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東方インターナショナル
http://www.tohonet.com/
日中関係改善の“本気度”!
China Report 中国は今! 2011年2月11日 DiAMOND online 姫田小夏
在日中国人向けの中国語週刊紙である「東方時報(※)」の1面に、菅直人首相の春節祝賀メッセージが掲載された。同紙の読者は首都圏在住の華人、中国語で書かれた「菅直人首相向華人祝賀春節」の真っ赤な見出しは、上野駅の売店でも人目を引く。(※発行:(株)東方インターナショナル、東京都)
「華人の皆様が、中国の伝統的な新年である春節を迎えられたことをお慶び申し上げます」の一文から始まる春節祝賀メッセージは、日本の華人、在日中国人に呼びかけるもの。過去、日本の首相が日本の華人に新年のメッセージを送ったのは、08年2月、「戦略的互恵関係」の推進について日中共同声明を出した福田康夫首相の代にまでさかのぼる。
福田・麻生・鳩山首相の春節“祝辞外交”!
08年は北京五輪が開催され、また金融危機で疲弊する世界経済において中国がそのプレゼンスを高めた年でもあった。その中国に世界の注目が集まり、アメリカ、イギリスの首脳もまた自国や全世界の華人に春節の祝辞を送っている。
福田首相は日中国交正常化35周年を迎えた07年に北京を訪問、胡錦濤国家主席や呉邦国委員長(中共中央政治局常務委員)、温家宝首相など、中国の指導者と会談を実現している。
日中平和友好条約締結30周年にあたる08年の春節祝賀メッセージは、「今年は中国国家主席による10年ぶりの訪日や北京オリンピックなど、日中関係にとって記念すべき重要な行事が多い。胡錦濤国家主席の訪日と北京オリンピック大会の成功を心から願っている」というものだった。
一方、麻生太郎首相も、胡錦濤国家主席と共に日中平和友好条約締結30周年記念行事に参加し、「私の訪中を含め、昨年1年間で両国の首脳が5回も相互訪問を行うという画期的な年だった」と伝えた。
また、鳩山由起夫首相は「2009年9月に首相に就任して以来、胡錦濤国家主席や温家宝首相をはじめとする中国の指導者と幾度も交流を重ねてきた。日中双方は戦略的互恵関係の充実で一致を見た」との祝辞を送っている。
これらからも、当時の日中首脳の交流は記念行事に支えられ、その関係は良好なものであることが読み取れる。
対中感情が過去最悪の今年、菅首相が送ったメッセージは?
ところで、内閣府が行った外交に関する世論調査がある。これによれば、「現在の日本と中国との関係」について、97年から6年間40%を維持してきた「良好だと思う」という回答は、小泉内閣の05年に起きた反日デモで一気に19.7%にまで落ち、その後、安倍内閣(21.7%)、福田内閣(26.4%)、麻生内閣(23.7%)、鳩山内閣(38.5%)の4年間で回復を図った。しかし、それが2010年の菅内閣で8.3%にも急落する。
一方で、「良好だと思わない」とする回答は09年の55.2%から10年は88.6%に上昇した。内閣府の資料によれば、この数字は1986年最悪の数字であることがわかる。
さて、菅首相はどんなメッセージを送ったのだろうか。9月7日の尖閣諸島沖での漁船衝突事件を発端に、過去最悪と言われるまでに落ち込んだ日中の関係改善が求められているだけに、無関心ではいられない。
「一衣帯水の隣国である日中両国間では、大局的観点に立って、時に問題が生ずることがあっても、中長期的に安定した関係を築くことが重要だと考えている」、「現在、日中両国は『戦略的互恵関係』を充実させるべくともに努力しているが、両国ハイレベルや政府間での協力を通じて信頼関係を高めるだけではなく、幅広い分野で国民レベルでの交流を積み重ねることが求められている」――。
「日中改善のための積極的な声を表現した」と評価する在日中国語メディアもあったが、果たして菅直人首相は不得意とされるその外交で「谷底に落ちた日中関係」を改善することができるのだろうか。
歴代総理のなかでも異例の「年頭外交演説会」
菅首相自身の外交はここのところ変化が見られる。
1月20日、歴代首相としては初の「年頭外交演説会」が、東京の帝国ホテルで開催された。民間外交推進協会が主催するこの外交演説会は、通常国会の施政方針演説やダボス会議に先行するものであり、異例の形で行われた。
外交に絞っての演説は過去多くはないとも言われる中で、会場にはジョン・V・ルース駐日米国大使、ディビッド・ウォレン駐日英国大使、ミハイル・ベールイ駐日ロシア大使などをはじめとする各国大使、さらに政財界関係者ら600人を超える参加者が詰めかけた。
国内外に向けた菅直人首相の「発信力強化」のアピールに多くのメディアが注目、カメラは会場の二面を占拠、プレスだけでも会場の3分の1近くを占めているかのような熱気だった。
菅首相は「歴史の分水嶺に立つ日本外交」と題し、「外交安全保障政策の5本柱」として、「日米基軸」「アジア外交の新展開」「経済外交の推進」「地球規模の課題への取り組み」「安全保障環境への日本自身の的確な対応」を打ち出した。昨年6月に政権が発足して以降、普天間問題、日中関係、日ロ関係における菅首相の外交政策が問われる中で、予定の45分を超過しての熱の入れようだった。
日中関係については、「透明性をやや欠いた国防力の強化や海洋活動の活発化には懸念を抱かざるを得ない部分もある」と指摘しつつも、「2000年以上つきあってきた一衣帯水の隣国」とし、「日中関係は必ず発展させていくことができる」とした。
戦略的互恵関係」については「内容を深める努力を行っていくことが重要だと考えている。そのためには首脳同士のホットラインだけではなく、党間交流、民間交流をさらに深めて行きたい」と弁舌をふるった。
「打って出る外交」へ転換するも、中国側の反応は冷ややか!
