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2010年12月24日 DIAMOND online 野口悠紀雄 [早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授]
前回見たように、2001年以降の国債消化は、家計の預金増加によってではなく、主として企業の借入が減少することによって消化されてきた。
もう少し詳しく見ると、つぎのとおりだ。金融機関の負債総額は、1999年末までは増え続けた(96年末から99年末までに約150兆円増加)。しかし、その後はほぼ一定になっている。以下では、96年末から01年末までを「前半」、01年末から06年末までを「後半」と呼ぶことにしよう。
前半期間に金融機関負債総額が増えたのは、家計の預金が増えたことが主たる原因である。しかし、後半期間では、家計の預金残高はほとんど横ばい状態になってしまった。こうなった原因は、貯蓄率が低下したことと、金融緩和によって家計の利子所得が減少したことである。
金融機関は、前半期間では増加した預金を原資として国債を購入することができた。これは、「健全な」国債消化と見なすことができる。
しかし、後半期間では負債総額が増えないので、貸付を減少させることによってしか国債を購入できなくなってしまった。
この状況を【図表1】に示す。
(なお、前半期間でプラスであった負債面の「現金・預金」が後半でマイナスになり、負債面の「株式以外の証券」がプラスになっているのは、財政投融資制度の改革に伴い、公的金融機関の資金調達が預金から債券に変わったためである)。
あと9年間程度で国債消化が行き詰まる!
「貸付を減らすことによって国債を購入する」というメカニズムは、異常なものだ(「不健全なものだ」と言ってもよい)。
しかし、これまでは大きな問題を引き起こすことはなかった。それは、企業の資金需要が低水準のままであったからだ。このため、長期金利が高騰することはなかった。つまり、国債が暴落することはなかった。実際には、長期金利はむしろ低下傾向を示したので、国債を保有する金融機関はキャピタルゲインを得ていたことになる。
しかし、これは、いつまでも継続できるメカニズムではない。金融機関の貸付がゼロになった段階で、国内消化は不可能になる。では、Doomsday(世界終焉の日)は、いつ到来するのだろうか。
ここで注意すべきは、新規国債発行額は、経済危機後の期間においてそれ以前より増加していることだ。2001年度以降、年間の新規国債発行額は30兆円程度であり、06、07年度は30兆円を下回っていた。しかし、経済危機後は、50兆円を超す水準になっている。地方債や公的金融機関が発行する債券も合わせると、年間60兆円程度の水準が今後続く可能性がある。
ここでは、簡単化のために金融機関の資金調達面は現在と同じ状態が継続するものとし、資産面の調整だけで国債購入がなされるものとしよう。
金融機関の貸出残高は09年末で約1200兆円だ。したがって、仮に毎年60兆円ずつ減少すれば、20年後の2029年末にゼロになる。
ただし、貸出の圧縮は、ある段階を超えれば困難になるだろう。とくに、家計に対する住宅ローンは長期の貸出が多いから、簡単にはゼロに圧縮できない。この残高は、【図表1】に示すように、民間金融機関と公的金融機関を合わせて09年末で190兆円だ。これが圧縮できないとすると、圧縮可能額は09年末で1010兆円になる。したがって、毎年60兆円ずつ減少すれば、17年後の2026年末にゼロになる。
なお、以上で見たのは金融機関全体である。しかし、国債の保有は、本来は民間金融機関が中心になるべきものと考えられる。
なぜなら、まず中央銀行が国債を長期にわたって保有するのは、通貨増発を招くから望ましくない。また、公的金融機関は、中小企業金融などそれぞれの政策目的を実現するために設立されたものであるから、資産の多くが国債になってしまうのでは、設立趣旨に反する。
実際、国債の残高を、「中央銀行」「預金取扱金融機関」「その他金融仲介機関」(公的金融機関はここに含まれる)別に示すと、【図表2】のとおりだ。
央銀行は、他の金融機関に比べて、短期債の比重が大きいことが分かる。
2001年以降の期間を見ると、国債の保有額を増やしたのは、預金取扱金融機関だ。だから、今後も、民間の金融機関を中心に消化がなされるべきと言えよう。
そこで、民間金融機関の住宅貸付以外だけと考えよう。すると、09年末の残高は540兆円程度だ。したがって、毎年60兆円ずつ減少すれば、あと9年程度しかもたないことになる。
金融機関の資産が悪化。
日銀が出動すればインフレに! 国内での国債消化が困難になると、金利が上昇する。
「貸出が減り続けて国債が増加する」という状況が続くと、金融機関のポートフォリオは、「資産のほとんどが国債」という異常な状態になる。これは、金融機関の健全性からみて大きな問題である。
なぜなら、金利上昇は国債の価格下落である。したがって、金融機関の資産が一挙に悪化するからである。
第1に、返済の担保が存在しない。企業貸付なら企業資産がある。しかし、国債にはそれに対応するものがない(建設国債であれば、社会資本があり、その生産力によって所得が発生し、償還されると考えることができる。しかし、現在の新規国債の大部分を占める赤字国債については、こうした資産の裏付けがない)。
第2に、通常の貸付のデフォールトは、資産の一部が劣化するものだ。だから、資産のすべてが悪化するわけではない。しかし、国債は、償還期限の違いはあっても、「国の徴税能力を担保にしている」という意味で同一の資産である。したがって、国の償還能力に疑問が生じると、一挙に悪化する。したがって、個別企業に対する貸付の不良債権化とは比較にならぬ大きな問題を引き起こすのである。
金利上昇を食い止めるためには、これまでの政策を大転換して、日銀が国債を大規模に購入する必要がある。日銀は通貨を発行することによって国債をいくらでも購入できる。
市中ですでに消化された国債だけでなく、新発債の日銀引き受け発行までゆくかもしれない(これは財政法で禁止されているが、国会の議決があれば可能である)。
言うまでもないことだが、これはさまざまな問題を引き起こす。最大の問題は、通貨増発がもたらすインフレだ。
名目で決められているものの実質価値が低下する。定期預金、公的年金など。高齢者世帯はこれに頼っているので、大きな打撃を受ける。
為替レートが円安になる。輸入物価が高騰するため、インフレがさらに加速される。
海外消化を求めれば円安になる! では、海外での消化を求めるとすれば、何が起きるか?
