未だ日本に帰ることが出来ないまま取り残されていることは、大変心の痛む事実である。

 遺骨収集のことを知ったのは、学生時代に茶谷武さんとおっしゃる22歳の将兵の方の遺書を読んだ事がきっかけだった。その遺書は要約するとこのように書かれていた。
『武もとうとうお役に立つ時が参りました。生をうけて二十余年、ただの一度もお心を安ませることなく過ごして来たことをお詫び致します。
今思いますに人一倍子煩悩の父上にとって、この遺書を読まれればどんなであるか推し量ることが出来ます。
でもこの皇國危急の時、私達の涙は隠されねばなりません。
私の肉体はここで朽つるとも、私達の後を、私達の屍を乗り越えて、私達を礎として立ち上ってくるこれから生まれてくる子供達や孫達のことを思えば、またこれらの人々の中に私達の赤き血潮が受け継がれていると思えば、決して私達の死も嘆くには当たらないと思います。
どうぞ私のことを笑って誉めて下さい、武も笑って散ります。さようなら。武より』

 そして茶谷さんはフィリピンのルソン島で戦死された。

 子供の頃から、いかに日本軍や軍人が悪かったか学校で教え込まれてきた私は非常に驚いた。この遺書には今まで思い続けてきた「悪い日本の軍人」の姿はどこにもなく、ただ両親と日本人全ての子孫達への想いが込められていた。この方は自分の命よりもこれから生まれてくる日本人を護る為に死ぬと言っている。私の両親は茶谷さんのような方々に護られた結果生まれ、茶谷さんが願った通り孫である私達も生まれた。この遺書を読んで初めて、私達は将兵さん達に護って頂いた命で生きている事を知り涙が止まらなかった。

 そして同じ時期に遺骨収集活動を知り、どうしても自分の手で日本を護って下さった日本人のご遺骨を故郷にお連れしたいと強く願った。茶谷さんの孫の世代としてせめてもの感謝のお返しをしたかったからだ。


土の中では、当時の戦況のまま時が止まっている
 最初に行った遺骨収集の地、ミャンマーはインパール作戦があり日本軍の総兵力32万人のうち19万人が戦死した場所である。
 収集現場のカド村はインパール作戦の敗走ルート上に位置し、戦死者が道のように連なっていたことから名がついた「白骨街道」の一部でもあった。カド村には日本軍の野戦病院があり多くの日本軍将兵が苦しみながら亡くなったという。私達遺骨収集団は、その野戦病院の跡地に眠るご遺骨をお迎えに行った。作業現場では広大な密林の中、「この広い範囲のどこかにかつて野戦病院があった」という情報しかない。しかし戦後から現在までの間に風景も変わり、どんなに土を掘り返しても当時の手がかりさえ見つけるのは困難だった。当時ミャンマーで戦われた日本将兵の方お二人が「僕が迎えに来たんだよ。どうか土の中から返事をしてほしい」と必死で病院跡を探していらっしゃった。私達も一週間かけて村中の地面を掘ったが、広大な土地の中ではご遺骨を見つけることは出来なかった。六十余年という時の長さを痛感せざるを得ない遺骨収集であった。

 次に訪れた東部ニューギニアでは16万人の将兵が戦い、15万人以上の方々は二度と日本の土を踏むことはなかった。死因のほとんどが飢餓と病気によるもので、戦闘で亡くなった方は僅かだった。
 私達は早速日本人将兵のご遺骨を保管してくれているという村にご遺骨の受領」に行ったが、村の入り口の熱いトタンの上には沢山のご遺骨や日本人の名前の入った遺留品が無造作に並べられていて目を疑った。そして早速ご遺骨をお迎えしようとするとお金を出して購入することを要求された。トタンの上のご遺骨は陳列された商品だったのである。だが私達は日本人として遺骨をお金を払って「買う」事は決して出来ない。道徳的な意味もあるが、前例を作ると今後もそうなってしまうからである。数時間の交渉の結果、「村の方がご遺骨を見つけるために農作業を休んだ日当」という形で現金を支払い、ご遺骨をお迎えするしか方法はなかった。聞けば、以前ここでお金を出してご遺骨を買った日本人がいたのだという。だからこんなことになってしまったんだ、と私達は全員憤った。しかし考えてみた。
 もし自分の父がこの村で戦死していて目の前に父の遺骨があったら、自分ならどうするのだろう。「私はお金で買うなんて道徳的に出来ません」と、父の遺骨を置いてその村を後にする事は出来るだろうか。
 出来ないかもしれない。・・・いや、出来ないだろう。

