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2010年11月1日(月)安藤 毅(日経ビジネス記者)

環太平洋戦略的経済パートナーシップ協定(TPP)を巡る民主党の対立が激化している。国内農業や統一地方選への影響を懸念する声に推進派の菅直人首相もぐらつき始めた。貿易立国として生き残るチャンスをつかめるのか、否か。問われているのは政権の覚悟だ。

「環太平洋戦略的経済パートナーシップ協定(TPP)等への参加を検討する」

 政府・与党内の路線対立は、10月1日の菅直人首相の所信表明演説にこの一文が盛り込まれたことで先鋭化した。11月中旬のアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議で菅首相がTPP締結協議への参加を表明するのか。これに先立ち11月上旬にまとめるEPA(経済連携協定)基本方針にどんな内容を盛り込むのかの2点が大きな政治課題に急浮上したためだ。

 「農産物の関税への例外措置を認めないTPPは、これまで日本が取り組んできたFTA(自由貿易協定)とは違う。国内農業は壊滅してしまう」(山田正彦・前農林水産相)

 「大きな誤解がある。TPPのルールはまだ固まっていない。例外扱いできるように交渉する余地は十分にある。交渉に参加しないデメリットの方が大きい」(直嶋正行・前経済産業相)

 この1カ月、EPAなどを協議する民主党の会合では、こうした堂々巡りの議論が続いた。この間に、「反TPP」の動きは強まる一方だ。TPP反対の特別決議を採択した10月19日の全国農業協同組合中央会の全国集会には多数の与党議員が参加。21日には鳩山由紀夫前首相、山田前農相ら110人もの議員が TPP反対の勉強会を立ち上げた。小沢一郎元代表に近い議員が7割を占め、参加したある議員は「首相が聞く耳を持たずに突き進めば政局にする」と息巻く。

 今や政権の大きな火種となったTPPとは、そもそも何なのか。

実質は日米FTA

 TPPはシンガポール、ニュージーランド、チリ、ブルネイで2006年に結んだFTAが発端。農林水産物を含め原則として、すべての品目について即時、または10年以内に段階的に関税を撤廃するのが大きな特徴だ。

 ここに米国、豪州、ペルー、ベトナム、マレーシアが参加を表明し、交渉を始めている。世界全体のGDP(国内総生産)に占めるこの9カ国の割合は約4分の1。自国経済の立て直しへ輸出倍増を掲げる米国は有力な市場確保策と位置づけており、2011年11月の米国主催APECまでの交渉妥結を狙う。

 このTPPに日本が参加するということは「日米FTA、日豪FTAを結ぶのと同じ意味を持つ」(外務省幹部)。しかも、先述の先行4カ国の協定内容は 100%の関税撤廃が原則。この取り決めがそのまま他の参加国にも適用されれば、参加国への輸出増や関連産業の投資拡大が見込める一方、短期的に米国や豪州から安い農産物の輸入が拡大するのは間違いない。農業県選出の議員を中心にTPP反対の大合唱が急速に広がったのは、各議員がTPPの衝撃にようやく気づいたためだ。

 「明治維新、第2次世界大戦での敗戦に次ぐ第3の開国だ」

 所信表明演説にTPP参加に向けた表現を盛り込む判断を下した菅首相は周辺にこう語ったという。TPP参加は現代版「黒船来襲」というわけだ。

「韓国と競争条件を同じに」

菅政権がTPP参加の検討を政治課題に載せたのは、産業界からの強い要請が大きな要因だ。

 特に、自動車など日本と産業の得意分野が重なる韓国の存在が産業界の危機感を高めている。韓国はFTA推進を経済成長戦略の柱に据え、米国、欧州連合(EU)とのFTA交渉を既に終えている。EUとのFTAが2011年7月から発効すれば、EUへ輸出する日本製乗用車には10%の関税がかかるが、韓国製乗用車は段階的に関税が削減され、5年以内にゼロになる。

 「このままではEU市場で韓国車に輸出を奪われる。不利な競争条件に置かれないようスピードを重視して交渉を推進すべきだ」。日本自動車工業会の志賀俊之会長は危機感をあらわにする。

 円高に加え、EPA競争で後れを取れば、輸出競争力は一層失われる。日本から海外への工場移転にも拍車がかかり、国内雇用を損なう。政治家や農業団体は地域社会の維持をEPA反対論の柱に掲げるが、モノ作り企業の海外移転が進んで雇用が失われる方が、地域に深刻なダメージを与えかねない。

 海外とのヒト、モノ、カネの行き来を自由化するEPAのメリットを説く早稲田大学の浦田秀次郎教授は「EPAが進めば、企業は日本にとどまって生産し、輸出する戦略が取れる。輸入品が安く手に入り、消費者のメリットも大きい。海外製品との競争の過程で、企業の生産性も向上する」と強調する。

 TPP参加には鳩山政権時に亀裂が生じた対米関係修復の狙いもある。「アジア全域への影響力拡大を目指す中国への最も有効な牽制材料になる」(外務省幹部)ためだ。日本とのEPAに消極的なEUや韓国を振り向かせ、交渉を加速する効果も期待できる。

 TPPに参加するうえで最大の障害である農業問題。浦田教授は「9か国になったTPPのルールは固まっていない。日本は早期に交渉に参加し、自由化の例外品の確保や段階的自由化といった措置を勝ち取ればいい。その間に、国内農業改革を急ぐべき」と指摘する。

 政府内では、EPA基本方針の公表と同時に、国内農業の体質強化に向けた工程表策定に着手する構想が浮上している。農水省は直ちに農林水産物の関税を撤廃した場合、約4兆円の農林水産物生産額が減少するとはじく。農家への所得補償も含む対策財源の確保を巡って、財務省や農水省の水面下でのさや当ても始まっている。

 しかし、ここにきて、肝心要の菅首相の姿勢がぐらつき始めた。「米価下落の今、農家を一層敵に回すTPP参加など許されない」「来春の統一地方選への影響が避けられない」といった民主党内の批判が直撃しているためだ。

 10月21日、首相官邸での新成長戦略実現会議。米倉弘昌・日本経済団体連合会会長らがTPP参加への決断を促した後、菅首相はか細い声で発言した。

 「1つの政党や少数の政治家が決められることではない大きな問題だ。皆さんがそれぞれの立場で、国民に意味を説明してほしい」。気概を全く感じられない首相の発言に、室内はしらけた空気に包まれたという。

 戦後の日本ほど、自由貿易体制の恩恵を受けた国はない。その貿易立国ニッポンが今、全就業者数の5%を擁してもGDPの1.5%しか生み出せない農林水産業保護を名目に、世界の流れに背を向けるのは皮肉というほかない。「日本は、1%を守るために、成長力を捨てるのか」。かつて米通商代表を務めたロバート・ゼーリック世界銀行総裁は、貿易自由化に後ろ向きな日本にこう疑問を投げかけた。

 法人税率の引き下げ、EPA推進…。日本が成長を続けるために必要なメニューは出揃っている。後は国のCEO(最高経営責任者)である首相が決断し、国民を説得するだけだ。それができないのなら「有言実行内閣」の看板を掲げる資格はない。

日経ビジネス 2010年11月1日号8ページより

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