海外での消化が、これまでの国内消化と同じように順調に進む保証は、何もない。外国の投資家は、日本が国全体として国債を滞りなく返済できるかどうかを審査するだろう。
ところが、上で述べたように、国債発行で調達した資金は、現在の予算に見られるように無駄な用途に用いられており、将来の返済能力増強に役立っていない。したがって、「日本国債は危ない」と評価される危険は大きい。そうなれば、日本国債は買い叩かれて暴落する。
例えば、1ドル=100円という為替レートのとき、100円の財政支出資金調達のため、額面1ドルの外貨債を発行したとしよう。これが買い叩かれて50セントでしか売れないことになれば、日本国内で100円の価値があるものが国外では50セントの価値になったわけだから、為替レートが1ドル=200円と円安になったことになる。これは外国からの輸入物価を2倍に高め、国内にインフレをもたらす。
つまり、国内での消化を試みても、海外で消化しようとしても、結局はインフレを避けられないことになる。
これまで述べてきたように、こうした状態がもたらされる基本的な原因は、家計貯蓄率の減少と社会保障支出の増加だ。これらはいずれも人口高齢化によってもたらされるものである。つまり、人口高齢化の帰結は、経済をインフレに陥れることである。デフレでなくインフレこそが、人口高齢化社会の行きつく先なのだ。
なお、上で予想した時点までマーケットが待ってくれる保証はない。以上の事態が実際に起こる前に、マーケットが先取りする可能性は十分ある。
国債が将来暴落すると予想されれば、それ以前に価格は下落する。円安になると予想されれば、資産が海外逃避する可能性もある。そうなれば、円安インフレが前倒しで発生するだろう。
2010年12月23日 DIAMOND online 上杉隆
2010年は日本の政治とメディアにとって大変革の年であった。とりわけ伝統的な記者クラブメディアにとっては、いくつもの変化の波の押し寄せた、象徴的な一年でもあった。
おそらく将来、この2010年こそが、日本にとって、情報の大変革の年として歴史に刻まれることだろう。
なぜ、そこまで断言できるのか。それは今年、「革命」といってもいいほどの政治とメディアの大改革が日本で進行したからである。
今回は2010年の最後のコラムということで、政治、とくにメディアの世界で起きた「5つの革命」について振り返ってみる。
原口前総務大臣の政務三役会議開放は世界にも例のない大英断だった!
1月、原口一博総務大臣の「政務三役会議」のオープン化宣言で衝撃的な一年はスタートした。
前年、政権交代により、外務省、金融庁などの記者会見が戦後初めて開く、という変化は確かに訪れていた。記者クラブ制度にようやく穴が開いたということでそれも当然に画期的なことに違いはなかった。
ところが、年明け早々、原口大臣の打ち出したこの政策はそれどころではない。おそらく、かつて世界のどの国の政府もやったことのない完全な形での行政の透明化であったからだ。
省庁の政策の最高意思決定機関である「政務三役会議」をフルオープンにして、それをメディアのみならず、インターネットで全国民に公開するというやり方には、正直、私自身も度肝を抜かれた。
そんなことをして果たして政策決定ができるのか、あるいは、なにか危機管理上の問題でも発生するのではないか、と逆に心配したものだった。
ところが、それは杞憂に過ぎなかった。むしろ、政策決定のプロセスがオープンになることで、国民の目が届き、役人たちからの雑音も入らず、民主党の求めていた政治主導が達成できたのである。
もちろん、役人を排除したことで、何年も前に済んでいた議論を蒸し返すことや、混乱が生じることもあった。
だが、そうした混乱の中からまた新たなアイディアの生まれることもあり、長い目で見れば効用の方が多かったように思う。
これが一つ目の「革命」だが、残念なことに、その原口大臣は菅首相に「更迭」されてしまった。そして、後任の片山善博総務大臣の最初の仕事は、なんとこの「政務三役会議」をクローズに戻すことだった。これによって、原口大臣の革命的な実験はいったん消滅してしまっている。
鳩山前首相は憲政史上初めて首相会見をオープン化!
3月、鳩山由紀夫前首相が憲政史上初となる首相官邸での記者会見のオープン化に踏み切った。これが二つ目の「革命」である。
首相会見のオープン化を阻んできた日本のメディアは、いまや中国人ジャーナリストからですら、「反社会的態度」(安替)と名指しで非難されている。そうした世界中からの批判的な目は、日本だけにしかない「記者クラブ制度」の限界を示す、象徴的言葉である。
当時の本コラムから引用しよう。
〈そもそも記者会見のオープン化は、国民の知る権利や情報公開の見地から言っても、ジャーナリズム自身が追求すべきことである。それは先進国であろうが、独裁国家であろうが世界中で不断に行われているメディアの当然の仕事のひとつだ。
ところが日本の記者クラブメディアだけは逆なのだ。戦後65年一貫して自らの既得権益を守ることに汲々とし、同業者を排除し、世界中から批判を浴び続けているにもかかわらず、自らの都合のみでその不健全なシステムを維持してきた。
それはまさしく、「カルテル」(孫正義ソフトバンク社長)であり、「人権侵害」(日本弁護士連合会)であり、官僚と結託して国民を洗脳し続けていた「日本の恥」(米紙特派員)なのだ〉(第120回)
首相会見のオープン化は、国民の大部分にとっては、まったくどうでもいいことかもしれない。だが、将来の日本、また日本人にとっては極めて重要な改革の一歩である。
その理由は、繰り返しこのコラムで述べてきたことであるので、ここでは省略する。
岡田前外相が外務省の文書公開を推進する歴史的政治判断!
5月、岡田克也外相が、外務省の文書公開についての「ルール」を定めた。原則30年経過したものはオープンにするというものだが、これも遅れた日本の情報公開制度にとって、小さくない「革命」の第一歩となった。
以下、外務大臣会見録の大臣発言から抜粋する。少し長くなるが、歴史的な政治決断なので当該部分をそのまま引用する。
〈外交記録公開・文書管理対策本部でありますが、3月16日に第1回を開催して以降、5回開催をいたしました。昨日の会合で、一連の対応策 がとりまとめられましたので、その概要を説明したいと考えております。詳細は、別途配付する資料をご参照いただきたいと思います。
4つ申し上げますが、第1点は、国家行政組織法14条に基づく外務大臣訓令として、外交記録公開に関する規則を制定することにいたしました。本日付で施行であります。
いわゆる密約問題に関する有識者委員会の報告書も踏まえ、「30年自動公開原則の徹底」、「政務レベルの関与」ということを明確化いたしました。そして、例外的に非公開とする場合について、具体的にその規則の中に明記する。
例えば、「現在または将来にわたって具体的に国の安全が害される場合」、或いは「他国との信頼関係が損なわれる」といった具体的に最小限のものを列挙して、それに当たらない場合には自動的に公開するということにしたものであります。
しかし、最終的に公開しないという場合には、或いは文書を30年経って廃棄するという判断をする場合には、政務レベルの了承を必要とするということも明記をいたしました。今後はこのルールに則って定期的に対外公表し、外交史料館で閲覧できるようにするということでございます。
第2は、福山副大臣を長とする外交記録公開推進委員会を新たに設置することにいたしました。ここで、膨大な30年を超えた資料の公開審査の優先順位、或いは非公開部分の是非などについて総合的に判断し、最終的に外務大臣の了承を得るという形にしたものであります。この外交記録公開推進委員会には、外部の有識者も加えて意見を得ることにしております。
第1回が6月中旬に開催予定であります。ここで、まず、何から公開していくかということを決めてもらい、最終的には私(大臣)のところで判断するということであります。恐らく日米安全保障に関わる部分を、まず集中的に公開していくことになるのではと思っております。
第3に、こういった文書管理部門について、体制を人員、組織面で強化をするということで、外務省OBを活用するなどして順次増員することにいたします。 現在70人体制を100人体制ということにしたいと考えております。本年夏をめどに文書管理部門の組織を再編し、新たに外交記録情報公開室を設置したいと 考えております。
4番目、最後ですが、文書の作成管理の改善のために、既存の文書管理規則を一部改定する予定であります。また、具体的な文書管理のためのマニュアルの整 備や省員の意識改革のための研修の強化、そして、外交史料館の設備の整備などを行う予定であります。
こういったことを昨日決めまして、今後、順次実施をし ていくということでございます〉(外務省HPより)
この省令によって、外務省においてはようやく同じG7国家のレベルまで肩を並べる制度ができたのだ。
この岡田大臣の決断のおかげで、私たち日本人はここ数ヵ月間だけで、過去の自民党政権が密かに行ってきた政策決定の舞台裏を知るようになったのだ。
たとえば、今月(12月)になって沖縄密約、琉球政府との取り決め、米政府との裏約束などのニュースが次々と報じられているが、それもすべて、この情報公開制度の創設によって真相が明らかになったものばかりなのである。
メディアの主役交代を告げた「尖閣ビデオ」問題!