 「お金は幾らでも構わない、どうか父の骨を連れて帰りたい」という気持ちが、きっと勝ってしまうのではなかろうか。ご遺骨を返してほしいという気持ちは皆同じだ。だがこうして年々交渉は難しくなっている。これは今後日本人が乗り越えなければならない課題である。

 三回目の遺骨収集の場所はニューギニア本島の上に位置するマヌス島であった。昭和19年、米軍と豪軍はこの島をフィリピン攻略の中継地点のため狙っていたが、日本軍はそうはさせまいとこの島を約3,700名の将兵で護ろうとした。だが敵の総攻撃により、日本軍は77名だけ残し玉砕した。そして今も多数のご遺骨が野ざらしにされたままである。
 また、この島では戦後B級・C級戦犯の裁判があり200人以上の日本人が劣悪の環境の中、重労働をさせられ5人の日本人に死刑が執行された。
現在は日本でも人気のあるリゾートの島と言われているがここには多くの日本人の屍と涙が埋もれている。
 険しい山を登りきった暗い洞窟の中でご遺骨はお一人でひっそりと眠っていた。辺りは見渡す限りのジャングル。数十年前にこの地で暑さと飢餓とマラリアに苦しめられながら亡くなった方々を偲ぶと涙が止まらなかった。「さあ、一緒に日本へ帰りましょう」と語りかけてご遺骨を抱えた時、ずっしりと重みを感じ、同時にこの腕の中のお方が命を犠牲にして戦って亡くなられた魂の重みを感じた。

 

シベリアでの遺骨収集。ロシアでは終戦後に60万人以上の日本兵・民間人がシベリアに抑留された。そして6万人の方々が冬はマイナス30~40度 にもなる酷寒の中での強制労働と飢えにより亡くなった。
 収集の初日、冷たい土の奥深くからご遺骨が見つかった。冷たくベタベタした土の中で裸のまま眠っていらっしゃった御遺骨。半世紀ぶりに光を浴びたご遺骨はまだ若かったのであろう、親知らずが生えている途中だった。反対に丸いメガネが側にあった御遺骨は、入れ歯がはまったご年配の方だった。八人の方々が折り重なっていた穴もあった。仲間が死んでも、酷寒の中コンクリートの様に固まった土では一つの穴を掘るのでも精一杯だったと戦友の方  から聞いた 。どれだけ辛い思いで同胞のお墓を掘り亡骸を埋葬していったのだろうか。

 将兵のお一人は満洲でソ連軍と戦った戦友の事をこう語った。
「戦友達はソ連の戦車を食い止める為に布団に火薬を詰めて体に巻いて、戦車に飛び込んだんだよ。布団の中で手榴弾を爆発させると自分と一緒に戦車も吹き飛ぶ。最後、銃が無くなれば自分の体を爆発物にして国を護ったんだ」と。余り知られていないが、これが特攻「布団爆弾」である。10代の少年達が火薬を詰めた布団を体に巻きつけて戦車に飛び込み自爆してまで国を護った。そして生き残った者たちは戦後、シベリア抑留で亡くなったのである。

