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石川 遼
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E9%81%BC
越後湯沢「石川遼記念館」
http://www.ryo-ishikawa.jp/risunoie/
スポニチアネックス 1月13日(木)
男子ゴルフの石川遼(19=パナソニック)が12日、新潟県湯沢町のゴールド越後湯沢CCで毎年恒例のスキー合宿をスタートさせた。
オフのスキー合宿は今年で4年目を迎え、初日はさっそくクロスカントリーで約10キロを走破した。滑りも上達してほとんど転ぶこともなく「今まではうまく滑れずに疲れていた。これからはスピードを意識したり、もっと長い距離をこなしたい」と意気込んだ。
練習の最後には短距離のダッシュを繰り返して、あるヒントもつかんだ。「水泳の平泳ぎと一緒で、速く進むには足を速く動かすよりも伸びることが大事」。理想に掲げたのは競泳五輪金メダリストの北島康介の泳ぎ。「北島さんは他の選手とストロークが一緒でも伸びが凄い。そういう感じで滑りたい」と金メダリストのスムーズな泳ぎを意識するようになった。
合宿の目的は持久力と下半身の強化。さらに「ゴルフ以外の競技をやると自分の体に意思を伝達する難しさを感じる」と自らの体の動きにも敏感さが増すという。白銀の世界で過ごす4日間。“雪上の北島康介”を目指し、単純な筋力だけではないレベルアップを図る。
≪スキーでも「石川遼カップ」!?≫石川の新しい冠大会ができた!?今回のスキー合宿では最終日に地元の小学生とのタイムトライアルレースが計画されている。石川サイドが優勝賞品なども提供し、関係者によれば湯沢町初のクロカン大会になるという。すでにジュニアゴルフでは「石川遼カップ」があるが、スキー版の石川遼カップといえそうだ。石川自身は「自分が周りと比べてどれくらいのスピードなのか知りたいし、最終日までにしっかり仕上げたい」とホスト役に燃えていた。
2011.01.13(Thu)JBプレス 谷口智彦
今年フランスのニコラ・サルコジ大統領は男を上げたがっている。さしずめ今週ワシントンでバラク・オバマ米大統領と会ったのが、これから続くだろう長いキャンペーンの始まりだった。
サルコジ氏の敵はIMF専務理事?
来年2012年は大統領選挙イヤー(自分自身の)だというのに、人気は低迷したままだ。
ライバルとして、国際通貨基金(IMF)で専務理事を務めるドミニク・ストロスカーン氏が立候補するかもしれない。報道による限り、現職有利とは言えないらしい。
それが動機の一半を占めるのか否か、あまり勘繰ってはいけないけれど、男の上げ方をサルコジ氏はほかならぬIMF大改革を進めることで狙おうとしている。
そこには国内政治的含意があると見ておいて不自然にならないだろう。
G8・G20議長の幸運!
加えて国際通貨体制の変革に向け先鞭をつけるほか、経済思想に、氏が好みそうな見出しを付すならコペルニクス的転回すらもたらそうとしている。「脱・GDP信仰」の勧奨である。
それもこれも、今年フランスがG8・G20で議長国、氏は自ら議長となる好機幸運をとらえてのこと、内外に大政治家ぶりを印象づけ得るまたとない機会と踏んでのことだ。
とこのくらいは、想像のみに依拠して断定したところで非常識にはなるまい。想像ついで、サルコジ氏のアタマにあるだろう思惑を思い描いてみる。
The Westの凋落を食い止める!
なにしろリーマン危機以来、The Westすなわち19世紀以来文明の名をほしいままにしてきた西欧各国は凋落の憂き目にある。世人みな、パワーの中心はもはや太平洋と中国、インドに移ったと言い募る。
いまいましくも右下に落ちる欧州とフランスの影響力曲線を、自分の力で食い止め、反転させられはしないだろうか。
この際は北京と語らい、その力を我が物として、危機の真因をもたらしたグローバルな資金の偏在を正し、ドルの過剰流動性がとめどなく放散する事態に待ったをかけることだ。
IMFの監視監督機能を強め、その特別引き出し権(SDR)を真の国際通貨とする路線を自らの手で敷くことだろう。
なにせIMFは代々欧州が、とりわけフランスが専務理事のポストを掌握してきた機関であるからして、北京の手綱などIMFが舞台なら我が手に握れぬはずはない。
経済測る尺度自体を変えてしまう?