4つ目の「革命」は、9月の「尖閣ビデオ」問題である。
これは事件そのものではなく、その一報を伝えるメディアの主役が交代したという意味での「革命」である。
この事件によって、ニュース速報は、これまでの伝統的なテレビ・新聞などの記者クラブメディアではなく、「ユーチューブ」や「ツイッター」というマイクロメディアによって、圧倒的な速さで伝えられることが確定したのである。
事件は、結果として、海上保安庁の巡視船と中国漁船と衝突は、発生から2ヵ月後、「ユーチューブ」の動画によって全世界にその真相が伝えられることになった。
「速報」に強いとされたはずのテレビが最初にその動画を伝えたのは、ユーチューブの動画が世界中に配信され、ツイッターでネット中に広まり、詳細な検証がなされた後のことであった。
この件については、メディアのみならず、政治側もまったく対応できていないことも判明した。
たとえば、その映像は、日本政府の意識的な情報公開によって明らかになったのではなく、ひとりの海上保安官のリークによる伝播という、国家の危機管理上、最悪の方法によって国民の知るところとなったことがその象徴だ。
船長の拘留時、国連総会にいた菅首相と前原外相は決定的な判断ミスをしでかした。国民のほとんどがそのビデオの存在を知り、その中身を知るべきだとしている情報を「隠蔽する」という考えられない愚挙に出てしまったのだ。
それは、現代の民主主義国家としては最もやってはいけないことであり、先進国としてはうんざりするような危機意識のなさを世界中に露呈させることになってしまったのである。
政権発足当初から、菅内閣のことを「情報暗黒内閣」と呼んできた筆者の危惧が図らずも悪い方向に向かってしまった悲しい事件となった。
ちなみに、発生当時、筆者は本コラムでこう書いている。
〈問題は海上保安庁が撮影したビデオである。このビデオを速やかに公開していれば、少なくとも国際社会に対して、日本の正当性を主張する強力な材料になったはずである。
日本国内では、中国と日本の言い分は圧倒的な差でもって決着がついているように思える。中国の詭弁に対して、日本の正当性は決して揺るがないと日本人ならば誰もが信じていることだろう。だが、それは所詮国内だけに通用する理屈だ。
国際社会では証拠もなく、さらに船長を無条件で釈放した日本の方に問題があると思っている勢力が少なくない。現実に、欧米のメディアの中では、日本にも負い目があったのだという論調が広がっている。それは、証拠を示さない日本に対する国際社会からの当然の評価である。
仮に、ビデオを公開できないというのならば、なぜ日本政府はそれを国際社会に発信しようとする方策を怠ったのか。少なくとも、相手国の中国にはそうしたスピン戦略が存在している。
たとえば事件後、中国政府は日本向けレアアースの禁輸措置を採ったが、それは公式に発表されたものではなかった。ニューヨークタイムズはじめ世界で影響力を持つ3つのメディアにリークしたものだったのである。
戦略的なリークは巧妙にその責任を回避することができる。おかげでレアアースの禁輸を行っているにもかかわらず、中国はWTO違反を問われずに済んでいるではないか。
日本政府は国内の記者クラブへのリークばかりに血道を注ぐのではなく、こういったときこそ海外メディアに向けて戦略的なリークを行うべきだったのではないか〉(第143回)
こうしたスピンコントロールへの無理解、いやスピンコントロールという言葉すら知らない菅政権は、さらに危険な過ちを犯し続ける。それは、すでにメディア社会での「中抜き」が進行し、革命が発生していることを直視しない既存の記者クラブメディアにとっても同じことが当てはまる。
世界中に激震をもたらしたウィキリークス!
11月、ウィキリークスによる米国務省の外交公電の意図せぬ「公開」がはじまった。
世界中の政府とメディアが、創設者ジュリアン・アサーンジが引き金を引いた「情報戦争」の勃発に騒然とし、緊急対応を行う中、日本政府とそのメディアだけが、のんきに傍観を決めている。
〈ウィキリークスによって世界中が揺れている。
先月(11月)末に一斉に暴露された米国務省の秘密文書約25万点をめぐって、世界中の政府、メディアが大騒ぎになっている。
なにより長年、世界中の米国大使館から集約した情報が一気に漏洩したのだ。おかげで米国の培ってきた安全保障・外交政策は一夜にして危機を迎えている。
イタリアのフラティニ外相が、「外交の9.11だ」と評したように、それは外交上の信頼関係を崩壊させるに十分なインパクトを持つ「テロ事件」であった。
オバマ大統領は火消しに躍起になり、クリントン国務長官も機密漏えい者を厳罰に処すとの緊急の声明を出している〉(第152回)
こうした状況下、前原外相の姿勢は、外交放棄ともいえるひどいものであった。外務省大臣会見録からみてみよう。
〈【ニコニコ動画 七尾記者】視聴者の質問を代読します。ウィキリークスが米政府の外交公電を流しはじめました。クリントン国務長官はこれを強く非難。情報 をリークした関係者の責任を追及していく構えです。一方、海外では、「歓迎」、「自粛」とメディアによって反応に違いが見られます。ウィキリークスに代表 される内部告発サイトの存在について、大臣のご所見をお願いいたします。
【大臣】これはもう言語同断だと私(大臣)は思います。犯罪行為ですから。つまり、勝手に他人の情報を盗み取って、それを勝手に公開する。それがい かに未公開の秘密文書であれ、それを判断するのは、持っている政府であって、勝手に盗み取ってそれを公表することに評価を与える余地は全くないと私(大臣)は思っています。
【毎日新聞 西岡記者】ウィキリークスの件で、その中に日本の外務省の現職の幹部の名前が挙げられた文書が公開されていましたが、これに関して事実関係等の調査は指示されたのでしょうか。
【大臣】それについてコメントもしませんし、事実関係も調査しません〉(外務省HPより)
この「戦争」に関して、事実関係の調査もしないと断言したのは、世界広しといえどもおそらく日本政府だけだろう。それだからこそ、この発言にもあるようにウィキリークスへの認識不足としか取れないような外相発言が繰り返されることになるのだ。
そしてそれを追及すべきメディアは「暴露系サイト」という無意味な普通名詞を使うことでウィキリークスの存在を国民の目から遠ざけようとしている。
「革命」どころか、世界中で新しいマイクロメディアの登場による「世界情報戦争」が勃発しているにもかかわらずだ。
賢明な本コラムの読者ならば、すでにお気づきだろう。これら「5つの革命」は、すべて国民の知る権利、および情報公開の見地から、世界中で公開システムが確立され、オープン化が求められているものばかりである。
現代政治において、政治や行政のオープン化はそれ自体が武器になる。とりわけ、官僚政治と戦うことが求められ、周辺諸国との対立がある日本の場合はなおさらだ。
なにより、政府および、公的機関の情報は、最終的にはすべて国家共有の、また国民の財産に他ならない。その財産は断じて時の政権が恣意的に独占すべきものではない。
2010年、そのことに気づいた国民が少なからず発生したことで、間違いなく日本も情報社会の「革命期」に突入したといえるのである。
(次回は新年1月6日(木)更新の予定です。お楽しみに!)