振り返れば昨年10月、中国でも前原誠司外相の「ヒステリー発言(※)」が大きく取り上げられ、中国の民間人の間でも「外相としてあるべき発言ではない」との反発が出た。(※前原外相は船舶衝突事件をめぐる一連の中国側の対応について「ヒステリック」と述べたことが中国の報道でも取り上げられた。)
また、菅首相自身も、昨年11月の横浜APECにおいて胡錦濤国家主席と会談の機会を得たものの、「下を向いてメモを読みながら話す」という外交姿勢が大きく問われた。
その首相がついに反転攻勢に出たというわけだ。「打って出る外交」へと必死に舵を取り直そうとしている。事情通も「前原外相も北京で外相同士話し合う機会を模索するという希望があるようだ」と明かす。
しかし、中国側の反応は冷ややかだ。中国政府に近い人物は「発言は従来の焼き直し。日中関係の改善を全力で取り戻そうという気合いが感じられない。交流は当面、民間レベルにとどまるだろう」と話す。
経済面では2010年、日中経済は大きく伸びた。日本と中国の貿易総額は2977億ドルと過去最高に達し、また中国からの訪日旅行者数も141万人と、前年比40.5%の伸びとなった。だが、政治が足を引っ張る。
中国に進出する日本企業のビジネスの現場では、昨年9月以降、通関手続きの遅れ、日中交流イベントの中止、日本企業に勤務する中国人社員が被るいじめなど、その影響が出るたびに民主党政権への恨み節が口をついて出た。
また、日中の交流に長年携わる有識者たちも「自民党は濁っているとの指摘もあるが、日中人材には恵まれ、パイプ役はいくらでもいる」と、現政権への失望を隠せない。
支持率低下が危険水域にまで及んでいる菅内閣に対し、1月20日の人民日報海外版は「菅直人逆水行舟」と表現した。「逆水行舟」とは、中国語で「進まなければ押し流される」という意味だ。過去5年で5人も首相が交代した日本、さらに日中関係を落ち込ませた民主党への政権交代…。その不信感は、容易に払拭できるものではないだろう。
パキスタン・イスラム共和国
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%AD%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3
世界四大文明の地に再び安定繁栄の日は訪れるのか!
2011.02.10(Thu)JBプレス 竹野敏貴
今年(2011)1月4日、パキスタン、パンジャーブ州のサルマン・タシール知事が、首都イスラマバードで、大衆の目前、車から降りたところを自らの護衛警官に撃たれ死亡した。
またしてもパンジャーブ州で暗殺事件!
アシフ・アリ・ザルダリ大統領にも近い存在である知事は、イスラム穏健派として知られている。
キリスト教徒が犯したイスラム冒涜罪に対し寛容な態度を示していたことから、憤慨したイスラム急進派が犯行に及んだものだった。
暗殺犯はすぐさま拘束されたが、彼を英雄視する向きもあり、その釈放を求めデモに走る事態も招いている。
ザルダリ大統領夫人だったベーナズィール・ブットー元首相が、2007年、イスラム原理主義者に暗殺されたのもこのパンジャーブ地方。
そして、強権かつ親米姿勢で批判を浴び続けていたパルヴェーズ・ムシャラフ前大統領もこの地でたびたび暗殺未遂に遭遇している。
タリバンが実効支配するトライバルエリアも近く、軍司令部や情報機関もあるため、9.11同時多発テロ以降、自爆事件などテロ行為は増え続け、治安は悪化の一途である。
「パンジャーブ」と言われてもいま一つピンとこないかもしれないが、もともと「5つの川」を意味し、インダス川とその支流が潤す豊かな穀倉地帯のこと。
今では、パキスタンとインドをまたぐ地域となっている。昨年の洪水ではともに大被害をこうむったことは記憶に新しい。
世界四大文明の1つ、インダス文明発祥の地だから、学校の世界史で真っ先に習う誰もが知っているはずの地でもある。
とはいえ、そのインダス文明の有名な遺跡モヘンジョダロやハラッパ―に行こうと思っても、どこに反欧米勢力が潜んでいるか分からないから、それなりの準備ができなければ、やめた方がいいだろう。
アショカ王時代に文明の最盛期を迎えるインダス川流域!
そんな古代文明発祥の地に、初めて侵入した西洋勢力と言えば、カイバル峠を越えてはるばる東方遠征にやってきたアレクサンドロス大王。紀元前4世紀のことである。
大王の死後、その地を奪い返したマウリヤ朝がさらにデカン高原をも征服し、インド・アジア大陸に初の巨大統一国家を築き上げることに成功する。
『アショカ』(2001/日本未公開)でボリウッドと呼ばれるインド映画界の大スター、シャー・ルク・カーンが演じたアショカ王の時代に、国は最高潮を迎えることになる。
その征服の過程で犯した残忍な戦闘行為を反省したアショカ王が、仏教による平和な統治へと政治を変えていったと言われている。
もっとも、そこには政治的意図も少なからずあり、既に浸透していたバラモン教による身分階級制で民衆が分断されていたため、速やかな支配のためには階級制度のない仏教の精神を利用した方が有利、と考えたようである。
ギリシャ人の顔をした仏様!
その時代に仏教の中心地となったタキシラの遺跡や博物館を訪れてみてまず気づくのが、仏像の顔が西洋人ぽいことである。
アショカ王亡き後、衰退してしまったマウリヤ朝の地は、再度侵入したギリシャ人勢力「インド・グリーク王朝」の中心地となっていった。
そこで、「人間に似せた神」というギリシャ人の伝統を取り入れ、それまで人間の姿で表現することがほとんどなかった釈迦の姿を仏像として表すようになり、仏像もギリシャ人的になったというわけだ。
これこそヘレニズムという初めての大々的東西文化融和であるのだが、明らかなる異民族がバラモン教社会に食い込むことにより、階級区別のない仏教の方が楽という、純粋な文化的融合以上の政治的意図がギリシャ人の側にもあったのである。
そんな為政者たちにとって有用な道具だった仏教も、中世以降、インドでは少数派となってしまった。
現代史を大きく動かしたアムリトサル!
