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ヴィッツ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%84
最良のスモールカーを追い求めたトヨタ技術者たち!
2011.01.31(Mon)JBプレス 両角岳彦
2010年末に、全面改良を行ったトヨタ「ヴィッツ」がお目見えした。私は先日、その新型ヴィッツに触れて、走らせ、開発担当者の何人かとも話を交わしてきた。やはり私にとって、クルマは見るだけで判断するものではなく、「移動空間」としての資質、工業製品としてのあり方を実際に確かめて、そこから読み解きと評価が始まるものである。
ヴィッツといえば、日本では軽自動車より少し大きいだけの、いわゆるコンパクトカークラスの量販製品であり、利益幅は小さく、付加価値でユーザーを引きつけるのも難しいので、「どうやって数を売るか」だけの商品と捉えられがちだ。
しかし、もう少し広く見渡せば、世界のどこに行っても(北米は除く)「大人4人が収まって移動できるミニマムサイズ」であるこの大きさのクルマこそが、実用品としての乗用車選びの原点であり、多くのユーザーがここからクルマとの生活体験をスタートする(もちろん新車とは限らないのだが)。当然、「ボリュームマーケット」を形成するセグメントともなっている。
ここをしっかり押さえ、クルマとしての良さを体感できるような製品を送り出さないと、市場への浸透はもちろん、自動車メーカーとしてリスペクトされることも望めない。とりわけヨーロッパは、そうした土壌が根付いている。
最良のスモールカーをデザインするのは最も難しい
もう1つ別の視点からの大切な話をするならば、このカテゴリーに求められる「必要にして十分な」移動空間を、「無駄や余裕に甘えることは許されない」中で生み出すという知的創造作業は、自動車のデザインにおいて最も難しい分野である。
ここで言う「デザイン」とは、姿形をいかに装うかではなく、発想から設計、そして造形までを包括した本来の意味で使っている。つまり、最良のスモールカーは「知恵の塊」なのであり、作り手はそこを目指すべきである。
自動車の近代史、すなわち大衆性の高い工業製品となってからの時代を振り返ってみても、例えばフォルクスワーゲンの、俗に言う「ビートル」(正式には「タイプ1」)、BMC(ブリティッシュ・モーター・コーポレーション)の「ミニ」(もちろん1959年登場のオリジナル)、初代フォルクスワーゲン「ゴルフ」などは、まさにこの「知恵の塊」であり、それが最終的に造形にまで表現されていた。そして、何よりも同時代の凡庸なクルマでは得られないような充実した移動体験を人々の記憶に刻むことができた。それこそが「名車」の条件なのだ。
日本の乗用車の歴史の中でも、例えば富士重工業の「スバル360」「スバル1000」、ホンダの初代「シビック」などは、この「無駄のない凝縮された移動空間」を、それぞれの時代に求められたサイズと性能において実現し、しかも、技術的創造性が十二分に発揮された好例と言えるだろう。同時に、走りの資質に関しても、同時代の国産車のレベルを脱した存在だった。
1999年に登場したヴィッツの初代モデルもまた、この難しいテーマに当時のトヨタ自動車の「知恵」を結集して取り組んだ成果物だった。
そういう話は、一般にはあまり伝わっていないと思うので、ここで簡単に紹介しておきたい。
欧州の小型車に見劣りしていた「スターレット」!
