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仁多米
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奥出雲仁多米
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奥出雲町
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2010.11.25(Thu)JBプレス 橋本久義
1977年に、この地、出雲地方に伝わる「たたら」を復元した。
現在の「村下」(むらげ=たたらの総指揮者)は木原明さん。1954年生まれだからまだまだ若い。
工業高校を卒業後、島根県安来市にあった日立金属に入社し、冶金研究所に配属された。この研究所で、「たたら製鉄」を近代化した「角型溶鉱炉」による木炭製鉄の業務に、若い頃から従事してきた。
奥出雲は製鉄産業の故郷!
島根県の奥出雲地方には、江戸時代末まで田部(たなべ)家、桜井家、糸原家、木倉(ぼくら)家など、日本を代表する大手製鉄業者が競ってたたらを吹き、日本の製鉄の中心地であった。
この地に製鉄業者が集まったのは、古くからこの周辺で良質の砂鉄が大量に採れたからだ。
この地の砂鉄を原料にして刀などの鉄器具を得ることは古代から行われていたようだ。古事記に、スサノオノミコトが鳥上山(とりがみやま)で八岐大蛇を退治して天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を得た、とある。それは、鳥上山にいた製鉄業者から、刀を奪ってきたのではないかと言われている。上流に鳥上山がある斐伊川(ひいかわ)は、砂鉄の影響でいつも血を流したように赤く、これが大蛇の血と言われたという。
昔は砂鉄を得るのに「鉄荒流し(かんならながし)」という技法を使った。各沢から水を集めて流れを作り、崖の下に穴を掘って、崖を崩して流す。川を流れる間に比重の差で砂鉄が分離される。大量の土砂が発生し、下流は大きな影響を受けた。
たたらは、粘土で築いた箱型の低い炉に、原料の砂鉄と燃焼剤兼還元剤の木炭を交互に装入し、焚いて鋼を得る日本古来の製鉄技術である。江戸中期に技術的に完成した。
奥出雲地方は、明治維新までは、刀剣用「玉鋼(たまはがね)」の唯一の産地として大いに栄えた。だが、明治以降は日本刀の需要が激減。一方で鋼の生産方法としてはコスト高なため、大正年間に生産が途絶えた。
1940年には軍刀用として「靖国たたら」「業雲(むらくも)たたら」などが復活したが、戦後に再び途絶えた。
途絶えていたたたらを復活!
日本刀を鍛えるためには、刀身材料を折り返して鍛錬する。一般的には12回以上折り返す。それが強靱性を持たせる。それを行うには、玉鋼でないと不可能だ。洋鉄は純度が違うため、折り返しができない。つまり洋鉄では日本刀はできない。
そこで1977年に日本美術刀剣保存協会が、日本刀に関する伝統技術の保存のために文化庁補助事業として、島根県横田町の鳥上木炭銑(とりがみもくたんせん)工場に「たたら製鉄」を復活させた。
これが「日刀保(にっとうほ)たたら」である。今、全国で作られる日本刀の材料は、すべてここが供給している。また東大寺修理の際には、傷んでいた和釘、和鎹(かすがい)と全く同じ成分のものを4000本作って奉納した。
鳥上木炭銑工場でたたらが復活できたのは、戦前に「靖国たたら」として一時復活した際に築かれた高殿(たかどの)、炉床(地下構造)が残っており、なおかつ全体の詳細な図面が保存されていたからである。また、靖国たたら時代の村下である安部由蔵さん(1902~95)と久村観治さん(1903~79)が健在であったことも大きな要因である。この時、木原明さんが弟子として参加し、その後修業して、村下になった。
先人が命がけで築き上げてきた!
たたらの操業が始まると砂鉄と木炭を30分おきに投入する。作業は三昼夜(70時間)無休で続けられ、その間、村下(むらげ)をはじめとする重要な作業員は眠れない。
最後に炉を壊すと、炉の底に「ケラ」と呼ばれる約2.5トンの鋼の塊ができる。これをさらにじゃがいも大まで砕き、成分によって等級を分ける。
1回の操業に必要な木炭は、森の面積にして1ヘクタール分が必要だ。田部家などのたたら家元は、それぞれ数百ヘクタールの森林所有者であった。しかも、その森林は、楢などの雑木でなければならないという。完全に炭化しない「生焼け」状態の木炭が良いとされる。
現在も毎年、木原村下の指揮の下に、湿気が少ない冬に3回ほどたたら吹きが行われる。生産された玉鋼は全国の刀匠約250名に配分されている。
鳥上木炭銑工場は、県内外の小中学生や社会人を対象に、たたらを公開している。地元の横田中学校では、3日間通しの夏休みの体験学習を16年間続けているという。「地域の歴史や文化と共に、鉄やモノづくりの大切さを伝えたいと考えています」(木原さん)。
木原さんは言う。
「たたらの技術は、先人が命がけで試行錯誤しながら作り上げてきたものばかりです。例えば、高さ1.2メートルしかない炉の上部は熔鉱炉の役割を果たします。下部の羽口付近では炉壁を溶かしながらその空洞に鋼を育み、ノロ(=スラッグ、鉱滓)の中に不純物を逃がし、あたかも転炉のような作用をします。化学的知識のない時代から、長年の体験で培われてきた高度な技術です」
「古来より職人たちは、砂鉄を選び、炉床や炉を造り、苛酷な三昼夜の操業をこなしてきました。そして、常に形を変える不定形なケラを成長させる技法、どの種類の砂鉄をどこに入れるか、火の道にどのように風を通すかといった技法を培ってきました」
「炉頂から燃え上がる炎(ホセ)の色彩や勢い、両側に合計40本あるホド穴一つひとつから、火の色や輝きを観察して炉内の状況を把握し、たたら(=フイゴ)の吹き方や砂鉄、木炭の量、装入位置を微妙に変えます。私たちはホド穴一つひとつが一基の熔鉱炉というつもりで操業しています」
村下の誇りが込められた技術
木原さんは、安部村下の弟子になった時から、3日間の徹夜に耐える体力をつけるため、毎朝、上半身裸で3キロメートルを走り、バーベルを持ち上げる筋トレと金屋子神社参拝を日課とした。あまりの寒さで凍え死にそうになったこともあったらしい。
「良い村下になるためには、心と技に加えて、炎を見る、音を聴くなど、火を扱う上での『感性』とも言える総合的な観察力がなければダメです。
砂鉄を適切に装入すると、羽口近くで砂鉄が“しじれる”独特の音がして、鋼ができます。安部師匠からは、これらを聞き分ける感性と体力、精神力(根性)、才能を養うことが肝要と教えられました」
たたらの技術は、試行錯誤の末に築き上げられた経験・体験の結晶であり、村下の誇りが込められている。
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