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金正男
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%AD%A3%E7%94%B7
中央日報日本語版 10月26日(火)11時50分配信
北朝鮮の金正日(キム・ジョンイル)国防委員長の長男、金正男(キム・ジョンナム)氏も「北朝鮮の崩壊の可能性」を頭に置いているようである。
イ・ギテク民主平和統一諮問会議(民主平和統一)首席副議長は25日(現地時間)、ドイツの首都ベルリンのホテルで、韓人たちを相手にした対北政策講演会で「北朝鮮の権力継承過程で急変事態が発生するかもしれない」とし「金正男氏もこのような点を勘案していると聞いている」と述べたと韓国のオンラインメディアが伝えた。
イ副議長は「講演会で先月、マカオを訪問した際、金正男氏と親しい仲だという現地関係者から北朝鮮の権力世襲についての金正男氏の考えを間接的に聞く機会があった」と説明した。
イ副議長によると金正男氏はこの関係者が「父親が具合が悪いのにどうして平壌へ行かないのか。バトンタッチしに行かなければならないじゃないか」と問うと「私がなぜ行くのです? バトンタッチもしたくない。(北朝鮮は)亡びますよ。長続きしますか」と答えたというのだ。
また彼は北朝鮮政権の後継者に浮上した金正日国防委員長の三男、金正恩(キム・ジョンウン)氏が計画どおり権力を継承すれば「果敢に改革開放すればいい」とし「しかし軟着陸できない場合、権力闘争で急変事態が発生するかもしれないだけに、政府もこれに備えている」と述べた。
黄長ヨプ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E9%95%B7%E3%83%A8%E3%83%97
亡命前の黄長ヨプ氏「金正日暗殺のために武器をくれ」(1)
1997年2月12日、黄長ヨプ(ファン・ジョンヨプ)元北朝鮮労働党秘書は中国北京の韓国総領事館に電撃亡命した。 北朝鮮労働党国際担当秘書、最高人民会議外交委員長、そして主体思想の創始者というタイトルが持つ重みを考えると、黄氏の亡命はまさに驚くべき事件だった。 北朝鮮当局も当惑しているのは同じだった。 北はすぐに「拉致」を主張した。
しかしすでにかなり以前から黄氏が亡命を決心していたとことを知っている人物がいた。 現在、金文洙(キム・ムンス)京畿道(キョンギド)知事の政策補佐官を務めているキム・ヨンサム元記者(52)だ。 キム氏は黄元秘書の亡命が伝えられると、親筆書信・対話録など黄長ヨプ氏と関連した文書および資料を次々と単独報道し、国内外に少なからず波紋を起こした。
時期的に敏感であり、キム氏がまだすべて明らかにしていない「亡命の真実」はないのか? キム氏に会って真実追跡を試みた。
◇1997年4月にバンコク・ニューデリー亡命計画
--黄長ヨプ元秘書の亡命に深く介入したと聞いている。
「亡命仲介人であるイ・ヨンギル氏(3月死去)と一緒に長いあいだ黄長ヨプ先生の亡命作業を準備した。 1996年5月にイ氏が北京で黄先生に会った。 その後、何度か会っていた。 その年の夏ごろには深刻な話が出てきた。 2人は北朝鮮の民主化のために『金正日(キム・ジョンイル)を暗殺しなければならない』『武器が必要だ』と言いながら手を組もうという提案をしていた。 こういう話が出てきたので、もうどうすることもできなかった。 従ってその年の9月、国家安全企画部(現国家情報院)にこの件を引き渡した」。
続いてキム氏は亡命実行時期について「予定とは違って早まった感がある」と語った。
「1997年4月、黄先生がインド・ニューデリーで開かれる非同盟会議に代表団を率いて出席することになっていた。 中間寄着地のタイ・バンコクまたはニューデリーで亡命を選択すると話した。 私はそのつもりで出張しようと準備していたが、突然、亡命事件が起きた」。
キム氏は「実際のところ私は黄先生の亡命に強く反対していた」とも語った。
「金賢姫(キム・ヒョンヒ)氏を見れば分かるが、黄先生が韓国に来ても幸せには生きられないという点を話した。 また韓国内の左翼のため自由に活動できないという点も強調した。 さらに北朝鮮に残される家族の問題もあった。 それで私は北朝鮮から出ずに、むしろその中に残って私たちと一緒に北朝鮮の民主化を図ろうと提案していた。 そう言ったところ、黄先生は『家族は一緒に出られなくても、殺されることはないだろう』と話した。 黄先生の夫人(パク・スンオク)が金正日の生母・金貞淑(キム・ジョンスク)が死んだ後、幼い金正日の世話をしたことがあるという理由だった。 また息子のファン・ギョンモ氏が張成沢(チャン・ソンテク)の親戚と結婚した点も勘案されると考えていた」
--黄長ヨプ元秘書は北朝鮮最高位級の人物だった。 平壌(ピョンヤン)高位層の中に黄元秘書と同じ考えを持った人物がいるという話を聞いたことはないのか。
「黄先生は北朝鮮の本当の民主化勢力、自分と深く対話をした人たちを中心に新しい権力を作り、南と平和な世界を開くための遠大な夢を抱いていた。 私が伝え聞いたところでは、かなりの高位層の人たちだ。 その話を初めて聞いたのは1996年12月だった」
◇「生存する‘親黄長ヨプ人物’は話せない」
この部分でキム元記者は非常に慎重になった。 仮に該当人物の名前が明らかになった場合に発生する問題、すなわち本人および関係者の粛清などが予想されるため絶対に明らかにできないという立場だった。 また黄元秘書の口から直接聞いたものではないという言葉も付け加えた。 結局、説得した末、すでに死亡した代表的な2人の人物の名前を聞き出すことができだ。
「そのうちの一人は黄先生が亡命した年の11月、公開銃殺された北朝鮮の徐寛熙(ソ・グァンヒ)農業担当秘書だ。 名目上は農業指導失敗の責任ということだった。 徐寛煕氏が逮捕された当時、日本の産経新聞や読売新聞に徐氏が韓国と接触した証拠が出たし、徐氏と一緒に仕事をした若い人たち11人も逮捕されたという報道が出た。 もう一人は2003年6月に平壌で疑問の交通事故で死亡した金容淳(キム・ヨンスン)対南担当秘書だ。 平壌に車が何台あるというのか。普通、独裁国家ではこのような方法で処理したりもする」
死亡した金容淳労働党秘書は北朝鮮の核心人物だった。 金正日の母方の親戚と知られる金容淳氏は、金正日の妹の金敬姫(キム・キョンヒ)現労働党軽工業部長と格別の仲だったと伝えられている。 長いあいだ国際担当秘書を務めた金容淳氏は1992年、対南担当秘書兼統一戦線部長に任命された。 その後、北朝鮮祖国平和統一委員長も務め、対南総責として活躍した。
--金容淳という名前は意外だ。
「韓国でいうと国家情報院長にあたる人物だが、そのような人が黄先生と共感していたとすれば、その波紋は相当なものだ。 このため金容淳氏の死後にも彼の名前を公開できなかった事情がある」
金相軫(キム・サンジン)「月刊中央」記者
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