パンジャーブ地方でも、ヒンドゥー教とイスラム教が幅を利かせるようになっていたが、16世紀には新たに登場したシク教の中心地ともなっていく。
そして、20世紀。そのシク教の聖地アムリトサルが現代史を大きく動かす舞台となる。
9.11後の米国愛国者法にも似た強権的対テロ法とも言えるローラット法が英国政府により発布された1919年。
抗議に詰めかけた大衆が開いたアムリトサルでの集会に軍が発砲、多数の死傷者を出す大惨事となってしまう。
反英運動に火をつけたこの事件は、マハトマ・ガンジーの非暴力運動の原点ともなっていくのだ。
イスラム教徒への寛容が原因で暗殺される!
こうして、インド独立への道をひた走るガンジーは、たびたび暗殺の脅威に見舞われた。『ボワニー分岐点』(1956)はパンジャーブでのガンジー暗殺を防ぐ英国・インド人ハーフ女性の活躍を描いている。
主人公の悩みは、自分の血の行き所。英国支配時代はその有利さを何とはなしに享受していたが、独立へと向かう中では、一体どちらの血に忠実になるべきか分からなくなる、という血のジレンマである。
幾多の暗殺の危機を免れてきたガンジーだったが、最後にはデリーで、イスラム教徒への寛容性を嫌ったヒンドゥー原理主義者の手にかかり殺されてしまう。
そして、再びパンジャーブが南アジアの血腥い歴史の舞台となるのが1984年。度重なるシク教徒との争いに業を煮やし、時の首相インディラ・ガンジーが、その総本山を急襲するブルースター作戦を敢行、リーダーであるジャルネイル・シングを殺害してしまったのである。
内外から少なからず非難も出たこの強硬策は、結局、インディラ・ガンジー自身が、ニューデリーの首相官邸でシク教徒である自分の護衛に殺害されるという悲劇を呼ぶことになってしまう。
血で血を洗う歴史!
まだ血の歴史は止まらない。亡き母の遺志を継ぎすぐさま首相に就任したのが息子のラジブ・ガンジー。
しかし、スリランカ内戦に軍事介入したことが命取りとなり、少数派抵抗勢力タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)の自爆テロにより、退任後の1991年暗殺されてしまうのである。
そんなスリランカ内戦も、LTTEの指導者ヴェルピライ・ブラバカランが2009年殺害されることで、ようやく終結した。英米で活躍するタミル人女性ラッパーM.I.A.の父親はそのLTTEのメンバーだったという。
M.I.A.という名前は Missing in action(戦時行方不明)の略で、父親が内戦で行方不明になったことから名乗るようになったもの。
そんな彼女の意味深な歌詞のヒット曲「Paper plane」が挿入されている映画『スラムドッグ$ミリオネア』(2008)は、アカデミー賞を総なめにした大ヒット作品だ。
自分を弄んだ男たちを次々と殺害!
主人公はヒンドゥー教徒から迫害を受ける貧しいイスラム教徒の少年。宗教的な職業選択の締め付けはなくとも、現実に貧困層であることの多いイスラム教徒にはまともな仕事は少ない。
一方、ヒンドゥー教徒はと言えば、カーストにより就ける仕事は限られてしまう。もちろん現代社会では、特に都市部でその傾向は薄らいできているのだが、やはり自由度は低い。
そんな中でも、最下位カースト、隷属民に当たるシュードラの現実は酷いものだ。そのシュードラに属する実在の女性プーラン・デーヴィーの半生を描いたのが『女盗賊プーラン』(1994)である。
かつて自分を弄んだ男たちを次々と殺害するなど数々の殺人や強盗を繰り返したものの、一部の者からは義賊と見なされ“Bandit Queen(盗賊の女王)”として親しまれていた。
そのプーランが、インディラ・ガンジー政権との司法取引により極刑を免れることを条件に投降するまでが描かれている。
米国でも下院議員の狙撃事件が発生!
しかし、映画公開の年1994年には、下位カーストの政治参加という公民権運動と連動したポプリスモ政党の尽力もあって、あっさり彼女は釈放されてしまう。
さらに1996年には、国会議員にまでなってしまうというどんでん返しには、法治国家とは何たるものかと再考させられたものだ。そんな彼女も、2001年、射殺されて波乱の生涯を閉じている。
ここまで血塗られた話が続いたが、暗殺がこれほど横行していれば、いくら民主主義的選挙制度を使おうと、それにどれだけの意味があるのかと考えてしまう。
それでも、洗練された民主主義先進国の欧米だったら大丈夫だろうと思いきや、1月4日のパキスタンでの知事暗殺から何日もたたない1月8日には、米国アリゾナ州ツーソンからガブリエル・ギフォーズ下院議員狙撃のニュース。
もっとも、これは宗教や政治的意図と言うよりも、年に何度かある無差別銃乱射事件のようでもあるし、ツーソンと言えば『リオ・ブラボー』(1959)など数多くの名作西部劇のロケ地として使われたところだから、そんな土地柄なのか、とも思ってしまう。
インドよりも宗教的に寛容でない米国!
インドよりも宗教的に寛容でない米国
しかし、現職議員への狙撃事件というインパクトも米国以外ではあまり大きく取り上げられないほどに、9.11以後の世界は殺伐としている。
『マイ・ネーム・イズ・ハーン』(2010/日本劇場未公開)では、米国に移り住んだイスラム教徒のインド人が、9.11後のイスラムフォビアの集団ヒステリーの中、子供を失ってしまったばかりか、自身、テロリストと疑われ拘置までされてしまう。
ヒンドゥー教徒の妻とは宗教の壁を乗り越えて幸せな生活を送ってきた主人公は、思いもよらぬ米国の宗教的不寛容に直面するのである。
「民主主義最先進国」での宗教的現実は、インド人同士の宗教的不寛容の比ではなかったのである。
この作品で、主人公を演じたのが自身イスラム教徒でもある『アショカ』の主演俳優シャー・ルク・カーン。インドでは押しも押されぬ大スターである。
大スターでもテロリスト扱いする米国!