その直前、トヨタがコンパクトカーセグメントに投入していたプロダクツは、車名としては「スターレット」。車両型式表記としては「EP90系」と呼ばれるものだった(最初のアルファベット「E」がエンジン系列を示し、その次の「P」が車種、後半の数字が世代と車型類別を示すのがトヨタの命名法)。
ここで車種を示す「P」の原点は、「国民車構想」に呼応して開発された「パブリカ」、60年登場の「UP10」である。この初代パブリカもまた意欲作であり、記憶に残るものではあったが、名車に数えられるべき存在かとなると・・・。
自動車の歴史を振り返ると、空間設計、機構設計、それを包み込んでクルマとしての資質を表現するスタイリングに至るまで今日的なコンパクトカーの出発点となったのは、74年登場の初代「ゴルフ」だった。
そこからもう一段凝縮して、4人乗り実用車としてミニマムとなる空間、走行性能を実現したのは、83年登場のフィアット「ウノ」だった。これは、私自身がそうしたクルマたちを国内外で体験してきた中で実感したことだ。
これらの「先駆者」たちが先導する形で、欧州では、居住空間と走行機能要素をきっちりと組み立てた「健康な」パッケージングを持つ製品を、各国の主要メーカーそれぞれが送り出す時代を迎える。例えばオペル「コルサ」(日本では一時「ヴィータ」の名で販売されていた)、ルノー「クリオ」(日本名は「ルーテシア」)、プジョー「205」、フォルクスワーゲン「ポロ」などなど。
それらと比べると、日本のコンパクトカーはいささか実力不足、と言わざるを得なかった(今でも・・・、だが)。
そうした中でもトヨタは、北米市場を軸に世界展開を進め、生産台数ではすでに世界第2位に到達していたにもかかわらず、そのラインアップのコンパクトカーレンジを受け持つスターレットは、世界の、特に欧州のトレンドや製品群の実力と比べれば明らかに見劣りするものだった。
私などは「外野席」からそう言い続けていたわけだが、実はトヨタの製品開発に携わる人々の中にも、そこに問題意識を抱く面々は少なからずいた、ということが後に分かってくる。
とりわけ、90年代に入る時期には製品開発全体を統括する立場にあり、94年には技術担当副社長となった和田明広さんは、コンパクトカーはもちろんだが、トヨタの製品とその開発・製造に関わる全てのプロセスに危機感を持っていた。それは私自身がインタビューし、あるいは折々に会話を交わす中からもヒシヒシと伝わってきたものである。
独立チームに精鋭の技術者が終結!
そして、その和田さん指揮の下、当時のトヨタのクルマづくりを改革し、技術的内容を飛躍させるべく、いくつものプロジェクトが進められた。
それが製品の形に結実した一例が「プリウス」(もちろん初代)であり、そして「ヴィッツ」とその派生モデルである。そして今日のトヨタは、この時期に敷かれた技術路線の上を走り続けているのだ。
スターレットに代わる、そして「世界(欧州)に通用する」ことを目指した新世代コンパクトカーの開発に絞って、話を進めよう。そのプロジェクトは、「NBC」と呼ばれていたと聞く。「ニュー・ベーシック・コンパクト」の略だったとか。
当時のトヨタの製品開発の組織は、「第1開発センター」がFR(エンジンを前部に縦置きして後輪を駆動する)の中大型車を担当、「第2開発センター」がFF(エンジンを前部に置き前輪を駆動する)の小中型車、そして「第3開発センター」が4輪駆動の全路面型車両や商用車をそれぞれ受け持つ、という体制だった。
新型コンパクトカーを開発するとなれば、当然、第2開発センターの中でチームを組むべきところだが、NBCにつながる最初のレイアウト検討、パッケージング構築などを行う組織は、第1開発センターの中に、独立チームの形で設けられた。
そしてトヨタだけでなく、傘下のメーカー、例えばダイハツなどからも「一本釣り」のように実力の高い技術者がここに集められた。その技術者一人ひとりの選任からして、どうやら和田さん自身が深く関わっていたようである。
このように、それまでの製品開発の流れと組織から切り離した形にして、しかも、物理的にも独立した部屋の中にメンバーを隔離する、という手法を採ったのは、後になってみれば「既存の発想や設計を下敷きにすることなく、新しいものを生み出せ」という強い思いの表れだったことが理解できる。
そして、和田副社長は少しでも時間が空くと、自らこの「開発部屋」にやって来て(現場にいた人々の言葉によれば「飛び込んできて」)、「図面を見せろ!」。もともと和田さんは車体設計が専門であり、「図面から『間違っている』部分が浮かび上がって見えてくる」という優れた技術者である。
同じ台詞は、「スカイラインの父」櫻井眞一郎さんからも聞いた(櫻井眞一郎氏は2011年1月17日に逝去された。合掌)。和田さんも櫻井さんも、試乗の現場やインタビューでこちらの考えが浅いと鋭く切り返され、常に緊張感を持ってお話ししたものである。しかし、クルマと人に対する愛情が篤いことも伝わってくる、大きな存在だった。
もちろん、部下と仕事に向かい合った時の厳しさは、私たちに対するものとは比較にならない。副社長時代、NBCプロジェクト室の技術者は、図面を広げた前に立つ和田さんの「何を考えて、ここをこうしたのか?」「ここは?」という矢継ぎ早の指摘の鋭さに汗びっしょりになったと聞く。
和田さんに「CAD(コンピューター支援設計)のプリントアウトされた図面でも、間違いが浮き上がって見えますか?」と聞いた時には、「ああ、あれはダメだ。迷ったり悩んだりした設計者の思いが(図面の)線に出ないから」という答えが返ってきたものだが、必ずしもそうではなかったようだ。
随所に盛り込まれたコストダウンのアイデア!