成功したとしよう、そのあかつき自分は、米国にドル紙幣を意のまま刷らせぬ仕組みを呑ませるという、かのド・ゴール将軍の願望を実現できる。
大西洋でフランスの威光を輝かせたその足は、北京という馬のあぶみにしっかりかかっている――とそうなれば、サルコジの光は東方にも輝くではないか。
パリがその指導力で北京の後塵を拝すなど、本来あってはならない。世間の尺度が成長率といういわば微分のプリズムばかりを使いたがるから北京が上等に見える。あるいはデリーなどが。
正しい尺度とは蓄積すなわち積分値であり、社会資本や芸術資本のストックであってそのもたらす個人の自由であるはずなのだから、各国比較の指標を根こそぎ変えたらいい。
「GDP信仰」からの脱却こそ必要なのであって、これをもたらした日には、自分は西側世界中興の祖になれる。いや、ならなくてはならない。
ドル離れの具体策を準備中とか!
「ドル一極依存からの脱却」を、こんな次第でサルコジ氏は1月10日、オバマ氏と会った折持ち出したと信じられている(本当のところはまだ不明)。
IMF元専務理事でサルコジ氏との関係が良いミシェル・カムドシュ氏ら十数人のエコノミストを集め、具体策を練らせている。今後は何度かパリで国際セミナーを開き、情宣これ努めていくともいうが、最初のお手合わせでオバマ氏が耳を傾けた気配は見えてこない。
いずれ出てくる具体策にしろ、奇策ではあり得ない。中国人民銀行総裁・周小川氏がつとに明らかにした線、あるいはノーベル経済学賞学者ジョゼフ・スティグリッツ氏が推奨するライン、つまりSDR通貨バスケットに人民元を入れるなりしたうえ、各国通貨当局にだぶつくドル準備をこれに置き換えていくべしというものだろう。
米国に共鳴板現れる意外!
具体策にもう一歩踏み込みたいところだが、決定版と呼べるプランはまだ出ていない。
それより米国から新手の動きが見え始めた。サルコジ氏とその周辺にとってすら意想外だったに違いないが、それが前回本コラムで触れた金再評価というワイルド・カードだ。
党派的には共和党右派からキリスト教原理主義、それらと重なり合うティーパーティー運動・リバタリアンに散見、次第に析出されつつある経済思想によると、放恣に流れる人間の行為は、人智を超える神性を帯びた何物かによって制約されなくてはならない。
その何物かこそがゴールドであって、その線で、極めて曖昧模糊とし抽象的ではあれ「金本位制」復帰を説き政治宣伝に乗り出しているのが、例えばプリンストン大学法倫理学教授のロバート・P・ジョージ氏が始めた「アメリカの原則プロジェクト(APP)」であり、来年の大統領選を睨んだそのブログ・サイト「金本位制2012」だ。
グリーンスパンも金回帰か!
1982年ニューヨーク州知事選挙に出てマリオ・クオモ氏に僅差の敗北を喫したルイス・ルー・レーマン氏が1972年以来率いるレーマン・インスティテュートはもう1つの確信的金本位集団であって、人脈的にはAPPと重なる。
最近、根っから金を重んじる実務家兼学者の大物がインドにもいた(S.S. Tarapore氏)ことを知ったけれど、かのアラン・グリーンスパン前連邦準備制度理事会議長すら最近「法定貨幣の将来は金に行くしかない(Fiat money has no place to go but gold.)」と発言したと、地元紙(ニューヨーク・サン)に報道があった。
米国に散らばるこれら勢力・人士の影響力がどこまで伸びるかあるいは伸びないか。インドほか世界に散在する同じ傾きの人々が連れて力を伸ばすかどうか。常識的には、疑いながら慎重に見るということになろう。筆者もそれをスタンスとしたい。
伝説の仏エコノミスト、復活!
まことに面白いのは、レーマン氏にしろAPPにしろ、米国で金復権を唱える人々がいま一様に、あるフランス人経済学者を思い出し、泉下から祭壇に引き上げつつあることだ。
パリはエッフェル塔のたもと、名前を冠した広場(Place Jacques Rueff)があるから、日本人観光客も知らずにその物故学者の名に親しんでいる。――ジャック・リュエフ。
今回、決定的証拠に行き当たることができなかったけれど(ご存知の方にお教えを請いたい)、サルコジ氏が最も尊敬する経済学者とはリュエフだというのである。そして一部の米国人が想起しつつあるのが、まさしくこの人物だ。
リュエフは1896年に生まれ、ニクソン・ショックによって金廃貨が決まった後、金本位制復帰を唱え続けて1978年に没した。日本で言うと日銀総裁として法皇のあだ名があった一万田尚登(1893-1984)とほぼ同世代だ。
ド・ゴールの顧問、評価逆転!