しかし、インド人社会以外での認知度は極めて低く、欧米でも全国的に作品が公開されることはあまりない。
そんな中、珍しく、多くの地域で公開され好評を得たのがこの作品である。日本でも劇場公開こそなかったが、日本語吹替えつきのDVDが発売された。
映画同様に、カーン自身、“Khan”という名前やその風貌から、米国入国時テロリストと疑われ、別室検査となり長時間足止めを喰らった経験があるという。
私も、顔色が日本人離れした黒さで、そのうえ無精髭を生やそうものなら、たちまち言いがかりをつけられ、しばらく足止めを喰らうことなどたびたびなので、その屈辱的気分はよく分かる。
カーンほどの大スターが米国では全く認知されていないという証拠でもある。
世界四大文明と言えば、ここまで見てきたとても平和とは言い難いインダス川流域以外に、チグリス・ユーフラテス川、ナイル川、黄河・長江といった大河の流域に栄えた古代文明がある。
残る四大文明の1つ中国は安泰か?
チグリス・ユーフラテス川の文明の地イラクでは、9.11後の米国が掲げる自由の押しつけに始まった軍事侵攻で、独裁者サダム・フセインこそ排除できたが、その後訪れた宗教的民族的不寛容に基づくカオスの中、市民治安の悪化に全く歯止めをかけられていない。
一方、ナイル川が育んだ豊かな歴史の地エジプトのホスニー・ムバラク親米政権は、冷戦後世界の大きな不安定要因となっているパレスチナ問題の貴重な緩衝材となってきた。しかし、今、反政府運動の巨大な波に飲み込まれようとしており、先行きが全く見えなくなっている。
そして、残るはあと1つ。黄河・長江に栄えた太古の歴史を誇る中国であるが、共産党一党支配による押さえつけあるが故に、結果的には四大文明唯一の安泰地域となっている。
しかし、もしこの地にアラブから始まった改革の波が押し寄せれば、他の3者の比でない影響が世界に起こることは想像に難くないだけに、その動向に世界の目が集まっている。
防衛計画の大綱
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E8%A1%9B%E8%A8%88%E7%94%BB%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%B6%B1
歴史と将来予測で考える国防の未来!
2011.02.11(Fri)JBプレス 高井三郎
昭和51年における防衛計画の大綱成立の経緯!
平成23年度以降に係る防衛計画の大綱」(23大綱)は、従来の基盤的防衛力に代わる動的防衛力という構想を導入した。ところが、「動的防衛力の意義が一般国民には分かりにくい。
高度な技術力と情報力が支える即応性、機動性、柔軟性、持続性及び多目的性を具備した動的防衛力を建設するというが、それは、どこの先進国でも保有すべき現代軍事力の一般原則ではないか。
これまでの基盤的防衛力とは、どのように違うのか」など、もっともな疑問を抱く声も聞こえてくる。
しかるに、動的防衛力の当否はさて置き、1976(昭和51)年に作成された「防衛計画の大綱」(51大綱)の成立の経緯を先ず再確認する。ちなみに、基盤的防衛力は「51大綱」における構想であった。
1954(昭和29)年7月に、保安庁・保安隊をベースにして防衛庁・自衛隊が発足した。
その4年後の1958(昭和33)年から、3年間に及ぶ第1次防衛力整備計画(1次防)が始まり、爾後、それぞれ5年間の第2次、第3次、第4次各防衛力整備計画(2次防~4次防)が通算18年間、続いたのである。
その前提条件は、1953(昭和28)年に保安庁が作成した長期防衛力整備計画案であった。
4次防が終わる1976(昭和51)年になると、先の長期防衛力整備計画案に代わる「防衛計画の大綱」(51大綱)が成立した。
これに基づいて、当初3年間は諸般の事情による単年度ごと業務見積もり、その後、5年ごとの中期防衛力整備計画が4回、すなわち「51大綱」「08大綱」「17大綱」「23大綱」と続いて、現在に至っている。
基盤的防衛力の背景と問題点!
成2年度及び同4年度の防衛白書は、「51大綱」における基盤的防衛力の考え方を次のように要約して説明している。
「我が国に及ぶ軍事的脅威に直接対抗するよりも、自らが力の空白になって周辺地域に不安定要因を形成しないように努める。このため、独立国として必要最小限度の防衛力を保有する」
思うに、我が国に迫る軍事的脅威を破砕するために十分な防衛力の整備こそ、地域の力の空白を埋める役割を果す。
しかるに、各国が真に役立つ防衛力の整備に努める一方で、大綱成立以来、政府が公言してきた必要最小限の防衛力しか持たない我が国は、まさに力の空白になり、真っ先に侵略の標的にされる憂き目に遭う。
基盤的防衛力の要点の1つである「限定小規模侵攻には我が国が独力で対応し、大規模な本格侵攻対処は安保体制下の米軍に期待する」という考え方も、大綱作成当時から批判されていた。
我が領域の占領を目指す敵は、有力な戦力を調えて、しかも直接侵略に間接侵略を連携し、容易に敗れない態勢で侵攻してくるのが通常の状態である。
さらに、今でも変わらない米軍に大幅に依存する他力本願の体制は自主防衛とは言えず、しかも国家の権威に関わる大問題である。
もとより大綱は、基盤的防衛力を永久的な方針とは見做していなかった。すなわち、当面の情勢に重大な変化が認められる場合には、新たな防衛体制へ移行すると言及している。
それは、各国の軍備に見られる有事に人的物的戦力を急速膨張(エキスパンド)させる動員体制にほかならない。しかしながら、大綱成立以来35年が過ぎても、肝心な有事の動員に応える人的物的両面の予備戦力の充実は実現していない。
陸上自衛隊を例に取れば、これとても規模が小さい予備自衛官の定員は3.9万人から5.2万人(新設の即応予備を含む)とわずかに増えたが、常備自衛官の定員は18万人から15万人へと逆に減らされた。
旧陸海軍の戦用備蓄に類する物的戦力の縦深性の付与、各国に見られる武器弾薬を増産する国防産業動員体制、自衛隊の地域警備力、後方支援能力及び災害対処能力を補い社会の安定を図る民間防衛体制の整備もいずれも皆無に近い。
要するに基盤的防衛力には、有事に戦力を急速膨張させる計画が欠けていた。
およそどこの国でも、有事所要戦力を普段から常備することは経済上の理由から不可能に近い。