 モンゴルではノモンハン事件の遺骨収集を行った。この地では、満州国との国境やハルハ河を巡ってのソ連・モンゴル軍との戦いがあった。事件と呼ばれているが、日本将兵7千7百名が戦死した「戦争」である。実際にモンゴルでは「ハルハ戦争」と呼ばれている。
 土を掘っていると深いところに旧ソ連軍の戦車が埋まっていて、屋根の上には頭の部分がない体だけのご遺骨がしがみついていた。同行していた学者によると命をかけてソ連軍の戦車を止めようと戦車に飛び乗ったところを、他の戦車の砲弾によって頭が飛ばされてしまったのだという。これが国を護るということなのだ。日本兵将兵は決して残虐な悪人ではないと、しがみついたご遺骨が物語っていた。一刻も早く、この方の頭の部分を見つけてあげなければ、体は日本に、頭部はノモンハンに取り残されてしまう。辺りをがむしゃらに深く掘って行ったがどんなに掘ってもどうしても頭を見つけることが出来なかった。体だけのご遺骨を荼毘に付した。体の骨だけが、音を立てて炎に崩れ落ちた。
 滞在最終日、帰途に着くためにご遺骨とともに輸送機に乗った。窓からの眼下にはノモンハンの壮大な土地が広がっている。この大地のどこかに、あの方の頭のお骨がある。ソ連軍の戦車を止めようとして砲撃に遭ったその瞬間から、永久に体と離れてしまった頭のお骨。もうあの頭と体が再び会うことは不可能だろう。蒙古平原の彼方に取り残された日本人の「頭蓋骨」を思い涙が止まらなかった。

 硫黄島では、本土を護るために最後まで戦い抜いた。「私達が一日でも長く戦えば、それだけ日本が攻撃されるのが一日でも遅れる。そうすれば一人でも多くの女性や子供が助かり、その人達からまた新しい日本人が産まれるから、だから最後まで戦おう」という栗林中将の命を皆必死で遂行した。壕やトーチカを掘り陣地を作り、アメリカ軍が5日で攻略できると言った島を1ヶ月以上も護り抜いた。しかし最後は殆どの将兵が砲撃に倒れ、壕の中で焼き殺され、2万2千人の方々が玉砕した。
 お迎えしたご遺骨は見るのも辛いくらい、バラバラになっていた。顔も爆弾で大きな穴が開いてしまったご遺骨を手に取り、ただただ、「日本を護ってくださって有難うございました」と唱えることしか出来なかった。今でも1万3千人の方々が土の中に埋まっている。

 フィリピンではルソン島に行った。ルソン島は、私が遺骨収集をするきっかけとなった遺書を書かれた茶谷武命が戦死された場所である。
ここでは、仮安置で眠っているご遺骨を受領するという使命があった。山の頂上の仮安置所に足を踏み入れて心からの衝撃を受けた。薄暗い室内は4083人の方々のご遺骨が小屋の天井の隅々まで安置されていた。その鬼気迫る光景に畏怖の念を抱いた。4083の亡骸で隙間なく埋まった安置小屋は、帰国を願う魂の底からの悲痛のうなりがこだましている様だった。
 戦争が忘れられようとされ、日本将兵が悪かったとされている日本で、このような壮絶な光景は想像出来るだろうか。日本は経済も科学も日々めまぐるしく進歩し豊かな未来に向かっている。でも世界の戦跡ではこの小屋の様に幾百、幾千の場所で時が戦時中のまま止まり、日本人の115万人の亡骸が帰国を悲願しているのである。
 また、人間の骨を二つ大切に袋に入れ持っているご遺骨も見つかった。両方とも前から見ると仏さまが座禅を組んでいる様に見える喉の部分の小さな骨だった。人間に一つしかない骨なのでお二人の骨ということになる。現地識者の見解では「戦友が亡くなり荼毘に付し、ご遺族の方に届けるために肌身離さず持っていたのだろう。」ということであった。そしていつかその将兵も戦死し、ご遺骨になってしまった。そうして三人の兵士は六十数年後、二つの小さな喉の骨とそれを持つ一体のご遺骨という形で迎えられた。あの壮絶な戦火の中、戦友の亡骸を焼いて持ち歩き死ぬ時まで肌身離さなかった二つの喉の骨。きっとこの3人は強い絆で結ばれた間柄だったのだろう。
 あの戦争は、事実を誰にも伝えなれないまま部隊の兵士が全滅した事が沢山ある。102冊もある厚い「戦史叢書」だけでは到底書ききれない、戦死者一人ひとりの想像を絶する苦しみがあったと思う。そのことを知れば知るほど、私は戦死した方々の護国の思いや願いを未来に繋げて行かなければいけないと思う。