そうやって、新しいコンパクトカーの空間が、骨格が、機能要素が形づくられていった。
細かいところでは、リアウィンドウのワイパー1本をとっても、一般的な何本かの骨で押さえる構造のものを、デザインと機能の両面からプラスチックの一体腕で押さえるものに変えられないかというアイデアが検討された。
しかし、当然、初期投資も含めてコストが上がる。コンパクトカーにとってコスト切り詰めは絶対的なテーマの1つでもある。
さてどうするか、という時に和田さんの判断は「そっちの方が良い(製品)になるのならやりなさい」だったと聞く。ただし、「このクルマは世界に向けて大量につくることになる。その中で同じ部品を100万本単位で作ってゆけば、コストは今と同じか、むしろ下がるはずだ。そうやって使ってゆけるようなものを設計し、根拠のあるコスト計算を付与して提案しなさい」という条件がついたそうだ。少なくとも、ヴィッツからは、新しいすっきりしたデザインのリアウィンドウワイパーが採用されている。
乗員の前面に広がるダッシュボードの作り方も、製造プロセスを簡素化してコストダウンを図りつつ、「見栄え品質」は落とさないようにするため、それまでの常識を打破する発想が盛り込まれていた。従来は、まず樹脂を成形して大きな基本ブロックを作り、そこから車室内に露出する表面部位に表皮を貼り付けたり、薄い膜を作る成形作業を別に行ったりしながら、反射防止や汚れ、傷が目立たないようにするための凹凸パターンを作る絞(シボ)を刻む成形を行う、という作り方をしていた。
NBCではそれを止めて、樹脂の骨格を一発で成形したものをそのまま車両に組み込むようにした。つまり、表皮を付ける工程を省略したわけだ。
もちろん、プラスチック素材がそのまま内装表面になるわけで、それまでの常識では「安っぽく」見えてしまう。そこで表面の絞のパターンを工夫した。皮革のシワを模していた従来のパターンとは発想そのものを切り替えて、細かな幾何学模様の組み合わせをデザインにしたのである。その後、欧州のベーシックカーにも同種の手法を採る事例が現れる。
メーターを中央に設置したのも、デザインの新しさだけでなく、運転席の位置が右でも左でもダッシュボード骨格は1種類で対応し、その中央部に設けた空間に右ハンドル、左ハンドルのそれぞれに対応したメーターユニットを用意して組み込めばいい、という形にするためだった。
現実の製品にその構成を採用するに当たっては、運転中の人間の視線移動を検討し、実測し、速度や燃料残量などの重要な情報はどんな高さにどう表示すれば見やすいか、などのガイドラインを作ることまで行い、その上で実車のデザインを組み立てている。
そうやって設計したダッシュボードの各所に残った空間を巧みに利用して、小物を手元に置くためのポケットをたくさん設けたのも、初代ヴィッツ・ファミリーの特徴の1つとなった。
それも急減速や衝突時に、置いてあった物が乗員に向かって飛んできて「凶器」と化さないように、収納空間を深めにして、その入口には縁を設けるなどの工夫をちゃんとしてあったものである。
こうした配慮が足りないクルマは、今でも日本メーカーの製品に散見される。つまり、開発者、デザイナー、内装設計の担当者などに、乗員の安全性に関わる基本認識が足りない、ということだ。
当初から構想されていた派生モデルの展開!