従って、平時には応急対処戦力(例えば、領域警備力、防空手段、即時反撃戦力)を調えておき、緊急事態になるとその掩護下で予備戦力を急速動員するのが通常の在り方にほかならない。
顧みるに、「51大綱」の作成当時、防衛庁当局は「1次防から4次防までは脅威に見合う所要防衛力を追求してきたが、これからは経済性、効率性を重視する基盤的防衛力に切り替える」と国民に説明した。
しかるに、1次防~4次防の各事業とその実績も所要防衛力に届かずに終わっている。
1960年代半ばから、左翼政党、進歩的文化人および一部のマスコミは「防衛費に歯止めをかけよ!」と盛んに叫び始めた。
このような政治社会情勢に押された三木武夫政権は、「51大綱」と基盤防衛力の成立直後に年間防衛費の総額をGNP(国民総生産)の1%以内にとどめる政策を決めたのである。
1987(昭62)年になると、中曽根康弘政権は総額明示方式に転換したが、防衛費が大きく脹れ上がったわけではない。
たわいないことに同年の防衛費がGNPの1.02%とわずかに増えただけで、左翼政党および反体制評論家は「公約に反する中曽根軍拡の始まり」と痛烈な非難の矢を浴びせかけた。
これより先、自民党の有力な政治家は、「これまでの通り、5次防、6次防、7次防と呼んでいけば、国民に対し防衛費が際限なく増えていく印象を与えるので、呼び方を変えよ!」と防衛庁当局に注文した。
それ以来、第○次防衛力整備計画でなく、中期業務見積もり及び中期防衛力整備計画と呼んで現在に至っている。
しかしながら、それは看板の取り換えに過ぎず、原則として5年ごとに重ねていく計画の本質は4次防以前と全く変わらない。
むしろ慣れ親しんできた簡明な呼称の変更は、実務担当者の業務を妨げ、一般国民に対し防衛力整備の成り行きを以前よりも分かりにくくするという弊害を生じた。
所要防衛力の見積:警察予備隊・保安隊時代!
1945年8月15日における第2次大戦の終結に伴い、我が陸海軍は解体し、米国主導の占領軍当局は軍備を禁じた憲法の制定をはじめ一連の非軍事化政策を推進した。
ところが、その後間もなく米国政府には、ソ連を中核とし強化の一途を辿る共産主義陣営に対抗するため、日本を再軍備する考え方が抬頭していた。
たまたま、1950年6月25日に北朝鮮軍が韓国に奇襲侵攻して朝鮮戦争が勃発し、急遽、在日米陸軍の主力が朝鮮半島に出動した。
このため、米軍出動後の治安警備の穴埋めとして、占領軍当局は警察予備隊の編成を吉田茂総理に命じたのである。
一方、我が国の政官界、有識者などにも、占領軍が与えた非武装憲法に多大な疑念を抱く向きが少なからず存在した。
このため、朝鮮戦争さなかの1950年10月に、厚生省復員局所属の軍人出身職員から成る研究機関が、再軍備構想を盛る「研究資料」を作成して政府に提出した。
同試案は、国防省を創設し、20万人規模の陸軍、空海軍(筆者注:原文通り)を8年間に1000億円を投じて建設するという内容であった。
1951年9月には、サンフランシスコ平和条約により我が国は独立を回復し、その後、現在に至るまで防衛の基本を成す日米安全保障条約も締結されて、日米双方の再軍備の研究作業も本格化したのである。
そこで、1951年10月から約半年間にわたり、旧海軍の軍人および米海軍の首脳部から成る「Y委員会」という合同研究機関が、日本再軍備に関する審議を重ねた。
その結果、海上自衛隊の前身である海上警備隊の創設、米国からの艦艇の貸与等を含む海上戦力の在り方を取りまとめた。
同じ頃に、民間の渡辺経済研究所の「防衛計画研究委員会」も再軍備の試案を作成し、1951年末に吉田総理に報告した。
一方、経済団体連合会の「防衛生産委員会」も再軍備構想の研究を手がけていた。同委員会は、独自の作業に加え、Y委員会および渡辺経済研究所の各案も参考にして「防衛力整備に関する一試案」を作成し、1952年8月に政府に報告した。以下はその大要である。
●陸上:15個師団、30万人
●海上:29万トン、7万人=護衛空母4、潜水艦8、巡洋艦4、駆逐艦13、海防艦150、輸送艦14、海軍機750など
●航空:2800機、13万人=哨戒機260、戦闘機1000、爆撃機380など
●総兵力は50万人、軍備整備期間は6カ年、経費は3兆円(注:1952~54年の一般会計予算は約9000億円、現在は約92兆円)
上記の試案は、我が国周辺の戦略環境、特に将来の脅威と作戦様相、地理的条件、国土地形の特色、社会の動態、防衛生産力、安保体制などを総合的に考慮して作成された。
それは、何と言っても旧陸海軍生え抜きの軍事プロの研究作業であり、戦略戦術上の妥当性と具体性に富む策案である。
現役兵力50万人と言えば、自衛隊の定員24万人しか知らない今の一般国民は恐らく驚くであろうが、決して誇大な数字ではない。
ちなみに現在、人口約6000万人の韓国は60万人、人口2200万人の台湾は27万人の常備兵力を擁している。両国とも我が国よりもはるかに国土が狭く、台湾本島は我が九州程度に過ぎない。付言するに、1950年代当時の我が国の人口は8000万人であった。
昔から大衆は防衛を支える財政事情を大きな問題にする。ところが当時の研究担当者は、現代戦を戦うための兵器装備の国産能力は、経済の回復に伴い、年を追うごとに向上するものと見ていた。
実際に1950年代後半以降、我が国の経済は戦争の痛手から立ち直って高度成長を遂げ、兵器装備の開発生産も可能になった。
むしろ研究担当者は、自主防衛の絶対的な要件とも言うべき一般国民の愛国心と国防意識の高揚、すなわち無形的戦力強化の可能性に疑問を抱いていた。
終戦からわずか数年足らずの当時は、一般国民には戦時中の惨害の記憶が生々しく、占領軍による非武装憲法の制定はじめ徹底した非軍事化政策、それにソ連が背後で支える左翼の宣伝謀略も手伝い、反戦・反軍気分が社会に漲って(みなぎって)いたからである。
一方、先に触れた再軍備論者の存在とは裏腹に、政官界の中には、非武装憲法の制定からわずか数年後に情勢の変化を理由に、なりふり構わず再軍備を要求する米国政府の動きに否定的な向きも多かった。
遺憾ながらその影響は今も続いており、憲法9条の改正も自衛隊の国軍への昇格も、まさに前途遼遠である。
再軍備研究担当者が懸念した当時から60年を超える今では、一般国民の愛国心と国防意識が一層低下して防衛政策の進展を妨げている。「51大綱」以来の防衛力整備計画は、このような負の遺産の背景の下に作成されてきたのである。
池田・ロバートソン会談と米国の戦力増強要望及び日本側の対応!