 こうして9年間、様々な地域でご遺骨をお迎えしてきた。どの地域のご遺骨も、「絶対に日本を護る」という硬い信念がありありと伝わってくるような状態のまま亡くなっていた。まるで60数年間、土の中で歴史が固まっているようであった。ご遺骨の死に際の状態が、正に日本軍は侵略ではなく祖国を護るための戦いに行ったとの確固たる証拠のようにも思えた。私は「日本軍は侵略をした悪い人達。謝罪をしなければ」と言っている全ての人達にこの状態を見てもらいたい。そして問いたい。「この戦車にしがみついている首のないご遺骨を見ても、日本軍が悪かったと思いますか」と。「布団を体に巻いて戦車の下で爆死した十代の少年のご遺骨を見て、それでも謝罪談話を出すべきだと思いますか」と。
 遺骨収集をして、ご遺骨があんなに帰りたかった日本に帰って来た時、日本兵は悪いことをしたと教えられ、謝罪ばかりで自虐史観にまみれている。もちろんご遺骨には日本に帰ってきてほしいが、こんな状況を知られたらどんなに悲しむかとも思う。
 これからの私達は、ご遺骨が日本に帰ってこられた時に日本に帰ってきて良かったと思って頂けるような日本を再建することが、大切な役割なのではないだろうか。


護ってくださったことへの感謝の気持ちを伝えたい!

 また、もう一つ同じ位の大切なことがある。それは、現在ご存命の将兵さんにも感謝の気持ちを表さなければならないということだ。
 以前、ある元日本軍将兵のお二人に対し酷い事を言った日本人がいた。「いかに日本軍が悪く、アジアの人たちが日本軍を憎んでいるか」「どんなに日本兵が残虐に侵略したか」と。お二人が「戦死した戦友に聞かせてやるんや」と軍歌を歌うと「軍国主義を思わせるような歌はやめてください」ときつく言われていた。お二人は反論もせず、悲しそうに下を向いていました。皆がいなくなってお二人と私の3人だけになった時、お二人がつぶやいた。
「わしらは、長生きをしてはいけなかったのかもしれんなあ」
「わしらが戦争でしてきた事が、こんなにも憎まれているんやなあ」
と。泣きそうな横顔だった。そして、帰国後しばらくしてお一人の方が亡くなった。
 日本を護るために戦争で戦った将兵さん達が、「わしらは長生きをしてはいけなかった」「戦争で悪いことをして憎まれている」、そう思いながら過ごされている、その気持ちのまま亡くなっている・・これは本当に心の痛む事実だ。だがこのような事は、日本中の至る所で起きている。戦後の日本は将兵を悪者扱いしてきた。本当に悪者だったからではない。GHQの占領政策上、そうすることが一番低コストで敗戦国を精神的にも占領できたからである。そのため戦後、日本将兵を悪く思わせるための様々な方法が実施され、その思想は今でも根付いている。日本軍将兵の方々は、『これから生まれてくる子供達、孫達のために』と命を挺して戦った。だがその護りたかった子供達、孫達に『悪者』だと思われてどんなに悲しい不本意な戦後60余年を過ごされたのだろうか。どんな気持ちを抱え、亡くなって行ったのだろうか。私はそのことをある将兵さんに尋ねた。その方はこうおっしゃった。「私達は国を護りたい一心だった。悪者じゃない。どうして私達が悪者なんだ!でも世の中が悪者と決めたのだから、もう一生悪者と思われたままなんだよ」と。
 その事実を変えなければならない。今こそ、私達から将兵さん達に、『あの戦争で日本を護ってくださってありがとうございます』と伝える最後の機会ではないだろうか。
 あの時一番若かった将兵さんでさえ、今80代のお歳だ。殆どの方は、もう既にお亡くなりになっているか、90歳を越えていらっしゃる。時間がない。
本当に今が、最後の機会なのだ。
 私は、「わしらは、長生きをしてはいけなかったのかもしれんなあ」とおっしゃった将兵さんのお一人の横顔が忘れられない。あのような思いをされている方がこれから一人でもいなくなるように、これから日本中の元将兵の方々に日本人からの多くの感謝の気持ちを届けたいと思っている。