本田技研工業株式会社
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E7%94%B0%E6%8A%80%E7%A0%94%E5%B7%A5%E6%A5%AD
http://www.honda.co.jp/jet/?from=rcount
http://www.honda.co.jp/tech/new-category/airplane/HondaJet/
http://www.honda.co.jp/tech/new-category/airplane/HF120/
Hondaの航空機事業子会社、ホンダ エアクラフト カンパニーは、米国東部時間2010年12月21日10時00分(日本時間22日00時00分)に以下の内容を発表しましたので、ご案内いたします。
Hondaの米国における航空機事業の子会社であるホンダ エアクラフト カンパニー(Honda Aircraft Company, Inc. 以下、HACI)は、米国ノースカロライナ州にあるピードモントトライアッド国際空港で、小型ビジネスジェット機HondaJetの米国連邦航空局(以下、FAA)の型式認定取得に向け、量産型初号機の初飛行に成功しました。
この量産型初号機は、12月20日15時31分(日本時間21日5時31分)に離陸、約50分間飛行し、性能、飛行特性の評価、その他システムの機能試験が行われました。
HondaJetの開発責任者であり、開発・製造・販売を担当するHACI社長の藤野 道格は、「今回の量産型初号機の初飛行の成功は、HondaJetの開発、認定における重要なマイルストーンであり、FAAの認定基準を満たす機体の開発が順調に進んでいることを実証しました。性能や飛行特性が非常に優れていることを確認し、Hondaの技術力の高さを実証できたことを大変うれしく思います。今までにない最先端の小型ビジネスジェット機をお客様にお届けできるよう、引き続き努力していきます」と語りました。
今後も、HondaJetは必要な認定飛行、地上試験を実施し、2012年のFAAおよび欧州航空安全局(以下、EASA)の型式認定取得を目指します。お客様への機体引き渡しは2012年後半を予定しています。なお、HondaJetには、燃費と環境性能に優れた二基のGE Honda エアロ エンジンズ社製ターボファンエンジンHF120が搭載されています。HF120は、今回の初飛行に先行して、量産型の飛行試験を実施、FAAおよびEASAの型式認定取得に向けてさらに認定試験を進めていきます。
また、HACI本社隣接地に建設中の機体生産工場は2011年前半に完成予定で、2012年の量産開始に向けて、準備を進めています。
*ホンダは航空エンジン事業を手がける100%子会社「ホンダ エアロ インク」の新社屋とジェットエンジン工場を米ノースカロライナ州に建設する。2007年10月に着工し、2010年後半にも生産を始める。このエンジンを搭載するホンダ独自の航空機は「HondaJet」(ホンダジェット)。“空飛ぶシビック”を目指し、社内でだれも経験したことのない航空機づくりを一から始め、開発にこぎつけた。航空機ビジネスは、創業者の本田宗一郎氏の夢でもあった。オリジナルなものづくりに挑戦するホンダスピリットが生み出した小型ジェット機は2010年、長年ホンダの自動車や二輪車を愛用してきた人たちの夢も乗せ、大空へ飛び立つ。
自動車以前にあった航空機の開発構想!
ホンダ広報部の遠藤茂樹さんによると、ホンダの歴史に航空機という言葉が最初に刻まれたのは1962(昭和37)年。新聞紙上で、通商産業省(現経済産業省)主催、ホンダ協賛の企画としてプロペラ飛行機の設計を一般から公募したのが始まりだ。当時はまだ自動車の製造は行っておらず、スーパーカブの大ヒットで二輪車メーカーとして地位を築いたころだ。社長だった本田宗一郎氏はインタビューで「やさしい操縦で値段も安い、だれにでも乗れる軽飛行機を開発しようと思っている」と話していたが、結局、この時は航空機が世に出ることはなかった。
しかし、プロペラ飛行機の設計を公募した効果は絶大だった。航空学科出身の学生が「ホンダは航空機をやるんだ」と信じて入社。その中のひとりに東京大学工学部航空学科を卒業した吉野浩行氏(元代表取締役社長、現取締役相談役)がいる。吉野氏は後にジェットエンジンの開発や「HondaJet」の開発を後押しする存在になる。
1986年に基礎研究として航空機開発を開始!
プロペラ機の設計の公募からしばらくの間は航空機づくりの記録は残っていない。次に航空機がホンダの歴史に現れたのは基礎研究所が設立された1986(昭和61)年。この研究所はホンダが21世紀にも存続するための創造的新領域技術の開発を目指して設置された。一つの研究開発テーマとして、移動ロボット、バイオ(生体)、新エネルギーとともに航空機があった。航空機を選んだ理由は「自由に大空を翔る3次元の移動手段だったから」。この時の移動ロボットは世界初の人型ロボットの「ASIMO」に、新エネルギーは太陽電池という形でホンダの新しいビジネスとなっている。
オリジナルの小型ジェットがコンセプト!
目指すのは“空飛ぶシビック”。あくまでオリジナルの小型ジェット機の開発にこだわった。開発メンバーは社内から集めたのだが、飛行機づくりに携わった経験のあるものはいない。手探り状態のスタートだ。この時のメンバーに、入社したばかりの藤野道格氏(ホンダの航空機事業の子会社ホンダ・エアクラフト・カンパニー代表取締役)がいた。
航空機づくりは一筋縄ではいかず、若い技術者たちをミシシッピー州立大学に派遣して航空機づくりを学ばせた。この大学は当時唯一、カーボン複合素材で機体をつくっていた。ここでの研究と数年にわたる試行錯誤の成果が実り、ホンダの初号機「MH02」が1992(平成4)年に開発された。「MH02」は自動車のように操縦席のドアから乗り込む。翼は機体の上につき、エンジンも翼の上だ。翼も従来の翼とは逆の前進翼を採用。かなり奇抜な航空機だった。だが、「MH02」は93年の初飛行後、96年にフライトテストを終了し、実用化されることなかった。
ライト兄弟から100年後、2003年に初飛行!
