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アシスト (ソフトウェア会社)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%88_(%E3%82%BD%E3%83%95%E3%83%88%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A2%E4%BC%9A%E7%A4%BE)

INSIGHT NOW 編集部/経営戦略 2010年4月30日 13:26

*第1回 「上司との交渉決裂、そして日本へ」

■日本には市場がまだない、だからこそ日本でやりたい

「どうしても認めてくれないのなら、自分でやりますと言いました。これがすべての始まりですね」

1971年冬のある日、トッテン氏は米システム・デベロップメント社(SDC)の重役室にいた。過去一年半あまりをかけて日本でのパッケージソフトウェア市場に関する調査を行い、自分なりの分析に基づいた提案書を上司に出したのだ。

「40年前の日本にはまだ、パッケージソフトを採用している企業は、ほとんどありませんでした。だからこそ絶好のチャンスだと思ったのです」

トッテン氏の言葉は、マーケティングに関するある有名な逸話を思い出させる。アフリカにセールスマンが二人、靴を売りに行った。アフリカに着くやいなや一人は落胆する。理由は、アフリカの人たちが誰一人として靴を履いていなかったからだ。アフリカには靴のマーケットなどない、と判断し彼は帰っていった。逆にもう一人は大喜びする。これからみんなが靴を履いてくれれば、アフリカには膨大なマーケットが生まれると考えたからだ。

「日本でも、コンピュータがどんどん使われるようになっていました。ところが企業で使うソフトは、ほとんどが自社開発の時代でした。だからといって我々のようなアメリカ企業が、日本企業向けのソフト開発を受注できるかといえば、それも至難の業。何しろ1ドル=360円の時代でしたから」

人月計算で見積もられる開発費は、どうしても人件費の比率が大きくなる。物価水準の差もあり当時のアメリカは、日本よりずいぶん人件費も高くついた。アメリカでソフトを受託開発していてはコストがあわないのは目に見えている。

「しかも我々は日本語ができません。日本の商習慣もよく知らない。日本文化も理解できていない。『お前達にソフト開発を頼むわけがない』と調査に行った日本企業で言われました」

だからといって米系ソフト会社には日本マーケットに参入する余地がないのかといえば、決してそんなことはない。使っているコンピュータは日本企業もアメリカ企業も同じ、たいていがIBM製だった。

「確かに日米で企業文化は違うかもしれませんが、業務内容やプロセスはどうでしょうか。仕事の進め方自体に、それほど大きな差はないはずです。同じIBM製のマシンを使っているなら、アメリカで使われているパッケージソフトがきっと使える。僕はそう考えたのです」

ところが上司は、トッテン氏の考え方に理解を示さなかった。そこでトッテン氏は会社を辞め、起業を決意する。時にトッテン氏、29歳の出来事だった。
       
■異国で巡り会った友のサポート

「辞めたいのならどうぞ。ドアはあっちだと言われたので、重役の部屋を出て、その足で以前から目星を付けていたソフト会社に行きました」

トッテン氏が向かった先は、当時アメリカで最もポピュラーなパッケージソフトを扱っている2社だった。すなわち『MARK IV』のインフォマティックス社であり、もう一社は『ASI-ST』のASI社である。

「御社のパッケージソフトを日本で売りたいと持ちかけると、両社とも興味を持ってくれました。テスト用のサンプルソフトをもらい、僕が日本で試しに売ってみる約束を取り付けたのです。見込みがありそうなら代理店契約を結ぶ運びになっていました」

上司に提案を拒否されてからわずか一週間も経たないうちに、トッテン氏は再び機上の人となる。しかし日本に戻り、いざビジネスを始めようとして初めて自分が置かれている厳しい状況に気づいた。

「市場調査をやっているときは、会社が通訳を付けてくれました。事務所も借りてくれていた。ところが、今度は何もかも僕が一人でやらなければいけない。その頃はまだ日本語も話せないし、そもそも会社を経営したことなどなかったのですから」

困り果てて相談に行ったのが、以前から親交のあったシステム開発株式会社の永妻社長である。永妻氏は話を聞きソフトビジネスの可能性をすぐに見抜いた。そしてトッテン氏を自社に誘う。

「永妻さんは言いました、俺の会社に入って、ソフトを売ればいいじゃないかと。僕にしてみれば、まさに渡りに船です。そこで最初の課題となったのが、二つのソフトのうちどちらを扱うのかを決めること。僕は『ASI-ST』が良いと思っていました」

『ASI-ST』『MARK IV』は、いずれもデータ・マネジメント・システムと呼ばれていた分野のツールで、主にプログラム開発の生産性向上を目的に使われるもの。実際問題、その性能は甲乙付けがたいものだったようだ。