1953年10月、すなわち所要防衛力を説く「防衛力の整備に関する一試案」ができた約1年後に、米国のワシントンD.C.で、政府特使の池田勇人自由党政策調査会長とウォルタ-・ロバ-トソン国務次官補の間で、日本の防衛力強化の在り方に関する意見交換が行われた。
この時に米国側は、4ないし5年間で、保安隊、海上警備隊の増強と空軍(1954年以降の航空自衛隊)の新設を要望した。その大要は次の通りであった。
●陸上:10個師団、32.5万~35万人
●海上:フリゲ-ト18隻、上陸用艦艇50隻、掃海艇40隻など
●航空:実用機800機(要撃戦闘機225機を含む)
●対日軍事援助3億ドル(換算値1080億円、1953年度防衛費約1200億円)
これに対し、日本側が約束した回答は次の通りであった。
●陸上:3年間に保安隊の定員11万人を18万人まで増強
●海上:5年間に15万トン、210隻(船団用護衛艦74隻、掃海艇31隻など)
●航空:5年間に実用機518機(注:会談から約1年後に航空自衛隊を新設)
会談の席上で米国防総省代表は、極東ソ連軍の対日侵攻戦力は50ないし60師団、作戦用航空機約6000機に達しており、従って日本は領域の防衛上、10師団基幹の32万ないし35万人の陸上戦力が必要であると強調した。
これに対し、外務省の随員兼通訳を勤めた宮沢喜一元総理はじめ文民各位は、「米国側が増強を要望した兵力や装備の数字には根拠がなかった」と回想している。
しかしながら米国側の要望内容は、1952年末までに作成された日本側の「防衛力整備に関する一試案」の見積もり作業の結果が反映されていた。
要するに、Y委員会案から本試案までの各作業は、日米両軍事レベル間の意見交換の成果を参考にして作り上げた根拠に富む数字を網羅する。
まず、航空戦力の所要は在日米空軍撤退後の状況を想定し、当時日本本土に配備されていた第5空軍の3個航空師団約800機の規模を参考にした。
これに対し海上戦力の場合は、長大な海上交通路の船団護衛、沿岸航路による陸上部隊の転用に必要な海上機動力および沿岸航路と港湾の掃海手段が考慮された。
陸上戦力の所要10個師団、32万ないし35万という数字も軍事的な根拠に富む結論である。
極東ソ連軍の予想侵攻正面は、北海道、東北を含む北日本、新潟、若狭を含む中日本が有力であった。当時は朝鮮戦争の停戦から3カ月後であったが、将来情勢が悪化すれば、壱岐、対馬、北九州を含む西日本への侵攻も絶無でないと想定されていた。
極東ソ連軍は、北、中または西日本の正面に第1波として3ないし4個地上師団と1ないし2個空挺師団、2ないし3週間後に第2波として第1波と同数の兵力が来攻するものと予期されていた。
これらの主要な根拠は、極東におけるソ連の船舶および輸送機の稼働率と回航能力にあった。各正面において第1波の侵攻を破砕するためには、空海戦力に支援された優良装備の3ないし4個師団が最低限必要と算定された。
我が国土地形の特色から見て、各正面には、第1波対処用の師団を普段から配備しておかなければならない。
日本列島は大小の島嶼から成り、敵側に面して左右に広がっているので、地上戦力の主力を列島の中央に集結させておき、敵が来攻する正面に対し迅速に集中するという内線作戦の原則を適用できないからである。
1950年代における極東ソ連軍の海空機動力および支援火力は、1回に1正面への侵攻に限られていた。
しかしながら将来、火力、機動力が向上すれば2正面同時侵攻も可能になり、さらには情勢が悪化した半島からの西正面侵攻に北または中正面侵攻が連携する事態も否定できなかった。
このような見積もりから、北、中、西各正面に初期対処用の地上戦力を普段から配備しておく必要性が認識された。なお、例えば北正面において第1波、第2波との交戦が長期化するなどの事態には、別の正面の師団を北正面に抽出転用する計画も必要であった。
動的防衛力への期待!