ド・ゴールこそは米国からフランスへの金現送(金の現物輸送)に踏み切り、ブレトン・ウッズ制度下の金ドル本位制に引導を渡した主役であった。その経済顧問リュエフの名とはしたがって、米国では苦々しく思われこそすれ、崇められなどしなかった。
いま評価は逆転し、米国金復権論者の間で具眼の士として大いに尊崇を集めつつある。手っ取り早くAPPについて理解でき、リュエフ再評価の雰囲気をも知ることのできる記事があるから示しておこう(The Hindu紙2010年11月23日付投稿「Gold Standard」)。
ケインズと長年の論敵!
時宜にかなったことには、米国人学者による伝記が出たばかり。関心復活の例証だろうか。
ジョン・メイナード・ケインズとは早くも第1次大戦後の対独賠償方針を巡って激しく争ったことが知られている(Robert Skidelsky, John Maynard Keynes: Hopes Betrayed 1883-1920, p. 397)。
ケインジアンを悪の代名詞のごとく論じるティーパーティー派には、その論敵となれば即座によしとしたがる土壌があるかもしれない。
フランス中央銀行副総裁の地位をヴィシー政権に剥奪され、戦後はフランス経済の再建に尽くしたリュエフは、フリードリヒ・ハイエクら政府介入を嫌う自由主義経済学者たちが始めた「モンペルラン・ソサエティ」で重きをなしたという。
リュエフの日本における知名度!
モンペルランとハイエクといえば、日本で彼らに最も近かったのは故・田中清玄である。型破りの行動家だった清玄は生前のリュエフとパリででも会っていただろうか。関係者が集う小さな集まり「オットー会」で、ご子息にでも尋ねてみたい。
この可能性を除くとリュエフの名を筆者が聞いたのは、大蔵省(当時)副財務官として1985年のプラザ合意に立ち会った経験を持つ近藤健彦・明星大学教授の著作を通じてだけだ。
例えば彩流社刊『アジア共通通貨戦略・日本「再生」のための国際政治経済学』で同教授は、「20世紀に欧州が生んだ最大の国際通貨理論家であ〔り、〕…彼の金融理論を正確に21世紀に伝えることが、20世紀に学んだ者のひとつの使命ではないかとさえ思っている」と記す。
サルコジが作ったスティグリッツ委員会!
最後に「脱・GDP信仰」についてひとこと。
構想はリーマン危機が起きる前、2008年当初のこと。サルコジ大統領肝煎りで「経済パフォーマンスならびに社会発展計測の方法に関する委員会」なるものが発足した。
率いるのはジョゼフ・スティグリッツ(議長)、アマティア・セン(議長補佐)という2人のノーベル経済学賞受賞者。それにフランスでは有名な学者兼実務家のジャンポール・フィトゥスィ氏(Jean-Paul Fitoussi)がコーディネーターとしてつく。
スタンフォード大学のケネス・アロー氏(1972年51歳でノーベル経済学賞受賞)ら有名どころを含むエコノミストが22人、メンバーとして加わる。
米国(世界銀行など国際機関含む)から11人、英国から3人、インドから1人、それにフランスから7人という構成だ。
委員会のホームページには、「経済指標としてのGDPが持つ限界が何か探る」ことが目的と、論争的なことが書いてある。面白い。
アジアからはただ1人、中国人として初めて世界銀行の要職(主任エコノミスト)に就いたジャスティン・リン(林毅夫)氏を数えるのみ。本来なら、ゼロ成長経済の課題を先進的に引き受けつつある日本からこそ知的貢献があっていいところだった。
新潟スキー発祥100周年キャラクター レルヒさんって?