「結論として『ASI-ST』を採用することになったのですが、ここで永妻氏は僕にはまったく考えられないとんでもない行動を取ります。結果的には、このときの永妻氏の行動が、我々の成功につながったのですが、あのときは本当にびっくりしました」

永妻氏が取った『あり得ない』行動とは何だったのだろうか。


*第2回「アシスト社、創業の産みの苦しみ」

■競合がいて初めて市場は立ち上がる

「永妻さんはよりによって『MARK IV』を、僕たちの競合となる相手に紹介したんです」

そもそも日本とアメリカのソフトウェア市場には、大きな不均衡があった。情報不足のために日本企業は、パッケージソフトのメリットをまったく理解していなかったのだ。ソフトといえば、自社の業務内容に合わせて自分たちで作るもの。これが当時の日本の常識である。

「情報の不均衡あるところ、必ずチャンスあり。これはビジネスの鉄則ですね。だから僕はアメリカの会社を辞めてまで日本に乗り込んできたのです。扱う商品も決まり、さあこれから売りまくるぞというときに、わざわざ競合を作ろうとする。永妻さんの考えていることが、最初はまったく理解できませんでした」

ところが、この永妻氏の行動こそが、日本にパッケージソフト市場を立ち上げる上では決定的に重要だったのだ。その真意を理解するためには、仮に日本市場にトッテン氏の扱う『ASI-ST』しか存在しなかったらどうなったかを少し考えてみればよい。

「日本ではまだ誰もパッケージソフトの良さを知りません。しかも、そのソフトを広めようとしているのは外人、つまり僕のことです。こいつは商売がうまくいかないとなれば、いつアメリカに逃げ帰るかもしれない。そんな奴だけが扱っている製品、それもこれまでの日本では誰も知らなかった製品の話を、誰が真剣に聞いてくれるでしょうか」

では、競合他社、それも日本企業が、時を同じくして同じジャンルの製品を扱い始めたらどうなるだろうか。競合二社は当然お互いに切磋琢磨し合い、マーケットでの認知度を高めるべく啓蒙活動に励むだろう。トッテン氏はアメリカ人だが、競合社は純然とした日本企業である。日本人が誠意を込めて話をすれば、日本企業もむげに拒否はしないだろう。

「結局、競合する二社が競い合うことはお互いによい刺激になるし、何よりマーケット全体が活性化するわけです。この相乗効果を永妻さんは読んでいたのでしょう」

だからといってすぐに売れたというほど甘い話ではない。何しろ、日本では初めてのパッケージソフトである。どの会社も使ったことがないソフトを導入するのには、相当な勇気が求められる。トッテン氏を招いたシステム開発株式会社内でも、パッケージソフト販売に対する不協和音が響き始めていた。

■分離、独立、そして初めての顧客獲得へ

「営業を始めてから数ヶ月、経費だけは2000万円ぐらい使っていたでしょうか。ところが一向に売れない。永妻さんの会社でもほかの役員から撤退の声が出てきた。結局僕が独立して扱うことになったのです」

1972年、トッテン氏率いる株式会社アシストが設立される。社員数名の小さな会社で売上実績ゼロ、しかし売り込み先だけは超一流の大企業ばかりだった。先頭に立ってセールスを引っ張ったのはトッテン氏である。

「努力の甲斐あってようやく買ってくれたのはシェル石油でした。イギリスとオランダによる100%出資の外資系企業で、海外のグループ会社はすでにパッケージソフトを導入済み、だから私の提案に対しても抵抗感がなかったのです。とはいえ乗り越えるべき大きな問題が一つありました。彼らが海外の支部で導入していたのは『MARK IV』だったのです」

もしグローバル化が進んだ現在のように世界中がネットワークでつながれていれば、同じ企業グループ内で異なるソフトを採用することはまず考えられなかっただろう。しかし、幸いにもまだインターネットはなく、時代がトッテン氏に味方した。

「僕の話を、シェル石油の若い日本人がじっくり聞いてくれました。彼らは『ASI-ST』についていろいろ調べて、上司を熱心に説得してくれました。これが効いたのです」

トップセールスに励む傍らでトッテン氏は、パッケージソフトの啓蒙活動にも精を出した。ガートナーレポートやインプットなどの調査会社のレポートや、アメリカのIT関連の書籍や雑誌記事などを日本の顧客企業向けに翻訳して、自分の解説をつけて、「アシスト・メモ」として提供していった。

「シェルから契約が取れた実績は大きくものを言いました。引き続いて明治生命、神戸製鋼、などが採用してくれたのです」

海外では『MARK IV』を使っているシェルが、日本に限ってはわざわざ『ASI-ST』を採用した。この実績がアシスト社にとって強力なセールスポイントとなった。日本には存在すらしなかったパッケージソフト市場の開拓者として、トッテン氏率いるアシスト社は、少しずつではあるけれども、着実な成長を始めたのだ。
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