大東亜戦争を戦った全ての日本軍将兵の方々に、今こそ感謝を。

 

マニフェスト財源の確保研究会の設立について

ニコニコ生放送
http://live.nicovideo.jp/watch/lv40594700


2011年2月8日

代表世話人 衆議院議員 玉木 雄一郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E6%9C%A8%E9%9B%84%E4%B8%80%E9%83%8E

同   衆議院議員  中塚 一宏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%A1%9A%E4%B8%80%E5%AE%8F

同   衆議院議員  村井 宗明
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%BA%95%E5%AE%97%E6%98%8E

同   参議院議員  藤末 健三
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%9C%AB%E5%81%A5%E4%B8%89


1.研究会設置の目的

(1)民主党マニフェストの実現については財源の確保の問題によってその実現が大きく阻害されている。

(2) 財源確保については、短絡的に「消費税率の引き上げ」という対策しか示されておらず、税金の無駄遣い撲滅による財源確保の道筋が示されていない。

(3) また、財政再建についても現状のままでの数値予測しか提示されていない状況。

(4) マニフェスト財源を確保するには「イギリス並みの大規模な歳出削減」を行う必要があり、同時に「ITによる行政コスト削減」「社会福祉の高所得者への支出削減」を含む「税制と社会保障の一体改正」を短期間(2,3年内)に実現しなければならない。

(5) マニフェスト財源の確保及び財政再建の具体的な道筋(ロードマップ)を明確にするために国会議員からなる研究会を設立する。

2.活動内容及びスケジュール

(1)活動内容

①財政の専門家からのヒアリング(研究会)*研究会の模様はすべてネットTVで放映。

内閣府財務省厚労省経済産業省総務省などの関係省庁からのヒアリング

財政問題に詳しい研究者(アクセンチュアやPWCなど)からのヒアリング

② 検討する内容

1)地方分権による財源ねん出について検証

2008年時点でひも付き補助金約19兆円を一括交付金にすることにより、公共事業などのひもつき補助金のうち2割程度節約可能と試算。その検証を行う。

2)入札制度の見直し(共同調達、等)

イギリスにおいては競り下げ入札方式(e-オークションを含む)、省庁の枠を超えた共同調達などにより調達費を14%改善。この方式の導入による調達コストの削減を検証する。

3)予算編成プロセスの見直し

平成23年度予算編成においても従来のシーリング方式を変えることはできず、結局は財務省が各省を個別に査定。この予算編成プロセスを抜本的に改変し、政治のトップダウンで「中期財政戦略」に基づき各省庁の将来3年間の予算枠を決め、その枠に基づきボトムアップで各省庁が予算案を作成。

4)議員削減、議員歳費・公務員人件費削減

国会議員一人当たりに対する税金の支出は単純計算で3億円。議員数を削減するとともに、議員歳費も本則で削減する(国会法35条で議員歳費は一般職公務員の給与最高額を下回らないことになっており、議員歳費削減により公務員給与の削減を進める。)

公務員人件費 国家公務員5兆円(自衛隊2兆円を含む)、地方28兆円(一般100万人、教職100万人、警察・消防・公営企業80万人)の2割削減=6兆円

5)マニフェスト財源の検証

2009年マニフェストの16.8兆円の財源資産を上記の視点に基づき検証する。

③ 提言書の作成

上記の研究結果を整理し、政府や国民に対して公表する。

(2)スケジュール

1月~2月 週一ペースで研究会を開催。

毎週木曜16時を予定

3月中旬に提言書作成



3.研究会メンバー

現在12名。今後、独自の財源確保政策を提示する議員をメンバーとして増やし、20名程度にする予定。

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