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決断力の欠如は多大な犠牲をもたらす!

2011.01.05(Wed)JBプレス 正岡富士夫

1 日ソ開戦の背景

極東での日ソの軍事バランス(兵員、装備など)は、昭和11(1936)年頃には大きく崩れ、ソ連側が圧倒していた。

 ソ連はロシア帝国以来の国家的願望を果たすため、いずれは日本と事を構える方針を持っていたものの、欧州方面への対応で手一杯であり、独ソ戦が始まると極東方面での対日戦の勃発を恐れ、コミンテルンを通じた謀略により日本軍を南方方面や中国内陸部へ向けさせることに腐心した。

 日本との対決が念頭にあったソ連は、当初、日本からの不可侵条約の提案を拒否していたが、ドイツの対ソ侵攻が現実味を帯びつつあった1941年春、日本側の提案を受け入れ、日ソ中立条約が成立した(1941年4月13日)。

 ソ連は1941年11月、兵力を極東から欧州正面へ転用し12月のモスクワ防衛戦に投入、1941年中にソ連を崩壊させることを狙ったドイツのバルバロッサ作戦を潰えさせた。

ドイツ降伏後90日以内のソ連参戦を米ソで密約!

ヤルタ会談(1945年2月4日~1月11日)において、米国ドイツ降伏後も長く続くと予想された太平洋戦争での損失を抑えるため、ドイツ降伏(1945年5月8日)後90日以内に対日参戦することを米ソで密約した。

 ソ連は、独軍の壊滅が確実となった4月5日、翌年(1946年4月25日)期限切れとなる日ソ中立条約を延長しないことを日本へ通告、シベリア鉄道をフル稼働させて巨大な軍事力を満洲国境に集結させた。

 翌5月開催されたポツダム予備会談において、スターリンは8月中に対日参戦することを表明するとともに、ソ連軍による北海道の占領とさらなる戦略物資の支援を米国に対し要求した。

 米国は、ソ連の火事場泥棒的な要求に警戒心を抱き、ポツダム会談(1945年7月17日~8月2日)においては、原爆の完成(7月26日・実験成功)によりソ連の参戦なくしても日本の早期降伏は可能と判断、ソ連の対日参戦の回避を図ったとされている。

 しかしソ連の参戦意思は固く、8月8日17時00分(日本時間23時00分)駐ソ日本大使を呼び出し、午前0時をもって宣戦を布告する旨伝えた。ソ連側によって大使館の電話線が切られていたため、東京へ伝えることができず、日本は文字通りの奇襲を受けた。

2 日本側の情勢判断

 昭和20(1945)年6月、大本営は戦争指導会議における情勢判断において、ソ連の国家戦略、極東ソ連軍の状況、輸送能力などから見て「ソ連の攻勢開始は、8月か遅くとも9月上旬の公算大」と結論づけた。

 一方、現地の関東軍は、「独ソ戦で被った損害補填のため早くとも9月以降あるいは来年に持ち越す」こともあり得ると楽観視していた。

 関東軍総司令部は、作戦準備が整わず防御不可能という、自軍の作戦能力に都合のよい情報判断をしたのである。

 敵情報の探索に努めていた最前線の部隊では、宣戦布告の数日前からソ連軍の作戦準備活動の活発化を察知しており、関東軍総司令部へ上申するも採用されず、独自の作戦準備行動を取った部隊もあった。

3 戦争の概要

 対日攻撃の火蓋が切られた8月9日当時、日本軍の南方作戦への転用およびソ連軍の増強という相乗効果によって満洲方面における日ソの戦力比は、

兵員 70万人:158万人
戦車 200両:6000両
火砲 1000門:26000門
航空機 350機:3500機

と、ソ連が量質ともに圧倒する状況にあった。

 日本軍はソ連軍の奇襲・急襲に対して持久と後退を繰り返しながら、一方的な攻撃に耐えるという戦闘がやっとだった。

 特に機械化兵力と火力における戦闘能力の隔絶のため至る所で短期間のうちに全滅する部隊が続出するなどソ連軍にとっては追撃・掃討戦のような様相を呈した。しかし、一部地域における戦闘ではソ連の猛襲を拒み、善戦した部隊も少なくなかった。

ポツダム宣言受諾後も続いたソ連の日本侵略!