田・ロバ-トソン会談以降の防衛政策は「初めに経済ありき!」にほかならず、軍事的妥当性に欠けていた。
従って、常備戦力は、所要防衛力とは似て非なる控え目の規模に抑えられて現在に至っている。
陸上戦力の定員18万人体制は、約束の3年後でなく、なんと20年後の1973年にようやく実現した。
しかも人件費の制約上、充足が16万人足らずで、冷戦終結の煽りによる防衛費の抑制も祟り、定員が18万人から15.4万人へと大幅に引き下げられた。
「23大綱」を見るに、限られた防衛費の総枠内でのやりくりの苦労の跡が顕著であり、例えば、PAC-3装備部隊、イ-ジス艦、潜水艦等を増やすため、陸の1カ高射特科群、戦闘機10機、4カ警戒管制群、戦車400両、火砲400門などが犠牲になっている。
手薄であった南西諸島の防衛力強化政策が俎上に載ったことは好ましいが、同正面の事態に連携する五島列島、壱岐、対馬への侵攻に加え、長期視点から北、中各正面の潜在脅威、国内治安警備も無視できない。
特に、侵略基盤の扶植と防衛力の弱体化を狙う浸透、潜入、社会の攪乱など間接侵略対処には、相当な数の警備兵力が絶対に必要である。要するに、侵攻の脅威が尖閣、先島だけであれば苦労はない。
これまでは主として米軍のプレゼンスが抑止力を維持し、朝鮮戦争の再発もなく、我が国の防衛は不十分な常備戦力でこと足りてきたが、将来はその限りでない。
動的防衛力の表現の当否もさることながら、中身の充実、特に戦後の再軍備当初の姿勢に立ち返り、短期、長期両視点からの所要防衛力はもとより、防勢戦略の在り方の再検討も必要である。
それ以上に、1957年以来、国防の基本方針が強調する国民の愛国心と防衛意識の高揚及び軍事知識の普及と向上を期待して止まない。何と言っても、国防の主役は、在日米軍でなく日本国民である。
2011.02.10(Thu)The Economist JBプレス
菅直人首相はここ数十年間で最も大胆な改革を日本に提案している。
日本の機能不全を測る尺度の1つは、この国の制度が弱い政治家がトップに上り詰めるのを許し、次の凡庸な人物を選んでは新首相を次々ポイ捨てするやり方だ。昨年6月までの4年間で、4人の短命な首相がいた。いずれも迫力に欠ける人物だった。
6月以降その座にある菅直人首相は、これと同じ悲惨な型にはまったタイプに見えた。菅氏が政権に就いて実現したことはほとんどなく、メディアと野党、そして自身が率いる民主党の多くの議員が菅氏の追い落としに躍起になっている。
しかし、菅氏が前任者たちに続いて歴史の塵と消えるかと思われたちょうどその時、彼はこの20年間の経済停滞期に試されたどんな政策よりも急進的な改革をまとめ上げた。外国人を魅了し、優勢なうちに退任した小泉純一郎元首相(2001~06年在任)でさえ、これほど大胆なことは試みなかった。
無謀とも言えるほど野心的な改革!
政策は、無謀とも言えるほど野心的だ。菅氏は社会保障を全面的に見直す計画で、日本の将来の社会保障費の支払い能力について、より信頼できる保証を与えようとしている。また、国債発行額が税収を上回り、世界有数の巨額債務を抱える国の財政を安定させる手段として、6月までに消費税率引き上げに関する計画をまとめることになっている。
反対派は、消費税増税はただでさえ窮地にある経済をダメにすると述べている。しかし極めて重要なことに、改革案は財政引き締めと成長刺激策を一体化している。菅氏は、交渉参加国が米国を含む9カ国に拡大した急進的な地域自由貿易圏、環太平洋経済連携協定(TPP)に日本を参加させたいと考えている。
TPPへの参加は、世界でも指折りの手厚い保護政策下にある日本のコメに対する貿易障壁を取り除くために、農業ロビー団体を屈服させることを意味する。
菅氏が米国志向の貿易圏を優先する姿勢は日米同盟復活に向けた同氏の取り組みと一致しており、日本の首相としては小泉氏以降初めて、中国の台頭への対応と世界における日本の地位に関するビジョンを明確にしている。
提案は経済的に理にかなっている。これは日本では珍しいことだ。
しかし、労働組合の強い支持基盤を持つ民主党内でも、声高に反対する議員は多い。数十年間政権を握り、日本の混乱の大部分の責任を負う野党自民党は、政府を引きずり降ろそうと決意している。もし自民党が今春の予算案成立阻止に成功すれば、菅氏も、氏の提案も一巻の終わりとなるだろう。
ミスター菅、国民に委ねなさい!
菅氏は自身の助けになるようなことをしていない。抜け目のない政治家ではあるが、演説は下手で、小泉氏のような華やかさは全くない。しかし、菅氏には奥の手がある。古い政治に対する国民の不満の高まりである。
もし自身の改革に対して政治家の支持を得られなければ、小泉氏のように、政治家の頭越しに農家などを甘やかすことにうんざりしている都市部の有権者にアピールすべきだ。今のところ、国民は態度を決めかねているように見える。世論調査は、自由貿易についても消費税増税についても、複雑な感情が入り混じっていることを示唆している。
しかし、ビジネスマンや読売新聞(発行部数1000万)のような新聞は、菅氏に対する当初の敵意を乗り越え、同氏の改革を支持するようになっている。自民党の長期にわたる議事妨害は、同党にはすり合わせるべき建設的な2案などないということを示すだけだろう。
菅氏は、自身の職と民主党に対するリスクを伴おうとも、解散総選挙に踏み切らざるを得なくなるかもしれない。有権者が外国とのさらなる関与を嫌がる可能性もある。しかし自身の改革案が無謀さの結果ではなく信念の産物であることを証明するために、菅氏は勇気とリーダーシップを示さねばならない。
もし改革案を通すことができれば、菅氏は日本が、ある観測筋が言うような「フロントガラスに潰されるのを待っているただのハエ」ではないということを世界に証明したことになる。
© 2010 The Economist Newspaper Limited. All rights reserved.英エコノミスト誌の記事は、JBプレスがライセンス契約 に基づき翻訳したものです。
英語の原文記事はhttp://www.economist.comで読むことができます。
サムスングループ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97
ロッテ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%86
サムスン対ロッテ、グループの威信懸け一歩も引けぬ!
2011.02.10(Thu)JBプレス 野口透
韓国で熱い女の闘いが繰り広げられている。サムスングループとロッテグループのオーナー会長の長女2人が、仁川と金浦空港の免税店ビジネスを巡って激しい争いを演じているのだ。
サムスン対ロッテ、勝つのはどっち?