ホンダの航空機づくりはひと段落するかにみえたが、藤野氏が「ここまでやったんだから実用化できるものをつくりたい」と当時の川本社長に直談判し、再び着手した。一方で、ホンダは1986(昭和61)年に航空機用のジェットエンジンの開発もスタートさせていた。ジェットエンジンの構造は自動車用ピストンエンジンに用いられるターボチャージャーに近いことから、ターボエンジンの開発経験者を中心に開発チームを結成。当時としては画期的なセラミック素材を使用したエンジンを開発したのだが、最初は始動すらしなかった。競合エンジンに対し燃費性能10%向上という独自の自社エンジン「HF118」を開発したのは2003年のことである。
自社エンジンができあがるころ、「HondaJet」の完成も近づいていた。特許を取得した独自の「Over The Wing Engine Mount」(OTWEM:翼上面エンジン配置)技術によって、空気抵抗を3割減少して燃費を向上させるだけでなく、他機種よりも3割広いキャビンを実現した航空機の完成が見えてきた。胴体の後部ではなく、揚力を生む翼の上にエンジンを置くことは、航空業界のタブーとされてきたのだが、機内のスペースを確保するためにあえて挑戦。実証実験を繰り返し、ついに空気抵抗を通常配置よりも改善するスイートスポットを発見した。航空機づくりの分業化が進む中、1社が機体もエンジンも自社製作したというジェット機は他にない。「HondaJet」は開発当初からの志を貫き通したホンダのオリジナルの航空機となった。
そして、2003年12月、ライト兄弟による人類初飛行から100年を経て、「HondaJet」は飛行に成功した。
開発の秘訣は技術者スピリットにあり!
「HondaJet」の開発の歴史は、他社にはないオリジナルなものをつくる開拓者精神と航空機という未経験の分野でも自社の技術者で取り組むチャレンジ精神で満ちあふれている。
「手っ取り早く航空機事業に参入するのであれば、開発メンバーを他社から引き抜けばいい。しかし、ホンダではどんな新分野でもたくさんの経験をさせて技術者を育てます。オリジナルを開発するという思いから生まれたユニークな技術に、試行錯誤から得た技術が加わり、ホンダならではのアドバンテージを持つ製品の開発ができるのです。自動車も二輪車も同じように開発してきました」。「HondaJet」は代々引き継がれてきたホンダの技術者スピリットによって開発された製品なのだ。
「航空機は自動車や二輪車と比較すると事業規模は小さいかもしれません。しかし、苦労して自社で航空機を開発する技術は他の分野にも応用でき、何より夢がかなうというモチベーションが技術者に生まれます。これが、ホンダを支える原動力にもなるのです」。
「HondaJet」が出荷される2010年。また新しい夢を持った技術者による新製品がホンダから発表されているかもしれない。
ホンダが2007年7月25日に発表した2008年3月期の連結業績予想の修正によると、売上高は前期比11.4%増の12兆3500億円(従来予想は11兆7500億円)、営業利益が同3.3%増の8800億円(同7700億円)、純利益が同5.5%増の6250億円(同5750億円)になる見込みという。円安による為替の影響が大。今期の為替レートは1ドル=115円から117円、1ユーロ=150円から155円に変更した。ちなみに、「HondaJet」は7人乗りの標準タイプで販売価格が365万ドル。当初は年間200機の生産を見込んでいるという。(QUICK MoneyLife)
掲載日:2007年7月31日
*HondaJet事業化に向けて新会社を設立!
Hondaは、航空機の機体の開発、製造、販売を行う全額出資子会社、ホンダ エアクラフト カンパニー(Honda Aircraft Company)を米国に設立すると本日発表した。
新会社は、これまでHondaJetの試験飛行の拠点となってきた米国ノースカロライナ州グリーンズボロ市のピードモントトライアッド国際空港の敷地内に設立し、社長にはHondaJetの開発責任者である藤野 道格(ふじの みちまさ)が就任の予定。10月からの本格稼動に向けて今後準備を進め、秋頃からHondaJetの受注を開始する。
2010年頃の量産販売開始を目指し、今後この新会社は、HondaJet量産型機体の開発、認定取得、生産準備、ならびに提携先であるパイパー・エアクラフト社との協力体制のもと、販売とサービスのネットワーク構築を進めていく。
これにより、2004年に設立した航空エンジン事業の全額出資子会社であるホンダエアロ インクと、同社とGEとの折半出資会社であるGE Honda エアロ エンジンズに続き、Hondaの航空事業への参入はエンジン事業と機体事業の両面で実現することになる。
【 新会社概要 】
社名 : ホンダ エアクラフト カンパニー(Honda Aircraft Company)
設立 : 2006年8月
出資形態 : 本田技研工業株式会社 100%出資
代表者(社長) : 藤野 道格(ふじの みちまさ)
所在地 : 米国ノースカロライナ州 グリーンズボロ市
電子教科書は日本を救うか 第3回
2010年12月22日(水)現代ビジネス 田原総一朗
田原 2010年はメディアにとって大きな転機だと思います。尖閣沖で中国の漁船が日本の巡視船に衝突した。その映像を海上保安庁の保安官がユーチューブに流した。これまでならばテレビ局に持って行っていた。あるいは小沢一郎さんが国会に出ないというのをニコニコ動画で会見した。するとテレビや新聞がネットの情報を後から追っかけている。時代が変わったなと思う。
孫 変わりました。今まではテクノロジーの制限があったわけですよ。地上波のテレビ局に当てはめられた電波が数百メガヘルツ、その電波の幅の中で局ごとに割り当てて放送していた。だから一地域で放映できるチャネルの枠は8チャンネルとか10チャンネルしかない。ところがインターネットは無限大で、双方向で無限大の動画、無限大のチャネルが作れるわけですね。
田原 孫さんは百もご承知のように、たとえばテレビ局と携帯を比べると、国に支払っている電波料は、携帯のほうがはるかに高いカネを納めている。
孫 テレビが一番いい電波帯を占拠していますね。もうちょっとテレビが遠慮してくれるといいんだけれど。
長妻厚生労働大臣がクビになった理由!
田原 新しく総務大臣になった人は、「それ(電波帯の再編)をやる」って言う。ところが途中で全部腰砕けになる。なんで?