http://www.niigata-snow.jp/lerch/
日本スキー発祥100周年~白馬村スキー物語~
http://www.vill.hakuba.nagano.jp/privilege/100year/index.html
日本スキー発祥100周年委員会
http://ski100.jp/
祝・日本スキー発祥100周年スキーと美しい雪山を愛します。これからの100年も。
2011年冬。それはスキーが日本に伝えられてから100年目の感謝の冬でもあります。美しい山々と上質な雪に恵まれたこの国で、スキーは瞬く間に人々の心をとらえ、日本独自のスキー文化を育んできました。100年もの間、おそらく何千万人もの人々がスキーをはじめとしたスノースポーツに熱中し、札幌、長野の冬季五輪に感動し、美しい白銀の世界や豊かな日本の雪国の情緒に憧れ、家族や友人との想い出を胸に刻んできたことでしょう。私たちは、この豊かな自然環境の中で楽しむスノースポーツが、今まで多くの人々の心を解放し、友情やチャレンジする心を育んできたことに心から感謝しています。
そして私たちは、これからの100年もスキーを楽しみたい。厳しい時代だからこそ、これからも人々の心に、そして子供たちにも、この美しい白銀の世界がもたらしてくれる感動を伝えていきたいのです。また、豊かな雪や自然環境があってのスポーツでもあるスキーは、地球温暖化という環境問題に直面しています。世界でも稀な美しい日本の雪国のためにも、雪国を訪れ、スノースポーツを楽しみ、雪とふれあうことが、私たちが、より自然を愛する豊かな心を持つことにつながってゆくと信じています。
1911年1月12日にオーストリアのレルヒ少佐が現在の新潟県上越市において、日本に初めてスキーを伝えてから、100周年を迎えます。これを契機に、スノースポーツの魅力をこれからもより多くの人々に伝えていくことを目的に、2009年11月に、官民を超えてスキーに携わる関係団体で、「日本スキー発祥100 周年委員会」が設立されました。日本の美しい雪山とスノースポーツを心から愛する皆さんとともに、これからの100年を見据えて活動していきたいと思います。
「内外価格差」で生き延びてきた日本メーカー
2011.01.12(Wed)JBプレス相場英雄
2010年は、家電エコポイントを利用して薄型テレビを購入した読者が多かったのではないだろうか。
家電エコポイント制度は、2010年12月からポイント数が約半分になった。だが、2011年7月には地上放送デジタル完全移行が控えている。2011年3月末の家電エコポイント制度終了に向けて、これから薄型テレビへの買い替えを検討する向きも少なくないはず。
消費者の駆け込み需要が見込まれる中、日本のテレビ製造メーカー各社は早くも戦々恐々としている。エコポイント制度の反動による売り上げ減少はもちろんのこと、海外勢の本格進出が噂されるからだ。
今回は、薄型テレビの国内市場の今後を大胆に占ってみた。
米商戦の実売価格は日本よりも激安!
「X社 40インチ液晶 550ドル/46インチ 700ドル/52インチ 1500ドル」
「Y社 40インチ液晶 498ドル/46インチ 800ドル/55インチ(3D)2200ドル」・・・。
これらの数値は、米国の大手量販店の歳末セール向けの薄型テレビの実売価格だ。X社は、日本有数の薄型テレビメーカー、Y社は韓国の有力メーカーを指す。
筆者は2010年末、旧知のアナリストからこうした商品の価格一覧表を入手した。「1ドル=85円」で換算すると、X社の40インチ液晶が4万6750円。46インチは5万9500円。日本の量販店の実売価格といかにかけ離れているかが分かるはずだ。
手元の一覧表によれば、X、Yのような著名ブランドのタグが付いていない台湾製の32インチモデルだと、189ドル、あるいは198ドルの文字もぞろぞろ出てくる。日本円にして1万6000~1万7000円といったところだ。
これらの価格は、米国全体をカバーする量販店ではごくごく一般的な価格である。「格安」をうたう一部業者の客寄せ的な値付けでないことをお断りしておく。
筆者は2010年4月の本コラムで、米国市場のシェアで日本メーカーが韓国勢の後塵を拝していると触れた。今回、米国でのごくごく一般的な価格に触れたのは、それだけ日本メーカーが苦戦している状況を理解してほしかったからだ。
本稿を執筆時点(2010年末)で、筆者の自宅に届いた日本の大手量販店の価格を見てみよう。X社の40インチ液晶は9万9800円、55インチ(3D)は40万9800円。米国の一般的な価格とは大きな開きがある。
米国との規格の差などもあるが、「日本の消費者がメーカーと量販店が提示した価格を信じ切っているため、不当に高い商品を買わされている」(先のアナリスト)と見ることもできる。
国内の価格設定で利益を維持
なぜ、筆者が米国の薄型テレビの実売価格に触れたのか。それは今後の日本メーカーの動向に大きく関係するからに他ならない。
冒頭で触れたように、家電エコポイント制度は2010年12月から大幅に変更された。薄型テレビについては、省エネ基準が「5」、かつ買い替え商品のみが適用となった。これも2011年3月末で廃止となる。