プライドをかけた2人の女帝の争いは訴訟合戦にまで発展。韓国の経済界はいま、この話題で持ちきりとなっている。
争いの主役は、李健熙(イ・ゴンヒ)サムスン電子会長の長女とロッテグループの重光武雄(韓国名・辛格浩=シン・キョクホ=)会長の長女だ。
もちろん2人とも単なる「財閥会長のお嬢様」ではない。
李健熙会長の長女である李富真(イ・ブジン)氏(40)はホテル新羅の社長。一方の重光会長の長女である辛英子(シン・ヨンジャ)氏(68)も百貨店事業のロッテショッピング社長と、ともに名うての経営者なのである。
年齢差はあるが、2人とも「父親譲りの経営手腕」でグループ中核企業のトップを務める実力者だ。
サムスングループの一翼を担う!
李富真氏は延世大学児童学科卒後、サムスン電子などを経てホテル新羅入りした。3人兄妹の中で、経営者としては最も積極的な性格と言われる。
2004年にホテル新羅の常務に就任して以来、グループ経営の一翼を担っている。
現在は、グループの事実上の持ち株会社であるサムスンエバーランドの社長を兼ねるほか、サムスン物産や石油化学事業などにも関与し、「将来はサムスングループの一部を分割継承する」との見方も強い。
一方、ロッテショッピング社長の辛英子氏は梨花女子大家政学科卒後、父親のそばで事業を学んだ。
特に中核事業である流通業については、ロッテショッピング(百貨店)の創業にも関わった。グループ経営の後継者は弟の重光昭夫氏と言われているが、姉である辛英子氏がグループ内で最高実力者の1人であることは間違いない。
ロッテが先行するも、新羅がシェア3倍の大攻勢!
ホテルと百貨店。一見すると直接競合することはなさそうだが、新羅とロッテに「免税店」を付ければ、韓国通ならばピンとくるかもしれない。
そう。東アジアのハブ空港として利用者数を急増させている仁川空港を歩けば、すぐに目につくのがこの2つのブランドの免税店だ。
この2人こそ、高収益事業として知られる免税店事業の総責任者なのである。
激突の第1ラウンドは昨年火ぶたを切った。仁川空港で、新羅、ロッテに次ぐ3番目に大きい免税店を経営していた「AK免税店」をロッテが買収したことに端を発する。
免税店事業ではロッテが先行していた。しかし、李富真氏が常務になって以来、新羅が大攻勢をかけ、国内シェアを10%強から一気に3倍近く引き上げた。ロッテの辛社長は、この買収で一気に新羅の追撃を突き放す狙いだった。
AK買収でロッテのシェアが50%超へ!
これに新羅が猛反発した。2007年に仁川空港が免税店事業者を選定した際、「1グループが2つの企業を通して免税店を営業してはいけない」などの規定があったためだ。
新羅は、裁判所にロッテが買収したAK免税店の営業停止を求める仮処分を申請した。この訴訟は結局、「規定は事業者を選定する際にのみ適用された」として裁判所が仮処分申請を却下。ロッテが勝利した。
AK免税店の買収で、ロッテの韓国内免税店市場でのシェアは50%を突破。ロッテの強さを見せつけた形になった。
ところが、これで引き下がる李富真氏ではなかった。
2010年11月、李富真氏は、フランスの複合高級ブランド企業LVMHモエヘネシー・ルイヴィトンのベルナール・アルノー会長と、ソウルの新羅ホテルで会談。ルイ・ヴィトンのブランドショップを仁川空港に出店することで合意したと発表したのだ。
世界初、ルイ・ヴィトンが仁川空港に出店した理由!
ルイ・ヴィトンの仁川空港出店」は、世界のファッション、ブランド品業界を震撼させた。
と言うのも、ルイ・ヴィトンはこれまで「ブランド価値維持」のために、世界中のどの空港にも出店してこなかったからだ。
「ルイ・ヴィトンがアジアの空港に出店する」との噂は数年前からあったという。
関係者によると、ロッテグループも猛烈に働きかけていたという。しかし、アルノー会長は李富真氏の父親である李健熙会長と旧知で、こうしたファミリーとグループの人脈を総動員して「仁川誘致」を成功させた。
李富真氏は昨年末のサムスングループ人事で、ただ1人だけ専務から副社長を飛び越して社長に昇格した。この2階級特進の最大の理由が「ルイ・ヴィトン誘致」だったとする声も多い。
次なる戦いの場は金浦空港!
ルイ・ヴィトン誘致は、熾烈なハブ空港競争を繰り広げている仁川空港にとって朗報だった。テナント料や出店場所などで最大限配慮し、あとは開店を待つだけだった。
ところが、ロッテが黙っているはずがない。ロッテ免税店は2011年1月、仁川空港公社に対して、新羅-ルイ・ヴィトンとの出店契約を禁ずる仮処分申請を裁判所に出した。
ルイ・ヴィトン出店に際しての条件が他の免税店に比べて著しく優遇されていることが、ロッテと空港公社との契約に違反しているとの訴えだ。
ルイ・ヴィトン誘致で一敗地にまみれた辛社長にしてみれば、ロッテの牙城である仁川空港で新羅に勝手放題させることなど絶対に認められないとの強烈な意志の表れと言える。
実は新羅とロッテには、この裁判の行方以外に次の戦いも待っている。
金浦を独占するロッテ、新規参入狙う新羅!
その主戦場は金浦空港だ。金浦空港は、国際線ターミナルの拡張に伴い免税店の面積を約2倍に増やす計画で、2011年春にも事業者を選定する。
現在、金浦空港の国際線ターミナルの免税店を運営しているのはロッテだけ。
ロッテは、これまでの実績をテコに店舗拡張を狙っている。これに対して、新羅は新規参入の意向を見せている。
普段から日本人にも馴染みが深い仁川、金浦空港。買い物の機会も多いと思う。しかし店員のにこやかな笑顔の裏では、新羅とロッテというそれぞれの看板を背負い、2人の女性社長がすさまじい暗闘を繰り広げているのだ。
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魚沼コシヒカリ理想の稲作技術『CO2削減農法研究会』(勉強会)の設立計画!