孫 いろんなしがらみがあるわけですよ。例えばパーソナル無線、いわゆるアマチュア無線はたった2万人しか使ってない。ここで携帯電話なら2000万人が活用できるくらいの電波の幅をたった2万人で占拠しているんですね。それからタクシー無線。これまた携帯電話なら2000万人分投入できる、一番通りのいい800メガヘルツ帯の電波にもタクシー無線が居座っている。
田原 独占して。
孫 何台のタクシーが使っているかと言えば、町ごとにほんの数千台、東京でも数万台。それが2000万人分の電波のところに居座っている。立ち退いてくれるのなら、タクシーの無線台数くらい、うちのiPhoneタダであげまっせと。タダ友で無料通話でいくらでも配車してくださいと。
会場 (爆笑)
孫 タクシー数万台分、タダでiPhoneを差し上げても、そこに2000万人、3000万人のiPhoneユーザーを載せ替えられるなら、みんな得するんですよ。
タクシーの会社にはタダで上げますから損するもなにもない。だけどそこには監督官庁である総務省の・・・、今日は生放送だからもう消せないけど。
会場 (爆笑)
田原 天下りがいるんだ。
孫 天下りがドサーッといるんです。もう何十年間も居座っているんです。で、先輩でしょ、簡単に外せないんです。理事長、理事、ズラッと全部天下り。全部総務省ですよ。これは許せんと。思いませんか。
田原 僕は、新しい総務大臣が登場する度にそれを言うわけ。テレビが独占している、おかしいじゃないかと。最初は向こうもいうと頑張っているんだけど、途中で腰砕け。
孫 大臣も本来は志の高い人たちですから、そういう気持ちはあるわけですよ。だけどいざ詳細の具体論になるとやはり役人はそこに何十年といますから、より詳しいわけですよね。
その詳しい彼らが、「さはさりながら」と言って分厚い報告書、しかも御用学者かなにかがまとめて持ってくると「あちゃー」と。この知恵と知識で防戦されるとなかなか改革できない。
田原 長妻(昭・衆議院議員)という男がいて厚生労働大臣をやってた。彼は今度外されたんだけど、彼が何度も僕に愚痴をこぼしてた。厚生労働省の改革をやろうとする、「やる」というと、ハイっていうんだって。ところがなんにもしない。「ヤツらは敵なんだ」って言っていた。ついに彼は敵に負けちゃったわけだよ。
孫 会社にもいますよ、ハイっていってなかなか動かないと。
田原 ソフトバンクにいますか。
孫 たまにいますよ。でも僕は許さないから。ハイっていって動かないとチェックして、「なんで動いてないんだ」と。
和をもって尊しとする経営者ではダメ!
田原 日本の国際競争力がナンバーワンから27位に落ちた。一人当たりのGDPも2000年には3位だったが、いま23位に落ちた。ドーンと落ちている。やっぱり僕は大企業の経営者に問題ありだと思う。
孫 あります。オールサラリーマン化しちゃってるわけですよ。
田原 そうなんです。つまり新入社員がどんどん歳とるか、歳とった単なるサラリーマンが経営者になってる。
孫 そうです。立派な真面目な人たちですからケンカしないわけです。嫌われることいわない。ガーンと机を叩かない。事勿れ主義で前歴主義で、みんなの和をもって尊しとする。和を尊しの人だから御輿の上には乗りやすい。だけど大きな改革はできない。それは大臣だって大企業の社長だって役人だって、みんな事勿れ主義でなんとはなしにホワーッといっちゃう。
田原 会議ばっかりやって、何十回会議やっても変わらない。
孫 腹を括って決断をするのがリーダーシップだと思いますよ。
田原 でもそういう連中から言わせると、孫さんは独裁だという。
孫 いやいやいや(笑)。会社の中では結構議論してるんですよ。
田原 孫さんの凄いところは、ユニクロの柳井(正)さんも似てるんだけど、決定が早いですね。
孫 早いですね。
田原 孫さんは前の晩に役員に電話すると。こういうことをやりたいと思うと。で、調べろと。明日の夜会議で決めちゃうと。そうでしょ?
孫 それもありますし、そもそも事前の根回しなんてほとんどなしでその場の会議で突然ガーッとお互い議論をして、それでバンバン決めていきますから。
田原 その決定が抜群に速いわけよ。
孫 早いですね。だっていいことはためらう必要ないじゃないですか。いいことなのに先送りする必要はないじゃないですか。
われわれインターネットの世界では、日本流は許されないんですよ。アメリカが来る中国が来るヨーロッパが来る。
彼らはそれこそクラウドですから、サーバーが空の雲の上にあって国境を越えてバンバン来るわけです。日本流の和をもって尊しなんて言っている間に全部占領されますから、やっぱり世界スピードのレベルでやらないといけない。だから日本では変わってるけども、シリコンバレーでいうと同じペースなんです。
電子教科書で教育をどう変える?
田原 話を教育に戻しますと、日本の教育ってやっぱりヘンな教育で、競争はよくないと言ってるわけね。
孫 そうそう。これは問題ですよ。
田原 でも競争が必要だから、みんな学習塾に行くわけ。本当は学校の教育がよければ塾なんて行かなくていいんですよ。
孫 仰るとおり、仰るとおり。今日先生方いっぱい来てますけどね。あとで本音をガンガン言いたいと思いますけど、もう少し資料がありますからさっといいですか。
田原 どうぞ。
孫 ということで、デジタル教科書、電子教科書、やるかやらないか。フィンランドは2007年に決めました。韓国も来年から全部電子教科書になります。フランスも来年からやると先月決めました。
シンガポールも再来年、アメリカですら2015年です。日本は2020年です。また失われた・・・。
田原 だけど原口(一博・前総務相)さんは2015年に(電子教科書化を)すべきだと言っていたいましたよね。
孫 そう。原口さんは2015年にすべきだと言っておられるし、光の道も2015年だと。だけど今の政府決定は2020年。その正式決定の2020年もウヤムヤにしようという抵抗勢力が文科省のなかにズラーッといる。
田原 じゃあ原口さんは2015年と言うからクビになっちゃったんだ。
孫 ハハ・・・。分かりませんけども、とにかくいったん政府で方針として2020年には電子教科書にしましょうと決めている。それですら僕は遅すぎると思っている。世界からまた「失われた10年」になるにもかかわらず、その2020年ですら、後ろ送りにしよう、全部骨抜きにしようと・・・。
田原 誰がそんなことをやっているの?
孫 ヌエのような存在でね、誰かってう名前が出てこない。全員でモワ~とボイコットしている。
田原 モワ~っと?
孫 モワ~っと。それでこの間、僕は文科省に呼ばれて行ってきたんです。「電子教科書について聞かせよ」と呼ばれたから行ってきた。で、口から泡飛ばして「やるべきだ!」ってワーっと言った。そうしたらね、目が死んでいましたよ。
会場 (爆笑)
田原 聞いていないわけね。
孫 呼んでおいてね、その死んだ目はなんだと。僕が先生でお前らが生徒なら、お前らどやしつけるぞと。呼んでおいて、なんか眠たそうな顔をして聞いておる。
揚げ足取りしかしない予算委員会!