 日本がポツダム宣言を受諾(8月15日)すると、マッカーサーは全軍に戦闘停止を命令、関東軍に対してはその翌日戦闘停止が命じられた。

 関東軍はソ連軍と停戦交渉に入ったが、ソ連側は8月20日までは停戦しないと回答。しかし、マッカーサーがソ連軍に対する要求を強めたため、8月18日に一切の武力行使が停止されることになった。

 にもかかわらず、ソ連軍の対日作戦は9月初めまで続けられ、満洲、北朝鮮、南樺太、千島列島を占領した。

4 居留民への措置

 約132万人の開拓団など満洲居留民の保護は関東軍の任務であり、開戦の危険が高まると内地へ避難させることが計画された。しかし、輸送手段や食料確保の目途が立たず実行できなかった。

 防御線の後方へ引き揚げさせようという提議もなされたが、関東軍総司令部は居留民の引き揚げによって後退戦術がソ連側に察知され、ソ連の攻撃を誘引する恐れもあるとして「対ソ静謐保持」が優先された。

 中央から在留邦人の避難に関する考え方や指示が示されず、居留民側も関東軍とともにあることを強く希望したため、ソ連の攻撃が始まると満ソ国境に近い地域では戦闘部隊とともに全滅したり、ソ連軍や周辺住民によって暴行・略奪あるいは1000人単位以上で大虐殺されたりする悲劇が続出した。

5 シベリア抑留

 8月23日、スターリンは日本軍捕虜のソ連国内への移送と強制労働従事の命令を下した。その労働力は、まず満州の産業施設の工作機械等を撤去しソ連へ搬出するために使役され、その後ソ連等の各地に移送された。

 収容所は、北朝鮮モンゴル、沿海州、シベリア北部、中央アジア、ウクライナなどヨーロッパロシアまで広範囲に分布していた。

 捕虜の中には軍人、軍属のほかに民間人、満蒙開拓団の男性も含まれ、1000人単位の作業大隊に編成され次々と貨車に詰め込まれた。

 作業大隊は570隊あり、総数57万人が移送されたと考えられたが、ロシア国立軍事公文書館の資料には約76万人分の記録が残されている。

 また、終戦時、満洲、樺太、千島列島には軍民合わせて272万余の日本人がいたが、このうち約107万人がソ連各地へ送られ強制労働させられたと見る説もある。

 そのうち約1割が飢餓や寒さのために死亡したと言われているが、死亡者が約37万人の多数に上るという米国人学者の研究もある。

 1946年12月になって「日本人抑留者の帰国に関する米ソ協定」が成立し、日ソの国交回復の1956年まで10年もの歳月をかけて47万3000人の日本帰国事業が行われた。

6 教訓

(1) ソ連参戦の合法性の疑義

日ソ中立条約の有効期限は1946年4月25日であり、不延長の通告があったとしてもそれ以前に宣戦布告するのは条約上の信義を冒涜するものであり、国際法の信頼性を大きく損なうものであったことは否めない。

 ソ連側は1941年7月関東軍が行った特別演習をもってこれを日本側の軍事的挑発と見なし、中立条約違反行為は日本側にあったとして自らの侵略的行為の正当化を図っている。

 条約締結直後に行われた日本側の演習を軍事的挑発行為と認めたならば、ソ連側は直ちに違反行為として抗議すべきであるがそのような事実は全くなく、ソ連の言い分は牽強付会な言いがかりとしか言えない。

 しかし、「諸国民の公正と信義」とはそうしたものであることを銘記すべきだ。

(2) シベリア抑留は国際犯罪

 捕虜は戦争が終われば故国へ返還するのが国際慣例である。日ソ戦は交戦中に捕虜収容所を作る暇がないほど短期間に終結したものであり、その終結は日本の全面降伏と一体であった。

 厳密に言えば、シベリア抑留は捕虜収容には当たらず、大規模な人身拉致犯罪行為であったと見ることもできる。

 国際法上、収容国は収容している間に働かせた捕虜に対しては労働証明書を発行し、捕虜の所属国はその証明書に従って賃金を払うことが義務づけられている。

 ソ連はこれを発行せず、従って日本政府は支払っていない。ソ連が戦争捕虜と見なしていなかった証左でもある。

(3) 大きな犠牲を生んだ敗戦処理

 歴史に「もし」はないが、ソ連の宣戦布告前にポツダム宣言を受諾しておれば、少なくとも長崎の原爆はなく、満洲や樺太などの悲劇は局限されたであろう。

 そして、北方領土問題もなかったかもしれない。また、中央から満洲居留民の引き揚げ命令が早期に出されておれば民間人の被害はほとんどなかったに違いない。

 国家指導者に求められる判断能力などその資質は極めて高度なものでなければならず、国民はその意識を持って政治家を選ばなければならないことを痛感する。

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