こうして移動空間としての、また工業製品としての骨格が形作られると、肉付けが始まる。
後に「ヴィッツ」(輸出名「ヤリス」)と名付けられる基幹車種(3ドアと5ドアのハッチバックボディー)に加えて、まず、全高を高くして後席と荷室の部分の空間を大きく、荷物を運ぶなどのユーティリティーを高めた形態のモデルがつくられた。これは「ファンカーゴ」(欧州名「ヤリス・バーソ」)と名付けられることになる(その後継となる現行車種は「ラクティス」)。製品化にあたって、その後席空間の多用途性ばかりを追いかけ、「安全に着座して移動する」とうい基本機能に問題を抱えたものになってしまったのが残念だったが。
他に、ヴィッツ/ヤリスに独立したトランクを追加した形の4ドアセダンの「プラッツ」、さらにちょっとパーソナルカー志向のスタイリングにしたコンパクトハッチバックの「ist」、あるいは若者をターゲットにしたファッションスペシャルティー商品の「bB」と、様々な形態、空間設計を持つバリエーションが、このNBCプロジェクトから生み出されてゆく。今で言う「プラットホーム」としての役割も、開発当初から構想されていたわけだ。
ちなみに、だいぶ後になって加わったbBは、デザイナーがどうしても製品化したいと考え、和田さん他、上層部へのプレゼンテーションの時に、そのイメージスケッチを他の提案の上に重ねておいた。それが和田さんの目にとまり、「オレには(コンセプトが)理解できないが、だからやってみるべきだろう」と言って、ゴーサインを出したとも聞く。これは風説だけれども。
ヴィッツ/ヤリスは、当時トヨタの欧州デザインセンターに在籍していたギリシャ人の若手デザイナー、ソテリス・コボス氏が提案したアイデアを具体化した、独特の丸みと抑揚を持つスタイリングをまとって、99年初頭から日欧のマーケットに投入された。
丸みを持たせると内部空間が狭くなりそうだが、実は人間の頭、肩も丸い形なのであって、その身体から適切な距離を取ったところにガラスや内壁を置くことで、十分に「住み心地」の良い空間を形づくることは可能だ。
初代ヴィッツの空間設計も、まさにそのセオリーにかなったものであり、さらにドアなどの内装では肘の横などに当たる部分を窪ませた立体成形にするなどして、上手に人間を座らせ、包み込んでいたのである。
「動質」の部分だけは残念だった!
そして初代ヴィッツは、トヨタ社内の型式名も「CP10系」(もちろんその前にエンジン型式を示すSかNが付く)として、パブリカ~スターレットの流れから訣別したことを表している。
つまり、凝縮されたパッケージングと、その中に作られ、仕上げられた空間の居住性、過剰なものを省きつつ実用性はしっかり織り込み、それを新しいデザイン表現で見せるところまで仕上げたのが、初代ヴィッツ/ヤリスだった。
ただ、実際に走らせてみると、ステアリングの感触、つまりドライバーにとってタイヤと路面の中で起こることとの「対話性」に始まり、路面を踏んでタイヤが転がり、そこからの動きを受けて車体が揺れ、舵を動かして進路をコントロールしつつ、タイヤのグリップを引き出してクルマ全体の動きを作ってゆく・・・という自動車にとって何よりも大切な品質、「動質(クオリティー・オブ・ダイナミックス)」の部分で、私は「画龍点睛を欠く」と評したものである。
当時のレベルにおいて、まずまずの実力を持つと受け取ったのは、ダイハツ工業が開発した1リッターのエンジン「1SZ型」ぐらいだった。
小さいからこそ、言い換えれば人間がタイトに包まれ、タイヤの存在と力を感じ取りやすく、運動する質量が軽いということは、ドライバーにとって自分が動かしている「箱」の運動がつかみやすく、操りやすいことにつながる。
これは、欧州のスモールカーの良品が共通して持っている感覚である。走っている実感が伝わり、安くて小さいクルマなのに、運転することが楽しい。だから普通に移動する中で、ドライバーだけでなく同乗者も含めて皆、何となく楽しげな顔をしている。それが「良いクルマ」。
初代ヴィッツは、そうなり得る資質を感じさせつつも、しかし現実には全ての感触がフワフワと甘口で、それでいてステアリングの機構から伝わる感触や路面の凹凸を踏んだ衝撃の伝わり方などはがさつだった。
そこは、トヨタが既存のトヨタ流レシピ(クルマ料理法)をリセットして、もっと深く難しいレベルを追求してゆかないと、改善や進化が難しい領域である。
しかしその停滞は、後でもまた紹介するが、今もまだ続き、いや、むしろルーティンワークに終始する傾向が強まっており、ものづくりとしては劣化傾向にある。着実に進化を続けて世界のクルマづくりをリードする人々、組織との「差が拡大している」というのが、ここでもまた私の実感である。
初代ヴィッツを市場に送り出した時、私ごときに「画龍点睛を欠く」と言われたことがもしも伝わったなら、厳しいとともに負けず嫌いでもあった和田さんは、きっと苦笑いされていただろう。
副社長時代も、開発現場に飛び込むだけでなく、自らクルマを運転して気に入らないところがあれば開発担当者を叱咤し、我々報道関係者の試乗会の現場に出張した開発担当者、技術者の日々の報告にまで目を通していたという和田さんだから、おそらくどこかで私の発言や記事も確認されていたのではなないかと思うのだが。
ともあれ、この初代は成功した。そこまでに注がれた知恵と人々のエネルギーの大きさを知れば、そのモデルチェンジが簡単にはゆかないことは、専門家でなくても十分に理解できるだろう。次回は2代目以降のヴィッツと、そのクルマづくりの変容について見ていく。
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