田原 いや、呼ばなきゃいけないということはあって、格好だけ呼ぶんだけど、一切無視したいんだ。
孫 要するに「反対」も言わないんです。「賛成」も言わない。それでなにか、逸れたような質疑応答をモワ~っとする。なんでそんな重箱のすみっこを聞くの? 中心を聞くのならまだ分かるよと。重箱のすみっこを聞いてどうするの、と。
田原 それはね、今の国会が同じ。
孫 そうですよね。
田原 予算委員会ですよ。でこの予算が借金がいっぱいあるわけですよ。借金を減らすのか、それとも景気をよくするのか、誰もそんなことを言わない。
孫 そうそうそうそう。
田原 重箱のすみばっかり。
孫 重箱のすみっこの失言癖ばっかりでしょう。これじゃあね、日本の天下国家はマズイですよ、マズイ。
だから僕は今日は、田原さんも「電子教科書反対!」なんて明確に言っているちゅう本(『緊急提言! デジタル教育は日本を滅ぼす』)があったから・・・。
田原 僕、会員になったんですよ。会員(編集部註・「デジタル教科書教材協議会」のアドバイザー)になった。
孫 ああ、会員になった。
田原 だけど僕は、今の教育は大いに問題だと。
孫 そうそう。
田原 やっぱりね、電子教科書をやっても教育を直さなきゃダメだって言っています。
孫 そう、おっしゃる通り。それは両方なんです。教育の中身も直さなきゃいけないし、道具としての電子教科書も用意しなきゃいけないし。そもそも一番大切なのは何を教えるかというコンテンツ。それが、工業社会の時代のコンテンツをいつまでも教えているようじゃダメだと。
田原 それは分かる。「電子教科書が便利だ」っていう話はいっぱいあるんだけれど、「それで教育をどう変えるんだ」っていう話がない。そこなんですよ、孫さんとやりたかったのは。
孫 それを今日、僕は用意しましたからやりますよ。
で、とにかくまず、急がないかんということを一つのメッセージとして受けていただきたい。
田原 でも「急ぐ」という総務大臣がクビになった。
孫 そう。それでも、現職の大臣も必ず理解いただけると信じている。
田原 理解したらクビになる。
会場 (爆笑)
孫 ハハハ。政権も総理も一年ごとに替わるし、大変ですよね、もう。日本の国はもうマズイ。だからとにかく早めなきゃいけないというメッセージをまず皆さんにも受けていただきたい。
で、何を教えるか。今10歳の子供たちは30年後には40歳ですから。30年後の40歳、社会人で言えば一番働き盛りの40歳。今40歳の人たちが30年前に何を学校で教育受けたか。これが日本の国際競争力にモロ影響を与えている。
絶対に責任をとらない文科省!
田原 実はある予備校の先生に聞いたの。「なんでみんな予備校に行くんだ」と。「学校の教師がダメだから行くのか」と言ったら、「そうでもない」と。
つまりね、学校の教師はね、算数だの問題を解くことしか教えない。算数がいかに面白い教科か、理科がいかに面白いか、これをまったく教えない。
孫 そうそう。それとね、塾はいい中学、いい高校、いい大学の受験を通らすという明確な目的を持っているから、生徒同士の過酷な競争状態に持って行って、試験をしょっちゅうやって、成績順に席順を並べてみたり張り出したり、いろんなことをやっている。かつての日本が競争に燃えていた時代には、廊下に張り出すなんて当たり前だった。
田原 当たり前。
孫 塾では今でも張り出している。だけど学校では、順番に張り出すと、PTAから怒られる。それで文科省の偉い人からも「そうするな」って言われているような言われていないような感じがある。"ゆとり"のなんとか、「競争はよくない」とか・・・。
田原 ゆとりもね、また文科省がどうしようもない。僕は取材したの。すると文科省が全部先生のせいにする。ゆとりの教育がなんで失敗したか。「教師が悪いんだ」と。総合的学習の時間なんてね、「生徒の主体性を高めるためにやったら教師がついていけないからムチャクチャになっちゃった」と。文科省は「自分の責任だ」とは絶対に言わない。
孫 会社でもね、「敗軍の将兵を語る」というか、ダメになった会社の社長で「自分の部下がバカだから」とすぐにいう人がいるじゃないですか。これは最悪ですよ、大将としては。そう思いませんか。
僕は自分の部下をもうスゴイと思っているんですよ、本当に。最近も感動しまくっているんですけどね。
田原 それは何よりも、部下が孫さんを信頼している。
スターウォーズのごとく!
孫 いやいや、信頼している部分もあると思うし、「社長が頼りないから頑張んなきゃ」と思っているところもあるかもしれない。とにかくそういうことで、教育の精神論もありますけども、教育の中身を情報化社会、情報革命に向けたものをやらなきゃいけない。
じゃあそのIT教育って何ですかって言うと、今ある紙の教科書を単に電子に置き換えましたというだけではダメだと。そうではなくて、IT立国---電子立国からIT立国---に向けた教育の変革だということで、さっきも言ったように30年間で100万倍になったわけです。今からものすごいイノベーションが起きる。
だから今あるものを、『スター・ウォーズ』---先生方、『スター・ウォーズ』って観ましたか? 『スター・ウォーズ』でヨーダが宙に浮いて、それで闘うジェダイに訓練をするときに、「目に見えるものを相手に闘ってはいけない。目に見えないフォース(未来を予知する力、他人の心を操る力)に聞け」と。「目に見えた剣を追ってそれをよけるのではなく、これから剣がどこに来るのだろうというフォースを読め、先を読め」と言っている。
だから今のiPadだiPhoneだを見て、あるいはパソコンを見て、「あ、これをやればいいのか」っていう程度ではダメですよ。30年後に、今の10歳の子供たちが40歳になる。そのときに彼らが、自分が10歳のときに教えてくれたあの恩師の先生の顔を思い浮かべて感謝をする。
田原 感謝しないね、今。
孫 「あの先生が、僕が10歳のときにあのことを言ってくれた。あれを見せてくれた。あのことを語りかけてくれた。だから今の40歳の私がある」。そうやって、今ある目に見えるモノを語るのではなく、今まだ目に見えない30年後の進化を予見して、「30年後の世界にこうなりますよ、それに対してのことを今学ぼうよ、準備しよう」と。
コイ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8C%A6%E9%AF%89
毎日新聞 12月21日(火)
観賞用ニシキゴイなどのコイ科魚類をめぐり、日本からの輸入を禁止している中国が、日本側に解禁を打診していることが分かった。ところが、以前に比べ多くの種類の病気を検疫対象とするなど厳しい条件を挙げているため、主産地の新潟県内の養鯉(ようり)業者などは「コストがかかり過ぎる」と対応に苦慮している。【岡田英】
中国は03年11月、日本国内でコイヘルペス(KHV)が発生したのを受け、コイ科魚類の輸入を禁止した。実際には、例外的に輸入が認められている香港を経由して入っていると見られるが、養鯉業者にとっては富裕層が台頭する中国は魅力的な市場で、輸出解禁は悲願だった。
農林水産省などによると、中国の検疫当局は今年8月、上海万博の日本館でのニシキゴイの展示(10月13~15日)を特別許可すると日本側に連絡。同時に、検疫サンプル数を日本が欧米などへ輸出する場合(30匹)の約5倍の150匹以上とすることや、コイが直接感染しないとされる病気も検疫対象とすることなどを条件に、輸入を解禁するとの文書を送ってきたという。
しかし、新潟県内水面水産試験場によると、業者の負担するコストが増大するため、輸出できるのは規模の大きい数社に限られてしまうおそれがある。業界団体の全日本錦鯉振興会(加盟約430業者)内でも「必要以上の条件で、そのままでは受け入れられない」との意見が出ており、間野泉一理事長は「来年1月下旬の理事会で対応をとりまとめたい」と話している。
中国が輸入解禁を目指す背景には、国内でニシキゴイの養殖・流通拠点の整備が進められているため、検疫を厳しくしたうえで、発祥地の新潟県長岡、小千谷市などトップブランドの養殖技術を導入したいとの思惑があるとみられる。農水省は「振興会などの意向を踏まえ、交渉を進めるか判断する」としている。
*ニッポン密着:中越地震6年、被災「養鯉業」が再生 「泳ぐ宝石」に海外需要!