多くの消費者が量販店や電器店に駆け込んだことで、その後の反動減は必至だ。電子情報技術産業協会によれば、駆け込み需要の反動などで、今年は薄型テレビの販売台数が6割前後は減る見通しだという。
ここで、先に触れた日米の薄型テレビの内外価格差を思い出してほしい。
日本メーカーは国内市場でかろうじて独占状態をキープし、「国内の価格設定でなんとか利益を出している状態」(某大手メーカー関係者)だ。国内で6割も販売減が見込まれるというのは、日本メーカーにとって深刻な事態である。
韓国勢の本格進出に耐えられるか
もう1つ、日本メーカーの頭を悩ましている要因がある。それは、韓国勢の日本市場本格参戦の観測が高まっていることだ。
既に韓国LGが人気俳優を起用して、国内で頻繁にテレビCMを打っているのは、多くの読者がご存じの通り。米国市場では、先の日本メーカー製の実売価格とほぼ同じ値段でシェアを伸ばしている。
系列のLGディスプレーがアップルの「iPad」の液晶を担当しているように、「LG製品のクオリティーは日本製と同等かそれ以上」(別のアナリスト)とも言われる。
筆者は家電量販店でLG製の大型テレビを実際に視聴してみたが、その完成度の高さに舌を巻いた。これで米国並みの価格設定が実行されれば、間違いなくLG製のディスプレーを購入するだろう。
LG、あるいは最大手のサムスン電子が日本市場に本格的に進出してくるのか、その際、米国並みの価格設定に打って出るのかは、今のところ未知数だ。
だが、彼らにはウォン安という追い風がある。その上、米国や欧州、新興国で苛烈なシェア争いを繰り広げてきた「猛者」なのだ。「米国と同じ価格設定で日本進出しても十分に利益が出る体制」(同)も整っている。
翻って日本勢はどうか。「家電エコポイントの廃止、韓国勢の進出で、国内メーカーの1~2社は脱落するのでは」(先のメーカー筋)との声も漏れ聞こえている。
日本のお家芸だった家電、特に薄型テレビは、今年大きな岐路に立たされていると言わざるを得ない。
今こそ国家100年の計を立てよ、米国の善意は当てにできない!
2011.01.12(Wed)JBプレス 森清勇
今日の国際情勢を見ていると、砲艦外交に逆戻りした感がある。そうした理解の下に、今次の「防衛計画の大綱」(PDF)は作られたのであろうか。「国家の大本」であるべき国防が、直近の政局絡みで軽々に扱われては禍根を千載に残すことになる。
国家が存在し続けるためには国際社会の現実から目をそらしてはならない。日本の安全に直接的に関わる国家は覇権志向の中国、並びに同盟関係にある米国である。両国の国家としての在り様を検証して、国家百年の計を立てることこそ肝要である。
中国は日本抹殺にかかっている!
1993年に中国を訪問したポール・キーティング豪首相(当時)に対して、李鵬首相(当時)が「日本は取るに足るほどの国ではない。20年後には地上から消えていく国となろう」と語った言葉が思い出される。
既に17年が経過し、中国は軍事大国としての地位を確立した。日本に残された期間はわずかである。
中国の指導者の発言にはかなりの現実味がある。毛沢東は「人民がズボンをはけなくても、飢え死にしようとも中国は核を持つ」と決意を表明した。
当時の国際社会で信じるものは少なかったが実現した。鄧小平は「黒猫でも白猫でも、ネズミを捕る猫はいい猫だ」と言って、社会主義市場経済を導入した。
また香港返還交渉では、交渉を有利にするための「一国両制」という奇想天外なノーブルライ(高貴な嘘)で英国を納得させた。
政治指導者ばかりでなく、軍高官も思い切ったことをしばしば発言している。例えば、朱成虎将軍は2005年に次のように発言している。
「現在の軍事バランスでは中国は米国に対する通常兵器での戦争を戦い抜く能力はない。(中略)米国が中国の本土以外で中国軍の航空機や艦艇を通常兵器で攻撃する場合でも、米国本土に対する中国の核攻撃は正当化される」
「(米国による攻撃の結果)中国は西安以東のすべての都市の破壊を覚悟しなければならない。しかし、米国も数百の都市の破壊を覚悟せねばならない」
他人の空言みたいに日本人は無関心であるが、日米同盟に基づく米国の武力発動を牽制して、「核の傘」を機能不全にしようとする普段からの工作であろう。
2008年に訪中した米太平洋軍司令官のティモシー・キーティング海軍大将は米上院軍事委員会公聴会で、中国海軍の高官が「太平洋を分割し、米国がハワイ以東を、中国が同以西の海域を管轄してはどうか」と提案したことを明らかにしている。
先の尖閣諸島における中国漁船の衝突事案がらみでは、人民解放軍・中国軍事科学会副秘書長の要職にある羅援少将が次のように語っている。
「日本が東シナ海の海洋資源を握れば、資源小国から資源大国になってしまう。(中略)中国人民は平和を愛しているが、妥協と譲歩で平和を交換することはあり得ない」と発言し、また「釣魚島の主権を明確にしなければならない時期が来た」
こうした動きに呼応するかのように、中国指導部が2009年に南シナ海ばかりでなく東シナ海の「争う余地のない主権」について「国家の核心的利益」に分類したこと、そして2010年に入り中国政府が尖閣諸島を台湾やチベット問題と同じく「核心的利益」に関わる問題として扱い始めたと、香港の英字紙が報道した。
中国の「平和目的」は表向き!
1919(大正8)年、魚釣島付近で福建省の漁民31人が遭難したが、日本人が救助し無事に送還した。それに対して中華民国長崎領事が「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島・・・」と明記した感謝状を出している。
中国が同諸島の領有権を主張し始めたのは国連の海洋調査でエネルギー資源が豊富にあることが判明した1970年代で、領海法を制定して自国領に組み入れたのは1992年であるにもかかわらず、「明確な日本領」を否定するためか、最近は「古来からの中国領土」とも言い出している。
実際、首相が横浜APECで“首脳会談を開けた”だけで安堵している間に、ヘリ2機搭載可能で機銃まで装備していると見られる新鋭漁業監視船を含む2隻が接続水域に出没している。
海保巡視船の警告に対しては「正当に行動している」と返事するのみである。
中国の言う「正当な行動」とは中国の領海法に基づくもので、尖閣諸島に上陸しても正当化されるということにほかならない。現に、石垣市議2人が上陸したことに対し、中国外務省は「中国の領土と主権を著しく侵犯する行為」という談話を発表した。
漁船がさほど見当たらないにもかかわらず漁業監視船が接続水域を彷徨しているのは、日本人の感覚を麻痺させる(あるいは既に上陸しているかもしれない)のを隠蔽する作戦のように思われる。
係争の真っ只中で、そうした行動が取れるはずがないという識者も多いが、「尖閣は後世の判断に任せる」、あるいは「ガス田の協議をする」などの合意を平気で反故にしてきた中国である。何があってもおかしくない。
20年余にわたって2桁台の軍事力増強を図ってきた中国に透明性を求めると、「平和目的」であるとの主張を繰り返す。中国の「平和目的」は異常な軍事力増強の言い逃れであり、露わになってきた覇権確立のカムフラージュでしかない。
軍事力増強と尖閣沖漁船衝突のような異常な行動、さらには北朝鮮の無謀をも擁護する中国の姿勢が日米(韓はオブザーバー)や米韓(日本はオブザーバー)の合同軍事演習の必要性を惹起させたのであるが、中国はあべこべに自国への脅迫であるとクレームをつけている。
現時点では指導部の強権でインターネット規制などをしながら、人民には愛国無罪に捌け口を求めさせることで収拾している。
しかし、矛盾の増大と情報の拡散で人民を抑えきれなくなった時、衣の下に隠された共産党指導部の意図が、ある日突然行動に移されないとは言えない。
米国を頼れる時代は終わりつつある!
日本人で米国の「核の傘」の有効性に疑問を呈する者は多い。歴史も伝統も浅い米国は、「国民の国民による国民のための政治」を至上の信条としており、行動の基本は世論にあると言っても過言ではないからである。
フランクリン・ルーズベルトは不戦を掲げて大統領選を戦い、国民はそれを信じて選んだ。しかし、第2次世界大戦が始まるや、友邦英国の苦戦、ウィンストン・チャーチルの奮戦と弁舌巧みな哀願を受けた大統領は、米国民のほとんどが反対する戦争に参加する決心をした。
当初はドイツを挑発して参戦の機会を探るが、多正面作戦を嫌うドイツは挑発に乗らなかった。
そこでルーズベルトは日本を戦争に巻き込むことを決意し、仕かけた罠が「ハル・ノート」を誘い水として真珠湾を攻撃させることであった。
日本の奇襲作戦を「狡猾(トリッキィー)」と喧伝し、米国民には「リメンバー・パールハーバー」と呼びかけて国民を参戦へと決起させたのである。
逆に、世論が政府を動かないようにさせることも当然あり得る。核に関して言うならば、被害の惨状に照らして、国民が政府に「核の傘」を開かせないという事態が大いにあり得る。
虎将軍ら中国軍高官の発言は、普段から米国民にこうした意識を植え付けて、米国が日中間の係争に手を出せないように仕向ける下地つくりとも思われる。
米国初代のジョージ・ワシントン大統領は「外国の純粋な行為を期待するほどの愚はない」と語っている。
日米安保が機能するように努力している現在の日本ではあるが、有事において真に期待できるかどうか、本当のところは分からない。能天気に期待するならば、これほどの愚はないということではないだろうか。
今こそ、日米同盟を重視しながらも、「自分の国は自分で守る」決意を持たないと、国家としての屋台骨がなくなりかねない。
中でも「核」問題が試金石であると見られる。親米派知識人は、「日本の核武装を米国が許すはずがない」の一点張りであるが、あまりにも短絡的思考である。
日本の核論議が日米同盟を深化させ、ひいては米国の戦略を補強するという論理の組み立てをやってはいかがであろうか。
米国が自国の国益のために他国を最大限に利用し、また国家戦略のために9.11にまつわる各種事象を操作(アル・ゴア著『理性の奪還』)したりするように、日本も自立と国益を掲げて行動しないと、米中の狭間に埋没しかねない。