新潟県中越地震(04年10月)で壊滅的な被害を受けた新潟県内の養鯉(ようり)業が、好調な海外輸出に支えられ息を吹き返している。欧米の愛好家に加え、経済成長が著しい中国やタイなど東アジアの富裕層が「ステータスシンボル」として色鮮やかなニシキゴイをこぞって買い求めている。一方、国内の販売は不況や池を所有する家庭が減ったなどの理由で低迷している。輸出に依存する「泳ぐ宝石」。その事情を探った。【竹内良和】
<KOI FARM>
中越地震最大の被災地となった旧山古志村(現長岡市)と隣接する小千谷市東山地区には、そんな看板を掲げた養鯉業者のハウスが軒を連ねる。
品質とブランド力で高い人気がある新潟産のニシキゴイ。値段は100円弱から数千万円と幅があるが、この春は「水槽が軒並み空になるほどの売れ行き」(県錦鯉協議会)だった。
欧州ではガーデニングブームを背景に池でコイを飼う人が増え、ホームセンターでも販売されている。オランダで8月にあった品評会は、4日間で2万5000人もの人出があったという。中国は検疫上の理由で日本からの輸入を受け入れていないが、県水産課は「実際は香港などを経由するルートで入っている」とみる。
小千谷市南荷頃(みなみにごろ)の養鯉業、広井輝男さん(59)は、今や出荷量の約9割が欧州を中心とした海外向けだ。全体の出荷額も震災前を2~3割上回るようになったという。
「輸出は国内の落ち込みをしのいでいる。決して楽じゃないが、後継ぎがいる業者も多く、これからもやっていけそうだ」
□
「こっちを向いて」
今月5日。オランダ人のポール・オーデンさん(55)は、旧山古志村の養鯉業、石原大輔さん(39)がコイを池から引き揚げる姿をビデオに収めていた。3年前から小千谷市に住み、生産者とバイヤーとのパイプ役などを務める。撮影は、今秋出荷するコイを客に見せるための資料づくりだ。
この池も地震で崩れるなど大打撃を受けたが、ポールさんらを介した輸出が順調で、出荷量はほぼ被災前の水準に戻った。地元では海外のバイヤーが電卓を手に水槽をのぞき、価格交渉する姿が珍しくない。
一方、長岡市の養鯉業、松田松夫さん(58)は昨年12月、中国の政府系企業と共同出資し、同国の武漢市にコイの養殖・販売を手がける会社「武漢松田新世界錦鯉養殖有限公司」を誕生させた。自ら輸出も手がけてきたが、円高や「海外の2倍」(輸出業者)とも言われる高い運送費などで取引が難航することが多かったためだ。「中国では日本資本が入った初の養殖会社」という。
コイ人気は東アジア地域で急上昇し、高級魚を買い求める富裕層も多い。そのまま日本の養鯉業者に飼育を委託、品評会の授賞式だけ来日し、笑顔で記念写真に納まる客もいる。松田さんが取引をする南アフリカの鉱山経営者は言ったという。「宝石は誰でも持てるが『死んでしまう宝石』はなかなか持てない」
同社は1260ヘクタールの広大な池で養殖し、今年は66万匹を出荷、来年は15倍に拡大予定だ。新会社を大連市につくる計画も浮上しており、尖閣諸島の領有権問題が噴出した時も、中国側は松田さんに「商売はしっかり進めたい」と伝えてきたという。
今年8月、松田さんは武漢市から約270キロ離れた田舎町を訪れた。中国人の企業経営者が取引先を招くために建てたゲストハウス。広大な庭園に深さ3メートルの池があり、1匹200万円のコイを含め数万匹を泳がせる計画だ。松田さんは言う。
「多くのコイを飼える力があることを示すことで、取引先の信頼を得たいのではないか」
□
農林水産省によると、新潟県のコイの海外輸出は20年以上前に始まり、09年現在で少なくとも22カ国に出荷されている。世界の共通語になりつつある<KOI>だが、取引の中心は1匹数万円以下のものだ。
「ヨーロッパも景気が悪く、安いコイに人気が集まっている。円高が進むと苦しい」。ポールさんはそんな懸念も抱く。今ではイスラエル、タイなど数カ国でも養殖されるようになったという。「海外で高級なコイを生産するのは当分無理だが、安いコイなら新潟産と変わらなくなっている」
海外に活路を求めた松田さんもブランド力があり、良質な種ゴイを産出できるのは新潟だけと自負する。
「1匹数百円のコイをいくら輸出しても大きな利益は望めない。発祥の地だからこそ、高級品種の生産に特化すべきだ」
■全国739業者中、半数以上が新潟
ニシキゴイは江戸時代、新潟県の旧山古志村と小千谷市を含む一部地域で、食用のマゴイが突然変異で色が付いたのが発祥とされる。観賞用として改良が重ねられ、大正3(1914)年、東京・上野であった東京大正博覧会に出品されたことで全国に存在が知られるようになった。
農水省の漁業センサス(08年)では、養鯉業者は全国に739あり、新潟は400で半数以上を占める。このうち旧山古志村を含む長岡市と小千谷市で248に上る。新潟県錦鯉協議会は県内の生産量の7~8割が輸出に回り、年間の輸出額は震災前と同水準の年間60億~70億円と推定している。
毎日新聞 2010年10月11日 東京朝刊
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http://www.uonumakoshihikari.com/
魚沼コシヒカリ理想の稲作技術『CO2削減農法研究会』(勉強会)の設立計画!