核拡散防止条約(NPT)は高邁な趣旨と違って、保有を認められた5カ国の核兵器削減は停滞しているし、他方で核保有国は増大している。
「唯一の被爆国」を称揚する日本であるゆえに、道義的観点並びに核に関するリアリズムに則った新条約などを提案する第一の有資格者である。
同時に、地下鉄サリン事件の防護で有効に対処できた経験を生かし、核にも有効対処できるように準備する必要がある。
その際、形容矛盾の非核三原則ではなく、バラク・オバマ大統領の言葉ではないが、「日本は核保有国になれるが、保有しない」(Yes, we can, but we don’t)と闡明し、しっかり技術力を高めておくのが国家の使命ではないだろうか。
ヒラリー・クリントン米国務長官は「尖閣には日米安保条約第5条が適用される」と言明した。
しかし、かつて一時的にせよ、ウォルター・モンデール元駐日米大使が「適用されない」と発言したように、政権により、また要人により、すなわちTPO(時・場所・状況)に左右されると見た方がよい。
米国では従軍慰安婦の議会決議に見た通り、チャイナ・ロビーの活躍も盛んである。
ましてや、既述のように決定の最大要因が国民意思であるからには、核兵器の惨害が米国市民数百万から1000万人に及ぶと見られる状況では、「核の傘」は機能しないと見るのが至当ではなかろうか。「有用な虚構」であり続けるのは平時の外交段階だからである。
先人の血の滲む努力を無にするな!
日本は明治維新を達成したあと、範を欧米に求めた。新政府の要路にある者にとって自分の地位が確立していたわけでもなく、また意見の相違も目立つようになり内憂を抱えていた。
しかし、それ以上に外患に備えなければ日本の存立そのものが覚束ないという思いを共有していた。そこで、岩倉具視を団長とする米欧使節団を送り出したのである。
一行には木戸孝允、大久保利通、伊藤博文などもいた。1年10カ月にも及ぶ長期海外視察は、現役政府がそのまま大移動するようなもので、不在間の案件処理を必要最小限に留めるように言い残して日本を後にしたのもゆえなしとしない。
よく言われるように、英国を観ては「40年も遅れている」とは受け取らず、「40年しか遅れていない」と見て、新興国日本の明日への希望を確認した。
また、行く先々で文明の高さや日本と異なる景観に感服するところもあったが、その都度、好奇心を発揮して記憶にとどめ、また瀬戸内海などの素晴らしい景観があるではないかと、「日本」を決して忘れることはなかった。
米国のウエストポイント陸軍士官学校を訪れた時は射撃を展示され、そのオープンさにびっくりするが、日本人ならばもっと命中させると逆に自信の程を高めている。
ことほどさように、初めて外国を視察しているにもかかわらず、その目は沈着で、異国情緒に飲み込まれることもなく、基底に「日本」を据えて比較検証しようとしている。
こうした見識はひとえに、為政者として日本の明日を背負って立たなければならないという確固たる信念がもたらしたと見るほかはない。
代表団が特に関心を抱いたことは、小国の国防についてである。オランダ、ベルギー、デンマーク、さらにはオーストリア、スイスなどを回っては、日本の明日を固める意志と方策を見出そうと懸命である。
もう1つ、国際社会に出ようとする日本が関心を持ったのは万国公法(今日の国際法)についてであった。プロシアの鉄血宰相ビスマルクの話には真剣に耳を傾け、また参謀総長モルトケの議会演説にも強い関心を持った。
概略は次のようなものだった。
「世界各国は親睦礼儀をもって相交わる態度を示しているが、それは表面上のことでしかない。内面では強弱相凌ぎ、大小侮るというのが実情である。万国公法は、列国の権利を保全する不変の法とはいうものの、それは大国の利のあるうちでいったん不利となれば公法に代わる武力をもってする」(ビスマルク)
「政府はただ単に国債を減らし、租税を軽くすることばかりを考えてはならない。国の権勢を境外に振るわすように勤めなければならない。法律、正義、自由などは国内では通用するが、境外を保護するのは兵力がなければ不可能である。万国公法も国力の強弱に依存している」(モルトケ)
このことは、現在にも通用する。しっかり反芻し、記憶することが大切である。
日本は「唯一の被爆国」や「平和憲法」を盾に、国際情勢の激変にもかかわらず官僚的手法の「シーリングありき」で累次の「防衛計画の大綱」を策定してきた。
こうした日本の無頓着で内向的対応が、周辺諸国の軍事力増強を助長した面はないのだろうか。
明治の為政者たちが意識した外国巡視に比較して、今日の政治家の海外視察はしっかりした歴史観も日本観も希薄に思えてならない。
歴史の教訓を生かす時!
ここで言う歴史の教訓とは、明治の先人たちが命懸けで体得した「国際社会は力がものをいう」というリアリズムである。今日ではそのことが一段と明確になっている。
アテネはデモクラシー(民主主義)発祥の地であり、ソクラテスやプラトンを輩出したことで知られている。
そのアテネでは人民(デモス)の欲望が際限なく高まり、国家はゆすり、たかりの対象にされ、過剰の民主主義が国力を弱体化させていく。
専制主義国家スパルタとの30年戦争の間にも国民は兵役を嫌い、目の前の享楽に現を抜かし道徳は廃れ、ついに軍門に下る。
その後、経済も復興するが、もっぱら「平和国家」に徹し続け、スパルタに代わって台頭した軍事大国マケドニアに無条件降伏を突きつけられる。一戦を交えるが惨敗して亡国の運命をたどった。
例を外国に求めるまでもない。日本にも元禄時代があった。男性が女性化し、風紀は乱れ、国家の将来が危ぶまれた。この時、出てきたのが「武士道といふは死ぬことと見つけたり」で膾炙している『葉隠』である。
ことあるごとに死んでいたのでは身が幾つあってもたまらないが、真意は「大事をなすに当たっては死の覚悟が必要だ」ということである。
こうした考えが、自分たちのことよりも国家の明日を心配した米欧派遣の壮挙につながった。日本出発から1カ月を要してようやくワシントンに着くが、いざ条約改正交渉という段になって天皇の委任状のないことを指摘され、大久保と井上博文はその準備に帰国する。
往復4カ月をかけて再度米国に着いた時には、軽率に条約改正する不利を悟り代表団が米政府に交渉打ち切りを通告していた。
何と無駄足を運んだかとも思われようが、当時の彼らにとっては、国力の差を思い知らされる第1章と受け取る余裕さえも見せている。
国家を建てる、そして維持することの困難と大切さを身に沁みて知ったがゆえに、華夷秩序に縛られた朝鮮問題で無理難題を吹っかけられても富国強兵ができる明治27(1894)年まで辛抱したのであり、三国干渉の屈辱を受けても臥薪嘗胆して明治37(1904)年までの10年間を耐えたのである。
佐藤栄作政権時代に核装備研究をしていたことが明らかになった。「非核三原則」を打ち出した首相が、こともあろうにという非難もあろう。
しかし、ソ連に中立条約を一夜にして破られた経験を持つ日本を想起するならば、「日本の安全を真剣に考えていた意識」と受け取り、その勇気に拍手喝采することも必要ではないか。
国際社会は複雑怪奇である。スウェーデンもスイスも日本人がうらやむ永世中立国である。その両国が真剣に核装備を検討し、研究開発してきたことを知っている日本人はどれだけいるであろうか。また、こうした事実を知って、どう思うだろうか。
「密約」を暴かずには済まない狭量な政治家に、そんな勇気はないし、けしからんと難詰するのが大方ではないだろうか。しかし、それでは国際社会を生き抜くことはできない。
終わりに
漁船衝突事案では、横浜APECを成功させるために、理不尽な中国の圧力に屈した。日本は戦後65年にわたって、他力本願の防衛で何とか国家を持ちながらえてきた。
しかし、そのために国家の「名誉」も「誇り」も投げ捨てざるを得なかった。今受けている挑戦は、これまでとは比較にならない「国家の存亡」そのものである。
米国から「保護国」呼ばわりされず、中国に「亡失国家」と言われないためには、元寇の勝利は神風ではなく、然るべき防備があったことを真剣に考えるべきである。
そのためにはあてがいぶちの擬似平和憲法から、真の「日本人による日本のための日本国憲法」を整備し、名誉ある独立国家・誇りある伝統国家としての礎を固めることが急務であろう。
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